目も当てられぬ汚れ方に苦り切った声を殺して、汚い、と愚痴を零し、人の気配を垂れ幕の向うに感じながら羞恥をかなぐり捨てて一気呵成に衣類を脱ぎ、地面に広げた渋色の貫頭衣擬きを取って被った。ポンチョより丈が長く、踝に届く程布地はあるが、貫頭衣擬きと言うだけあって腋の下と胴の間を腕に沿って縫い付けただけの簡易的服である。最早出来ぬ事を見付けた方が能力を知る上で早く把握出来ると思われるラキストさんの手縫いの服は、汚らしい私の一張羅を見兼ねた山田さんの言付けで、特段身形を顧みなかったハオを発奮させ、衣類の請願から二日経って自身の手に渡った着物は素肌に外套を羽織るだけの野郎の恰好と大差無かった。さすがに子供の頭部の周りを知らなかったからだろう、少々襟刳りの広い為、日本の冬に着るのは御免蒙りたい一品だ。
汚れた衣服を畳み腕に引っ掛け、羊のママの横腹に寝かした乙破千代を抱き上げて垂れ幕をお行儀の悪い足で撥ね、隙間に体を滑らせ表の日光を浴びて目を細めた。幸い不躾な足技を見咎められる事無く焚き火の輪の中の山田さんとラキストさん、一寸躊躇の間があって不機嫌気味のハオに声を掛け、振り向いた三人に謝辞を述べた。自分の腕前に感嘆するらしいラキストさんの顎の刺青に目線を据え、対角線上に居る山田さんの着物に着られていると言う言葉に頷き返し、そうして最後の相手のハオの返事を待つが中々声は聞こえない。目玉を動かし魔法使いの帽子の隣に視線を遣って一向に直らぬ不興顔を認め、眉間の深い皺の本数を数え、幕屋に入る前は二本だった縦皺が四本に増え獰猛な顔付きの凄みが増して、彼の機嫌が一等悪い事が判る。彼の不機嫌な時は触れるべからず。国語辞典に載る諺だか慣用句だかにある、触らぬ神に祟りなし、正にその通りだと深く納得する。
移動を命ぜられ足早に先の遊牧地を立ち退いた遊牧民と奇怪な一行は、ようやっと見付けた土地に御輿を据えて、幕屋と家畜の柵と駱駝の柵を作り、翌日は既に通常の生活に戻っていた。過酷を極めた環境に弱音も吐かず生き抜き、先方に如何なる事情が有ろうが理不尽としか言い様の無い要請を拒否する事も出来ず従い、しかし落ち込む暇を省き寸時も惜しんで自分達の生活の為に毅然と前を向く。平和惚けの現代っ子の私の目線だと、強かな姿勢に憧憬を抱き身が引き締まるように思われた。
新しい遊牧地を目指し、見付けて仮の居を構え、一行の隠れ蓑の一家は遊牧民の中でも頻繁に移動する方なのか行動を共にする事早七ヶ月と少し、立ち退き令の下った土地を含めて五カ所は場所を変えた。移動頻度の高低は一介の子供如きの知るところではないが、移動の回数分皆揃って荷造り、幕屋の畳み、透明の飛行機に乗って面白くもない空の旅、着陸後は男衆が速やかに幕屋の組み立て作業、後は焚き火や食事の準備を済ませ漸く一服となる。以上の事から移動とは、即ち引っ越しとは大変な労力を要するもので、回数が少ない程有難い。我が儘を言って主導権を握る遊牧民に反抗してはならないが、一行の内、体力に欠ける白髪か銀髪か判然しない色の奇抜な髪型の優男の顔色がハオの火影に浮かぶ顔色より悪く見られ、少し気になって言葉を掛けたら惰弱な人間の小娘云々と言われて多分罵倒された。直後山田さんが、ボリスはあれで通常運転だ、と仲間の非難か弁護か知らない事を言って私の頭を撫でる。頭を撫でたから私への慰めの意味もあったと思われる。
