一人称で進みます。
第一話:転屍挽歌
今思い返すと何て事はない気がして、鏡の中の苦り切った顔の自身の黒目を睥睨した。眉間に深い皺を刻んで低い鼻の黒い穴を膨らまし、溜息を吐いて頬を引っ掻いた。短い衛生的爪の御蔭でこそばゆいくらいで特段感じるものは無い。
当時幾ら死に物狂いで生き抜いたって、今を生き抜けなきゃ話にならない。故に私は当時の経験を教訓に一人鏡を睨め付け臨戦態勢を整え、某少年の「何とかなる」を箴言にやおら席を立って身を翻し、玄関の上がり框に腰掛け、コンクリートの三和土の上の合成革の靴に足を突っ込み家を出た。煦煦たる春光を一身に浴びて気を落ち着け、学校指定鞄を肩にかけて透徹とした青空に舌打ちした。新生活を迎えるならばと天が祝賀して空を真っ青に染めて下さったのだろうが、それは余計なお世話と言うやつで、私は晴天が嫌いだし雨天は論外、曇天こそ人が行動するに相応しき天候であると信ずる身としては眩しいばかりの晴天は不快極まりない事だった。とは言え、本日の天候を気にして新生活初日を見送る訳にもいかず、靴の爪先を罅割れしたコンクリート製の地面に打ち付け、騎虎の勢いで渋々一足二足と歩き出した。
何気無く空を仰いで、ああ、と呼気を漏らす。そういやこんな天気だった。
* * *
何だこれ。
記念すべき第一声はそれだった。目線を上げて首を巡らし運動靴の踵を鳴らすと馴染んだ感触は無く、名状し難い硬質な感触で、足下を見下ろせば踏み均された薄い色の土があった。同時に自身を襲ったのは凄絶な臭気である。どんな臭いと問われたら、土が腐った臭いと私は答えよう。幼稚園来の友人の翔子(しょうこ)と買った明色の長袖ティーシャツの裾を捲り上げ、鼻の辺りで丸めて臭気を遮断せんと抵抗を試みるも、人生初の筆舌に尽くし難い腐臭は矮小な人間のその行為を嘲笑うかのように鼻孔から侵入し、鼻腔を通過し、情け容赦の無い殺人的臭いでもって頭痛を起こす。目の奥の底の方、既に脳の達しているだろうが、兎に角目の奥が痛かった。
一歩、勢いで後退すると止まらない。踵を返して一散に駆け出し、僅かでも臭いの薄い場所目指して走り、周囲の景色も気にせず走って、何か踏んで転倒した。前方回転受け身を見事決める程綺麗に転んで起き直り、はっと目を瞬き漸く見逃していた周囲の景色の観察を始めた。
私の転倒の原因は足下にあった。靴底の跡の浮いた真っ黒の細い枯れ枝が横たわり、少し皮が剥けて赤黒い粘液が地面に斑を描きつつ、枯れ枝を中心に薄い色を侵食する。咄嗟の事で判然しないが膝を屈曲し、足を胸に抱えて右足の靴底を覗き込み、凡そ小学校中学年の女子生徒の声らしからぬ濁声で悲鳴を上げた。赤黒い粘液が靴底の溝に至る迄、文字通りべったりと付着していた。これに顔を近付け臭いを嗅ぐ真似はしない、そこ迄女の矜恃を捨てていない、童心に返り真似だけしたい気持を抑え辺りを瞥見する。そうして視線が怖いもの見たさで靴底に戻って、右顧左眄、人影は無いけれど躊躇し、やっぱり止す事にした。
右の足底を地面に叩き付け、よっこいしょ、と声に出して立ち上がる。全身の埃を成る丈払い、又怖いもの見たさで枯れ枝を振り返る。今度は濁声も甲走った声も出ないで喘ぎ、胸元に両手を握り合わして後退り、緩慢に体の向きを変えて枯れ枝に背中を向けて歩き出す。枝は段々太くなり先に実が生って、人の形を取っていた。
私の逃げた先は数個の木製─此処数年学校の定期視力検査でBとCの間を行ったり来たりする自身の目で確認出来る範囲─の小屋が建っていて、枯れ枝は小屋の壁際の日当たりの良好な場所に転がっていた。何が飛び出すか予想のつかない不気味な場所にすっかり怯えた私は前傾姿勢で歩き続け、腰の痛みを覚えるも背筋を伸ばすのが恐ろしく、枯れ枝の付近と景色の変わらぬ奥を徂徠し、軈て嫌気が差して枯れ枝と最奥の小屋の丁度半ばの小屋の壁際に座り込んだ。
