生者必滅、会者定離   作:赤茄子

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第二十話:

 思い出程度の薄い記憶の前世と現代の十年許りの記憶を合わせても昔の長屋を見た事は一度も無く、前世か現代か或いは両方の祖母からその付近で起こる火災の恐ろしさを聞かされた。内容は余り昔の事で憶えていないが、火の迫る恐ろしさはよく聞いた。戦時中の警戒警報や空襲警報、焼夷弾や爆弾、頭上に被さる黒煙と風の随に流れる黒雲の違い、通る敵機が見えなくなっても奴らの落し物による災厄は迫り、家屋を燃やし身辺を照らす炎と退路の確保、祖母は学校の授業の参考にと遣って来る孫を座らせ訥々語った。一瞬の判断の違いが生死を別つ、私の三番目の兄はそうして死んだ、祖母は決して孫の目を見る事無く語って最後にいつも火は怖い、火は怖い、と言って当時私の好物の餅を焼いてくれた。だから私も思う。火は怖ろしい。

 制止の懇願を読み取っている筈の土手の上に佇む彼は分厚い手袋を嵌めた片手を翳し、指先を弾くように振って溜息を吐いたらしい。指先の可燃物の無い空間に橙色の火が灯り、マッチ一本分の頼り無げな火影に青白い顔を照らし色の悪い唇が動くのを見た。死期を感じ取った人の感覚は極限まで引き上げられ、平静であれば見て取る事の不可能なもの迄見え、眼球の粘膜の乾燥による痛みも忘れてその瞬間を目に焼き付けた。正確には、目に焼き付いてしまった。瞼を固く閉ざすのは放心状態の自身には敵わないし、耳を劈くだろう音を遮るのは乙破千代を抱き締めるので敵わなかった。

 土手の下の窪地は突如として炎が燃え盛り、燃える物なぞ一つも無い筈の其処は真っ赤な火の舌が掬い取って飲み込んだ。耳に届く火の爆ぜる音、それに混じって響く悲鳴と怒号に素早く身を起こして、目睫の間に迫る火に驚き尻を突いた儘暗い方へ後退した。

 赤色、橙色、青色の炎が虚空を覆い、地面を這う白い炎が紐を解いて下さった人に絡まり、間近にあった確かな人形は瞬く間に炭になってぼろぼろ崩れていった。戸惑いの狂躁に紛れ気にも留めなかった癇性な怒声が脇の方で聞こえ、髪留めの御蔭で纏まっていた頭髪を掴まれた衝撃で日本語を話すその人が自分を捕らえたのだと気付いた。金具が髪を噛み皮膚を傷付け、掴まれた髪の束が引っこ抜けるような、頭皮ごと剥がれ兼ねない力で持ち上げられて腕を蹴飛ばされ乙破千代の矮躯が吹っ飛んで行った。真っ黒の体が空に投げ出される様を認め、砂利の一粒一粒を区別出来る程に明るい地面を数回に分けて跳ね、転がり、漸く止まって黒目と目が合った気がした。

 祖母は家を燃やし命を燃やす爆弾を無慈悲な物と言ったが、爆弾自体は自由意志を持たず、只落ちて来て着弾すると同時に弾けて辺りの物を壊して燃やし、余勢で隣家が燃える。爆弾や破片が降る中を逃げて、運悪く当たれば死に、炎に巻かれれば骨になる迄燃やされる、無慈悲な物を落とすのは敵機で、それに乗り込んだ人間が落とす。畢竟人間が無慈悲であると祖母は言い、私達の目線の悪逆無道も相手の目線で見れば正義か大義だから言い訳が立つ、自分の足下に転がる相手は自分の生きるに不要の物だから片付けちまうのさ。餅を焼く祖母の背中はよく憶えている。背筋の伸びた行儀の良い背中は震えていないし、怒ってもいない、怖がっているようでもない、只感慨深げに往時を語り孫におやつを与えた。

 憶えているとも。無慈悲なのは人間で、何が人間を無慈悲なものにするのかと言えば、陳腐な話だが戦争がそうするのだ。何故戦争が起きるのかと言えば、それは生き物の性だから、と祖母は言う。祖父は昔使い込んだ拳銃を戸棚に仕舞い、時折覗いては一寸撫でて又仕舞った。

 祖父母の顔が脳裏に浮かび、髪を引っ張られる痛みすら感じない。投げ出され転々と地面を滑り微動もしない乙破千代の折り曲げられた矮躯が眩しい視界の中央にある。真っ黒の素肌は白々しい炎に映え、最近揃い出した縮れた頭髪が熱風に煽られ揺れていた。畳まれた小さい四肢と指先の爪が明かりを照り返してきらきら輝いて見えた。

