真正面の中身を髣髴させる顔付きの外見同年代と思われぬその迫力に息を呑み、言葉を反芻して、漸く誰に言葉を向けたか察した。子供一人分の木陰の端から食み出す四肢の足底を地面に付ける事無く横たわった儘、非現実的であり、又彼以外の者が言えば一笑に付して以降話相手すら御免蒙りたい程の嫌悪感を抱いたい違いない提案を聞く羊のママの横面を虚空に描き、口を閉ざし一人と見えぬ一頭の会話に耳を澄ました。布越しの鳩尾に感じる呼吸と熱に乱れは無く、蹲るオパチョが眠っているか判然しないが、仮に意識が覚醒していても双方の会話に容喙する気は無いらしかった。折り畳んだ手足の先端を重ね、毬の如く丸く小さくなって、背後の大好きな野郎を見なければ養い親のママの顔も見ない。周囲の声に一切聞く耳を持たないで、只管人の急所で息を殺している。
木陰を作る樹木の幹に背骨を押し付け軋る音に痛みを覚えて間を取り、胸の下の矮躯が胃を圧して、無理矢理詰め込んだ食事が戻って来る違和感に冷汗をかいた。手元の葉陰に顔を寄せて吐き気を遣り過ごし、一時去った胸の違和感を払拭せんと喉元から胸の中央にかけて撫ぜ、急所の真っ黒の毬を抱えて左見右見、透明のママの居る空間とハオの顔を交互に見て、何か言って場の剣呑な雰囲気を転換しようと話題を探し、多分解っているハオに目顔で制され断念した。千年間同じ意識を永らえた因循姑息な老爺か将又千年間同じ意識を永らえた癇癪持ちの子供か、どちらも彼の代名詞と言って相違無い表現と思われるが、糞爺か糞餓鬼か知らない又どちらとも取れる顔で背中を丸めてママを見ている。暗色の双眸が向けられる方向に私が目を遣っても何もない、その才能を持つ事は敵わない。
やおら立ったハオは一足二足歩み寄り、子供一人分の木陰に半身を捻じ込み片手を幹に突いて雪と無縁の異国に珍しい冷気を孕んだ風の吹く空間に体を向け、つまり私達の方に背を向け片膝を立てた体勢で改めて腰を落ち着けた。幹に突く白い砂に塗れた手袋の先の露出した指先の爪を汚す黒い粒が砂利の摩擦に負けず皮膚に貼り付き未だ彼の指を汚して離れない。後頭部は幹と接していないから、私の座る位置と姿勢で彼の指が目に付いたのは偶然で、先刻人様の脚を引っ掻いた時の血塊がまだ剥がれていないらしく、羊の乾いた血液の赤色の欠片も無い黒一色の塊を、目前の背中を覆う長髪と見比べて顔を顰めた。視界が異様に暗く思われて、身辺の木陰の向うの曇天の下に広がる荒野の日光の加減と比較する。鉛色の分厚い雲越しの光と更に樹木の枝葉を通した光では、当然だが届く光量に違いがある。その薄暗さに身の周りを圧迫する子供半人分の物体を付け加えて目先は一層暗くなった。
「僕の巫術を以てすれば、君の霊格を上げて精霊にしてやれる。そうすれば、オパチョとも、歩とも居られる。但し、歩に霊を見る才は無いから、本当にこの世に留まって、知覚される事無く傍に居られるだけだ」
素通りする視線を、君は耐えねばならない。
ハオは言って幹に半身を凭せ、葉陰に掛かる肩口の垂れた前髪を払って首を仰け反るように後方を顧み、細い背中を見詰める私と目が合い鼻で深く息を吐く。樹木の縦に刻まれた樹皮を、その気は無いと思われるが剥いで行く爪と薄い肉の境目に白い砂が入り半透明の爪越しに黒い汚れが目立って見えた。
「どうする」と居丈高な物言いのハオは目線をママに戻して腕組みをする。器用に木に凭れて、自分の先の景色を見せない。
曇天の鉛色を透かして作る木陰の薄闇に埋没する射干玉の頭髪の色が、境の模糊たる陰に輪郭を溶かし込み、人の形を崩して目前の人物を囲うらしい。黒色は濃さを増し、黄色い肌を蝕んで向うの地平線上の鉛色と繋がる。彼の羽織る渋色の外套に落ちる陰も又色濃い黒に呑まれ、黒は向うの鉛色と連結し、まるで目前の人物を大自然に取り込むように朦朧と物の輪郭が見え出して、爪先が金氷になり呼気に色が付いて視界の四隅に紗が掛かったような不明瞭な部分を認めた。
