生者必滅、会者定離   作:赤茄子

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第四十五話:

 腹部に重みを感じて目を見開き、顎を引いて視線を鳩尾へ遣ると末の愛猫が真っ白の腹を天井に向けて寝転がり、手を開き爪を出して伸びた姿で居る。茶色と焦げ茶色の縞模様の末っ子は、数年前家族が拾って来て、その時は五匹居た兄弟も里親達が見付かって貰われて我が家を去り、売れ残った三匹は情が湧いてしまい何処へ遣る事も出来なくなった。家族会議の結果、三匹を我が家で飼う事が決まった。特に末っ子の野郎は拾った直後、未だ片目の開かない瀕死の状態だったから色々世話を焼いて、里親を募集し手放すと聞いた時は一晩中蹲って泣いたものだ。飼うと決定した時の喜びは、正直思い出せないし、当時程引き取って良かったと思う事も無いが、やはり居ると可愛い。居ないなら居ないで猫無しの生活に戻るだけだが居ると居た方が日々の生活に潤いと言う名の癒しと、身辺の事物に色が付く。些細な差異だろうが当人の中では大事で、愛猫の居る暮らしが当たり前だった。

 愛猫の自慢話は余所に置いて、私は朝御飯の為に蒲団を出なければならない。しかし末の愛猫が人様の急所を蒲団ごと占領した所為で身動きが儘ならず、階下で母の朝食の支度の完了を知らせる声が響き、いよいよ腹の虫が騒ぎ立てて又寝をする余裕が無くなった。是が非でも起きて朝御飯を掻き込まねば気が済まなくて、起床を邪魔する末の愛猫の睡眠を最低限妨害するだけで起きる方法はないかしらと思案し、又階下の母の声が起きて来ない子供の横着に怒りを募らせ段々大きくなるらしい。万事休すと思い、掛蒲団を脳天まで被り一寸食み出す手足を引っ込め、勢いよく上体を起こして人様の鳩尾に寝入る愛猫を叩き起こした。

 突然寝床が動き出したにも拘らず愛猫は畳に落ちる寸前で体勢を立て直し、見事前脚後脚を揃えて着地した。不機嫌な抗議の声を上げるが私も朝御飯を食べたい。謝罪も等閑にして手早く蒲団を畳み、寝巻きの儘廊下を伝い梯子段を下り、茶の間に入って定位置に座る。空腹の虫の待望の朝食は白米と寒鰤の照焼、豆腐や油揚げや海藻が具の会津味噌の味噌汁、祖母の飲み物の号令で番茶か烏龍茶か問われ私は番茶を希望すると間もなく青色の湯呑が出て来た。中は番茶だ。祖母と母が並び人数が揃って一家の朝食が始まった。私が最初に手を付けた寒鰤の照焼は昨晩の私の要望によるもので、晩御飯に出ると考えていた為、朝に食べられた私はご機嫌になった。口中が塩っぱくなって口直しの番茶を啜る。想像以上の渋味に驚き、湯呑から口を離すと舌で上唇を舐め、今日は渋いねと淹れてくれた祖母に言った。

 照焼の醤油の加減が絶妙だった。程好く甘味のある垂れと白米が美味い。一口を大きくして瞬く間に平らげ、食器を流し台に片付けると梯子段の下の洗面所へ歯磨きに行く。途中真ん中の愛猫が足に擦り寄り、大分長い尻尾を踏む所で踏鞴を踏み、危うく真っ直ぐの尻尾の先端が鉤になる所だった真ん中の愛猫は飛び上がって逃げて行った。洗面所兼脱衣所の洗面台の向いの曇り硝子の扉の向こう側が風呂場で、腕一本分の隙間が開いていて中を覗くと一番上の愛猫が浴槽の蓋の上で伸びて居た。扉を閉める悪戯はしない、半分開けて、自身はさっさと歯磨きに取り掛かる。丹念に奥歯を磨き、蛇口を捻って水を出し、手で受皿を作り水を受け止めて口を漱いだ。