 足腰に力を入れて前へ駆け出すも頭が追い付かなくて上体が仰け反り前に出られない。頭皮の剥ける事を厭わず首の折れそうな痛みも無視して体を前に倒し、毛髪の千切れる音に皮膚の剥ける疼痛を覚えようと前へ踏み出した時、急に首が軽くなって、しかしこれ幸いと違和感を振り切り乙破千代の回収に白い炎に向かって駛走した。凶悪な風に皮膚や下層の組織も悉く焼き尽くす熱の塊に飛び込み、その時は興奮の余り触・圧覚温・痛覚のどれも麻痺していたらしく何も感じず居られたが、白光りする炎の向うの乙破千代を拾い上げた直後転倒し、そうして自身の怪我の具合が目に付いて漸く感覚が正常に働き出した。激烈な痛みを伴う全身の傷創に堪らず喘いで蹲るけれど、直ぐ様起きて周囲の様子を見回して土手の上のハオを捜す。四辺は色取り取りの炎に囲まれ、身動きの取りようが無かった。

 遠くにハオの名前を怒鳴る人が居る。凄まじい熱風に掻き消され殆ど音にならないが、耳慣れた音の所為か彼の名前を聞き取った。声の見当を振り向き赤い炎の壁越しに褐色の肌の大男を見付け、彼は両手に太い鎖を持っていて、何か叫ぶと背後に青白い火の玉が現れ膨れ上がって人の形に変わった。大男は青白い人形を片手で掬い、鎖に近付けて又何か叫んだ。そうして目撃した光景に私は呆然と立ち尽くした。

 青白い人形と鎖が触れ合い光が溢れ、瞬時に収斂すると鎖の先が青い十文字型の刃物に変わり、残る鎖は全て薄い青色に輝いていた。大男が鎖を振り被って刃物の部分を何処かに投げ付け、私が目の痛みに瞬いている間に赤い炎の勢いが弥増しその後の彼の姿を見届ける事は敵わなかった。

 ああ、と溜息を吐いて得心する。あれがオーバーソウルと言う奴だ。

 此処に来て初めての前世で見た物語を髣髴させる光景に感銘するどころか、大男の最期を想見し、胸を抉る想像に歯の根が合わない。燃えたらさぞ痛いだろうに、彼は絶対手加減をしない、魂を燃やす程炎に炙って冷淡に見下ろすに違いない。乙破千代を巻き込みはしないと信じるが、自身の死より乙破千代が熱に焼かれ後で火傷を見付けると言う羽目にならないか、現実逃避とも言えるが腕に戻ったこの子の健康が心配でならない。

 火勢の最も苛烈な方を見遣る。白い炎が所々に黒い人形を浮かび上がらせ、中の人形が棒杭のように突っ立って居ると見ていたら手足と思しき細長い棒を振って、轟音の最中を叫び回る。外で見詰める自身の顔面を炙る殷賑な炎の中は、軈て力尽きた人形が累々と転がり、それでも火勢は強まって天を衝く程の火柱が立ち積み重なった人形を跡形も無く燃やしてしまった。

 火柱を仰ぎ又目を見張って声も無く立ち尽くす。天を焦がす火柱に重なって異形の巨人を認めた。首の痛くなる程背高の半透明の赤い体躯、太い首に乗っかる小さな頭、両の側頭部から横に生える神社の鳥居に似た角、天上の月を鷲掴み出来そうな大きな手は指先に青白い光を引っ掛け、口避け女も真っ青な大口を開けて光を飲み込んだ。意識の明瞭な青白い光は人の形を取って手を虚空に伸ばして望めぬ救助を求め、赤い指先に連れられて暗い口の中に消えて行く。瞬くのすら忘れて見届けた途端、乙破千代は火が付いたように泣き出し暴れ出した。

 顎や胸を叩く元気な手足を押さえるのも忘れ、薄らぐ巨人と相変わらずの火柱を見上げて座り込んだ。

 ぽん、と軽々しく肩を叩く人があって、ぎこちない首を回して振り返った。赤い火焔が射干玉の頭髪を照らし、熱風が煽って翻りメドゥサの蛇の如くうねって頬に当たって吐息も漏らした。

 ハオが居た。長い髪が私の額を叩き瞬きすると全身の力が抜け、辛抱堪らんと痛みに体を折り曲げ呻き、癇癪を起こして痛みの強い箇所を突く乙破千代の手足を封じようか迷い、考える事が大儀で呻く事に決める。呻いたところで何も変わらないが、小さな手足を押さえる事が億劫でならない。

 丁度私が膝を突いた真ん前にハオも片膝を突き、乙破千代に免じてね、と言って手掌全体で火傷の酷い箇所を摩り、後頭部を中心に人様の頭を撫で回し、最後に髪を纏めていた筈の髪留めを分厚い手袋を嵌めた手で摘み落ちていたよと握り締めた。血塗れの手掌で私の肩や肘を撫ぜ、仕上げに泣き叫ぶ乙破千代を丹念に撫でて、そうして治療を終えると一言言った。「護ろうと行動した事は評価しよう」

 愛想笑いでもない、人間臭くもない、酷く歪んだ笑顔で無力な小娘の精一杯の抵抗を労った。




 半ばから力尽きました。
 多分三途の川に片足突っ込んでいたのでしょう。

人面獣心(じんめんじゅうしん)
:冷たい人、恩を忘れた人の譬え。
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