『夜が来た』
『夜が来たぞ』
弾んだ言葉とともに、大きな穢れが歩いてゆく。
声は大きく、足音も凄まじい。全長は八メートル近くはあるだろう。
二本の腕に、二本の脚。我々と同じ、人型の穢れだ。
昔は不定形で蠢動するしかなかった穢れも、時の流れと共に姿を変え、進化し続けた。
地上の生物を模倣し、経験と共に動きを洗練させる。
私のような天界の者もまた、地上の存在からある程度の形を模倣しているが、地上の穢れもそうした智慧をつけ始めたということだ。
「見つかれば厄介だな」
数は、巨人が三人。決して負けることはないだろうが、相手にするには難しいサイズと数だ。
できればそのまま過ぎ去るのを待ち、移動して難を逃れたい所だが……。
『何かいる』
『食い物だ』
『近くにいるぞ』
巨人たちの声が色めき立つ。
……こういったことも珍しくはない。
穢れは巨大に、強くなるたびに、周囲の気配を敏感に感じ取るようになる。隠れていた私の存在を悟っても、何らおかしくはない。
戦闘は少々面倒だが、こればかりは運である。
「やるか」
“生命の杖”を握りこみ、音を出さずに立ち上がる。
不本意だが、今日もまた長い夜になりそうだ。
『敵だ!』
『いたぞ! くるぞ!』
巨人が叫んだ。
しかし、どうにも奴らの様子がおかしい。
叫ぶ割にはこちらを向いていないようで、声は明後日の方へ投げられていた。
『“空の悪魔”だ!』
一人が恐怖混じりに叫ぶ。
『殺される!』
一歩遅れて私の中にも恐怖が湧き出てきた。
“空の悪魔”。それは、ここ一帯で噂されている、非常な強さを持つ者の通り名である。
あらゆる穢れがその者の影を噂しており、恐怖の対象となっている。
なんでも、そいつは自由自在に空を飛び、どのような強い穢れでも対抗できないほどの力でもって、瞬く間に目につく者を皆殺しにしてしまうのだとか。
私は未だ、その“空の悪魔”を目にした事がない。
これは、お目にかかる良い機会だろうか。
夜闇の中で未知なる敵に恐怖を感じつつも、私の中ではそう考える余裕も存在していた。
『ヒィイイイ!?』
巨人たちが青い炎に包まれ、おぞましい叫び声を上げるその時までは。
「むっ」
私のすぐ近くで、巨人が倒れた。
地響きが草木を揺らし、巨人を取り巻く青い炎が辺りに散らばる。
「なんという火力か……!」
夜の闇は突如広がった炎によって暴かれ、青白く照らされていた。
火を扱う穢れは居ないわけではないが、しかしここまで洗練されてはいない。
「これはまずいな」
一瞬のうちにここまで莫大な量の火炎を生み出し、穢れを一撃で焼き払うなど、並大抵の個体ではない。
“空の悪魔”。未だどこにいるかわからない以上、ここも危険だ。
私は念を押して、“月の盾”によって自らの周囲に保護結界を構築する。
「……“月の眼差し”」
同時に、月の魔術と私の眼術を組み合わせた秘術、“月の眼差し”を発動。
これは魔力の通った月明かりの下に存在する者を感知し、把握する、地上監視の魔法である。
“新月の書”にもない、私が独自に編み出した魔法。
効果範囲は広く、この術によって捉えきれないものはない。
発動と共に私の認識範囲が大幅に拡大し、森を俯瞰する景色が脳裏に写り込んだ。
暗闇の中に佇む二人の巨人が、腕を振り回して暴れている。彼らは先ほどから叫び声をあげている、巨大な穢れだろう。
そして、その付近にひとつの大きな影がおり、鳥のような動きで空中を飛び回っているのが見える。
あの影こそが、“空の悪魔”と呼ばれる者なのだろう。
大きさは、五メートル前後といったところか。動きの速さと暗闇故に明確な姿までは掴みきれないが、二枚の翼を持ち、長い首を持っていることはわかった。
「なんだ、あれは……」
それは、私が今までに見たどのような穢れとも似ていない、奇妙な姿だった。
