もしも東方projectの世界にシシ神がいたら 作:ジョン・N
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日没になっても、御池は月光や光苔などの自然の光に包まれて、周囲が見える程度には明るかった。その穏やかな微光が、御池の主の姿を静かに浮かび上がらせていた。鹿の身体と猿のような人面、サンゴのような枝分かれした角。子どものような無邪気さを感じさせるニヤケ顔で、シシ神は妹紅を見つめていた。その眼は、妹紅と同じ赤い瞳だ。
人や動物とは異なる神秘的な佇まいに、妹紅は少し委縮した。だが、昨日対峙した時とはどこか纏う雰囲気が違うように感じられ、不思議と威圧感はない。
目の前の神が何を考えているのか、妹紅には伺い知ることはできなかった。しかし、シシ神が何を考えているかなど、今は関係ない。
「…………すぅぅ」
妹紅は静かに息を吸うと、背筋を正し、シシ神をまっすぐ見据えて歩み寄る。そして、ある程度距離を詰めたところで足を止め、腕に抱えた子鹿を差し出すように地面にゆっくりと置く。子鹿は意識を失い、眠るように丸まっている。その光景は、まるで神へ奉納する儀式のようだ。
シシ神は妹紅が置いた子鹿へ向かってゆっくりと歩を進めた。その蹄が地を踏みしめるたび、草木が芽吹いては枯れていく。その動きには、獣のように辺りを見回したり匂いを嗅いだりする仕草は、一切見られなかった。その歩みは巨人が地を踏むような堂々としたものだった。
そして横たわる子鹿の前まで来ると足を止め、笑みを張り付かせたまま、じっと見つめた。それは子鹿を見ているようでもあり、妹紅自身を見つめているようでもあった。
「……シシ神よ」
だが妹紅は臆さず、シシ神へ声を掛けた。
「その子を助けてやってほしい。どうか、頼む」
無駄な言葉は一切なく、妹紅は胸の内にある純粋な願いを口にしてシシ神へ頭を下げた。
しばらくの間、静寂が包む。妹紅はじっと身動きせず、審判を受け入れるように頭を下げたまま、ただシシ神の反応を待った。その心持ちは不思議と、本人も驚くほど穏やかだった。
この子鹿は妹紅にとって特別な存在ではなかった。そして、この行いが正しいことなのか、あるいはシシ神が望んでいるものなのかも分からない。ただの気まぐれであり、ささやかな贖罪にすぎない。
しかしそれでも確かに言えることは、これは生きたいと願った妹紅が、自ら選び取った行いだった。この気持ちに嘘や偽りなど、一切ありはしない。
妹紅は目を閉じて、シシ神を待つ。
やがて、シシ神はゆっくりと首を下げ、目の前の子鹿に口を近づけた。
「っ!」
その瞬間、黄泉の冷気のような風が妹紅の首筋を撫でた。その風は妹紅の意識を刈り取り、深い虚無へと誘う。何かが妹紅の奥深くに触れ、眠りにつくような感覚で静かに意識が沈んでいく。その不思議な力に抗う術もなく、身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
苔むした地面に横たわり、妹紅は、音もなく息を引き取った。
あまりの一瞬の出来事に、この場を目撃した人間がいたなら目を疑うことだろう。
しかし、当のシシ神は、まるで何かを終えたことを悟ったかのように、ゆっくりと振り返り、顔を上空へ向ける。その視線は、空に昇る月をまっすぐ見ている。
すると、月光に照らされながら、見上げたシシ神の首がじわりじわりと伸び始めた。まるで木々が空に向かって育つように、シシ神は夜空に向かって首を伸ばしていく。角や体は色を失い、その夜の星空を写したように透明に輝いていった。首が夜空へ向かって伸びていくにつれ、身体は徐々に透明になり、やがてその四足は人間のような手足へと変わっていった。
角の生えた巨人は森を見下ろす。周りの木々の天辺では森のコダマたちが首を振って合唱のように音を鳴り響かせていた。
デイダラボッチとなったシシ神は、御池のほとりに妹紅を残し、森を育てるために彼方へと去って行った。
***
ここは何も存在しない深淵の場所。冷たく、静かで、夜のような暗黒がはるか彼方まで広がる。時間や物の概念も感じられない夜の深淵を漂うような実体のない浮遊感の中で、妹紅は横たわっていた。
ここが現実か夢か、あるいは現世か黄泉の国かも分からず、妹紅は希薄な自分の存在だけを感じていた。
その姿は、いつもの白い長髪をリボンでまとめたものではなく、黒い短い髪になっていた。身に着けた服も白シャツと赤ズボンではなく、ところどころが擦り切れたみすぼらしい白装束を身にまとっていた。
(あぁ、これはあの時の……過去の私だ)
ぼんやりとした感覚の中で、妹紅は自分の姿を理解する。何故この姿なのかは分からない。だが確かにその姿は、蓬莱の薬を飲む前の、童女の頃の自分自身だった。
その右手には黒い蛇のような幻がいくつも絡みつき、風に揺れるろうそくの灯のように揺れ動いていた。呪いは妹紅の腕を蝕み、細い身体をも飲み込もうとしていた。
ふと、妹紅は自分とは違う何者かの存在を感じ取った。
その存在は、眠る妹紅に向かってゆっくりと近づいていく。三叉の蹄をもつ足が歩みを進める度、生命を現したような光る草木が芽吹いては枯れていく。その姿は眩い小さな光の粒に包まれた『金色の鹿』だった。
まるで生命の源の水で形作られたかのような姿をした、その鹿は妹紅の元まで歩み寄ると、右腕に付いた黒い蛇へ口を近づけた。
すると、『金色の鹿』の静かな息吹に当てられ、揺らめく呪いは動きを鈍くし、空気に溶けるように姿を消していった。
***
頭を撫でるような感触が妹紅の意識を現実へと浮かびあげた。どこかから小鳥の鳴き声が聴こえる。ゆっくりと目を開けると、木漏れ日に照らされた苔が目に入った。地面についた苔は水滴を滴らせ、光り輝いている。
爽やかな朝の空気に包まれながら、目覚めた妹紅は、意識がはっきりすると、はたと手をついて身を起こす。そして周りの御池と森の木々をざっと目にして、ここはどこで、自分が何故ここにいるのかを思い出した。
日差しの差し込む池のほとりで、妹紅は深いため息をつく。そんな彼女を、つぶらな瞳で見上げるものがひとりいた。
「……あっ、お前」
妹紅がそばにいたことに気づくと、子鹿は彼女へ歩み寄る。どうやら、先ほどまで眠る妹紅の頭を撫でたのも、この子の仕業のようだ。
「良かった。治ったんだな……」
妹紅は人懐っこい子鹿の様子に、腕を伸ばして頭を撫でて応える。そして同時に、その子鹿の昨夜まで折れていた足が治癒していたことに気づいた。子鹿は四本の足で地面に立ち、怪我の痕跡すら感じさせないほど、しっかりした歩みをしている。
妹紅に撫でられて喜ぶ子鹿の様子を見て、妹紅も口元を緩めて笑った。清々しい空気と目の前の光景が、まるで生まれ変わったように心地よかった。
ふと、子鹿を撫でる自分の手を目にして妹紅は自分の変化に気づいた。
「……っ!」
その変化に、妹紅は目を見開き、右手を凝視する。決してそれは見間違いではない。
昨夜まで指先や肩まで侵食していた黒い痣はすっかり消え、元の肌へと戻っている。代わりに、手のひらには古傷のような跡がわずかに残っていた。
それは、妹紅の荒んだ心が癒えたことを象徴するような痕跡だった。