もしも東方projectの世界にシシ神がいたら 作:ジョン・N
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陽が沈み、夜の帳が下りた諏訪の森を星空と月の光が照らす。山に広がる大樹海は木の幹に生えた光苔が幻想的な青白い光を放ち、夜でも微光に包まれていた。穏やかな風が樹々を揺らし、虫やコダマの音が子守歌のように聞こえる。その音を耳にしながら、森の獣たちは安らかに眠る。
そんな森の中で、ひとりの人間が眠りから覚めようとしていた。乾いた葉と獣の毛皮を敷いた簡単な寝床に寝かされ、苦しむように顔をしかめていた。その寝顔には月光が差し、長い白髪が綺麗な輝きを放っていた。
「……んぅ」
深い眠りから徐々に意識が戻っていき、妹紅は目を覚ました。まぶたが鉛のように重たかったが、右腕の痛みが意識を覚醒させ、土と草の匂いが鼻腔をくすぐる。辺りは暗闇に包まれ、妹紅は自分が今どこにいるか理解できなかった。ただ隙間から差し込む月明かりだけが自分と寝床を照らしていた。
「ここは……っ!」
ここがどこで、どうして自分がここに居るのか分からない。だが気を失う直前に何があったのか、妹紅は思い出した。
痣による激痛。勝手に動く右腕。自分が自分でなくなるという恐怖。右腕を捨てようとした覚悟と逃避心。そして、シシ神への救済の懇願。
あの一瞬にも感じられた出来事が、右腕の感触によって思い出され、妹紅は天にかざすように右手を上げる。
この治った右腕が、蓬莱の薬によるものか、シシ神によるものか……。しかし、そんなことはどうでもよくなった。
「ッ!」
自分の右腕を見て、妹紅は大きく見開き、思わず息を呑んだ。
月明かりに照らされた妹紅の手のひらには、焼け焦げたような黒い痣が指の付け根にまで広がっていた。
呪いは解けなかった。神からも見放されてしまった。もはや自分は死ぬこともできず、やがて自我を失い、タタリ神となって、永遠に苦しみながら生きるのだと、心の中にいるもう一人の自分が囁く。
僅かな希望に縋った結果が無駄に終わったことに、妹紅はまた絶望感に襲われた。
力が抜けた妹紅は、ただ静かに上げた右腕で目元を覆った。遠くでコダマの音が聴こえる。穏やかな森の音が今の妹紅には霞んで聴こえた。
服の右袖がじんわりと温かく湿る。喉元までこみ上げてきた嗚咽を、妹紅は奥歯を噛みしめて押しとどめた。
「あっ、やっと起きた?」
ふと近くから草木を踏む音と共に、誰かの声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に、妹紅は感情を押し殺して平静を取り繕った。目元を拭いつつ、袖に残った跡を隠すように腕を下す。
声のした方を見ると、影狼が月光を背に、妹紅のもとへと歩み寄ってきた。その手には、野苺や小さな木の実が葉にくるまれていた。
「まったく……目の前で腕があんなふうになるなんて、ほんとに驚いたよ」
「……ここは?」
風が吹けば消えてしまいそうな、かすれた小声で妹紅は問う。幸い、静かな場所と耳の良い影狼とあって会話には支障なかった。
「私の家よ……って言っても、木の下にある洞窟みたいなところだけど」
影狼は天幕のように広がった木の根元の下にできた洞のような場所を住処にして暮らしている。妹紅の寝ている毛皮や葉も彼女が持ってきたものだ。
「なんで、助けたんだ?」
「ほっとけなかったっていう気持ちもあったけど、シシ神様が生かしたのなら……なんか、助けたほうがいい気がして」
そう言って、影狼は妹紅の隣に座る。その際、彼女の頭に乗っていたコダマが音もなくふっと空気に溶けるように消え、洞を作る木の根元の中へと帰っていった。
焚き火もない洞の中では、ただ月光のほのかな明かりだけが、二人の影を浮かび上がらせていた。
影狼は持ってきた葉を開いて、その中の野苺をひとつ、そっと指先で摘み上げて妹紅に差し出した。
「とりあえず、食べたら? 川で会ってからずっと何も食べてないし、お腹すいたでしょ?」
「別にいい……」
