足並み揃えて歩き詰め、ある所で立ち止まり、黒髪の少年の一言を合図に地面が遠ざかる。突然の浮遊感に仰天して足下を見遣れば峨々たる岩場も半透明の足場も無い、透明と表現するのも又違う、しかし人が起立するのに必須の足場は見当たらず一堂は中空に浮いた。悲鳴が喉元迄迫り上がるも唐突に周囲から小さな笑い声が漏れ、腰を抜かした私が尻餅を搗くと同時に笑声が爆発した。腹の底に響く音が澎湃として起こり、目を白黒さして呵々大笑する自身を除く一堂を顧みた。
丸い体の横も縦もご立派な大男が、巨躯に相応しい手を団扇の如く広げて人様の頭を撫で回し、いやに明晰な日本語で、これがハオサマのお力さ、と嘯いた。彼の言うハオサマが何方様か知らないが、ワイヤアクション宜しく空中浮遊の事実に誰も驚かない。当然の顔で笑うから恐らく一堂にとっての日常の範囲内なのだろう。
驚愕の余勢で落としかけた嬰児を抱き直し、首をぐるりと回し少年の様子を窺うと他と一緒になって腹迄抱えて笑っていた。小屋の前で対峙した悍ましい気配を微塵も感じさせぬ、無邪気と言う他無い明るい笑顔だった。途端腹の底に反響していた笑い声も何も消え去り粘っこい憤怒が溢れ出す。今ので腕の中の嬰児を落っことしたらと思うとぞっとする。瀕死の嬰児を絞め殺さないよう慎重に膝の上に置き、一度手離して抱き直すと具合が良くなって多少片腕を自由に動かせ、大変宜しい。再度少年の無垢な笑顔を見て、皮膚の下に内包する邪気に怒気横溢、矢庭に立ち上がって大股一歩で間合いを詰め、肘を真っ直ぐ伸ばす事は敵わず体が横向きになる。仕方なく肘を突き出し相手の鳩尾を狙い澄まして一撃を繰り出した。
後少し、そんな所で細い手が邪魔に入った。にやにや小馬鹿にした笑みを浮かべ少年が見下ろして来る。同じ体勢の維持も疲れるし肘を掴まれそうだから後退し、両腕で嬰児を抱いて鼻を鳴らす。姿勢を正し目線を同じにして改めて少年を睨むと、背後で三人の少女が銘々構えを取って私の背中を狙うらしく、金属音を立てて少し、不快な臭いを漂わせ煙草を吹かした少女が物申す。只、申し訳ないばかりだが仰る言語を理解出来ない。私を愚かと言う勿れ、この世に生を受け十年、小学校中学年で外国語を修得せよと言う方が難題で、前世の記憶があるからと言って義務教育の中身を知悉している訳でも無い。何故なら人は無用の事ばかり憶える。御多分に洩れず自身も人間社会に生きる上で不必要な事ばかり憶えて、肝心の学校の授業の内容は欠落していた。それでも勉学以外の事は遺存し、掘り起こそうと思えば前世の両親の顔貌も鮮明に思い出す事が出来た。
閑話休題。話し出すと豪い方向へ脱線しがちで恐縮だが、これも心は年を食っている証拠だろう。
先の丸い体の大男が日本語を話すので、すっかり日本語を主体にコミュニケーションを取るのかと誤解していた。彼女は日本語を話す気配も無く、全く理解不能の言語で私へ罵詈雑言を浴びせ、左右に立つ年少の少女二人も各々好きな言語で文句を言い立てる内、明るい頭髪の明朗快活そうな少女が掴みかからんと踏み出した。が、透かさず筋骨隆々とした大男に摘み上げられ御用になった。そうしていい加減知らない言語に耳が疲れて来た頃、全権を握ると思われる少年が愛想笑いを湛え日本語で言った。
「彼女は日本人だ。おまけに日本語しか解らない。今から英語を教えるのも面倒だから、可哀想だから、皆日本語で話してやって」
それで現場は鎮静化した。
* * *
腹が減っては何とやら。全天を仰ぎ尻の尖った部分に感じる疼痛を忘れる努力をする。
空は墨汁のたっぷり入った硯を引っ繰り返したような黒色に、クリスマスツリーに巻き付ける色取り取りの電飾のような目映い星、過去の偉人の付けた星や星座に欠片も興味は無いが便々と眺める事は苦にならない。余談だが、私はオリオン座のベルトの星をそれと言われる迄見付ける事が出来ぬ程星に無関心である。星は人に道を教えてくれる、と言うが、抑も方向音痴の上星の見方も解らない、星座の区別のつかない者に夜空の星はこうだと講釈しても時間を無駄にするばかりで非建設的ではなかろうか。
首を仰け反らして後方を見遣ると艶の無い頭髪を高い位置で一つに束ねた中肉中背の男が居て、先程の考えを他意無く零すと穏やかに笑って私の頭を撫ぜた。彼を山田光司と言い、このカルト集団内ではダマヤジの愛称で親しまれていないが邪険にもされず、地位は高くも低くもなく、当人の気性故に他者と話す機会は約一名を除き殆ど無いそうだ。同郷の誼と言って最初に私に友好的態度で接して下さった人だ。子供が何故あすこに居たのかと幾度も尋ねて来たが、沈黙を貫くと頻りに人様の頭を撫で回すようになった。