穢れは姿を模倣する。身の回りのものや、生物に擬態し、その生態を真似ることによって、より高い生存率を確保しようとするのだ。
故に穢れは、特定の生物の姿に酷似する他ない。
だが、私が見るその影は、地上に生きるどのような生物とも、当然、天界に住まう者たちとも似ていなかった。
「あれは一体……!?」
私が注意深く“空の悪魔”を監視していると、そいつは顎を開き、顔の正面に青白い輝きを生み出した。
一瞬“炎か”とも思ったが、私の眼はしっかりとそれを捉えていた。
あれは、魔法陣。
特定の魔術を発動する際に浮かび上がる、魔術を構築するための起動式だ。
「そんな、まさか。魔術だと」
直後、“空の悪魔”の口から青い炎が噴出し、背後を取られた穢れ巨人が炙られた。
魔力的な炎は二体の巨人の全身を覆い尽くし、勢いを弱めること無く焼いてゆく。
間違いない。それは通常の炎とは違う。
明らかに魔力によって生み出された、現実のものではない炎だった。
「魔術を扱う穢れが、地上にいるなど……!」
守護結界を維持したまま、私は急いで浮上を始めた。
強大な敵とは戦わずにやり過ごすことを善しとしてきた私だが、今の戦闘を見て事情が変わったのだ。
魔術は、天界上層部が握るべき神秘である。その神秘が地上で猛威を振るっているなど、あってはならない。
地上で魔術が幅を効かせるのを黙認していては、いつ天界にその牙が及ぶともわからないのだから。
故に、対処しなくてはならない。
どのような魔術を扱う穢れなのかは知らないが、見つけてしまった以上、天界のために排除しなくては!
「“空の悪魔”よ、止まれ!」
私は樹高の高い森を突き抜け、“空の悪魔”が旋回する夜空へと出た。
掲げて声を上げると、向こうも気付いたのだろう、動きを止めて、私に向き直ったようだった。
正面に見据え、“空の悪魔”の詳しい全貌が明らかとなる。
五メートル近い大柄な体躯。
表皮は鋭い赤い鱗で覆われ、四肢には屈強な筋肉が通い、首は長く、その先の頭部はトカゲのようだったが、凶悪そうな面持ちはまるでそれらとは異なっている。
なにより、そいつの背には膜を張ったような、大きな翼が生えていた。
超重量の身体の高度を保つためにはばたく度に風が巻き起こり、休むこと無く動き続けるそれは、地上のどのような生物にも存在しない、奇妙な翼であった。
“空の悪魔”は先程までの戦闘が嘘であるかのように静まり、私のことをじっと見つめていた。
私もまた、目の前にいる奇妙な穢れを見て、動きを止めている。
初めて戦う相手だ。観察しなくてはならなかった。それもある。
だが同じくらい、気圧されてもいたのだろう。全く未知で、しかも魔術を扱う相手と向き合うことは、それだけで私の中にある勇気を牽制していたのだ。
どう動くべきか。どう戦うべきか。
莫大な炎を吐き出してくるだけならば、勝機は十分にある。
しかし相手は魔術を扱った。向こうの手札がそれだけだと判断するのは危険であろう。
“新月の書”に記された魔術だけでも、ありとあらゆる芸当が可能なのだ。向こうの攻撃方法は自由自在なものであると仮定しなくては、一瞬のうちにこちらがやられかねない。
しばらく、沈黙が訪れた。
空中で睨み合い、互いに動くことのない戦闘前の沈黙である。
杖を握る手に力が籠もり、発動した“月の眼差し”の効力が薄れてきた。
“月の眼差し”が消えて新たな眼術を発動できるようになったその時、闘いは始まる。
眼術によって先手を打ち、一気に畳み掛けるのだ。
「あっ、いたいた。おーい」
いざ、勝負。
そんな時だった。
あの、呑気で間抜けな、低い声が聞こえてきたのは。
「ようやく見つかった。探したぞサリエル」
「……」
“空の悪魔”の後ろ側から、何でもないようにその真横を通って私に近づいてきたのは、奇妙で謎の多い魔界人……ライオネルであった。
「あれ? サリエル、なんか変じゃない?」
お前よりは正常だと思っているが。