生者必滅、会者定離   作:赤茄子

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 最もやってはいけない、途中で一人称に戻しました。


第三十四話:

 血腥い陰鬱な空気の停滞する遊牧地に、果たして二日後世話役擬きの男の子と随行者が帰還した。

 居残った二人の男と頭数に入っていないアユムと使命の異なり健やかな成長を望まれ長期外出を免除されたオハチヨは、外出前と余りに違う雰囲気に愕然と立ち尽くす一行の顔を見て、一昨日の凄惨な出来事を語る気になれず口を噤んだ。誰かの洟を啜る音を契機に世話役擬きの男の子が蹲るアユムとオハチヨの許に駆け寄って、俯き加減の暗い顔を覗き込み、見られる事を嫌がったアユムが目線を逸らし、その先の赤黒い塊に目を留めて又啜り泣いた。

 二人の仕草に世話役擬きの男の子は全てを諒解した。それは男の子自身の持つ、忌む可き能力の仕業に他ならない。他者の心を覗き見るが故に油断すると内へ内へと深入りして同情でも共感でもなく、対象の人物の表層も深層の心理も無関係に自身に伝わり、まるで自分自身の事のように感じ取ってしまう。これを気の遠くなる程の時間を掛けて克服し、少なくとも我が事のように思い込む事は無くなったが気を抜くと二人の当時の感情に呑まれて身動きが取れなくなる。裏を返せばそれだけ男の子の方が二人を気に掛けている証左であるが、恐らく当人の気付く機会はうんと後に思われる。

 血溜まりの方向を見詰める横顔にべっとり付いた赤黒い物は乾燥した彼女の血潮で、世話役擬きの仲の良い男の一方の前足が握る布切れを見るに、拭おうとして拒まれたらしかった。男の子は態々前足を覆う分厚い袋を外して頬に貼り付く血餅を剥がし、アユムの胸元に顔を埋め男の子を振り返りもしないオハチヨの頭部に剥がした黒色の欠片が被る前に払い、二人の垂れた頭を順番に撫で回した。幼い順に頭を撫ぜ、縮れ毛の頭から手を放すと、袋の中で蒸れて湿った手掌は真っ赤になっていた。

 

 ──生者必滅、会者定離──

 

 私は後悔の念に苛まれ、しかし後悔する事も浅ましく思われて、幕屋の中にオパチョと一緒に引っ込み、垂れ幕の向うの微かな会話を聞き取って現状を再認識すると観念した。羊のママは死んだ。

 胸元の丸い頭を見下ろして赤い手で頻りに撫ぜ、時折洟を啜る音に現代の祖母と母の言葉を思い出す。風邪を引いた自身の臥床する敷蒲団の横に座るどちらかが、洟を啜るのをお止め、お耳を悪くする、と言って箱入りの塵紙を数枚引っ張り出して手に押し付け洟を擤めと、妙に胸の苦しい所為で寝不足の私に言い付けた。七面倒臭いが断ると後が怖い。不承不承洟を擤んで使用済みの塵紙を遠くの屑籠に投げ、毎度入るのだけれど、お行儀が悪いと言われ、主に母に頭を小突かれた。以上の現代の思い出が脳裏に浮かび、顎の下でずるずる鳴る鼻の具合が気になって背中を摩り一寸黒い顔を上向かせ、健康であれば透明の筈の鼻水に赤色を認めて驚駭した。泣いて洟を啜り過ぎて鼻血まで出たらしい。

 貫頭衣擬きの裾を捲り親指大の黒い鼻の下に宛てがい、汚い布を鼻の穴に突っ込むか逡巡し、今更衛生問題を持ち出しても詮無いが止血より先に衛生面を考慮して鼻の穴の前を覆うだけに止め、力尽きて愚図るのが精一杯に見られる矮躯を抱いて幕屋の表に出た。丁度垂れ幕を撥ねる寸前の山田さんと鉢合わせ、オパチョの鼻血の件を伝え、直ぐ上の人即ちハオに伝わり、彼も飛んで来た。量が多い訳でもない為、着物や敷物に使う布より清潔な薄い生地の手拭いを持って来て、出処の判然しない物を使うのは一瞬躊躇するが、他の布も紙も無いから止血に使った。

 昔、と言っても前世か現代か、記憶が混雑気味で取捨選択に苦労が絶えないが見付けた。幼稚園児の時分に何か気に食わない事が起きて迎えに来た祖母に抱かれて家路に就き、しかし真っ直ぐ帰るのも気に食わない我が儘放題の私は祖母に帰路の途上で駄菓子屋を見掛け、寄り道をせがみ、聞き入れた祖母の肩に鼻面を押し付け啜り泣いた。確か祖母が金平糖を買い、他に何か食べたいか尋ね、答える気力の無かった私は黙って肩口から顔を上げて白熱電球の切れかかった薄暗い店内を見回し、出入り口の方を見た時、店のお上さんが目を剥き悲鳴染みた声で言った。あれ、大変、鼻血出てるよ、と箱入りの塵紙から十枚くらい紙を引っ張り出し祖母に押し付けた。お上さんの言葉に驚いたのは祖母は勿論、当人たる私も驚き、目線を下ろし年齢を思わせる派手に見えて存外地味な柄の上着の肩口が真っ赤になって眩暈がした。

