飛ばしていません。
墨汁をぶち撒けた真っ黒の空に燦爛と輝く消しゴムの滓達が散り、中天を越えた薄汚い月が薄雲に掛かって地上を照らす光源が足りなくて、一足二足と慎重な足取りで起伏の激しい大地を踏み締める。馬鹿な小娘に付き添うママの先導の御蔭で派手に素っ転ぶ事は免れるが、蹴躓いて空足を踏んだ時など、腕の乙破千代を放り投げそうでぞっとする。当の乙破千代は団栗眼を見開いてお気に入りの世話係の愚行を見守り、鋭敏な感覚を研ぎ澄まして心底慕う一行の代表の気配を探るらしく、時折唸ると先頭のママの進路が変わった。ママと乙破千代は、何れ持ち霊と行使者と言う関係を築く訳だから、今から阿吽の呼吸が合っても不思議ではなく思われ、一人蚊帳の外の感は否めないが止むを得ないと言い聞かして諦める。
学校の階段を二段飛ばしで登るように大股で歩き詰める事恐らく一時間、いい加減幕屋の異変に気付くと思われる頃、一寸窪地を越えた先の散策に出ただけだったのに帰り道が解らなくなる程遠くへ来てしまった。已んぬる哉。ママの催促の一声、乙破千代の慕う人を案ずる為の泣き声、遥か後方の居残って下さったお二人の御好意を無下にして、優柔不断を大いに発揮した私は一頭と一人の訴えに流される儘歩を進め不毛の大地に繰り出した。
極彩色の塊の樹木の繁茂する窪地を這い出し、幕屋の立つ平地から一転し、其処いら中地面の隆起した荒寥たる大地は現代っ子が夜更けに通る散歩道として不適切で、しかし此処しか道が無いのか乙破千代の唸り声に導かれママが行き、ママの先導で私が行く。行きたいと言い出したのは乙破千代だが、我が儘を了承し更に我が儘を言ってママを付き合わせたのは他ならぬ私である。歩調の揃わぬ道中、何度転びかけたか知らないが具合が悪いのか躓く足は決まって右足で、外側の母趾と小趾と足首に痛みを覚え、歩調を緩めて運動靴を履いた右足を持って靴底を覗き込むも当然異常は見られない。棘が刺さるでもないし、躓いて母趾や小趾をぶつけ足首を目一杯伸ばす所為で、筋が痛んだと思われる。
右足を地面に下ろし、抑も四辺が真っ暗闇で月明かりの届かぬ夜で、足の具合を見ようにも夜目の利かない私は確認する術が無かった。爪先を軸に足首を回して具合を確かめ、大した痛みでないから歩き出し、歩き始めの二三足で疼痛が振り返すので、痛いと思う間の寸刻も惜しく色々大儀だから無視する事にした。
小丘を乗り越え、巌を迂回し、痛む足を庇って股関節が痛み出し、未だ姿の見えぬ、大分遠出をしているらしい一行に腹が立ち始め胸の最奥の空洞に反響する鼓動が気になり出す。胸の鼓動は上下に波及し頭や耳の奥に響き、又腹に落ち込んで内蔵が脈打ち、吐き気を催して到頭立ち止まった。もう一足も前に出ない。引く事も出来ない。口中が乾き唾液を飲もうにも、舌が口蓋にくっ付いて喉が塞がって、鼻呼吸で間に合わない呼気が口蓋と舌と唇の間隙を通って外に脱し、鼻で吸った吸気が喉の辺りに溜まって肺を通る前に呼気と一緒に出て行ってしまう。実際は深く吐き過ぎて、肺に入った息より多くの息が出て行ってしまい恐慌状態に陥っているだけで、軽い眩暈と酷い吐き気もあり平生の呼吸の調子を忘れ、勝手に怯えて盛り上がっているだけなのだ。
身辺の闇が全身に絡み付いて身動きを封じ、闇の帯が胸を圧して胸郭の運動を制限するように思われて、喉と胸を押さえられ呼吸の儘らなぬ私は膝を突いて喘いだ。何処を向いて呼吸を整えれば良いのか解らない、頭痛が波濤如く押し寄せ引き潮の如く引き、頭の中で繁く鳴る高温と低音の風音に上下左右の感覚を失い腕の力が抜けていく。乙破千代を落っことして背中を丸めて頭を抱えた。