仰天して目を瞬くと視界が戻った。四隅の薄絹が消え葉陰の掛かるオパチョの丸い頭の縮れ毛の奥の陰が色を深め、ふと首を巡らし周囲の様子を確かめ納得した気になって目線を細い背中に転じ、少し尻を浮かし固まった肩を上げ肘を伸ばし指を広げ、長い髪の先を摘み相手の意識の向きを変える為引っ張った。果たして相手は振り向き、しかし関心は長く続かず直ぐ胴体の臍の向く方に顔を戻してしまう。別段二度三度と素っ気無い態度は今更だから構わないが、相手の無視も気にならないが、再度引っ張ってこちらを向かせ言った。無理矢理この世に居てもらうなぞ忍びない、往く可き場所へ案内してやってくれ、と懇願するも、彼はすげなく目線を逸らしママに詰め寄った。
半身を幹から離し、勢いの余り払った前髪が払う前の鬱陶しかった位置に垂れて、切れば伸びる迄の間煩わしさも軽減されるだろうに、果然鬱陶しげに髪を払い皮脂に絡まる砂粒がはらはら落ちた。
「魂には故郷がある。地球(ほし)の魂は、悉皆其処から生まれ、其処に還る。精霊も例外ではないが、一介の雑霊雑鬼より力が有るし、生前の意識は昇華されて己の存在を確固たるものにしてくれる」と言って腕を組み直すと樹皮の表層が微かな音を立てて剥がれ落ちる。「君の場合は母性、二人への愛情、君の最も気にするものは一切傷付かない、寧ろ高められ、二人の力になるだろう」
新手の宗教勧誘かと思われ兼ねない程の殺し文句だった。周囲の空気の揺らぎを察する程の鋭敏な感覚を持ち合わせぬ私にも察する事の出来る範囲に居るオパチョの関心が殺し文句に惹かれるのが解った。
それにしてもハオの言葉を鵜呑みにするなら、ママは私達を、腹を痛め産んだ我が子同然に可愛がってくれていた事になる。ママの生前、読心術の使い手のオパチョは例外として、人間の私は羊の心を読み取る事が出来ず、第三の母と慕う事はあっても、当の第三の母の心中を顧みた事が無いと気付いた。人間の私が勝手に前世と現代の母を重ね意気消沈の心身を引き摺り、未知の子育ての不安や他諸々に衰弱した主に精神を弥縫する為手近の羊に役目を押し付けたに過ぎない。時を共に過ごす内、丸で本当の親子の如く団欒する機会が増え、お乳を貰う嬰児は然る事ながら私自身傍らの温もりに安心感を求めた事は弁解の余地も無い事実である。故に今の彼の言葉は、彼の解釈の混じったものだが素直に嬉しい。種族が違えども、私達二人と一頭の間に確かな母子の絆があったのだ。
顔の横に剥がれた樹皮の破片が落ち、頬を掠ってくすぐったい。黒い着物の袖で掻こうか迷い、既に少し体が痒い事も考慮して止め、硬い袖を捲って手の甲で違和感のある箇所を拭った。胴部分と腕を分ける縫い目の袖口に近い所が皮膚を掻き、暫く経って痒くなり、これは同じく血塗れの外套を着た儘のオパチョも感じていた。読心術を知る者以外の者が周囲に居るとめっきり口数の減る子で、当時その場に居た者は事情を知る者ばかりであったが悲しみが上回り気付けず、後刻着替えを済ました私に痒みを訴えた。
幹を離れたハオは一足踏み出し荒野の幕屋の建つ見当に目を据え、口元を動かすようだが声が小さく聞き取れない。私の鳩尾に鼻面を突っ込むオパチョが顔を上げる為に、身を引くのを片腕で手助けしてやり、人の上を降りて蹌踉と立って足踏みをしながらハオの体の脇から向うに顔を覗かせ、ママ、とママを呼んだ。
「オパチョ、アユムといっしょだから、……ぁいじょうぶ」と拙い日本語で言った。
オパチョは何処の言語を真っ先に覚えたかと言うと私の母国語たる日本語である。山田さんとハオ曰く、母親或いは姉代わりの私と意思の疎通を円滑にする為の本能的な選択だそうだ。喜べば良いのに、何故か受け入れ難い。ハオに言うのは止したが山田さんには、ハオが主に日本語を使うからだろうと言い、又相手もそれに首肯していた。
砂粒を浚う風が吹いて四方に張る枝葉の間隙を抜け飄々と音を響かせいつ迄も其処いらに音響が籠もり、耳の底に残って耳鳴りがし出し、頭痛を覚える程の高い耳鳴りから頭蓋骨の中身を揺さぶる低い耳鳴りが心臓の鼓動に合わせて頭の芯を引っ掻き回す。空いた両手で耳を塞ごうかと手を顎の上まで持ち上げた時、不自然な耳鳴りの正体を察した。オパチョはハオの外套の裾を引っ張って、首振り人形宜しく首を左右に振って何か拒んでいるらしかった。
