早寝は促され床に就き、遅起きは早寝が災いして敵わず翌朝の汚い薄青の占める頃に目覚めて表に這い出し、誰かしら焚き火の輪の縁に腰掛けていると思って顔を出すが人影一つ見当たらなくて、そうして前日の早寝遅起きの警告を思い出し慌てて幕屋の垂れ幕を跳ね上げ中に戻った。幕屋の壁際に身を寄せる羊のママとその横腹に蹲る乙破千代の黒い体に目を留め、塵埃を巻き上げ生活の痕跡を埋め立てる風を一身に受け、前回の警告の翌日のように人の居ない表を見回した時の所感を想起した。日本人の二人組が居残り、一人不寝番を務める必要も無い為、二人は交代に焚き火の番をして一日を世話役の小娘と一行の代表のお気に入りの嬰児と乳母の羊の見守りに徹し、当日か翌日か曖昧な夜陰に乗じた無頼漢達の襲撃に遭い自分と乙破千代が攫われた。紆余曲折を経て一行の許に戻り救助の礼の為にハオと話したが、相手の態度と遣り方の理解に難儀して終わった。
そんな日の再現の如く災難塗れの日は訪れ、警告よりずっと早い時間に目が覚めてしまい、血の気が引く思いをして足早に幕屋に戻り穏やかな夢の中の人達の寝息を聞いて憂鬱な気持になった。人様の好意の忠告も直ぐ忘れてしまう。人は忘れる生き物だから忘れる方が自然で可笑しな所は無いが、時に可笑しな所が残る方が好感を持たれるそうだ。誰の話かと言うと、現代の家族の言である。
これは現代の母親から聞き及んだ話だが、家族の話は止そう。前世の母親の話も止そう、皆止そう、何故なら異国の地で再会の敵う奇跡なぞ起こる筈が無いし起こって良い筈も無い。話せば話すだけ、思い出と言う薄れ行く形でしか逢えない事を虚しく思うからだ。
ママの横腹に蹲る矮躯を抱き上げ自身の胸元に寄せ、物が当たって漸く安堵の息を吐ける鼓動を感じて口元が綻ぶのが解る。植物や土の脈動を知覚する事は徒人の私の常識の範疇外で感じるなぞ至難の業以外の何物でもないが、そんな一介の人間の自分も頭があって首があって胴があって四肢がある生き物の鼓動を感じるくらいは出来た。今抱く乙破千代の鼓動は生きている証、呼吸の止まらぬ、拍動の止まぬ、血が全身を巡り熱を持って生命の機能を維持し、全ての止まるその時まで活動を続ける。地面の剥き出しの箇所に膝を突き片腕を伸ばしてママの起伏する横腹を撫ぜ、この温もりの冷める日を、脈動の止む日を避けられない事実に気落ちした。体を丸め熱いくらいの横腹に身を寄せ、目を硬く瞑って目覚めた時に小学校の入学祝いに貰い数年来使い込んだ自室で、交換の時期の過ぎたシーツを敷いたベッドに寝転がり寝汚い様を曝す小娘を想像した。きっと片開きの戸を蹴破って母が蒲団を引っ剥がし、朝御飯だよ、御飯だよ、と怒鳴るのだ。蒲団の恩恵もあって保温され、程好い加減の私は、急に外気に手や足が触れて寒くて不愉快を隠しもしないで母を睨み、又睨まれ怒鳴られて、不承不承蒲団を出て部屋を出る。
すると目前に縦縞の白い壁紙が迫りびっくりして踏鞴を踏み、背後に立つ母に押されて廊下に突っ立ち、疾っくに食卓に着いている父親の怒号も聞こえて茶の間に駆け付け、飛ぶように自分の席に着座した。普段私よりも寝汚い父は、今日に限って目覚めが良く、欠伸一つ無く母の到着を待ち、私の隣の椅子に腰掛けた母を見届け、銘々戴きますと言ってから朝食を認めた。我が家の三匹の愛猫は朝食のドライフードを食べ終えると昼夜を問わず、食事中だろうが上厠中だろうが母にお猫様の専用の缶詰を所望し、望んだ缶詰が出る迄催促の悲鳴を上げ続ける。