何が起きたか丸で解らない。只々、息苦しい。つい先刻誰かに腹を立てただけで他に何も無い、何かやらかした訳も無いし口に出した覚えも無い、心中で愚痴を零した覚えがあるのでお家芸の真価を発揮した一行の代表の悪戯かと思われた。彼の意志を孕んだ暗闇が私の四肢に這い寄り体を登り、喉を締め上げ胸を潰して呼吸困難を引き起こす。無論自身の被害妄想で、彼が関わっていない事は、特段利益があると思えない悪戯を鑑みれば自明であって、無意味な事に労力を費やす馬鹿者ではないと解っているから八つ当たりの対象にしただけだ。要するに彼の方が被害者だ。
不意に鼻を腐臭が衝いて、仰天した私は身を引き視界の中央に腐臭の原因のママを入れ、目を瞬かし独り言染みた声音でどうしたのと尋ねた。周囲に人が居たとして、羊相手だし、本当に独り言と称しても反論出来ない。しかし若し何か違えば人間より利口なママは賢くない小娘の頬に擦り寄って、ベエと一鳴き、腹の底を震わす濁声を轟かせ、泣き虫の小娘の意識の覚醒を促した。まだ息苦しい気がするけれど頷き、漸く立って、立ち上がり様落とした乙破千代を拾い、御免ねと汚い顔を擦り付ける。
一時的に暗所恐怖症の症状が出たらしかった。
暫く真っ暗闇の中に佇立し、ママの鼻息に合わして呼吸を整え、すっかり良くなって一足を踏み出すが、次の瞬間今度は良い子の見本の乙破千代の暗所か高所か広場か知らない恐怖症が爆発した。爆発したとは、つまるところ泣き出した。数拍遅れの痛みに襲われ泣くのかと思われたが、強か打ち付けたであろう頭部や背部や臀部を撫で回すが痛みに嫌がる様子も無く、暗所恐怖症に頭が回らなくなった時と異なった困惑の極みに平静を失い、乙破千代を抱いた儘右往左往する。
普段昼間に泣けば子守唄を歌い、夜間に泣き出すと散歩に出掛けて出先で子守唄を歌い、これは次の移動先の話だけれど、ハオも子守唄の時は自ら歌い出すので逐一懇請する必要も無く、大変助かる。私が現代や近代の歌を歌い、それらを平安時代の風に編曲してハオが歌い、楽しいのか尋ねると彼は非常に人間臭い笑顔で楽しいさと答えた。
冷静であれば子守唄の一つ二つ歌って御機嫌を取るが、恐慌状態を抜け切らぬ内に可愛い子に泣かれたので、自分の何が駄目だったか、何故この子が泣くのか、全く解らずその場で左見右見、無意識に烏の濡れ羽色の長髪を垂らす背中を捜した。地団駄を踏むように足踏みして見付けた瞬間駆け寄り外套を引っ剥がす勢いで腕を鷲掴み、無礼なとラキストさんに引っ叩かれる所迄、克明に想像出来て随分一行に馴染んで来たと実感が湧くように思われ、思うだけで錯覚な事は明白だ。錯覚だろうが今は兎も角例の後ろ姿を見付け、引っ掴んで乙破千代をあやす手伝いを頼みたい。癇性な甲高い悲鳴は耳朶を震え上がらせ、奥の鼓膜を破り兼ねない程鋭く、いつ迄も止まず、軈て歯の軋る音や硝子を爪で引っ掻くような総毛立つ声に変わり胴震いした私はママの方を見遣った。ママはもっと可哀想な恰好だった。
名無しの草の参差と繁茂する足下に見える筈の白い塊が無くて先刻の進行方向を向くと、果たして白い塊を認め、硬い茎の植物を絡め取った体毛に覆われる柔らかな腹を星の瞬く夜空に向けて引っ繰り返っているらしかった。間抜けな姿に違いなく、矮躯を震わし発する大音声に余程心臓を縮み上がらせびっくりしたのだろう。人間の聴覚と比べれば数段鋭利な聴覚であるママの耳に申し訳ないが、引っ繰り返ったママが心配なので足踏みして準備体操を終えた自慢の鈍足で駆け付け、膝を突き体毛に埋もれる顔を覗き込む。ママは目を繁く瞬かせ頼りなげに鳴いて起き上がった。人間の小娘より強靭な心臓を有しているママは、又一鳴き、先程と同様に泣き叫ぶ乙破千代の爆音の中から導きを受けて道無き道を行くらしい。