 鼻血を自覚すると急に自分が重病人のように思われて全身が重たくなるが、結局その時は泣いて洟を啜り過ぎた事が原因の自業自得の鼻血だった。自分でそう思っても迎えに来て抱いて徒歩で家路を急ぐ祖母は、孫の我が儘を聞いて駄菓子屋に寄って、それで孫は泣き止むどころか鼻血まで出す始末だからご期待に添えず申し訳ない。祖母も、あらあら、と言って受け取った塵紙を私の鼻に詰め、買った袋詰めの金平糖と何故かお上さんがくれた焼き芋を持って帰宅した。家の畳敷きの和室の真ん中の座蒲団に座った頃にはすっかり止まっていたけれど、驚きの余り引っ込んだ涙がぶり返し、又泣き出して、幾らあやしても泣き止まぬ孫に困じ果てた祖母は焼き芋を食べ始め、匂いに釣られ泣き顔の孫も一緒に芋を頬張った。涙は焼き芋の魔力で全く引っ込んだ。

 さて、個人の鼻血の物語は止してオパチョの話に戻る。

 戻ると言っても何も無い。語る可き内容豊かな話ではない為、先に進む為に結果を話す。その方が何事も簡捷に済んで宜しい。最後は鼻血も止まり、鬱気味のオパチョの我が儘によってその晩ハオとオパチョと私の三人仲良く川の字で寝る事になった。川の字の真ん中の縦棒は、左右の縦棒に比べ随分小さいから、正確に川の字と言えるか、判断は現場を見た人に任す。

 下記に綴る会話はその川の字の真ん中の点を挟んだ向かいの相手との暇潰しと確認を兼ねたものだ。

「聞くけれど、仮に間に合ったとして、君は治せたかい?」

「まさか」と彼は即答する。

 私は想定の範囲内の返答にそうねと頷き、又口を開いた。心はまだ動揺が治まらず、口を動かさないと嗚咽が漏れそうだった。

「人間と羊は、体の造りが違うものね」

「うん。だから、オパチョをがっかりさせる結果は変わらない」

「オパチョは、泣いているし、死を理解しているかしら」

「しているさ。でも、肉体から得られる温もりは、この年の子にとって掛替えの無い愛情の塊だ」

「君が四六時中抱いていれば良い」

「歩の方が効果的。正直、男親と女親だったら、やっぱり女親の方を選ぶ。本能的にね」

 言って、ハオは向かいの私の手を探る様子も無く素早く掴んでオパチョの腹の上に置いた。別段手を引っ込める理由も無いから律動的に軽く叩き、緩やかに上下する掛蒲団の下の丸い腹を思い浮かべて口元が歪むのを堪えた。

「泣けば」とハオは言った。

「泣いて死んだ者が生き返る訳じゃない、とか、シャーマンの君が言いそうだから」と私は後に思えば酷い暴言を言い放った。

 向かいの彼の分厚い手袋を外した手が虚空を彷徨い、着地点を定めて黒い額に触れ、手掌でなく四指の腹で狭い額を慰撫して言った。

「過去を思い返し感傷に浸る、それは非建設的だけれど、ある意味生きる原動力になる。死者を偲ぶ事は悪くない。僕だってあるもの」

 と聞いた途端涙が溢れ、可笑しな事を嘯く相手を心中で罵倒しつつ嗚咽を噛み殺す。彼も原作の中で泣いた事があった。誰だって身内の死を悼むし、涙を流して心に魔を涵養する。

「私はね、あのね、一応姉と言う設定で接しているから、姉が泣いてちゃ締まらないだろう」

「そう。確かに縋る相手が、誰か縋る相手を求めていては傷の舐め合いで、ちっとも解決にならない」

「だから、君が抱いてあげて」

「二人揃ってどん底まで落ち込むなあ」

 お前の母親が死んだ時のお前の心境と大差無い、と暴言を吐くと彼はあっさり肯定した。

 抵抗無く意見に同意されて困惑した。しかし言ってから考え直し、私は言ったばかりの暴言を撤回する為に半身を起こし川の字の点の向うのハオを見遣った。

「今のは悪かった、御免。私もオパチョも縋る相手が居る。今のは、本当に御免」

「僕がそんなちっちぇえ奴に見えるかい」

 ちっちぇえ野郎だから人類を滅ぼさんと千年計画を立案したのだろう。

「揚げ足を取られた気分だ」とハオは言うなり上体を起こすと垂れ幕の見当を見遣った。

 私も倣って幕屋唯一の出入り口を見るが、其処に夜の暗闇の澱を見るだけで取り立てて興味を引く物は無く思われた。これが意識の覚醒したオパチョなら違っただろう。私の心中を聞き取ったハオは溜息混じりに非霊能力者を非難し、白い人差し指で垂れ幕を示した。まるで試されるようで甚だ業腹だが、目を凝らし垂れ幕を見詰め、やはり何も見当たらず点の向うの自称未来王に解答を懇請した。

 やおら立ち上がったハオは垂れ幕の畳一畳分手前で止まり、虚空に手を振り、胸元辺りに片手を水平に浮かして言った。

「ママだよ」

 当然だけれど、私は見えない。震える両手で顔面を覆い、悔しくて、悔しくて指の這う頬や額に爪を立てて、声を押し殺して再度咽び泣いた。




 土下座したい。いえ、します。
 大変申し訳ありません。
 三人称は限界でした。申し訳ありません。

 じゃんじゃん進みます。
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