其処は承知済みの我らが偉大なる母、食前に缶詰を三つの白磁の小皿に取り分け、母と私の後ろの壁際に並べている。愛猫達はデザートの缶詰を認め、感謝の言葉は特に無く茶の間続きの居間の方へ行ってしまう。茶の間と居間を仕切る両開きの引き戸のレールの上で白黒の雌の斑猫が顔を洗っている。境目のレールを決して踏まない末っ子は居間の出窓の本の山の横で欠伸を一つ、二つ、三つと連発して尻尾を丹念に舐め始めた。
食卓の上の朝食の内容は手元の箸すら朦朧と見えて色の区別がつく程度の視界の明瞭度の為、何を食べようか眺めて選ぶ事が出来ず、迷い箸もお行儀が悪く出来ないし、何が良いかしらと目を眇め愛猫の毛繕いを盗み見つつ考え、考える事も馬鹿馬鹿しく思われ出して茶椀に盛られた雑穀米を食べた。奥歯で磨り潰し嚥下して変わらぬ喉越しに唾液が溢れる。そうやって朝食が済んだら食器を流し台に置き、居間の液晶テレビの対角線上に設置された木製の揺り椅子に座って前後に揺らすと、木の軋る音が聞こえ歯の浮く感覚に肌が粟立った。一度止めて脚を抱え、両手を足首の前で組み背中を背凭れに凭せ、液晶画面の中で大口を開けて笑う芸人を観て溜息を吐いた。私はこの芸人の笑い声が嫌いだった。
番組を切り替えて良いか茶の間の家族を顧み、母がニュースを観ているから駄目と不機嫌な声音で言う。椅子から立ってリモコンを取りに行くのも億劫だから番組切り替えの拒否の出た事を有難く思おうと、少し腹の立ちかけた自身を宥めた。
出窓に居た末の愛猫が下りて来て私の爪先に前足を置き、私が脚を伸ばすと膝の上で丸まった。盛んに喉を鳴らし金色の目を糸より尚細め、桃色の鼻面を天井に向けて白く毛深い喉をこちらに見せびらかし、ぶにゃあ、と不細工な顔で可愛らしく鳴いた。何を要求するのか解っていたが、それを面倒に思い、撫でる事無く椅子を揺すって食後の小憩を堪能する。
茶の間の母が支度しなさいと怒鳴る。私は立ちたくない。素知らぬ顔で愛猫の不細工な面を見下ろし、長く真っ直ぐな尻尾の先端を摘まんで悪戯をやり、猫の三角形の耳が後ろに倒れ声まで不機嫌になって手を放すが、耳が戻ると同時に尻尾の先端を突き、尻尾で引っ叩かれて可笑しくて笑った。
不意に液晶画面が切り替わり、茶の間の母の声が変わって目を剥いて椅子を立ち仕切りの戸の向うの母を見遣った。先刻十年強の付き合いになる現代の母の腰掛けていた椅子に見慣れぬ女性が居て、目が合うと口元をもぞもぞ動かし、手招きの後手前の椅子を指差した。座りなさい、朝御飯よ、と女性は言うのだ。私は食べたばかりで胃に物を詰める隙間が無いと言うと、朝なのにお菓子を食べたの、と女性は顔を真っ赤に染めて怒り出した。晩御飯の直前に菓子を摘み叱られる事はあっても、朝御飯の直前に菓子を食べる時間は余程早起きしない限り作れない。食べていないと即答し暫し睨み合って、ふと女性の顔に見覚えがあると気付き、記憶を掘り起こす前に脳裏に稲妻が走って、腹の底まで衝撃が落ち込み矢庭に立ち上がって食べると叫んだ。膝の上の末の愛猫は居なかった。
茶の間へ駆け込み椅子に座ると朝食の並ぶ食卓の上の賑わい方の違いが目に付き、知らず溜息を吐いて箸を持った。前世の母が、あの子は来るの、と尋ねて来るので頷き返し、あの子って誰だったかしらと内心首を傾げた。母は続ける。