食べたところで意味なんてない、と妹紅は内心で呟く。
影狼は残念そうに頭部の耳をシュンと垂らして、葉の包みをそっと妹紅のそばに置いた。
「……その痣、治らなかったんだね」
妹紅は何も言わず、ゆっくりと目を閉じた。
影狼は『シシ神が生かした』というが、妹紅にとっては『何もしてくれなかった』が正しい。シシ神に『命を与奪する程度の能力』で生命を与えられても、『老いる事も死ぬ事も無い程度の能力』を持つ妹紅には関係のないことだったのだろう……。
「心配しなくても、朝には森を去る。世話になったお前に、これ以上、迷惑はかけないよ」
「別に、迷惑なんて思ってないけど……?」
その意味に気づかず、ただ心配そうに影狼は妹紅を見つめていた。しかし妹紅には分かっていた。
シシ神が呪いを解かなかった今、自分はいずれ自我を失い、タタリ神として暴れ続ける存在になっていく。そうなってしまったとき、近くに影狼がいれば巻き込んでしまう。
妖怪とはいえ、世話になった彼女を巻き込みたくはない。これは妹紅の恩返しでもあった。
「ねぇ……」
ここで影狼は目の前の人間の名前を聞いていないことに気づいた。
「そういえば、あなた名前は?」
「妹紅」
「妹紅ね……ねぇ、妹紅はその痣を治しにこの森に来たの?」
「……あぁ」
妹紅は感情のこもっていない声で肯定した。
「東の果てにあるシシ神が育む森に身を置けば、どんな怪我や病気も治ると聞いた。私の生まれた都でも、その血を飲めば不老不死の力を得ると『金色の鹿』の伝説として知られていた。そんなシシ神であれば、もしかしたらこの呪いの痣も治してくれるかと思ってこの地へ来た。しかし、結局シシ神は呪いを解いてくれなかった」
妹紅は小さな声で淡々と述べる。数日前まで信じていた希望が妹紅の中ですっかり色あせてしまったのが、声色に現れたかのようだ。
「私は、もう……呪いに喰い潰されるのを、待つしかない」
唯一その最後の言葉だけが妹紅の内にある感情を含んでいた。
妹紅に待ち受ける残酷な運命に、影狼は同情し、目を伏せた。自分に何かできることは無いか。しかし考えたところで神であるシシ神が解けなかった呪いを、一妖怪である自分がどうにかできるはずがない。
それでも、何か少しでも力になれないかと考えた末、影狼は諏訪に棲む“もうひとりの神様”を思い浮かべた。
「もしかしたら……人里にいる神様なら、何か知ってるかも?」
垂れていた耳を上げて前のめりになった影狼は、ひらめいたことを妹紅に聞かせるように話しかける。
「獣たちから聞いたことがあるの。湖のそばにある人里には神様がいて風雨の神として祀られているって。その神様なら」
「もういい」
これ以上、わずかな可能性に縋るのは、もううんざりだった。
言葉を遮って、妹紅は塞ぎ込むように目を閉じた。妹紅に拒まれ、影狼は花がしおれるように犬耳を垂らし、視線を落とした。
「もういい……もう、疲れた」
妹紅は小さく息をつき、重く沈んだ声でつぶやいた。
「それに私は、人里には行かない方がいい」
「どうして?」
影狼が訊ねると、妹紅は体を横にして背を向けた。
「不老不死の私が行ったところで、里の人たちを怖がらせるだけだ」
怖がってるのはお前じゃないのか、とまた心の声が囁く。
そんな妹紅の怯えているような背中を、影狼は犬が飼い主に寄り添うようにジッと見つめた。
「それでも……まだ生きていけるなら、行ってみない? 私も、一緒に行くから……ね?」
スカートをぎゅっと掴み、影狼はピンと耳を立てた。勢いで言ってしまったが、正直、人里に行くことには影狼にも恐怖心があった。
「お前に迷惑は掛けたくない」
「だったら……里の手前まで、一緒に行くだけでいいからさ」
自信なさげに言葉を紡ぐ影狼の小さな声を、妹紅は黙って聞き入れた。
月の光が二人を照らす中、静寂だけがゆっくりと流れていく。森の穏やかな空気がまた妹紅を眠りに誘うと同時に、影狼も隣で丸くなって眠りにつくのだった。
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……つづく