二人ぼっちになった翌日昼頃に整髪料の利いた先が二股の髪型の山田さんが部屋を訪ね、長椅子の蒲団に潜る私の額を触って大雑把な計り方で体温を計った。大分熱いらしい。
ハオが私達の世話を言い付けた相手のマグナさんと言う名前の男性が、顔を見ても接点は判然しなかったが、声を聞いて、出会い頭に自称未来王の御前に跪拝した人物と記憶が合致した。彼は毎日最低でも三度は部屋へ私達二人の安否確認の為か訪れて、その際朝なら朝食、昼なら昼食、夕なら夕食を持って来た。至れり尽くせりとは過言でない厚遇を受け、時折姿を見せぬ自称未来王の様子を聞かして下さった。野郎は二月中旬の試合を以て予選を通過したそうだ。伝令役を押し付けられたマグナさんに申し訳ないが顔を見せても良い頃合でないか尋ねると、自称未来王と名乗る野郎は過去色々やらかした所為で、歴代及び当代の大勢の人の怨みを買っているから、私の療養の妨げとなる事を考慮して過度の接触を控えていると言う。
自業自得此に極まれり。末っ子の寝息と汚い壁紙を背景に、無能の小娘を相手に慇懃無礼な物言いをするマグナさんは破顔し、冬の身の凍る隙間風の脅威が鳴りを潜めて早春の肌寒い隙間風に咳の止まらぬ私へ市販の風邪薬を手渡した。風邪を引いて半月余り、回復の兆しは見えず、喉の違和感と頭痛と鼻水と微熱が無駄に長く続いている。伝令役曰く、私の病状も詳細に報告しているそうだ。誰とは言わずもがな、貧弱で悪かったな、と今度顔を合わす折に言ってやろう。
伝令役のマグナさんは常に調理済みの食事を持って来た。手料理を食べたい願望なぞ無いが、調理済みの食事の大半が冷凍食品のお好み焼だったので、本来宿泊の資格を持たぬ者のくせに贅沢を言って羞恥に堪えないが味覚の飽きには変えられない。私一人なら毎食白米の握り飯でも構わない、しかし風邪引きと一緒の末っ子の味覚は、お好み焼を食す事五日、到頭淡白な冷凍食品に飽きて不貞腐れた。正円のお好み焼を二口食べて顰蹙し、叱っても食べないから私が残飯を食べ、次の機会に再びお好み焼を持って来たマグナさんに嘆願した。
味に飽きが来た、他の物が食べたいです。私の言葉を傍で聞いた末っ子が同意と首肯し、新しいお好み焼を突き返した。これを引き戻して言った。これはこれで食べますが、次回は何か他の物をお願いします。
マグナさんは次回から冷凍食品の蛸焼きを持って来た。蛸焼きは一週間で飽きた。その後、私達が注文を付ける度に食事の内容が変更され、毎食冷凍食品の実情を知った山田さんが一肌脱ぐ迄の間、留守番の私達と十祭司マグナさんとの闘いは続いた。
山田さんが一肌脱ぎ手料理を振る舞って下さるようになったのは、私達の健康を賭けた闘いが膠着状態に陥って少し経ち、風邪の癒えぬ私を案じて丸一日部屋で付き添って下さった後だ。一部屋離れた所の角部屋が給湯室とかで、簡易台所もあって、それを見付けた山田さんは白粥を作って冷凍食品の代わりに、風邪気味で胃弱の私に出してくれた。塩味の白粥は身に染みて美味かった。末っ子も醤油で味付けた卵焼きを頬張り、一口大の塩結びを幾つも食べ、熱い番茶を啜った。爾来大会の宿泊施設に泊まる間は、親戚の小父さん宜しく自然と子守り役が定着した山田さんの男の拙い手料理を食べた。
