半晴の空の下、愛娘のアユムと母の義務を取り戻させてくれたオハチヨと出逢って三度目の雨季、最初の雨季は出逢いの季節、二度目の雨季は嬰児の成長の喜びを分かち合う季節、三度目の雨季は酷く穏やかな季節だった。
当日、夜来の雨の止んだ空の中途半端な暗色の雲を見上げてアユムは独歩の練習に励むオハチヨを迎えに洞窟の垂れ幕を捲って入り、尻餅を搗いた時の衝撃を緩和する為に鼻面を小振りの尻の真後ろに狙い定め控える彼女を認めて笑った。彼女も顔を小振りの尻から逸らし朝の挨拶を済ませ、姉貴分のアユムの許に歩み寄るオハチヨの尻を追い掛けた。本来産まれて一年を巡った頃殆ど独歩の出来ていたオハチヨだけれど、一度皆が寝静まった頃に起き出し、洞窟を這い出て火の燻る焚き火に片手を突っ込む惨事を惹起し大人達の子育ての不安を煽った。以来、姉貴分のアユムは一人歩きをさせたがらず、世話役擬きの男の子が宥め賺しても嫌がって、結局世話役擬きの中でも一等仲の良い男が出て来て男の子同様に宥め賺し漸く落ち着いた。
一人落ち着くと一人落ち着かない。世話役擬きの男と同じ手段を用いてアユムを宥められなかった男の子の方は不満げな顔付きで、一人歩きを禁じられ退屈を極めるオハチヨの見張りを務める彼女の許に遣って来て、君の娘は性格が悪くないかい、と散々不平を鳴らして溜息を吐いた。
オハチヨが最近羽織り始めた世話役擬きの男の子の着込む衣装に似た外套の裾を銜え独歩を制し、彼女は目玉を動かし男の子の不満顔を見遣った。一見頑是無い男の子は、曰く中身は体が朽ち果てる程の永い年月を経て捻くれた寂しがり屋と知っている。知る機会なぞ幾らでもあり、又知って理解を深めようと懊悩する愛娘が傍らに居る為、彼女も世話役擬きの男の子の事が気に掛かって愛娘が面倒を見てやれぬ時等、愛娘に代わって遠巻きに見守った。無益な虚勢を張って踏ん反り返る世話役擬きの男の子を愛娘は内心大層心配しているようで、何故心配するかと言うと、やはりいつかの複雑な情念の籠もった涙が素因と思われる。愛娘は言う、理解する努力を続けるなら易々と諍いを起こす真似はない、理解の範疇を超越し、自力で克服せねば諍いが勃発し、だから解ろうとしない事が最初の争いの原因で、解ろうとする努力を怠った時一行の厭う差別や迫害に繋がる。彼女は愛娘の言葉の半ば以上を理解したが、何故そう思い至ったか、思考の背景を知る事が出来なかった。
きっと、アユムだって解って欲しいだろうに。
彼女の目線の先の男の子はオハチヨを見詰めて笑っている。しかし分厚い面の皮の下で、未だに不平不満を並べ立てる事は容易に想像出来た。中身の年代なぞ関係無く、遥か目下の女の子に将来を案ぜられる何処か頼りない風の男の子は、皆で迎える三度目の雨季の空を捲れた垂れ幕の隙間から眺め、オハチヨとその行動に掣肘を加え見張る彼女を促し表に出た。
渋色の外套の襟を銜え、猫の子宜しく彼女の口元でぶら下がるオハチヨが甲高い声で笑う。アユムも垂れ幕の向うで彼女の行動を見て、落ちないでね、とオハチヨの方に言付け、垂れ幕を一番上迄捲った。
世話役擬きの男の子が愛娘に声を掛ける。双方オハチヨの健やかな成長を願う者同士、又一方は、これは彼女しか知らない事だけれど、男の子の方はアユムをからかう事が終生の楽しみと言う程、彼女の愛娘のアユムに対し心を許しているようだ。相手の与り知らぬ所で一方的和解の方向に進み出したのは最初の雨季を大分過ぎ、色々大騒動もあって身辺の空気が刺々しかった頃、世話役擬きの仲の良い男と福々しいと言う言葉で足りない大男の心胆を寒からしめた二度目の大脱走劇の果ての男の子を引っ捕まえて豪語した件が効いたと思われる。爾来男の子の方は、元々その気が見られたが一件を終えてから態度の方があからさまに軟化した。これをアユムは、後に冷静になった折、大層不気味がって男の子の側仕えの男に訴えたりしたが、事が解決する日は今日に至る迄無かった。
