又寝から目覚めて窓掛けの金具の軋る音に吃驚して人様の急所の鳩尾に蹲る末っ子が机の下へ落ちかけ、慌てて片腕を伸ばし落下を阻止し、もう一方の腕の肘が反射的に曲がり、机の中央寄せたハオが外の方へ押し出され、揃えて伸ばす両足が机の縁を外れた。又仰天した私は一瞬身動きを止め、息を殺し、二人の健やかな寝息を聞いて胸を撫で下ろした。不快な衝撃を与えて目を覚まされたら必ず不機嫌な面で人の事を睨むに決まっている。野郎は自然に目覚める時迄、一切触れず寝かして置くに限る。鳩尾に引っ付く末っ子を野郎の顔の前に移動させ、机の縁を外れた両足を内側へ戻し、掛蒲団を被せ直して、自身は机を降りた。本来机上に寝転がるなぞ行儀が悪いが、寝床に代用したと言う事で、現代の祖父にはご勘弁を願いたい。
遮光カーテンの片方を開けて窓外の薄暗い町並みを俯瞰し、雨露に曝され建物の外装や金属製の看板の塗装部分の色が濃く見えて、暗色一色の町は雨音の底に生活雑音を沈めて通常の日々を送るらしい。脚下の往来の自動車や通勤乃至通学途中の人々の姿を見送り、昨晩干した洗濯物の乾き具合を思って物干しを確認するが、相変わらず洗ったばかりの様に冷たい。最後に洗った着物も当然冷たく、朝風呂に入っても着替えが無い事実に、二人を風呂へ追い遣って大丈夫かしらと不安を覚えた。未だ寝込む所を顧み、表の暗い日差しの届かぬ机上の布の塊に溜息が漏れ、思う以上に大きな溜息で少々驚いた。
未開のカーテンをその儘に、開けた方のカーテンを纏めて紐で留める。窓際の物干しを暗い日差しの当たる位置に直し、身を翻して部屋を出る。毛足の長い敷物に躓き踏鞴を踏み、靴を履いていないのに矢鱈五月蝿い足音が廊下に響き、余りの静けさに目を瞬かせた。鈍い足音が狭い廊下に響き渡る程、建物内は人が少ないか、居ても寡黙を装い口を噤んでいるのか、知る術なぞ持たないが不気味な程辺りが無音だから無闇に不安が募る。後ろ手に扉を閉めるのも随分勇気が要って、漸く閉めて、貼り付いた肌を引っ剥がし、一足二足と踏み出して昨晩の風呂場の見当へ歩いて行った。鉤の手の角の所まで物音一つ無かったが、角が見えた所で人声を聞き付け、強張っていた肩の力が抜けて涙が滲んだ。霖雨の静寂の中に一人で迷い込んだ錯覚に陥り、前後不覚になりかけていた所へ人の話し声が聞こえたので、本当に嬉しかった。
人の会話を気遣い忍び足で近付き、角を曲がり会話を交わす人影を捜す。人は角を曲がった直ぐ手前の壁に凭れ掛かるマグナさんと、斜向いに腕組みして突っ立った山田さんが居て、起きたかと彼らは遅起きの私の出現に目を瞬かし、後の二人の様子を問うて来た。揃って寝ていると伝え、報告旁現在の時刻を尋ねたが、驚く事に昼過ぎと言う。朝食や朝風呂の話でなく昼食と昼風呂になる訳だ。平生早寝早起きを信条とするハオが今日に限って早寝遅起きになった理由は知る気も無いが、いい加減起こして御飯を口に突っ込むくらい、又は掻き込ませるくらいしても罰は当たらないと思いたい。
起こして来ると言って踵を返し、部屋に戻ると机上の掛蒲団の山は微動だにしていなくて、末っ子は兎も角、野郎に関しては寝汚いと呆れる可きだろう。奥の大窓の遮光カーテンを全開に、薄暗い日光の射し込む室内は照明を点けてやっと昼間らしい様相を呈し、表の自然の光より人工的な光の方が眩しく感じられ、季節と言えど濛雨の陰鬱さを苦々しく思った。目が潰れる程の酷く明るい室内を振り返ると机上の掛蒲団の山が蠢動し、寝汚い野郎は眩しさの余り蒲団の奥へ逃げるらしかった。呆れ半分感心半分、一度目の轍を踏まぬよう掛蒲団を掴み、少し擦って頭髪を握っていない事を確認して蒲団を剥ぎ取った。今度は長い黒髪を引っ張らず、蒲団に絡まった黒髪が靡くだけで痛みは無いのか四肢を畳んで惰眠を貪らんと、照明の白から顔を隠す様に丸まった。