する事が無ければ退屈だが、今は頭の中の螺子がきゅっと締まり、歯車が音を立てて回って退屈を賞翫する暇も無い。知恵熱が出かける程懊悩した結果、自身の残念至極な頭の弾き出した答えは「又か」である。人は経験し学ぶ生き物で、一度体験した事は末長く自身を助けるそうだ。が、人に限らず他の動物でも起こり得る事だが、厭きは来るものだ。例えば現在家には三匹の愛猫が居て、その内一匹が大層悪戯好きの腕白小僧で、末っ子で一番体が小さく甘やかした所為かもしれないが、やる事に遠慮が無ければ平気で兄弟の御飯を奪い蒲団を奪い人様の視界を奪う。困った小僧で皆お手上げだった。中でも食器棚の抽斗を開ける事は酷く迷惑した。家に食器棚は二つあって、硝子の嵌められた観音開きの戸を持つ大きな食器棚、もう一つは台所の流し台やらに付属する抽斗がある。後者の方は抽斗が軽く、引き戸や片開きドアを開けて移動する家猫であれば容易に開閉出来てしまう物で、腕白小僧はこれを開けて中の食器─此処に仕舞ってあるのは主にスプーンやフォークの類だ─を漁り滅茶苦茶にしてしまう。幾ら怒鳴って叱って引っ叩いても毫も気にせず、一時間も経てば再び抽斗を漁る。しかしある時軽い抽斗故、閉まるのも一寸押せば閉まるので、運悪く腕白小僧が食器を漁る最中に抽斗が仕舞ってしまい前足を挟んだらしい。骨折していなくて幸いだが腕白小僧はこの不幸を経験し、爾来抽斗に前足を掛ける事をしなくなった。
以上で解るように生き物は厭きが来る。そして私も突然見知らぬ場所に移動する事を経験している、何より一度で嫌になっている。──私は前世と言う馬鹿馬鹿しい記憶を保持して現代に誕生し、今日に至る迄十年近くを過ごした。問題の馬鹿馬鹿しい前世は、現代と大差無く、精々誰かの名前が何かをもじった名前だったり、企業の名称が子供のお巫山戯のような名称だったり、町の名前が可笑しかったりと若干、場合によって何故誰一人指摘しなかったか疑問な程滑稽な名前に変わっていた。つまり、名前と言う形の無い物が変わっていた。最初こそ頭を痛めたが、生活の上で名前による弊害も全く無く、上手く行くものだと自覚すると世界は一層鮮明に映り賑々しくなった。
だが、その苦悩も一度で充分堪能したし、環境が世界規模で一新されるのは懲りた。私が悪事を働いた訳でもないが、精神病宜しく苦悩の日々を思えば一度切りを確約されたも同然で耐えられる。その一度切りが規約違反で起きた。誰と契約した覚えも無いが、今、二度目が起きた。
私は深く嘆息して壁に凭れ、壁が崩れて仰天し、慌てて背中を離して肩越しに顧みる。壁は無かった。何処に落ち着ける場所があるか解らないが、少なくとも小屋の周りに安全は無いと思われ、不承不承立って腰を伸ばした。すると随分遠くに泣き声を聞いた。ほんの微かな音で風音と聞き逃しそうだけれど、確かに聞いた。突っ立ったなり無聊の時を過ごすくらいならと声の方へ足を向け、目的地を見失い往生し、再度泣き声がした気がして歩を進め、進んだ先に黒い塊を認めた。自然駆け足になって黒い塊に参集する蝿と一回り大きな蝿に及び腰になり、羽音に紛れ届く筈の無い泣き声に意を決し蝿の集団の中心部に身投げする。虫は一斉に広がり、しかし全く居なくなりはせず、私は蝿を掻き分け黒い塊を両手に持ち上げた。
両手の黒い塊に言葉を失くし、蝿を払う為に現場を離れ、先刻の壁を崩した小屋の壊れていない壁際に座って足の上に塊を横たえ項垂れた。片手で塊の頭部を払い、腹部を払い、自身の長袖ティーシャツの裾を引っ張り塊を包む。
黒い塊は人間の赤ん坊だった。已んぬる哉。
いっそ脱いで包もうか逡巡し、悩むのも七面倒臭く思われて長袖ティーシャツを脱いだ。嬰児を包み直して一昨年第一子を産んだ父方の叔母さんの抱き方を真似て抱き、真っ黒の嬰児を見詰めて泣きたくなった。
「帰れないの?」
と性別不明の甲高い子供の声がした。日本語だった。
「その子は、君の兄弟?」
嫌な予感に肩を落とし、垂れた頭を擡げて声の主を視界の中央に据え、烏の濡れ羽色の癖の無い髪を伸びるに任した今の自分の肉体と同年代と思しき黄色人種の少年が非常に腹立たしい濃い青空を背負って突っ立って居た。薄汚れたポンチョか知らないが一枚布を体に巻き付けた風の少年の目は、私の手元の嬰児に釘付けであった。
取り敢えず、私は不躾な質問に反感と憤懣と一瞬で不愉快になった気持を込めて言った。
「あのさ、そう見える?」
第一印象、何だこいつ。
転屍(てんし):転がっている死体。
挽歌(ばんか):ざっくり言って死者を悼む詩歌。
こんな感じで口の悪い子です。
一話でざっくざっく進めたいと思います。