三月上旬、末っ子オパチョと山田さんは、予選の第一線を終えただけで第二戦の報せが来ない。二人は今か今かと落ち着かない態度で予選の報せを待つと思われたが、存外悠々閑々と渋茶を啜り、気長に報告を待って部屋の卓を挟み塗り絵をしていた。異世界の流行は、世捨て人宜しく浮世離れした生活を送る私が関知する筈も無いが、某百円圴一の店舗で数冊購入して来たと言う日曜日朝の戦隊番組の塗り絵が一冊、他魔法少女が二冊、見た事も無いキャラクターの塗り絵本が一冊、色鉛筆とクレヨンを揃えて二人は色塗りに没頭する。長椅子の上で治りかけの油断ならない風邪と孤軍奮闘する私は、太い線を食み出し、奇抜な配色の完成品を見せられ、その都度褒め称して末っ子の手先の不器用振りを可愛がった。
数日後、熱がぶり返し、体温計で計って見ると三十九度四分の高熱である事が解り、不思議で原理も曖昧な話だけれど高熱と解った途端に身体的苦痛が増すように思われた。山田さんと合議した結果、私の身柄を隔離して末っ子と引き離す方向に決まった。本当にインフルエンザかもしれない。でも長引くにしても長過ぎる、と山田さんの言で病名の結論は保留になったが、病名の判明が遅れようと私が病気で寝込んでいる事実は変わらない。末っ子に伝染る前に対策を講じねば、自身より体躯の小さく抵抗力の無い末っ子がしつこい風邪を引き兼ねない。
十祭司マグナさんへ事の次第を話し、部屋をもう一室用意して頂き、頑是無い末っ子を一人でおくのも躊躇われる為山田さんが私の寝込む部屋と末っ子の部屋を行き来する事になった。参加者でもない資格も持たぬ糞餓鬼が一室丸々を占拠して其処に病原菌を撒き散らした挙句氷枕が欲しいだの蒲団がどうの着替えがどうのと口喧しく物品を注文するから、伝令役の筈の彼は酷く迷惑に思っただろう。一番迷惑を被ったのは無論山田さんだが、末っ子も特段説明も無く世話係と引き離され、新しい部屋に押し込む際は羊のママの力を借りて脱走を試みたと言う。後で聞いたが、壁が崩れ毛足の長い敷物を敷いた床が抉れ、窓硝子を二三枚破り、癇癪を起こし、顔を真っ赤に泣き叫び、泣き疲れて眠って収まったらしい。誇張が過ぎやしませんか、と私が笑うと山田さんは青褪めた顔で、次回があったらお前が相手をしろ、と言った。
一人部屋の長椅子に敷いた蒲団に包まって寝入ると夢を見た。前世か現代か判然しないが家族と旅行へ出掛ける夢で、波止場の駐車場に車を停め、何処か受付の設置された建物に入り入場券か何か購入し、用意し忘れた入り用の何かを買い込み、フェリーに乗り込んで大海を渡る内容だった。夢の私は名前の見当のつかない筈の黒い海波を眺め、離れ行く陸を振り返ってあすこが青森かと呟いた。北海道へ行く夢だった。
目覚めて掛蒲団を頭の天辺まで被り、呼気に蒸され不愉快な湿気の滞る蒲団の中だけれど他に掛蒲団は無いし、諦めて同じ蒲団を被り続けていた。暫くして山田さんが遣って来て、蒟蒻ゼリーを一袋買うか盗むかしてくれた。人様の何気無い仕草や気持が無性に恋しく思われて、末っ子の温もりが欲しいけれど風邪を移しても悪いから要望は胸の奥に仕舞い、親戚の小父さん宜しく色々構って下さる山田さんの節榑立った手を求めて頭を突き出した。愛用の相棒の手入れを怠らぬ手に頭突きを食らわせ、痛みと不平を訴える相手を無視し、私は幼稚園児に戻って風邪と闘った。渋々小娘の頭を撫ぜる山田さんの渋面を見上げ、別室の末っ子の様子を聞いたり、大会の予選の話を聞いたり、退屈を退屈なりに堪能しつつ咳をしつつ、そうやって寝転がって風邪が私の気根に負けるのを待った。
聞けば三月も半ば過ぎた頃、蒲団に包まりながら短時間だけ末っ子の遊び相手を出来る程に回復した。そんなある日、ある時、自称未来王と名乗る野郎が顔を見せに来て、待ちに待った野郎の姿に末っ子が欣喜雀躍、手の舞い足の踏む所を知らず、烏の濡れ羽色の長髪を体に巻き付け飛び付いて頬擦り迄する。野郎も末っ子の喜びに応え、抱き上げて力一杯抱き締めて、縮れ毛に頬を擦り寄せ莞爾として笑う。