皆の生活の新天地に着いて一週間、強制退去の命を受けて約五ヶ月、傍迷惑な事にその間一行の代表のご機嫌が頗る悪く、一度も直らなくて身辺の空気が刺々しく宜しくない。他者の機微に疎い自分も心身に痛痒を感じる程で、鋭敏な感覚の持ち主達は尚恐ろしく感じると思われ、それに群を抜いて繊細な乙破千代は大好きな─原作の描写を思い返してこの頃既に全幅の信頼を寄せていたと考えられる─人の猛悪な気配に毎夜悲鳴を上げて世話係の睡臥の時間を大幅に削るようになった。無論夜泣きは覚悟の上で世話を申し出たのだから止むを得ないが後半年足らずで一歳を迎える頃に夜泣きが始まると毫も思わず、何の心積りもしていなかった私は、ある日突然始まった反抗期宜しく言語にならぬ訴えに気が動転し、初日の深夜、山田さんを叩き起こし二人仲良く慌て、異国の東雲の朝陽を浴びて二人仲良く幕屋の表で仮眠を取った。
初日は皆々子育ての最大の難関の夜泣きが始まったと諦観の体で珍しく私を慰め、子供の世話の援助の期待出来ない事を言い置き姿を消して、不意に遥か遠く太陽の昇りも沈みもしない見当に煙塵を認め、彼らが育児の手伝いを放擲した後、向うで修行を始めた事を察した。別段腹は立たないが砂粒を巻き上げる風に乗って遠くの煙塵の一部が幕屋の周辺に及び、口中や鼻腔に入って甚だ不快で、夜更けに死力を尽くし泣き叫んだ乙破千代の昼間の体力を思うと、環境が悪いと悪態をついてしまう。
そうして主観ながら時機遅れの夜泣きが続き、当人世話役周囲の人々の睡眠不足と言う名の疲労が表面化し、数人の男性と花組の金髪の少女の目の隈が色濃く深刻さを増した頃、優男と金髪の少女が激昂して、しかし当人の嬰児に当たる事無く互いを憂さ晴らしの相手に選び大喧嘩を始めた。その剣幕たるや一行の代表が腹を抱えて大笑いする程だった。
それで気が済み、又代表のご機嫌が直るなら幾らでも取っ組み合いを御披露下さい、と内心言って乙破千代がむずからない程度に距離を置き、新天地で見付けた私の憩いの場に向かう。其処は私の貧困な知識からは凡そ想像もつかぬ赤色緑色と様々な色をした植物の繁茂する一角で、乾燥地帯にこんな色鮮やかな草花が育つのかと感銘した。幹が太く枝葉の不恰好な樹木と比べると大分背丈の低い木で、複雑に伸びた細い枝に肉厚の極彩色の葉か花弁か判然しない物が塊になって枝のあちこちにくっ付いている。幾本も生えた樹木の内の一本の根元がいい具合に人の尻の収まりがよく、不恰好な樹木に比べ幾分心許無い幹に背中を預け、目線が低くなり錯落と肉厚の極彩色の塊や細い枝が視界に被さって樹木の更に上に広がる大空を眺める事も儘ならない。けれど何一つ構わない、頭上を覆う大空の模様なぞ興味の欠片も無いから乙破千代の御機嫌を窺うだけで新しい居場所の景色を見渡すのも億劫だ。
夜泣きに堪える日々は続き、一行の代表の不機嫌振りも続き、いよいよ打つ手の無くなった一同は幕屋と焚き火周辺に近寄らなくなり、気付けば立腹気味─要は途轍もなく不機嫌と言う事だ─の野郎が焚き火の前に陣取り無闇に薪をくべ、轟々と唸る火柱と睨み合う姿が日常風景となった。辛抱強い山田さんとラキストさんの二人が宿泊地に留まり、昼間は野郎の機嫌に当てられる乙破千代が哀れでならないので私達の方は新しい居場所に引っ込む事が増えた。