あの子は頑張り屋だからもっと優しくなさい、あんな努力家の人は、今時珍しいから捕まえておくに限る、あの子は良い子だ、頑張っているもの、と頻りに良い子を繰り返して強調するらしく、私に謎の人物の印象を刷り込もうとした。
「歩、起きろ! オハチヨを何とかしてくれ!」
と怒声が耳を劈き飛び起きた。
繁く目を擦って覚醒を促進すると遠くに聞き慣れた嬰児の絶叫に気付き、土気色の顔を一層黒くした山田さんを尻目に垂れ幕を跳ね上げて表に飛び出し、焚き火の輪の石に腰掛けたハンさんの頼り無さげな印象を与える大きく逞しい背中を認めた。稲に似た植物を絡め取ったママの横腹の小汚い体毛を捲って腹部の突起に乙破千代の口を寄せるが、誰でも出来そうな作業に見えて意外に上手くいかない、黒い矮躯を確り抱いて首を支えるのだけれど収まりの具合が悪いと自身も違和感を覚えてやり難いし、お乳の飲み難い子も愚図り始める。物の見事にお乳遣りに失敗したハンさんは乙破千代の大音声に閉口気味で、駆け付けた私の足音に振り向き腕を突き出して匙を投げた。
丁寧に乙破千代を抱き取って、泣き止めと子守唄代わりの鼻歌を歌い体を揺らし、直に悲鳴が止んで後方の大男と幕屋の入り口に突っ立った小父さんは肩の力を抜いて項垂れた。生憎気の滅入る夢を見て、其処から叩き起こされ、本来手元に居る筈の存在を勝手に連れ出した挙句お乳も満足にやれず慌てふためく大人の後始末をする所の私に、慰め顔で言葉を掛ける余裕は無い。寝起きで気分の悪い事も手伝い鼻歌の調子が狂って納得のいく歌にならず、それでも泣き止んだ乙破千代が又可愛くて、目を離して御免と謝辞を述べた後お乳を与えた。
始末を終えて、辺りを見回し、手を翳しつつ中天の黄色の太陽を仰ぎ見て、遅起きと言う警告を信じ、実行した事実に誇らしい気持になって二人を振り返った。大人の二人は肩を窄めて其処に端座する。
「御世話をお掛けしまして、どうもすみません。乙破千代の朝御飯なら、起こしてくれても良かったのに」と私は言い、先程の無礼千万な態度を謝罪し、乙破千代の御飯を済まそうとして下さったお二人に頭を下げた。
「いや、ぐっすりだったから」と山田さんは生え際の気になる額を手の甲で拭って言った。
「ハオ様も居ないし、修行もダマヤジしか相手が居ねえし、する事が無いから、真似事でも子育てってやつに協力するか、と」とハンさんは禿頭を掻き毟り遮光用の眼鏡の奥の両目を瞬かせ、大きく膨らんだ腹部の刺青を見下ろすように俯いて二度謝った。
「いえ、乙破千代の世話係は私です。だのに寝坊だなんて、ハオに知られちゃ、解雇されてしまう」
「そりゃねえぜ、ハオ様が抱いても泣くんだから」
「そうだな。乙破千代は歩でなけりゃ、滅多と笑わねえ」
と二人は言い合い、私も言って、話が纏まらなくなってお仕舞いにした。
その時二人は、ハオ様、ハオ様、と頻りにハオ一人で子育ては困難であると言い、可哀想な小娘の居場所と仕事の確保に必死の形相で賛助した。そんな二人の怖い顔を見上げ、二人の私見を聞き流しながら、何気無く乙破千代の今後に思いを馳せて、子供は身近な人や母親の言葉に影響を受けると聞くから一番近くに居る私の影響を受けて言葉を覚えると考えられ、この子は一行の代表の彼を原作通りに呼ぶかしらと現実に首を傾げて思案した。私も、あの野郎を様付けしようかしら。
夢を書くのが好きです。
夢に入る瞬間、夢の中で去る日を見て、思い出して懐かしむ様を書くのが大好きです。
主人公が家族と逢えるのは、もう夢の中だけですし。