「久し振り」と私が言うと、そうだね、と無愛想な笑顔で言った。
彼は末っ子の予選中の私の世話を請け負おうと戻って来たとか、私はオパチョの予選日程なぞ知らないので驚いたが、山田さんのお取り計らいらしい。オパチョの予選は、最初はハオが付き添うと言う話だったが部屋に来る途中で気が変わり、何故か彼が居残って、山田さんが付き添い係に抜擢された。末っ子も小父さんも双方文句は無い、しかし私は待てと物申し、末っ子の試合が心配で眠る事も出来ないから皆で行ってくれ、と懇願した。呆れ半分、当然の顔で山田さんとハオが却下する。万事休すと項垂れて掛蒲団で情けない面を隠した。
煦々たる春光の射し込む大窓の外が段々寒々しくなり、間も無く夜が来た。末っ子の予選開始時間は大分先でも場所の雰囲気に慣れる為だの、尤もらしい事も並べ立て、汚い黄金色の月が大窓の下方に見える頃、二人は部屋を出て予選会場の何処かの墓地へ行ってしまった。その後ハオと部屋の長椅子に腰掛け、二人で肘掛けや膝に頬杖を突いて船を漕ぎ、深更に意識がはっきし出して、目が冴えると空腹を覚える。山田さんの作り置きの塩結びを食べ程好く腹を満たし、そうして別行動を始めてから今迄の出来事を語り合った。語ると言っても私は長椅子の上で愚図愚図と寝ていただけで、特筆す可き事は無い、話す事も無い、なのでハオの話許り聞いて居た。
軈てハオの話題も尽きて沈黙が続いた。しかし話す事が無いから沈黙するのであって、話す必要のある出来事があれば話す。即ち話題が無いとは平和の証である。
良かった、良かったと内心頷き、綿の薄い榻背に凭れて目を細める。少し眠くなって来た。
「眠い?」と穏やかな沈黙に夢心地の私の意識を覚醒させるに十二分の音量でハオが言った。
私は覚醒しても暫し返答を待ち、黙っている御蔭で又意識が曖昧になって、眠りの国の一歩手前に遣って来て漸く頷き返した。伸び放題の頭髪が胸元に垂れて項を覆う髪の量が減って寒気がした。
「寒い?」とハオが恬淡とした声音で言った。人様の身体状況、病人の世話の為に居残った彼には風馬牛と言う訳でない。病状の子細を把握し、又相応の対処を要求される側だから、彼の十八番の読心術が便利に思われた。
私は声で答える代わりに掛蒲団を被る事で問いに答えた。彼は一寸頷き、分厚い手袋を外した片手で私の背中を撫ぜた。手掌の当たる箇所が暖かくなり、曖昧な頭で黙考し、ふとある事に想到して口を動かすが声を出すのは億劫で仕方がない。
「スピリットオブファイア。便利だろう」
私は内心頷く事で同意した。
「こんな事で穏やかな気持になれるって、歩は平和な子だね」
風邪引きが一人で蒲団に包まると寂しくなる。オパチョや山田さんの存在で寂しくない。それは相手がハオでも同じだ。家族の看病が有難い事と何も変わらない、可笑しい事も、平和な事もない、只々当たり前の事があるだけだ。
ハオが一笑するなり言った。
「風邪引きを一人にする事は出来ないもの。でも、随分長引くね。…大丈夫かな」
前より大分良い。しかし眠いから眠っても良いかな。折角蒲団の中なのだし。
「うん、そうだね。お休み」
「……お休み」
眠って、目を開けると体が横になっていた。ハオが隣に居座るから膝を抱える様に眠った気がするのだけれど。
「おはよ、アユム。オパチョ、かった!」
「そりゃあ、凄い。お目出度う」
「歩、ダマヤジが、粥が出来たって。食べられる?」
一家団欒、ふと前世や現代の風景を脳裏に思い描いて思った。
一家団欒。
主人公が望むものです。