オハチヨを地面に戻して尻餅を搗く体勢から一転、すっくと立ち上がり確かな足取りでアユムの許に歩み寄って両手を伸ばし、姉貴分の名前を呼び付けにして抱擁を強請った。この名前の呼び方は姉貴分のアユムの教育の影響を強く受け、世話役擬きの男の子以外の者達の呼び方を年齢に拘らず呼び捨て、只一人、男の子に敬称を付けて呼んだ。故に子育てに挺身した姉貴分すら呼び付ける。世話役や世話役擬きの誰も出来ないお乳を与え、お互い言葉の通じ難い状態に陥るも以心伝心の関係で信頼と愛情を育んだ仲の彼女の事はアユムや男の子の呼ぶ儘に呼び、しんから実母を慕う子供のように接するから可愛らしい。全て姉貴分の教育の賜物である。
足下に遣って来たオハチヨを抱き上げたアユムは垂れ幕の外側に突っ立つ彼女に向かって手招きし、彼女も言葉の通じぬなりに心得たもので軽い足取りで小走りに駆け寄り、鼻面を上向きにして狭い額を撫ぜようと伸ばされる細い五本の小枝を広げた前足を受け止めた。湿った鼻の粘液を鼻梁や額に塗りたくられ、放って置いても乾くから別段気にする風も無い彼女は、自身の目線の上に居るオハチヨの真っ黒の尻を見上げて顔を綻ばせ、渋色の外套の捲れたそこを鼻面で押し上げた。
突然彼女が首を伸ばして胸に抱くオハチヨを押し上げるから愛娘は驚き、少し丸まった背筋を真っ直ぐ直して、外套の布の足りない所を片手で覆った。嗚呼、びっくりした、と愛娘は言った。その言葉に傍に立つ世話役擬きの男の子が破顔するなり伸びた背中を叩いて朝食の支度を整え終えた焚き火の方へ追い遣った。
朝食が済んで何をする事も無くアユムもオハチヨも彼女も揃って土地の移動の度に探し求めた安息の地で悠々閑々と一日を過ごし、雨季に入り屋外を逍遥する事が儘ならなくなると、安息の地の近辺に雨風を凌げる草木を見付け御輿を据えて日がな一日子守唄を歌うような毎日が続いた。
従前と変わらず安息の地に腰を下ろし、半晴の空を仰いでいたが、昼が近付くに連れ暗色の雲は面積を増して直に雨が降り出した。彼女の体毛が雨滴を弾くのに対し頭部に局限した体毛を持つアユムとオハチヨは雨の当たらない木陰に身を寄せ、面白みの無い空模様を見上げ、淅瀝と降り頻る雨の中の寂寞とした荒野の風景を観覧して互いの体温を分け合った。彼女は我が子の固まる木陰の外、雨滴の直撃する場所に寝転がって居て体毛は泥に塗れ、弾かれた雨滴が泥と混じって毛と毛の間隙を縫って奥まで浸透し、しかし今更雨を避けるのも億劫で、彼女はアユムに促され胴体を持ち上げようか悩む間にすっかり濡れてしまった。
愛娘に言われて木陰に移動した後、彼女は二人を見詰めて、少し納まったら帰ろうか、と言った。アユムに通じる事は無いがオハチヨが解るので提案し、オハチヨの拙い通訳もありアユムも了解した。帰ったらハオ様とお手玉をしよう、とアユムが言い、半年前に世話役擬きの仲の良い男の人と暇潰しに作ったオハチヨの拳大の布製の玉を思い出した。中に豆が入っていて上に投げて落ちて来た物を又投げ上げて、これを繰り返す遊びが近頃のオハチヨのお気に入りだった。歌に合わせて玉を投げるのだけれど、歌は投げる者が歌いながら玉を投げ上げる事が一般的らしいが、愛娘達の場合は世話役擬きの男の子の歌に合わして二人で投げる。