レミリアはフランドールの変化を感じ取っていた。
研究のために屋敷に籠もる。それはいつも通りだ。しかし、その研究がどうにもいつもと違うような気がしてならない。
レミリアは魔法に関して素人同然だったが、今フランドールが熱中している研究には不穏な何かがある。
“運命”という曖昧な概念を操るレミリアは、その悪い予感については敏感だった。
「フラン。森からベイジが居なくなったわ」
「へえ」
鉄製の大釜からフランドールの声が聞こえる。反響し、どこか不気味な声だった。
ここ最近、フランドールが熱中している作業はそこで行われている。
人が数人ほど入れそうな大釜の内側に、なにやら魔法的な文字を刻み続けているらしい。
「……森の外れで身を寄せ合っていた流民たち。結局あいつらを追い出せず、一緒になって逃げ出したらしい。森の小屋はもぬけの殻。残ってたのは襤褸と、壊れた家具と、手紙だけ。……私達へ恭順することで、流民を見殺しにしてしまうことへの苦悩とか……そういったことが、書き残されていたくらいよ」
「ふーん」
「思うところは?」
「何も。ただ」
釜の内側をひっかくような音。
「……ああなったら終わりだなって、呆れるね」
「貴女は情けないと思うのかしら」
「いいや。特別、ベイジの行動を批評するわけではないんだけどね。魔法使いとして、雑念の多い生き方をしてるなと。そう呆れてるんだよ」
釜の縁に手が伸び、フランドールが顔を出す。
彼女は鉄粉をぺっぺと吐き出し、大釜を支えるレンガを少しだけずらした。
「良いんじゃない。私達は特に迷惑を被っているわけでもないし。森の外の人間がベイジごと消えれば、厄介事も起こらないでしょ」
「……フランは、もう少しあの男に情が湧いたものと思っていたけどね」
「あはっ、情ね。本とかで読んだことはあるよ」
「正直に言って、私は貴女とベイジが交流し、何か……友誼のようなものを結ぶんじゃないかと思っていたのよ」
「私は魔法使いだよ、お姉さま。そして、良い魔法使いは無駄なことをしない」
「その大釜も?」
「これはこの世界で一番正しいことのひとつだよ。そして、私が本当に優秀な魔法使いであることを証明するための実験器具」
どこか自慢気に大釜の縁を叩いて見せるフランドールに、レミリアは眉根を寄せた。
「私の“運命を操る力”が警鐘を鳴らしているわ。フランドール、貴女と……その大釜にね」
「……またウンメイの話。お姉さま。その能力はさっさと別のものに変えた方がいい。壊れてるよ」
「とても嫌な予感がするの。聞いてちょうだい」
「……うるさいな」
「フランドール、」
「私が失敗するわけないでしょ! 何もわからないくせに邪魔しないでよ!」
フランドールの叫びが部屋と大釜に反響した。
彼女は牙を剥き、苛立たしそうにレミリアを睨んでいる。
フランドールは優秀だ。少なくともフランドールは、自分がレミリアよりも上だと考えている。
事実、彼女がレーヴァテインを振るえばその破壊力はレミリアを凌ぐだろう。
「フランドール。私は貴女に危ないことをしてほしくないだけ」
「お節介。研究の邪魔。さっさと出ていって」
「……一つだけ約束しなさい」
「うるさいな」
「その大釜を使う時は、私を呼びなさい。私が見ている時に使うの。それまでは……貴女を邪魔しないと約束するわ」
「……」
フランドールは考えた。
この大釜はエンチャント用の魔道具だ。使う時は、自分の魂に“握手”を刻印するその時までない。
それはある意味、フランドール自身が生まれ変わる瞬間であろう。
強力な魔法を己の中に吸収し、魔法使いとして他者と一線を画す力を手に入れた瞬間。
「……ふうん。まあ、見届人になるくらいなら構わないか。別に良いよ」
「その言葉、忘れないでもらうよ」
「もちろん。お姉さまこそしっかり見ていてよ。ひょっとすると、お姉さまのような不勉強者でも私を見れば魔法に興味が湧くかもしれないから」
フランドールは楽しそうに笑っているが、レミリアの中に渦巻く赤黒い不安はより強くなるばかりであった。
鉄の大釜。フランドール。二つの間に微かに見える運命の糸。
それは互いに強く結び付き、絡まり、ほつれている。
今まで見たことないほど複雑で、歪み切った運命の姿。
確かにレミリアの能力は欠陥品に近いものではあるが、それでも見抜けるほどの“何か”がある。
結局、それからレミリアはフランドールの研究を邪魔することはなかった。
何日も、約束通り邪魔はせず、遠くから見守るのみ。
だが見守るばかりでは物事は何も好転しない。
空中で手放したティーカップに何もしなければ、砕け散る確率が変わることはないのだ。
それでもレミリアはティーカップを掴み取ることも、柔らかなベッドの上に弾き飛ばすこともできない。そういう約束をしてしまったから。