「ハオさま、…いい。オパチョ、がまん」
「これは、ママが決めるんだ。オパチョ、これは、ママがどうしたいか、なんだ」
そう言ってハオは足下の矮躯を抱き上げてママの居る見当を向く。慕う人に抱かれて尚涙目の幼子は、決して首を上下に振る事は無かった。
軈て耳障りな風音が止み、しかし辺りが無音になる気配も無く、と言うが耳鳴りの所為で身辺の音の状況を把握出来ないだけで、人様の感覚器官を脅かす目前の人物の異様な力に冷汗か脂汗か、或いはどちらもか、煩わしい汗が額に滲んで急速に冷えていった。
不意に頭痛の原因が消えた。射干玉の髪を垂らす頭が緩慢に上下し、体ごとこちらを向いてオパチョを突き出す。咄嗟の事で思わず受け取った私は、その重みで彼の行動とママの選択を理解した。ママは選択の余地があった。あの世へ赴かず生者の蔓延る世に留まり子供の安寧を見守る事、生者が生を謳歌する世を去りあの世へ赴き子供の来る日が遥か先である事を祈る事、ママの目前の自称未来王と名乗る彼が凡庸な其処いらを彷徨うだけの霊魂達とは一線を画する僥倖の存在だった。仮令二人の子供の内一人の視線が合う事が無かろうとも全体母親の無念は、羊の彼女をこの世に縛り付ける楔である訳だ。ある種精霊とは怨霊悪霊と言った凄まじい負の念の塊と変わらないのかもしれない。
ママに向き直るハオの揺れる髪の隙間に隠見する寂しい背中を見詰めて、若し、と考える。若し前世の私に今の選択肢が有るなら、どうしたかしら。「あの子」の傍に居たいが為にこの世に留まったか、家族の傍に居たいが為にこの世に留まったか、潔く死出の旅路に就いて振り返る事無くご先祖様の導きの儘に往く可き所に行ったか、所詮仮想でしかない虚しい前世の「若し」を考えて一寸笑いが漏れた。
前世の私に選択肢は無かった。無いから現代の私が居る訳で、有ったら現代の、つまり今の私は居ない上に可愛いオパチョとの出逢いも無い。無いなら無いで別の日々を送る迄だが、今は今で充実感を抱いている。それを踏まえれば前世に選択肢が無かった事は良かったのかもしれない。でも、本当にそうかしら。それは解らない。何故なら「若し」は「若し」であって現実的でない。現実的に考えれば死んだ者に選択肢は無く、死んだ後に出来る事は強く想う事だ。現代の私は前世の記憶があって、つまり前世の私は死んでいて、前世の私の記憶の中に生きる人々は前世の私に溢れんばかりの愛情を注いでくれた。現代の私は現代で死んだ覚えは皆無だが家族に逢えぬ以上家族の側で見れば死んだも同然、前世や現代の親延いては家族に不孝を働く無力な私の出来る事は、即ち想う、願う事だ。不孝の私の願いは只一つ。
何やら怪しげな行為を終えたハオが振り向く。
「オパチョ、ママが持ち霊になるって」
「……ハオさま、ママ、…ありがとう」
何だかんだ言ってママにこの世に居て欲しいオパチョは、体を横に引いて、やはり私の見えぬママを見せる野郎の頼りない笑顔に目を見開き、瞬時に笑顔を取り戻して喜色一色の顔でハオとママに飛び付いた。
ハオがオパチョを抱き上げ、腰を屈めてママと目線を合わすらしい。まあ良い、と私は二人の幸福を詰め込んだ柔和な笑顔に溜息を吐いた。もう宜しい。二人が納得するなら私は何でも構わない。
目を眇めて私を見るハオと目が合った。その時前世と現代に残した家族に伝わらぬ言葉を、異世界の危ない国のど真ん中で呟いた。
──忘れて良いから、幸せで。
幼い頃に誰か死ねば記憶は薄れて消えていく。家族に対し無理難題を承知で、本当は悲しいし寂しいけれど、やっぱり皆が幸せだと良い。私の見えぬママに頬を擦り寄せるオパチョを見て思った。
私は大丈夫。私は見えない。見えないから忘れて、軈て笑える程に心の傷を塞いでいくのだ。
そうして物の輪郭を呑み込む薄闇の向うの鉛色の空から雨季らしい雨が降り出した。
詰め込み過ぎました。
詰め込んだ割に短い話です。
取り敢えず前世と現代の家族へ向けて。
ハオ様の悲劇(?)は、当時信じて縋れる相手が居なかった、との対比(?)の話。