一方が玉を取り落とす迄の時間を競ったりもして、当然オハチヨは上手く投げられないから男の子の膝の上で遊び、時々男の子に手伝ってもらって手練のアユムに食らい付く。時にオハチヨの座る位置が変わり男の子とオハチヨが競う事もある。大抵男の子が取り落として勝負を終わらせ、勘の良い子で、その行為が故意であると解る所為で忽ち機嫌を悪くする。止めなさいよ、とアユムが男の子を窘め、オハチヨを宥めて事は解決し、男の子の子守唄で二人が仲直りをして丸く納まる。
矢庭に愛娘の立ち上げる気配を感じ、瞑っていた目を開けると、案の定愛娘は立ち上がって雨の様子を窺い今だと言って雨中の荒野に駆け出した。起伏の乏しい平坦な大地を駆け抜け世話役擬きの洞窟の垂れ幕の前に着いて減速し、今に消えそうな焚き火を囲む世話役擬き達を尻目に垂れ幕を潜って中に踏み入り、真ん中に堂々腰を据える男の子を認めて転がっているお手玉を取って見せた。そうして子供達は遊びに耽り、時は過ぎて地平線の彼方に暮色が垂れ込める頃、夕食を認めたアユムとオハチヨは男の子に呼ばれて洞窟の隅に居た。曰く、今夜二人の世話役擬きの男を置いていくから、子供の二人は夜更かしせずに寝なさい。世話役擬きの男の子は外出の予定があるらしかった。
時間が加速し夜の帳が下りる切って四辺の闇が濃くなり目前の他者の顔色の判別が困難な程の真っ暗闇の中、果たして世話役擬き達の大勢が何処かに出掛け、残った子供と二人の男が洞窟に引っ込んだ。彼女も続いて洞窟の垂れ幕を潜るが今夜は此処で寝ない。子供達の夕食の最中、親友に声を掛けられ近況を報告し合うと言われ、不躾を承知だったが、年単位でご無沙汰していた親友の誘いなので間髪を容れず快諾した。オハチヨに言伝を頼んである為、子供の就寝を見届け洞窟を出て、大分離れた所の棒杭を目指し疾走する。親友の声が聞こえて棒杭を飛び越えた。
久し振りの親友は体毛の飾りが増え、腹の毛が地面を擦る程伸びて、世話役達に刈ってもらうのを待っていた。
これ以降は多くを語らない。彼女は親友と我が子の成長について語らい、親友は彼女の我が子を亡くした痛みを案じていたが、世話役擬きの子供を世話する事で心の傷を癒した話を聞いて安堵した。彼女の世話役擬きの子供達─最早我が子、愛娘と言って差し支え無い─の成長の過程に耳を澄ます親友と親友の子供達の成長物語を静聴する彼女は、真っ暗闇の向うに潜む何かの気配に気付きはっとした。
周囲に蹲る同胞を叩き起こして、目覚めた同胞も向うの気配に殺気立ち雄叫びを上げ、世話役達の洞窟を揺るがす大音声に向うの何かが警戒を強めた。世話役達の洞窟が騒がしくなり出した瞬間、彼女の隣に立つ親友が何かに蹴倒され吹っ飛び、絶叫を轟かして息絶えた。すると身辺の剣呑な気配が自身を取り巻くのを確と感じて、彼女は遠くの洞窟の隅に眠る筈の我が子を想った。こいつらがあっちへ行かないと良い、明日の朝、子供達の笑顔を見て、子供達の背中を見て、死んだ我が子よりうんと長生きして、オハチヨは大きくなった手でお手玉をして、アユムはもう少し男の子の扱いを覚えて、二人仲良く生き抜いて欲しい。
視界が引っ繰り返って横倒しになったと気付く前に彼女の喉笛に獰悪な牙が突き刺さった。
MAMAはどんな事故で死んだんでしょうか。
その時のオパチョの年齢は解りませんが、いっきに飛びます。
主人公とハオ様? あの調子でじりじり近付いたんです。多分きっと恐らく。
過程は一応考えられるだけ考えましたが、書き切る気力の維持に苦労する事必至の為、断念します。