「シン君」
放課後の教室、荷物をまとめる俺の背後から、ミオの声が静かに落ちてきた。
視線を向ければ、彼女は窓の外に目を向けたまま、鞄を軽く抱えていた。
「……スーパー、寄ってかない? なんか、アイス食べたい気分」
「……そうだな。まだ暑いし」
そう返しながら、俺はなぜか一瞬、ぞくりとした。
ミオの目線が――違った。
彼女の視線に含まれる情報量は、時々えげつない。
見透かすようでもなく、けれど何かを確実に拾っていて、それを言葉にせずに懐にしまいこむような。
「……何か、あったか?」
俺がそう訊くと、ミオはほんのわずかだけ眉を上げた。
しかしすぐに、それはいつもの気の抜けた笑みに溶けていく。
「なにそれ、勘がいい……でも、なんにもないよ?」
そう言うくせに、ミオは俺の顔を見上げる時間をほんの少しだけ長くとった。
目が合って、逸らすでもなく、何かを測るような間が落ちた。
それが妙に引っかかって、俺は言葉をなくす。
「行こっか」
ミオはくるりと背を向け、階段の方へ歩き出した。
制服のスカートがゆるく揺れて、黒いニーソックスが光を吸い込む。
その背中を追いながら、俺は胸の奥に残った微細なひっかかりを拭えずにいた。
*
スーパーを出たあと、アイスの袋を持ったまま、ミオと並んで歩く。
夏の夕方はまだ蒸していて、蝉の声が遠くで鳴いていた。
街灯が点き始めた歩道を、俺たちはゆるく歩く。会話は少なめだ。
ふいにミオが言った。
「家、さ。あたしがいない日って、どう?」
「……急に何の話だよ。そもそもいない日なんてほとんど無いだろ」
「ううん、なんとなく。ちょっと想像してみただけ」
足音が並ぶなか、ミオの呼吸音が妙に意識に残る。
彼女の目は前を向いているはずなのに、また――背中越しに何かを探られている気がした。
「もしさ、あたしがいなかったら。スーパーも、帰り道も、シン君ひとりだったんだよ?」
「……そうだな」
「どう思う? 楽? それとも、ちょっと物足りない?」
質問が続くたびに、心の奥に小さな爪が立つ。
これは雑談じゃない。
ミオの声の裏に、“確認”の匂いがする。
「……別に、楽とかは」
そう言いかけて、言葉が詰まった。
横を見ると、ミオの顔がゆっくりとこちらを向いていた。
笑っている。
そして、目は――どこか熱を持っている。
「ふうん。そっか」
短いその返事は、まるで何かを“確定”させたみたいな音を持っていた。
次の瞬間、ミオは歩くペースを半歩だけ落とした。
俺の右腕にそっと自分の左肩を重ねてきて、アイスの袋をこちらへ預ける。
「じゃあ、一緒にいてあげる。……勝手にだけど」
「は……? なにそれ」
「ね、今、ちょっと安心した?」
冗談っぽい口調の裏に、剣のない探針みたいな鋭さがあった。
何も見逃さない瞳。俺の動揺さえ、彼女の中ではもうラベル貼って整理されてる気がした。
ただのスーパー帰り。
ただの歩道。
ただの会話。
それなのに、ミオの“目”だけが、まるで何かの実験みたいに冷たく、静かに俺を測っていた。
(……お前、さっきから何を見てる)
*
夕飯の後。
冷房の風が静かに部屋を循環している。
テレビは消え、ミオはカーペットに寝転がってスマホをいじっていた。
その姿はいつも通り――に見えた。
「ねえ、シン君ってさ」
「ん」
「好きって言われて、何にも返さないひと?」
その問いに、頭が数秒真っ白になった。
「……何の話」
「いや、ふと思っただけ。
シン君のお母さんの前で好きって言ったときさ。シン君、黙ってたじゃん」
「……ああ」
「返してくれなかったよね。あれ、無視?」
「ちがう」
「じゃあ何?」
「……タイミング、逃しただけだ」
ミオはスマホをぽんと放り投げて、こちらに寝返りを打った。
「ふうん。逃したってことは、言うつもりではあったってこと?」
「……」
「それとも、なかったことにしたい?」
「そんなわけない」
「なら、なんで言わないの」
問い詰めるようでもない、でも全く冗談じゃない声。
「言いたいけど、まだうまく言えないだけだよ」
「それ、ずるくない?」
声に、針があった。
「あたしね、言った方が楽だと思ったの。好きって。
そしたらスッキリして、あとは時間が流れるのを待つだけだって」
ミオは体を起こし、膝を抱えて座った。
顔は笑っていなかった。
「でも、言っても返ってこないと、ぽっかり穴が空いたままなんだよね」
「……悪い」
「謝らなくていい。でも……もう、待つのやめようかなって」
俺はその言葉に、ぞくりとした。
何かが音もなく変わる気配があった。
「もうね、こっちから仕掛けてくしかないなって思えてきた。
待ってると、シン君はずーっと何も言わないし、何もしない」
「……仕掛けるって」
「んー? 何が起きるかは、そのうち教えてあげる」
ミオはふっと笑った。いつもの気だるい笑みじゃない。
その裏に、静かな火が灯っていた。
「ヒントは、逃げられないやつだよ」
「おい、やめろ、怖いこと言うな」
「やめない。だって、そっちが動かないなら、あたしが動くしかないでしょ?」
ミオは立ち上がり、麦茶を取りにキッチンへ向かった。
背中越しに、最後の一言が飛んできた。
「好きって言葉、もったいぶってると使い時逃すよ」
そう言って、冷蔵庫を開けた。
そしてもう何も言わず、麦茶を注ぎ、またソファに戻ってきた。
俺は何も言えなかった。
言葉にできなかった。それがすべてだった。
*
夜中。
いつもどおりミオは俺の横で眠っていた。
でも、手は俺のシャツを軽くつまんでいた。
離れない。押し寄せてくる。
あの目。あの声。あのヒント。
これは――本当に、待ってはくれない。
好きなのに。言えない。
その隙を、ミオは――もう攻めに変えるつもりだった。
その夜の終わりに、俺は気づいた。
次に来るのは、
「強制イベント」
だ。
覚悟しておけ――そう言われた気がした。