朝食は目覚めた腹心自慢のカレーライスに決定し、起き抜けの末っ子も空腹を刺激する匂いに顔を綻ばして、私の目に映らぬ持ち霊の羊のママに言葉を掛けて食事の内容について語る。喜色満面の笑みを見て別段腹を立てる事は無いが少し腹や胸に埋めようの無い空洞が出来たように思われる。要は寂しい。自身の常識の及ばぬ会話は仕方無いが、又育児の途中から諒解済みだから愚痴も何も無いが、やはり空洞に吹き込む風と風音が酷く虚しく感じて膝を抱え膝小僧に額を押し当てて御飯の完成を待った。
底の浅い皿に白米が三分の一、野菜の塊や豚肉の入ったカレーを満遍なく掛けて一人分を作り、計五人分を拵え食事の挨拶をして認める。美味そうな顔でスプーンを運ぶ手を止めないハオは隣に居る末っ子の口の端に付いた米粒を取ってやり、指先の米粒の遣り場に躊躇うか何か思う所があったか一瞬身動きせずに考えて、次の瞬間には自分で食べていた。彼の行動が一呼吸分遅ければ指先の米粒を引っ攫って食べてしまおうと手を伸ばしたであろう私は柄を握る指先の色を一層白くして、目線を外し、隣に座って火の調節の片手間に朝食を頬張る山田さんの掌中の薪の行方を見守り、無骨な手元を離れた薪が焚き火に落ち込み、湿気た枝がきゅうと鳴くのを聞き流す。空気の抜ける音が続いてこちらの気も抜ける頃、突然火中の薪が爆ぜ、火の粉が空に向かって舞い上がり中途に消えた。
食事を終えた一行は退屈凌ぎに周辺を散策する事に決め、潺々と流れる小川に沿って自称未来王と末っ子と小娘の対人関係の覚束無い三人組で歩き、段々川幅の広くなる川に貪婪な好奇心を惜しみ無く発揮した末っ子が飛び込まぬよう抱き抱え、二人分の砂利を踏む音と水音を聞きながら時を過ごした。前世や現代で何処ぞの神宮に参詣し、確か初詣で、元旦の為か境内に入るのも難儀な行列に並び、正月の寒風に震えてやっとお賽銭を放る事が出来て、露店で大判焼きを買い、小さい蛸を丸々使った四個入りの蛸焼きを買い、真っ白い息を吐いて麓の店屋で中華饅頭を食べたいと我が儘を言った。お賽銭一つに行列する人々を尻目に簡易テントの下で甘酒を買おうか悩み、結局買わず、飲み切った経験の無い甘酒の鍋に感興をそそられ、しかし之を堪え、冬の清澄な青空を仰いだ際に社殿を囲む大層立派な杉林に目を剥いた。植物に不案内の私は、最初大きな杉の左右に伸びる枝葉を見て松と思い、老松の立ち姿に感銘したが、植物に詳しい母に尋ねて杉と知って杉の葉擦れに感銘した。当時勿忘草とオオイヌノフグリの区別がつかず─と言っても現在も判らない─道端で見掛ける度に母や祖母に尋ね、当たり前の顔で答える二人を尊敬していた私が大き過ぎる杉と松の違いが判然しなくとも不思議でない。
無聊の時間が過ぎて夜が来た。暮色の迫る東の空を眺め遣り、反対の薄闇に消え行く夕日の最後を見届けたら見る物も無くなって非常に退屈した。一晩枝葉の陰を無償でお貸し下さった杉の根元に御輿を据え、退屈を謳歌する末っ子と共にハオの鼻歌を静聴し、大人の二人の夕食の支度の完了を待つ。異世界と言う全く不慣れな筈の異国の地で、肌を切り裂かんばかりに冷たい、現代の祖国の真冬の風に似た寒風を総身に受けて記憶だけの郷愁に駆られた。
清冷な夜風に吹かれ物寂しい夕食を終えると、又三人揃って散歩に出掛け、上流の方へ足を向けて緩やかに登る勾配を、綺羅星の明かり頼りに登り詰めて肩で息をする。半晴の夜の闇の中を少々荒い呼吸音が耳に付き、その音が自分の酷使した体が発する警戒警報と解って前方を兎が跳ねる様に軽快な足取りで進む野郎の後ろ姿に歯噛みし、二三度の深呼吸の後、私も重い足を持ち上げて坂道へ足底を叩き付けた。
何処かの山に杉が叢生していると思われたが、杉林の始めは、此処いら近辺の高山の裾野の丘で、小川は丘の針葉樹が鬱然と茂る中に始まり、地中を下って中流で小川の様相を整えて下流に続いていた。川の始まりを見て、幼稚園児が大冒険の末、大発見を果たした気持で末っ子と手を取り合い、潺々たる水流の表面を彩る夜空の鮮盛な消しゴムの滓の群を賛美した。水源の傍に屈み込み、指先で濡れた腐葉土を撫ぜ、爪と肉の間を抉る程の冷気に仰天して尻餅を搗いた。私の挑戦を真似た末っ子も引っ繰り返った。後方の岩場で突っ立って見守る風の自称未来王が呵々と笑い、足下の矮躯を抱き上げて下流へ戻ろうと言い出し、別段反対の必要も無いので素直に応じた。
