生者必滅、会者定離   作:赤茄子

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第四十七話:

 季節巡りて夏に突入し、梅雨入りして毎日が陰々滅々たる五月雨の雨音を聞く羽目になり、折角長い時を掛けて治癒した風邪が舞い戻る気配がして少し焦った。宿泊施設の同じ部屋の大窓の遮光カーテンを開け放ち、雨滴の垂れる窓硝子越しに表の濡れて膨れ上がった様に見える景色を俯瞰して、町の建物の低い屋根や高い屋上の影の向うに隠見する明るい雨雲を見詰めて雨の止む時間を計った。明るい雨雲は小一時間程、遠方に漂っていたが、時が経つに連れ澄明な雲は暗い雨に呑まれ鉛色を一層濃くして町の上に被さるらしかった。雨脚は強まる一方で、窓外の町の端に夜の陰が忍び寄る。

 暮色の迫る地平線上の屋根の黒い影を眺め遣り、寂寥たる町並みを濡らす雨露の地面を叩く音に耳を澄まし、長椅子の肘掛けに後頭部を預け、反対側の肘掛けに組んだ両足を載せ、首の痛みを堪えて白けた天井と大窓の境目へ視線を転じた。窓掛けの金具が錆びて軋る音がする。表の湿気に影響を受け、急速に金属の腐蝕が進行するのか、元から限界の近い金具が今正に壊れようとするのか、金属の寿命も事情も知らぬ私には到底解らぬ事だけれど、金具が壊れ窓掛けを開け閉め出来なくなるのは困る気がした。割り当てられた部屋の階数は知らないが、飛行機でも使えば室内の様子を盗み見る事も出来る。他者の私生活を無駄と言われる努力を試みて迄覗き見よう等、不埒極まる行為を実行に移す慮外者も、捜せば居るだろうが捜さねば見付からないだろうから滅多とお目に掛かる事も無いと信じたいが、用心に用心を重ねて窓掛けは必要不可欠であろう。

 長椅子に寝そべり便々と待ち人の来訪を待つ私は、首の痛みを忘れ船を漕ぎ出すが、顎が胸に付きかけた時、漸く部屋の扉が開いて待ち人が帰って来た。末っ子と自称未来王の野郎である。反対の肘掛け迄伸ばした足を引っ込め、尻を支点に体の方向を扉の見当に直す。裸足の儘毛足の長い敷物を敷いた床に立って、水気を拭い切れていない末っ子を抱き上げる。縮れ毛の成長した丸い頭の天辺から被る手拭い─正真正銘の手拭いだ─を取って掻き回す様に拭きたい衝動を堪え、包む様に手拭いで水気を吸い取った。頭皮を湿らす露を成る丈取り、絞れば水の滴る程重みの増した手拭いを腕に引っ掛け、野郎を手招きして頭髪の濡れ具合を確かめ、気に入らない場合は丁寧に拭いて、手拭いは纏めて持って風呂場に行く。

 ハオの髪も少し拭き、窓掛けの金具の不調を伝えて部屋を出た。途中着替えの忘れ物に気付き引き返し、長椅子の榻背に掛けた貫頭衣擬きと小さい手拭い一枚を持って、改めて風呂場に向かった。廊下を行って、鉤の手になった角を曲がって、青地に白抜きの男湯とある暖簾と赤地に白抜きの女湯とある暖簾を認めて、末っ子がどちらに入ったか考え、ハオと一緒に男湯かしらと首を傾げた。一人で風呂に入る事は無いだろう。

 私は女湯の暖簾を潜り、靴脱ぎの段差を跨いで茣蓙の敷いた様な床の感触に身震いした。手近な棚の籠に手拭いと着替えを置き、ハオの使った手拭いを手洗いの札の掛かった扉の隣にある洗濯機に放って、粉の洗剤と柔軟剤を入れ、思い出して自分の服を脱ぎ中に放って勝手に回した。末っ子の使用済みの手拭いは、手に持って脱衣所と風呂場を仕切る曇り硝子を嵌めた戸を開け、滑り易い足下に注意しつつ、出入り口と壁際の蛇口の丁度真ん中の蛇口の前に、風呂用の椅子を持って座った。

 頭や体を洗い、洗面器に末っ子の使用済み手拭いを入れて石鹸で擦る。お湯で汚れを濯ぎ、何度か繰り返し、面倒臭くなった頃に止めて畳んで絞った。湯船に浸かって欠伸を一つ二つ数え、髪を乾かさず塗り絵に興ずる末っ子の姿を思い浮かべ、烏の行水で風呂を出た。