素早く立ち上がって追い掛けた。
歩調が速まるに連れ乙破千代の絶叫も止み、すると進行方向の真っ黒の空の一部に赤色を見付ける。黒色を塗り潰す赤色、だが黒色は今の時刻に相応しい色で、打ち消す事は容易でない。赤色に本来の黒色の透ける夜空の広がる見当が賑々しい。
緩慢に歩を進め、夜空を目指して行く。夜空を貫く丘越しに不穏な空の色を見詰めて自然と口が開き、前世でも現代でも両親かハオが居れば間抜け面とか、はしたないとか、何か文句を垂れそうな阿呆面だった。
丘を登って絶巓で夜空を仰ぎ、目を剥いて駆け下りて、ママの先導で目的の人物の影を追うが中々追い付かないのか、人の気配も無かった。邪魔な岩を半周して向うへ走り、走る事に夢中の余り足下が疎かになって石に蹴躓き素っ転んだ。幸い乙破千代は胸に抱え込むのが間に合い無事だが、私の膝小僧が真っ赤になっている。痛みは無い。感じないのだろうが、今は構わない。
座り込んで何処へ行こうとママの顔を一瞥した時、薄い赤色の夜空を背景に粛々とこちらに向かって歩くハオとラキストさんを見付けた。ハオは知らないが、ラキストさんは私達に気付いていない。耳を攲て二人の足音を拾い、駆け寄ろうと一寸腰を浮かしかけ、二人の会話が耳に入って来た。
「馬鹿だねえ、皆。なあんにも変わらない」とハオは力無く言って外套に覆われる肩を竦め、片手で前髪を掻き上げながら深く嘆息した。
「左様に御座いますか。致し方無い事なのやもしれません」とラキストさんは言い、魔法使いの三角帽子の広い鍔を摘み少し下げる。
ハオは後方を一顧だにせず、恐らく進路に蹲る私達に気付きかず、聞かせる相手を一人と思い胸襟を開いて言った。
「ちっちぇえな、皆。ご覧よ、他の馬鹿共と大差無い、一寸人を上回る力があれば当たり前に揮い、其処いらの馬鹿共と変わらない事を当然の顔でやる」
「はい」
「解っているのかいないのか。歩同様、ダマヤジなんか潔く魂狩りを断るのに、他の奴らは馬鹿な大衆と変わらない事をする」
「はい」
「嫌なら嫌って、はっきり言っても良いのにさ、皆、何を遠慮しているのだか。嫌がったくらいで殺さないよ。僕が自ら赴けば、幾らだって狩れるし、散歩にもなるから丁度良い。嫌なら言っても良いのに」
「はい」
「喜んでやるならやるで良いさ。でも、そんな奴に限って当然の正義を揮うつもりでやる。正義じゃない。只の我が儘、歩の言う子供の癇癪と変わらない。残念な事に、力を揮う者は、その己の勝手に気付かない」
「はい」
「解ってやるなら良い。一度始めれば終わる迄下りる事は不可能だ、貫く覚悟を以て力を揮うなら、それによる他者の恨み辛み憎しみを鼻で笑うくらい出来なきゃ、馬鹿共と何も変わらない。自分の力を上回る奴が現れて、自分の身が危うくなり、自分の意志を打ち砕かんとした時、今迄自分がやって来た事と同じ事をされるだけで、やっぱりとか、理不尽だとか、巫山戯るなとか、そう文句を垂れる」
「はい」
「どっちもどっち、何と馬鹿な事。大多数の賛同を得られぬ事をやるんだ、誰かに悪だと罵られる事をやるんだ、それを反対の事をされて、自分の行為を棚に上げて他者を罵り理不尽と叫ぶ」
「はい」
「ああ、そうさ。そうだよ」
「はい?」
「君の言う通りさ、これは僕の癇癪、千年積もり積もった憎しみ、だから成し遂げる。僕は始めた、千年前に。もう後戻りは出来ない、する気も無い、君が幾ら解ろうったって、もう遅い、僕に止まる気は無い」
「……はい」
ハオは立ち止まり、漸く後方の喧噪を顧みて、やはり直感だけれど私達に気付く様子も無くラキストさんに向けて言った。
「行こうか。今日中に帰らないと、又二人が攫われるかも」
「はい」