来た道を半ば踏破する頃、不意にハオが足を止め、片手で人様の進路を塞ぎ、夕暮れの公園の砂場で遊ぶ幼児を狙う人攫い染みた愛想笑いを浮かべ、腕に抱くオパチョを私の方に寄越した。人間臭い笑顔に慣れた私は酷く無愛想に見える笑顔の相手に遺憾無く柔懦な性格を発揮して後退り、胸元のオパチョの縮れた頭髪を纏めるヘアバンドを、精神の安定の為、握り締めて深く息を吐き出す。羊のママが太腿に擦り寄る気がしたが、気がするだけで、恐らく人魂の恰好で人様の顔の横を揺蕩っているだろう。霊能力を持たぬ者が真意を知る事は敵わないが、今知っても役立たずの情報である事は間違いない。前に自称未来王が屹立し、手元は霊能力の末っ子の体温を確かめつつ、無力な小娘一人が覚束無い地面の上で踏ん張った。
ハオが暗闇の向うへ誰何する。返答は無い。
何かが一足踏み出す音が聞こえ、随分昔の人攫いに遭った時を髣髴させて背筋が寒くなる気がして、情けない話だが涙が滲み、闇色云々も関係無く物の輪郭が朦朧として草木の配置が解らない。逃げろと叱咤されても、これでは逃げられない。
「私はシャーマンファイト運営委員、パッチ十祭司が一人マグナと言う」二足三足と音が続き夜陰を払う様に外套を翻して男性は現れた。「其処のお二人、シャーマンファイトへの参加資格があるか、その実力を見させて貰おう」
流暢な日本語を話す声は大分低い。一度聞けば男性と直ぐ解る。しかし容姿は夜の暗闇に紛れて判然しない。外套を払う衣擦れが聞こえて、腐葉土の中の小石を踏み締める音と共に指呼の間に迫る相手の長躯を想像した。
「やっと来たか。仕事が遅いね、当代のパッチは」とハオは心底落胆した風な声音で言って、肩越しに背後を顧みて、目が合うか合わない内にもっと下がるよう言った。
彼の手掌に火が点る音がした。全て聴覚の情報なのは止むを得ない、何故なら星の煌めく空はすっかり雲に覆われ視覚が利かないからだ。私は現代っ子なので夜目は彼や異国の遊牧民程は利かない。末っ子は利くのか、真っ黒の向うを指差し、鳥、鳥、と言って飛翔の瞬間を真似るらしく腕から乗り出して両腕を広げて上下に振った。闇色の可愛い手指が顎を叩き、痛くはないが少し痒く、肩口で自身の顎と頬を掻いて感覚を誤魔化した。目元を濡らす涙も乾いた所で、さて対応に困却した私は何処の樹木の陰に隠れようと考えた。陰と言うか其処いら中闇だらけの場所をぐるりと見回し、大した恩恵の無い火影に目を留めて、背高の雑木林を見上げて不安な気持になった。
木々の繁茂する林の中で大火を起こすなぞ、自然破壊だの星の将来だの色々文句を言って来た当人が惹起するとは思いたくないが、現状を見て、無理かしらと首を傾げた。腕に抱く矮躯が一寸硬くなるのが解る。緊張か興奮か知らないが、臨戦態勢である事は凡そ三年間姉貴分の世話係を務めて来た為によく解った。
止めた方が森林の為だろうと思い直し、踏み込んでハオの分厚い手袋の手首を覆う布を摘まんだ。しかし彼は無力な制止を一蹴するどころか火気の無い一方の手で私の手を剥がし、火の点る方の腕を振り上げ、肘を使って人様を後ろへ追い遣った。
「周りをご覧、木が沢山ある。火を使うと山火事が起こる。危ないから、止したら」
「歩、もっと下がって。……必要無いか」
とハオは言って相手を嘲笑した。それで前を見遣ると運営委員と名乗った人が跪いて居て、深く頭を垂れて何やら呻いている。ご気分でも悪いか尋ね、相手は沈黙を通すけれど、代わってハオが容態を尋ねたら間髪を容れず健康と答え、その声の力強さに心配な気持も馬鹿馬鹿しく思われて万事目前の彼に任せた。
よく解らないが、運営委員の方は最後に彼に敬称を付けハオ様と呼び、頑丈そうな玩具の様な機械を手渡して恭しく一礼して飛び去った。
「あれは贔屓だろう」
「彼は正しい選択をした。褒めてやってよ」
振り向いたハオの顔は愛想笑いだった。
十祭司って何だろう。
大会って何だろう。
と思う主人公。