 風邪が治って初めて宿泊施設の風呂場を使った。入りに行ける程体調が良くなかったし、動く気力も無かったが、やはり日本人の為、風呂があると聞けば入りたい。私が風邪を引いて久し振りに顔を見せて以来夕方頃に必ず帰るようになったハオは、此処の風呂を使い出して毎日二度は入る事を知った。朝風呂と夜の風呂だ。朝は年寄りの好む熱い風呂に入り、夜は温い風呂に浸かると末っ子から聞いた。糞爺の生活習慣と言っても過言ではない。中身は糞爺どころか歴史上云々と言える程の年寄りだから強ち間違いでもない。糞爺の風呂事情なぞ知っても利益は無い、無いから風呂好きの糞野郎と覚えて、末っ子の真似したがる朝晩の風呂の世話を任せた。

 末っ子は綺麗好きだ。過去、異国の大地で羊のママの血潮を被って、それを放置して姉貴分の世話係共々豪い目に遭った。全身が痒くなって、着物の擦れた箇所に激烈な痒みを覚え、当時着ていた着物を脱いだ後も暫く痒くて、兎に角豪い目に遭った。爾後私は身近な洗濯物は洗濯する事にしている。その洗濯風景を間近に見守った末っ子は世話係の顰みに倣い、自分で洗濯をするようになった。洗濯が七面倒臭いなら世話係に押し付ければ良いものを、汚れの落ちる様に楽しみを見出しか、世話係の洗濯物まで手を出して洗濯係を自称した。当人が楽しいならお任せしよう、と言う事で私とハオは自分の洗濯物を末っ子に任すようになった。日本上陸以降は、洗濯の出来る環境が整わなかった為、今は洗濯機を使って簡単に洗っている。機械の使用法は末っ子の管轄外で、使用法なら私の知る所で、代わって私が世話係兼洗濯係を自任した。

 使用済み手拭いで体を拭き、汚れ物と解るよう洗濯を終えた物と別個の手に持って部屋へ戻った。戻ると案の定生乾きの頭で塗り絵に勤しむ末っ子が机に噛り付いて、縮れ毛の頭の上に身を乗り出す形で色塗りに忙しい手元を覗き込むハオが破顔一笑、部屋に入る私を振り返って上手だよ、と言う。私は首肯し、末っ子の髪を乾かすよう頼んだ。ハオは忘れていた様な事を呟き、塗り絵を睨む末っ子の背後に腰を落ち着け、片手で頭を撫ぜて上手だねえ、だの、綺麗だねえ、だの頻りに塗り方や色遣いを褒めた。

 二人の和気藹々とした様子を、長椅子に腰掛けて眺め、首の付け根に残る疼痛に不愉快な気持になる。体を痛める事を承知して、可笑しな体勢で仰臥していた訳だが、寝転がっている最中の痛みと残った痛みは違う、残った痛みは煩わしい。何が煩わしいか、徐々に痛む範囲が広がり、過度の運動を強行した後の筋肉痛や寝違えた時の痛みに似た筆舌に尽くし難い鈍痛が翌日か翌々日まで響くのだ。解っているが、自分が悪いが、でも痛い。腹が立つ。二人の後ろ姿を眺めると一瞬忘れられるが、でも思い出すと痛い。嗚呼、腹が立つ。溜息を吐いて首筋を軽く揉んだ。ちっとも楽にならない。

 直に末っ子の頭髪を乾かしたハオがこちらに寄って来て、隣に腰を下ろすと人様の頭を撫ぜ回す。彼の手掌は熱い訳でないが人肌と言うには少々熱い。手掌全体が人肌を超える温度で、いっぱいに広げた片手を頭部に載せ、伸ばし放題の背中に垂らす髪も撫ぜて乾かしていく。他者の髪を乾かす当人の頭はすっかり乾き、烏の濡れ羽色の頭髪は照明の黄色い光を浴びて白い輪っかが出来ている。目線を下げて美艶な黒髪の先を見遣ると、真っ直ぐの髪の先を尻が踏んでいて、癖の無い黒髪が勿体無いので指摘してやり、彼は一寸尻を浮かして其処の髪を除いた。前髪の一房が鼻先に触れ、痒そうだし、目を悪くしそうだし、見ている側が鬱陶しく思われるから爪で皮膚を引っ掻かぬよう留意しつつ払った。指に掛けた一房を他の前髪と纏めて肩に掛けてやる。まだ鬱陶しく見えるが、長い髪が悪いから知らん。

