「じゃ、ちょっと一回、あたし家帰るね?」
昼過ぎ。
冷房の効いた部屋でアイスの棒を捨てながら、ミオが唐突に言った。
「…戻ってくんの?」
「いやいや、そんな引く? 家行かないとさ、いろいろ取ってこれないんだよ。宿題とか、あと下着と化粧水と歯ブラシと……」
「いや、なんでそのラインナップ。生活品じゃん」
「うん。だから必要なの」
俺は口を開けたまま、何も言えなかった。
だが彼女はお構いなしでスニーカーを履き、スマホを握って振り返った。
「ちゃんと鍵あけといてねー。あ、アイス買ってきてあげよっか? 保健室のお礼に」
「……いや、そもそも帰るっていうか、お前、もう居座る前提なのな」
「そうだよ。じゃ、行ってきます」
くるっとターンして、俺の部屋から出ていく。
その背中を見送りながら、俺は思った。
(完全に、ここを自分の家扱いしてんな……)
*
夕方、ミオは大荷物で戻ってきた。
トートバッグには着替えと洗面用具、文房具のポーチ、ノート、問題集――まるで合宿。
「……お前、それ何泊分?」
「週末までは、とりあえず」
「もう確信犯だな」
「うん、自覚ある」
ミオはスニーカーを脱ぎながら答えた。
足首には細いアンクレット、爪はほんのり薄ピンクに光ってる。
俺はふと、改めてその顔を見た。
目元の感じ。特徴的な長い黒髪。
「……やっぱりお前、学校ってかクラスも一緒だったか」
「へ?」
「黒瀬ミオ。思い出した。前の学期、後ろの席……だったよな?」
「うん。そうだよ」
「なんで言わなかったんだよ。気づいてたよな?」
「まあ気づいてもらえなくてもいいかなって。嫌でも学校で気づくだろうし」
「……話したこともなかったのに」
「でも、今こうして上がり込んでる。人間何が起こるか分かんないよね」
「マジで分からん……」
ミオは涼しい顔でリビングへ歩いていく。
もはや部屋主よりも自然な動き。
悪びれることもなく、ミオは荷物をぽんぽんと床に下ろしてソファに座った。
首のうしろを手で仰ぎながら、ポツリとつぶやく。
「うち、放置系だからさ。人の気配がないって、じわじわ来るんだよ。」
「テレビの音もない。誰かの足音もない。」
「自分の呼吸音だけしか聞こえないと、だんだん感覚がおかしくなる」
「だから、ここみたいに――誰かが動いてるとか、
勝手に冷蔵庫開けたら怒られるかもとか、
そういうのがある場所のほうが、落ち着くんだよね」
「お前んち、そんな感じか」
「うん。だからつい、人がいる部屋に、逃げたくなったんだよね」
「逃げてきた場所が俺んちってのが納得いかねえけどな」
「え、やだ? 食事代くらい渡すよ、お金振り込まれたら」
「そうじゃねえ」
「じゃあ、いていい?」
「……勝手にしろ」
ミオは満足げに笑った。
「ふふ、ありがと……ねぇ、シン君ってさ、宿題もう終わった?」
「ん? ああ、夏休みの? もうとっくに終わらせたけど」
「ずるい。代わりにやってよ」
「なんでだよ」
「だって~、夏休みって、ぐでぐでするためにあるでしょ? なのに宿題って……矛盾してない?」
「意味わからん。……ていうか、お前、日付感覚どうなってんだ。もう夏休み、ほぼ終わるぞ?」
「……え、ほんと?」
「マジだよ。カレンダー見てみろよ」
「うわ……ほんとだ。……まあいっか、シン君がやってくれれば問題なし」
「だからやんねえって」
「じゃあ、手伝ってくれればいいから。横で解き方とか見ててくれるだけでも」
ミオは問題集を床に広げ始めた。
俺はしぶしぶ向かいに座り、ノートをのぞき込む。
「このページの英語、品詞わかってる?」
「しらん」
「それで進学する気あるのかよ」
「……出席には命かけてる」
時間が経つにつれ、ミオのノートは少しずつ埋まり、ページも進んでいく。
夕方にはようやく息をついて、ぺたりとソファに崩れた。
「……終わった、かも。夏休み分は全部」
「よかったな」
「ふー、ほんとに感謝してるよ」
「ならアイス奢れよな」
「ううん、アイスより……こっち」
ミオが身体を起こし、頬に軽く口づけてきた。
ふわりとした熱と、かすかなシャンプーの匂いが鼻先をくすぐる。
「……お礼。ちゃんと宿題手伝ってくれたし。ありがとうって思ってるの、分かって欲しかったの」
「……ああ」
突然の事態に呆けてる俺をよそに、ミオはまたソファに沈み込んで、タオルケットを被った。
唐突な口づけの余韻の中、ふと聞いた。
「……お前の親って、どんな感じなんだ?」
「旅行中。再婚記念で海外。わたし抜きでね」
「……そうか」
「うちは放置系だって言ったでしょ。お金は送られてくるけど、連絡はほぼゼロ。だからうち、無音。わたし以外、いない」
ソファに寝転んだまま、ミオはタオルケットの中からぽつぽつと続ける。
「でもここはさ、シン君がいて、生活音もあるし、麦茶あるし、ごはん出てくるし、……保健室みたい。安心するっていうか、生きてる音がある」
「ねえ、今夜もいていい?」
「……もう聞くなよ。そんなこと言われたら、断れないって分かってるくせに」
「ふふ、ばれた」
「……夏休み、もうすぐ終わるんだぞ」
「じゃあ、終わるまで居る。……で、二学期始まったらまた宿題出るじゃん?」
「……また俺がやれってのか?」
「手伝ってって言ってるだけー。ちゃんと先生してくれたら、またお礼するよ?」
笑いながら、ミオがソファの隙間に潜り込んでいく。
この女の子は、部屋に、空気に、どんどん馴染んでいる。
それが、妙に心地よくなってきているのが――不思議だった。