しかし野郎の不機嫌な姿を毎日見るのもつまらない。段々腹が立って来た。そうして何度目かの昼間の内の撤退後、新しい居場所でやり場の無い感情に眩暈や吐き気を催す苛立ちを募らせ、人とは怒りの臨界点があって突破してしまうと急に気が落ち着き、頭が冴えて良からぬ事に限定して何でも思い付く。だから私も思い付いた。
久し振りに野郎に乙破千代を抱かせよう、野郎も人間臭い笑顔を見せて乙破千代もご機嫌になって、万事上手く収まるではないか。閃き掴んだ名案は御機嫌回復間違い無し。以上を、大地を震え上がらせ尚鎮まる気配を見せぬ野郎の傍らで辛抱強く鎮まるその日を待ち続ける勇者のお二人に提示し、藁にも縋る思いでお二人は頼むぞと、人様の肩を痛いくらいに叩いて頑是無い小娘を死地へ突き飛ばした。
余りの手際の良さに特段疑問を抱く事無く焚き火の前のハオに近寄り、ハオ、と声を掛けると一瞬で心を読んだ彼は遠慮すると言って、こちらを見る事も無い。その様子が相手の気分を表しているのだが、心を読まれる事は構わないが心を読む術を持たない私は甚だ面白くない。何故なら野郎は皆が困っている事を知っていながら不機嫌の理由を言わないし、尋ねても上記のように鰾膠も無い態度でお茶を濁す。何だこの野郎、と私も一緒に不機嫌になって、先刻の相手の拒絶を却下し、大股で歩み寄り腕を掴み引っ張り上げて新しい居場所まで強引に連れて行く。見守り下さるお二人の生温かい眼差しは煩わしい為素知らぬ振りを通した。
新しい居場所に着いて、万朶の樹木の低い位置にある枝が髪留めの金具に引っ掛かり、気付かず歩いて頭皮ごと取れかけ酷い目に遭った。枝は不興顔のハオが人様の髪の毛の一部を焼いて外した。焼かれたのは引っ掛かった髪で当然私の髪だから危ないと言って睨むと、枝が折れそうだもの、と彼は突慳貪な子供の高い声で言った。
「乙破千代は、君に抱っこしてほしいって」と私は定位置の樹木の根元に腰掛けて大分上の方のハオの黒目を見上げた。
一度断った彼は、しかし目の前で可愛らしい乙破千代の顔を見ると心が揺らぐらしく、顔は渋々と言った風に歪んでいるものの緩慢に両腕を伸ばし目一杯広げた両手で矮躯を受け止めた。非常に優しい手付きは親のそれである。彼はこちらに背中を向けて無言の儘乙破千代を抱き、肩が上下するのを見るに腕で揺り籠宜しく揺すっているのだろう。
やおら立って私は自身より少し背の低いハオの肩越しに乙破千代の黒い顔を覗き込み、大輪が爛漫と咲くかのような幸福な笑顔を認めて目元が和らぐのを自覚する。ハオの正面に回り、今度は数歩後退し、ハオと乙破千代の二人の全身を視界に入れて眺めた。背景は極彩色の塊をくっ付けた樹木だ。皮脂で汚れ砂塵を巻き込んだ射干玉の長髪が前に垂れて顔色が見え難いが、青白い顔は紅潮し、目元も頬も緩み切ったハオの人間臭い顔に少し安心感を抱いた。甲走った乙破千代の笑い声に人間臭い笑顔のハオ、それを眺めて胸を撫で下ろす私の構図は、遠巻きにすると少し危うい雰囲気を醸し出す気違い共の井戸端会議に見えたに違いない。
その日の晩ハオの機嫌が直り遠くに散っていた人達が戻って来て、ハオは一行が揃うと謝罪らしい謝罪は無かったが迂遠な謝辞を述べて私を驚かし、平和な数日が過ぎ、私と乙破千代が常の通り幕屋の中で寝入った頃、一行は怪しい会議を開いたそうな。
ハオ様オパチョにでれる。
この頃の子供ってどうしようもなく可愛い…。