 生乾きの頭を回し窓掛けの金具の軋る音の聞こえる窓側の壁を向き、窓外の霏々として絶えぬ雨音や脚下の往来のエンジン音等の音響に耳を澄まして目を細めた。室内に響く色鉛筆の芯の摩擦音、髪と手の擦れる音、髪の揺れる音、三人分の呼吸音、微かな家鳴りも含め室内に届く音だけでも分別の困難な、雑多な音響が籠もって五月蝿いくらいだった。頭部を満遍無く撫ぜられ、温い手が背中の後ろ髪を乾かし始め、背中を押される感覚に衣擦れの効果も相俟って着物と手が重なる箇所が痒くなった。衛生的な短い爪が着物の上から背中を掻いて、人が痒いと思い出すと、態と引っ掻くらしく彼の長い黒髪の様に仕草の一つ一つを鬱陶しく思った。爪と着物の擦れる音が耳朶に触れる程度でもむず痒い。

 髪の乾かすのを終えると二人揃って席を立ち、机に向き合う末っ子越しに手元の塗り絵の進捗状況を窺い、腐った大人の目玉に痛い配色の魔法少女の立ち姿に顔が引き攣る。数ある色鉛筆等の色塗りの道具の群れの中、選抜された色は凡そ人体の持ち得る色素でない色ばかりで、末っ子の感性と言うか情操教育の失敗か知らないが奇抜な色の選択に眩暈を覚えた。矮躯の斜め後方に御輿を据えて、積み上げられた塗り絵の冊子を取って適当な頁を開き、面白くもない無難と言う他無い配色で、某癒やし系熊と血を吐いた風の熊の全身を塗っていった。

 色塗りの最中、着替えの処理を忘れていた事を思い出し、使用済み手拭いと洗濯物を分けてその内の使用済み手拭いは扉脇の物干しに掛け、洗濯物は窓際の物干しに掛けて濡れ具合を握って確かめるが翌朝の朝風呂迄に間に合わないと思い、末っ子の色塗りを手伝うハオに手拭いが足りない旨を伝えた。ハオは朝起きて見て湿っていたら自力で乾かす、と言って私の塗り止しの冊子を引き寄せ己の他の追随を許さぬ感性で以て白黒のキャラクターに色を施す。二人の間の少し後方に膝を突き、床に手も突いて上半身を二人の手元が見える辺りへ傾ける。自称未来王の野郎の配色も、中々奇抜で、故意に選別して塗っていると気付くのに随分時間を要した。

 子供の色塗りは夜の八時半に末っ子の欠伸を契機にお仕舞いと色鉛筆を取り上げる事で中断させた。私は二人の散らかした色塗り道具や冊子を片付け、二人の未洗濯の汚れ物を持って部屋を出て、まだ営業中の風呂場に行って汚れ物を放り込み洗濯機を回した。洗濯開始の合図の電子音の響きを、耳の奥で何か別の機械の警告音と重ね、震える床に直に座る者の尻を揺さ振る洗濯機本体の振動を見守る。壁掛け時計の秒針の音が妙に大きく聞こえる程森閑とした脱衣所は、否建物全体が春霖の静謐に埋没し、森閑として一つ一つの物音が大袈裟に思われるのだ。大袈裟な物音の一端を担う目前の洗濯機の仕事を見守って、時計の秒針の人を焦らす様な時を刻む音や風呂場の締めの甘い蛇口から漏れる水滴の床に落ちて弾ける音に耳を委ね、瞑目すると真っ暗闇になるかと言うと脱衣所の照明が瞼を透かして存外明るい。絶妙な薄闇の中で様々の音を聴き、体感時間で三十分経つ頃、洗濯終了の電子音が室内の壁を圧した。

 妙に大きな電子音は、私の体を身辺の空気ごと内へ内へと押さえ付けるように感じられ、洗濯物を取り出し、皺取りの為に叩いて、その音の雨に夜に生まれる静寂を破る爆音を轟かせ、冷たい洗濯物を持って部屋へ戻る。時折寝惚けている為か毛足の長い敷物に躓き踏鞴を踏み、どうにか無傷で部屋に辿り着いて中の様子を窺うと、長椅子の上の掛蒲団が盛り上がって、机の周りの二人の姿が見当たらない。素肌に掛かる洗濯物を窓際の物干しに掛け、洗濯物の触れていた箇所を撫でて、ひゃっこい、ひゃっこい、と呟いた。