現在時刻は不明、現在地も不明、今の所の決定事項は何処かの遊牧地に降り立ち、現地の住民の許可を得て暫しの逗留が決まった事くらいだ。私達は透明な飛行機に搭乗し、真昼の熱風に煽られ、日が暮れるに連れ気温の下がる中を直進み、着陸したら前述の通り遊牧地だった。一生に一度、体験出来るかわからない存在すら怪しい透明な飛行機の上での数時間で膝が笑って歩けない私には、遊牧民との交渉なぞは二の次三の次、寧ろどうぞ御勝手に。
首筋に痛みを覚えて正面に直る。山田さんは後ろに突っ立って遊牧民の方のお裾分けの肉を毟っている。食肉用の山羊や羊とは違うらしく何の動物の肉か知らないが、お前は臭いで嫌がりそう、と言われて顔を顰めた。要は獣臭い。ジンギスカンや鴨肉すら駄目な私に遊牧民の暮らしは鬼門らしい。
「何かあったら言え。誼で愚痴は聞いてやる。但し、育児の愚痴はよく解らないからしないでくれ」
山田さんはそう言い置いて奇怪な集団が焚き火を囲む方へ戻って行った。
擦れ違い様に黒髪の少年に呼び止められ立ち話、直ぐに終わって足音はしなくなった。
「ダマヤジとはやって行けそうだね」
と少年の声が間近でしたので飛び上がって驚いた。
「他に二人、日本人が居る。どうせ君は赤ん坊の為に居るのだから、そんなに人と話さないだろうけれど」
いちいち棘のある奴だ。怪しからん、と祖父の説教を思い出す。祖父は穏和な人だが一度怒り出すと怪しからんと怒鳴って正座を促し膝を突き合わせ懇々と説教をする。これが非常に長い。最長で五時間と父から聞いた。その時は祖父の喉の調子が悪くなったから繰り上げられ、喉が絶好調だったら倍の時間を延々と語り続けたろう、父は真剣な目付きで言っていた。
少年の笑い声に尻の尖った部分の疼痛に耐えられなくなった。所謂三角座りをしていた私は足と胸に挟むように抱いていた嬰児を持ち上げ、足を崩して胡坐をかくとその足の上に下ろす。
そうして一言多くて難が有るどころか大層性格の悪い、学校という一種異様な閉鎖空間ではクラスの先頭に立つかクラスの嫌われ者になるか、両極端な二択しかなさそうな野郎に言った。
「君は一言多いとか、性格が悪いとか、学校に居たら人に嫌われ易い性格かもね」
「君は思った事を直ぐ口に出す」
私は目を瞬がせ真横に佇立する少年を見る。
「まるで人の心を読めるようだ」
乾燥した風が砂埃を運び、真昼の内に十二分に砂塗れになった私の髪をなぶった。頭髪に紛れていたか風が運んだか知らないが、頬を砂が滑り落ちてくすぐったい。
「そりゃあ、それだけ口汚い子なら」と少年。
「本当に出来たらプライバシーの侵害だ。気持悪い」と私。
真横の少年は半身を引いて下方に見える私の脳天を睨め付ける。何故脳天かと言うと、私が真横の少年を見たとは言え其処迄顔を上げていないからだ。一寸顎を上げた程度で、後は目玉を動かした。
「君は、赤ん坊に感謝す可きだ。気に入られていなければ、死んでいる」
「殺されるのか。物騒な奴だ」
と私が反駁した時、
「口の利き方を改めよ」
更に後方で焚き火の灯りを背負った魔法使いの三角帽子を脱いだ大男がやって来た。
黒いポンチョを着込んで帽子は脱いで、可笑しな恰好の大男は片手に棒状の物を携え闊歩する。先刻山田さんの立っていた場所に立ち止まるなり手に持つ物を突き出し、折角分けてもらった物だぞ、と言って獣臭い骨付き肉を勧めて来た。
「元々肉は臭くて嫌いなんだ。でも、仕様がないね」
「贅沢とは違うか、……我儘な小娘だ」
ポンチョの大男は言い、渋々肉を受け取る私の黒目を睨む。
「此処いらじゃ、私は現代っ子の代表者さ。日本じゃ乳母日傘で育ったもの」
思えば発展途上国で言う不自由をした覚えは無い。衣食住に困らないし、病気になっても問題無く、微恙が大病に変わる環境でも無い、全く恵まれた国で温々と生きて来た。
星明かりのみの晦冥に埋没する手元の骨付き肉を僅かな灯りの下凝視し、腹が北山時雨でどうしようも無くて、呼吸を止め一口齧り付き咀嚼する。すると口中に瀰漫する獣臭に吐き気を催した。やはり肉は苦手だ。苦手だが今は肉以外に食糧が無いので止むを得ない。十二分に咀嚼し大量の唾液と共に嚥下したら喉の内壁に忌々しい感触が残って胸がむかむかした。私達の食糧になった動物に対し申し訳ないが、美味しく戴く事は、食べ物の好みの関係で敵わず、見知らぬ世界に放り出された初日の晩御飯は不味い以外の何物でもなかった。
むかつく胸を撫ぜて、ふと思う。
「人生ってこんなもんだよな」
どんなに頑張って生きたって、こうして終わってしまうのだ。
大窾(たいかん):大きな穴です。「窾」は中の穴の意味。
散在(さんざい):散らばって在る事です。
よく考えたら主人公はまだダマヤジの名前しか知らないんですよね。
自己紹介してなかった……。