 洗面所を出て梯子段を登り自室で着替える。幼馴染の翔子と買った長袖を着て、今日は当の翔子と遊ぶ約束がある。一昨日の金曜日に約束した場所へ出掛けるのだ。肩掛け鞄を取って中身を確認し、時代遅れと言われようが使い勝手が良い事を理由に携帯電話を貫く私の、お供歴丸三年になる緑色の二つ折り携帯電話を鞄に詰め、ふと文机を見遣って机上の安っぽいカードに気付いた。携帯電話のプリペイドカードだ。番号を打ち込んでおけと父に言われたが、すっかり忘れていた。今日くらい持つだろう。

 次に目が留まったのは髪留めである。母の髪留めである事は間違い無いが、何故私の文机の上に放置されているのか、まるで覚えが無くて困惑した。返さなくちゃ、と思って手に取り、するとこれを持って出掛けなきゃと言う気になる。よく解らないが時間も余り無い。急ぎ部屋を出て梯子段を駆け下り、茶の間の家族へ出掛けの挨拶をしに障子戸を開けて顔を突っ込む。途端室内の空気が一変した。

 長机を囲む家族は皆沈痛な面持ちで机の表面に映る自分達の顔を睨み、母なぞ机に両肘を突いて肘と肩に体重を載っけて死にそうな顔だ。訳を尋ねようと手前の祖父に声を掛けるが振り向かない。返事をせぬ者に怪しからんと怒鳴る当人が怪しからん真似を平気な顔でするから面白くない。祖母に尋ねる。どうしたの。祖母は振り向かない。父に尋ねる。何かあったの。父は微動もしない。母に尋ねるのは一瞬躊躇したが、意を決して尋ねる。大丈夫なの。家族の誰もこちらを見向きもしないで項垂れ、母は蒼白を通り越した土気色の、何処か見覚えのある顔で黙っている。

 誰も私に気付かないらしい。途方に暮れた私は尋常でない雰囲気の母の心身を案じて隣に座り込み、顔を覗き込んで、又向いの父の不興顔を見遣り、皆して何事かと首を傾げた。丁度その時、母が乾燥して罅割れた唇を動かし、呻く様に言い出した。

 ──……何で……。

と母は呟く。私も耳を攲て聞き入った。

 ──何で……歩…、あの子、…何で、あの子が無事で、……何で歩が、帰って来ないの。…何で、あの子が…歩が…。

 ──…何処さ、…連れて行かれちまったのかねえ。…良い子だから、…騙されたんだ。…嗚呼、…何処さ行ったんだい。

と祖母まで何か言い出す始末で、私は身に覚えの無い事を言い立てる家族に困惑した。

 隣の母の服の裾を摘み、ねえ、と言葉を言い掛けた時、急に足下が揺れ出して、咄嗟に地震だと叫んだが体が揺れ動くのは自分だけらしかった。机に手を突いて天井を見上げて照明の傘の揺れ具合を見る。全く揺れていない。揺れて慌てているのは私一人だ。びっくりして、助けて、と叫ぶと周囲の人物や家具や壁が白光りする。母に縋って硬く目を瞑り、蹲る恰好で体を丸めると意識が浮上した。

 腹部に重みを感じて目を見開き、顎を引いて視線を鳩尾へ遣ると末っ子の真っ黒の目玉と搗ち合い、飛び起きる様に素早く上体を起こして首を巡らした。何処かの室内の壁際に設置された長椅子の上に転がって愚図愚図して居たらしく、綿の硬い椅子から足を降ろし、正面の汚い壁紙を貼り付けた土壁状の壁を見て、徐々に目線を右へ移し片開きの扉の前で止まる。建付けの悪そうな歪な長方形の扉で、錆付いた取っ手に用途不明の黒い紐が垂れている。扉を五歩離れた所に背丈の低い机が一つ、机に似合わぬ無闇に高い一人掛け椅子が二脚、更に大股五歩の所に遮光用カーテンの閉まった大窓があるだけで他は何も無い。

 人様の急所に陣取って居た末っ子を振り返り、現在地の詳細を尋ねると、どうも大会参加者の為に用意された宿屋の一室だそうで、不可視の飛行機での移動中に本格的な風邪を引いた私の看病を兼ねて此処に落ち着いたとか。聞いて呑み込み、段々腹が立って来た。参加者用の宿泊施設は用意されていた、つまり冬季の東京の野天で寝起きする必要は全く無く、寒さに震えたのは無駄骨折りだった訳だ。大会参加どころか資格すら持たぬ私が施設に入る事は、運営側としては非常に迷惑な話だろう。その点は大変申し訳ない、参加者のお連れ様だから見逃すと言う無責任な事を許可は出来まい。だが此処に非霊能者の上参加者でない私が泊まっている。世の家無き人々に相済まない。