 普段就寝時は、長椅子に末っ子を寝かし、自身は長椅子の端に体を折り畳んで寝る。ハオは寝る時は別室へ行く。其処で何を画策するか、又は表に繰り出して悪巧みか、千年間働くお疲れ気味の頭の心配も余所に野郎は夕方帰宅し子供の就寝後何処かへ消える。それで起床前に帰宅する。面倒な生活だね、と言うと、面倒なんだ、と溜息混じりに言って頷いた。

 長椅子の方へ歩み寄り、今日は違うと目を見開き足を止めた。掛蒲団に末っ子と一緒になってハオまで包まっている。黒色の縮れ毛と烏の濡れ羽色の後頭部を片方の肘掛けの陰に認め、長椅子の空間を確認して、さて自身の今日の寝床に困窮した。お疲れ気味の野郎を叩き起こすのは忍びない。しかし自分の寝る場所の確保をしようにも蒲団は無いし、季節の所為もあって部屋は夜が更けると底冷えして風邪を引き兼ねない。

 困って、突っ立って、寝惚けた頭を働かすのが億劫で、別室を覗いて蒲団を借り、長椅子があれば其処を借り、無いなら無いで机を寝台に代用しようと決め、一度部屋を出て別室の扉の取っ手を弄るが開かない。寝惚けた頭は寝惚けているだけあって碌な事を思い付かない、宿泊者が居ないなら、当然無人の部屋は閉まっている。これが本当の万事休す。他の部屋の扉を調べる前に宿泊部屋に取って返し、盛り上がった掛蒲団を見遣って、眠いし腹が立ったから部屋の照明を消すと手探りで机に攀じ登って丸まって目を瞑った。

 夢を見るか見ないかの内に体を揺すられ目が覚めた。真昼の如く室内は明るいが、表の日光が射し込んだ時の自然な明るさでない事は馬鹿の頭でも明白である。半覚醒の頭で体を動かし、顔を動かすと半眼のハオが居て、何か言うらしいが眠たいので聞く気は全く無い。私は眠い。君の話は明日聞く。と内心愚痴を零して再度体を丸めると頭を引っ叩かれた。仕方なく動作の覚束無い体に鞭打って起き出し、何、と起き抜けの不機嫌を露に尋ねた。風邪を引くから長椅子の方で寝なさい、とハオは言うようだが、頭が半分寝ていて解らない。

 明日聞くから寝かしてよ、今何時だい。早く、とハオは私の質問を無視して腕を引くが、不機嫌な私は机に陣取って動かない。眠い私はハオの手を振り払い達磨宜しく手足を折り畳んで硬く目を瞑った。

 そうして夢を見る事無く、或いは見た内容を起床の衝撃で忘れ、自然な明るさを肌で感じつつ上体を起こした。開口一番、何だこれ、と声に出した。

 私の起床場所に変化は無い、昨晩と同じ机の上だ。異なる点は幾つかあるが、全て自身の身近な物だから不快感は無かった。朝、遮光カーテンの引かれた室内の明るさからして平生の朝食の時間を過ぎた時刻と思われ、何故誰も起きないのかしらと首を傾げ、大きな欠伸を二度連発した。

 起きると座の周りが賑々しく、黒色の縮れ毛の丸い頭が急所の鳩尾に食い込んで居るし、ご自慢の烏の濡れ羽色の長髪を床に垂らしてでも落ちまいと人様の肩にしがみ付く外見少年中身は糞爺のハオが居た。離れた位置の長椅子の上は空っぽだった。昨晩二人の包まっていた掛蒲団は、今は私が上半身を起こしたので、末っ子の体には掛からないしハオの腰辺り迄捲れてしまっている。未だ寝惚ける頭を掻き毟り考える。誰も起きる気配がない、起き抜けの私はまだ眠い、起こしに来る人もない、即ちまだ眠られる。

 色々合点がいかない事も散見するが、一つ頷いた私は末っ子の位置を直し、落ちそうなハオを机の中央に寄せ、皆で掛蒲団を被って惰眠だろうが必要と思しき又寝を敢行した。物の数秒で夢の世界へ旅立ち、寒い日の蒲団の魔力の凄まじさを実感した。




 眠いと思考力が落ちますよね。
 だから勉強は一夜漬けとかよくないそうです。
 でも、そんな私は一夜漬け派。
 テーブルで寝るのって何か抵抗あるんです。でも眠いと関係無くなるから、寝ちまえばこっちのもんよ。
 テーブルをベッド代わりに寝た事のある方、あの違和感をどう表現されるでしょう…。
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