「……準備ができたよ。お姉さま。約束通り、私の研究成果を見ててもらおうかしら」
やがてその日がやってくる。
地下室の大釜が完成し、部屋中にびっしりと書き記した魔法陣が稼働するその日が。
その日フランドールは数日ぶりにレミリアのもとに顔を出し、上機嫌に笑っていた。
「……ええ。フランドール。わかってる。見定めさせてもらうわ。貴女のやってきたことを」
そうして数日ぶりに見たフランドールには、前に見たときよりもさらに不吉な赤い運命のオーラが纏わりついている。
「これからやるのは、お父さまが研究していたエンチャントの最発展型。お姉さまでもわかるように言うなら、魔法を身体の中に埋め込む作業だよ。知ってるでしょ、これ」
前を歩くフランドールが、自分の羽根についた色とりどりの宝石を指で弾いて揺らす。
もちろんレミリアはそれを知っている。かつて己の身体を無断で作り変えた時には驚いたものだった。同時に怒りもした。危険なことをするんじゃないと。
だがフランドールは、今日もまた同じことをしようと考えている。
「お父さまが遺した小箱にすごい魔法がしまわれていたの。“握手”っていう、とてもクレバーな魔法。私はあれを自分の中に格納して、自在に振る舞えるようになる」
「……それはどんな魔法なの」
「ありとあらゆるものを破壊する魔法」
地下室の扉に手をかけながら、フランドールが牙を見せるように笑った。
「部屋の外から見ていてよ。中は魔法陣でいっぱいだからね」
「……やめろと言っても聞かないのでしょうね」
「笑えない冗談。黙って見てて」
そう言って、フランドールは地下室へと入っていった。
床、壁、天井の全てにびっしりと書き殴られた魔法陣。それだけがうっすらと輝き、地下室を照らしている。
「回れ回れ、煮えたぎれ」
釜の中に、フランドールが赤銅色の栞を投げ込んだ。
妖しげな赤い光を放つ大釜の内側は、栞を飲み込むことでより強く光を放つ。
「よーく溶かそう。ぐつぐつ、ぐつぐつ。粥になるまで、ぐつぐつ、ぐつぐつ」
やがて大釜を中心に魔法陣が色づき、発光が広がってゆく。その間もフランドールは釜の中を大きな火かき棒でかき混ぜている。
「さて……これでスープは整った」
部屋の発光の広まりが安定すると、フランドールはにやついた顔のまま釜の中に足を入れた。
両足を入れ、赤い水面の中に立つ。
大釜は沸騰するような泡を立てているが、今のフランドールにとってそれは痛みにもならない。
レミリアは固唾を飲んで見守っている。
今まさに、フランドールを取り巻く凶兆が加速し続けていたとしても。もはや彼女にはこの成り行きを見守る他に無いのだ。
「あとは具材に染み込ませるだけ」
フランドールはその場でしゃがみ、己の身を掻き抱いた。
胎児のように縮こまれば、彼女の姿は大釜の中に綺麗に収まってしまう。
部屋の魔法陣が脈動する。
フランドールが大釜の赤い水を吸い、肺の中にまで満たしてゆく
広まっていた輝きが少しずつ大釜に向かって収縮し、同時に大釜の中の輝きが増してゆく。
「来た……」
フランドールは熱い水の中で、己の存在を蝕んでゆく気配を感じ取っていた。
侵食し、書き換えようとする力。霊魂がガリガリと音を立てて削れてゆき、何か別のドロドロしたもので補修されていく感覚。
違和感と不快感。だが、それは決して初めてではない。
かつて自分の翼を作り変えた時と同じ、エンチャントによる上書きの感覚にすぎない。ただそれが強くなっただけ。
「ん……」
膨れ上がり続ける違和感。
同時に、脳裏へ染み込む魔法の理論。
“握手”。
その使い方。効力。
そして……悪用や暴発を防ぐためのちょっとした機構。
『よおこそ、将来有望な魔法使いの誰かさん』
「……は?」
気がつけば、フランドールは灰色の闇の中に立っていた。
『私の名はライオネル・ブラックモア。そしてこれは“血の書”の霊魂転写時に発生する最終警告文であり、緊急遮断装置のようなものだ』
目の前には背の高い骸骨が立ち塞がり、フランドールを見下ろしている。
『しかし状況が状況でね。この空間でも時間が足りない。誰かさん、貴女の決断に残されている時間は残り十三秒だけ。さあ、二択を決断しておくれ。安全を取るなら迷わず“緊急遮断”を。安全を捨て転写を続けるなら“続行”を』
「続行」
フランドールは即答した。迷いはなかった。
『続行を選ぶのだね。貴女はとても勇敢な魔法使いのようだ』
骸骨が笑ったように口を開け、段々とその姿が薄れていく。
『是非実際にお会いしたいものだ。願わくば……その時まで、貴女が無事であらんことを』
骸骨の姿が掻き消える。
灰色の闇に覆われた世界が晴れてゆく。
赤い水で満たされた世界に引き戻されたその瞬間、
「ゴ、ぼッ……」
フランドールは霊魂を裂く激痛に襲われた。