 私が憤りを抱く原因は、風邪を引いたのが私だから良かったものの、間違って体躯の小さい末っ子のオパチョが風邪を引いたら只事で済まない大惨事である。宿泊施設があるなら最初から健康の為に雨風を凌げる屋根と壁と、安眠の出来る寝床の準備された場所を取れば良かったのだ。御蔭でいつ三人揃って洟を垂らす事になるかと心配していたが、心労は徒労に終わった。隙間風の心配が残るが、雨に打たれる心配の無い屋根が見付かっただけでも有難いと思おう。

 嗚呼、寒かった。と口を衝きかけた言葉を呑み込んで首を傾げる。日本に上陸したのは一月上旬、異国の大地で的皪と輝く彗星を見上げ、その掃き跡の様な、尻尾の様な帯状の光を辿るように日本目指して海を渡り、上陸直後から真冬の拷問染みた野宿を繰り返した。今は二月中旬、本戦参加の為の予選の真っ最中で、予選云々は関係無いが今日迄の一ヶ月余り、野宿を強行して来たが一度も風邪を引かなかった。運が良かったと言えば、無論屋根と壁のある生活でも風邪を引かない事は運が良いと言う事で、しかし体を痛め付ける生活は真冬の野宿の方に違いない。この真冬の野宿を一ヶ月程続けたにも拘らず私達は─特に私自身だ─風邪を引くどころか極寒の樹木の根元で熟睡していたのだ。可笑しいとか、馬鹿馬鹿しいとか、異常と言う次元で済まされる話にない。

 上記の内容を訳知り顔の末っ子に簡明に伝え、するとやはり知った風の末っ子はハオが持ち霊を使って一行を暖めつつ眠ったのだと聞かされた。以上を聞いて、私は野郎の秘密主義的な性格に腹を立てた。誤解され易い性格なのだろう事は少し解った気になったが、事情を知らぬ人の愚痴を黙殺していた時の心境はどうだったのか。当人に尋ねようと誤魔化すのは目に見えているので想像するのも七面倒臭い。礼を言って、この件はお仕舞いにしよう。

 末っ子に謝辞を述べると同時に扉が外から開き、持ち霊の特性を利用して寒暖の苦労と無縁そうな顔のハオが入って来た。長椅子に腰掛ける私と目が合い、序でに具合を尋ねられた。

 喉の違和感は悪化しているように思われ、頭痛も蟀谷の辺りが酷く、自分が真っ直ぐの姿勢でいるか傾いているかも曖昧だった。首を左右に振って絶不調を伝える。伝える序でに聞き知ったばかりの衝撃の事実について礼を言おうと思い付いた。

「あのね」と普段通りの音量を出そうと喉に力を入れると、出て来たのは酷く痛々しい声だった。

 歩み寄って私の膝の上の末っ子を抱き上げたハオは、心中を察しているくせに目顔で続きを促す。心中を読まれ、喉が辛いから直接聞くのは遠慮する、と言われても言うから、それは別段構わない。

「日本に着いて野宿の度にスピリットオブファイアで皆を暖めてくれていた事、知らなかったよ、御免、それと有難う」

「でも、結局風邪を引いてしまったね」

「可笑しいな。頑丈だと思ったのだけれど」

「誤算だった、僕の落ち度を認めよう。僕は、他に行く所がある。だから一寸別行動になるけれど、此処には十祭司のマグナが常駐している、歩やオパチョの世話を言い付けておいたから」

「オパチョが寂しがるね」

「なるべく早めに戻るよ。ゆっくり休んで」

 と言ってハオはオパチョを撫で回して力一杯抱き締めた後、長椅子の端に下ろして、そうしてオパチョ一人とはさすがに邪推だろうから、私達二人に手を振って又扉の向うへ行ってしまった。

 内心私は山田さんか善さん良さんは来るかしらと期待した。




 引き続き主人公体調不良の巻。
 過度のストレスによるものですね。
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