二人の会話が途絶え足音の断続する見当を見遣り大小の人影の行方を目で追い、胸に抱き締める黒い矮躯に回す腕の力を抜き、常の通り横抱きにし、揺らして眠りを誘いつつ目線を二人の方に戻す。小さい人影は振り向く素振りもなく、大きい人影も付き従って歩くだけで、私達の居る陰を辿る道を逸れて幕屋のある方向─私達の歩いて来た方向─に歩いて行った。夜の暗闇を吸い上げ漆黒に染まった長髪の歩調に合わせて左右に揺れる様は、現代の三匹の愛猫のお気に入りの猫じゃらしに似て、末の愛猫が居れば爪を出し、尖端に引っ掛け噛み付いて遊ぶだろう。野生以外の動物の本能をもくすぐる動きを、彼の美艶な頭髪は表し、陰に座り込む人間の小娘の好奇心に刺激を与える。
ママも乙破千代も何も言わない、常は色々催促して人様を急かすくせに、欲しい時に一人と一頭は億劫がって気勢を削がんと知らぬ存ぜぬを押し通す。だから内心思案投げ首、座り込む私は駆け寄って乙破千代を突き出して抱いてご覧と無責任に慰めの言葉を掛けるのか、座り込んだ儘夜を明かしてママの帰巣本能を頼りに幕屋へ帰るか、どちらも最後は碌な事にならない気がしてならない。
でも、と思う。それでも乙破千代可愛さに彼を探し求め歩いて来た事実は変わらず、歩いて来た距離も自身の足で踏破せぬ限り縮まらない、いつ迄も陰に隠れては居られない。私は目的を思い出して立ち上がり、一足二足とゆっくり踏み出した。
空の赤色は面積を広げ頭上に被さるようだが運良く手前で黒色が勝り、直に黒色が群青色に変わり、地平線の白む空を目指し歩む後ろ姿が物悲しく、哀愁漂うそれに自身の郷愁を重ねて同情する。いつぞやの山田さんの言葉を想起し、そうねと同意の頷きを今返して下がる口角に力を入れ、口を真一文字に引き結び、笑顔も泣き顔も堪えて駆け出した。偉大な力のある分、相応の弊害も伴い、時に力を凌駕する災難に見舞われ多くを失う事もあるかと思われ、現実に千年前の彼は奪われ苦しんだと言う。
解るな、と私は前世を重ねて思う。失った物は何だったか忘れたが、苦しんだ事は思い出した。記憶の夢を彷徨い矯めつ眇めつ眺めて言える事、私は前世の母曰く「あの子」と言う僥倖に巡り合い、幸福を堪能して最期を迎えた、或いは幸福の最中に迎えた。
人って、やっぱり出逢いだね。内心呟き、得心がいって一人満足げに頷いた。
ママか私の喧しい足音に振り向いた二人が目を瞬かせ、一様に口を開けて阿呆面で私達を見詰める。ハオは私達に気付いていなかったようだ。
少し大きくなって重みの増した乙破千代を片腕で抱き締め、空いた片手をハオの外套の下の腕目掛けて突き出し、不意の出来事に直立不動の二人の掣肘を受ける事無く腕を鷲掴み引っ張り出して自分の顔を近付ける。ハオも、普段なら踏ん張る所だが、踏鞴を踏んで額と額がぶつかる程近付いて目を見開いた。
「ハオ、聞け。恨み辛み憎しみ苦しみ悲しみ痛みも知らないけれど、生きて産まれて死にかけて、君に拾われ、君と言う大事な人に巡り逢えて嬉しいと、乙破千代は思っている」
最後に腕を放し、掌を目一杯広げて細い背中を力任せにぶっ叩いてやった。
「ハオ、乙破千代はね、君の事が大好きだって」
元気を出せ。君は「この子」と言う僥倖な存在に巡り逢えたのだ。
原作で、そうでなかったとしても、君は、大事な人に出逢えたんだよ。
「そうさ。私も、君が嫌いじゃない。乙破千代もママも私も、ラキストさんも、君を好きだよ」
それは「出逢い」ではないだろうか。
産まれて生きて、だから死ぬ。
死ぬ事は、霊の見えない人にとって、その人との永遠の別れ(?)
シャーマンはずるいじゃないか、と思ったりします。
だって、死んだ人と話せるなんて、見えない人が望んで手に入れられる能力ではありませんよ。