深く溜息を吐いて、末っ子は抱き上げ背中を叩いて覚醒を促し、野郎は声を掛けて少々乱暴に起こした。果たして不機嫌な面の野郎は机の上に起き直って頭を掻き毟り、絡まると一層不機嫌になるから手櫛で髪の先だけ梳いてやり、お昼過ぎだから風呂か御飯か決めてくれと言った。大きい欠伸を一つ、風呂、と一言答えた野郎の入浴への執着に首を傾げた。
腕の末っ子も目を覚まし、話を聞いていたのか聞こえたのか、お風呂に入ると言うので床に下ろした。昨日干した着替えと手拭いが生乾きの旨を伝え、片手を振った等閑な返事を横目に私は部屋を出て山田さん達へ二人が起きた事を伝える。風呂の後に御飯を食べる可能性があると言って、部屋に戻り二人に確認を取る。野郎は起き抜けも手伝って昼食は夕方に繰り越すそうで、末っ子は食欲があるのか塩結びと醤油で味付けた玉子焼きが食べたいと言った。
着替えと手拭いを持たせ、途中の角まで同行し、其処で末っ子の食事の内容と野郎の食欲を、料理人の山田さんに伝える。まるで伝令役の気分になった。
又部屋に戻って、長椅子に晏如として腰掛け、曲げた膝に肘を突いて額を手掌に押し付けた。視界が薄暗くなり、瞑目すれば尚暗く、しかし真の暗闇にならない中途半端の薄闇に表の雨音を聴いた。窓硝子を叩く雨滴の立てる規則的な鈍い音や金属製の窓枠を叩く時の鋭い音、時折缶に小石がぶつかった様な鋭い音も聴こえ、異世界でも雨の日に聴こえる音に差異が無い事を再認識した。現代の実家の場合、雨の日は茶の間に三匹の愛猫が集まって長机の陰で居眠りをする。食事の際に誤って足を伸ばすと猫達を蹴飛ばす事が間々あって、冬の炬燵だと確率は格段に跳ね上がる。同時に冬の炬燵は猫達の嘔吐物の有無を確認してから足を突っ込まないと豪い目に遭う。なので私は猫の居る家の炬燵に足を入れる真似はしない。自衛は大切だ。
薄闇の中、雨の間断なく降る中、遠くに猫の鳴き声を聞いた気がした。はっとして目を見開き素早く顔を上げ、室内を見回すが、遠くに声を聞いたのだから室内に姿を認められる筈がなかった。繁く降る雨に打たれ毛皮を濡らした愛猫の歩く姿が髣髴とし、目頭が熱くなる気持で椅子を立った。大窓越しに往来を眺め、猫の声を探すが雨音に掻き消されて聞こえやしない。最初から空耳だったと自身の幻聴を認めて長椅子に座り直す。膝を抱えて目を硬く瞑る。薄闇に赤や緑の光が明滅し、光の輪っかが出来て輪郭が朦朧とし出して薄闇に呑まれ、闇は一等色を濃くして視界を覆った。段々雨音が遠ざかって次に目を開けると現代の見慣れた自室の天井があった。
蒲団を起き出して障子戸を開け放って文机の上の文庫本の背表紙と出窓に並べた文庫本の背表紙を見比べ、一巻と二巻が異なる場所に置かれている事に今更気付いた。階下へ行く前に直し、気分をすっきりさせて廊下に出た。鉤の手になった角を曲がって梯子段を下り、台所を覗くが誰も居ない、念の為に勝手口を開けて裏庭を覗くも人影は見当たらず、皆茶の間に居ると断じて茶の間に向かう。障子戸を開けて中の家族を見付けて朝の挨拶をする。一足踏み入って不思議な空気に気付いた。長机を囲む家族の顔色が悪い、特に母の顔は蒼白を通り越して土気色で、今に胃の内容物を吐却しそうな病人のそれだ。
母の顔色に仰天した私は隣に駆け寄って膝を突き、机が邪魔で顔を覗き込むのに難渋したが、上半身を横に曲げて首を回して、大分無理な体勢で母の顔を見遣った。
土気色なぞ問題でない程の凄まじい顔付きだった。
開かれた目は出目と見紛う程見開かれ、肩を竦めて机に肘を突き皺の寄った額に両手を当て、下げた重い頭を両手に預ける風に全身脱力していた。その凄絶な形相に半身を起こし、居住まいを正して部屋中を見回し、机の陰の愛猫達も息を殺してじっと伏せている所を見付けた。まん丸の黒目と目が合った気がしたが、愛猫は何の反応も無く、声を掛けても耳すら動かない。顔を机の上に出すと蛍光灯の白が眩しかった。
茶の間が寒々しく思われ、細身の父や恰幅の良い祖父や小柄な祖母や、一層小さく見える母の姿をつくづく眺める。何気無く茶の間の二辺を囲む廊下の一辺、庭に向った廊下と茶の間を隔てる障子戸の磨り硝子越しに表の様子を見た。表は上天気で室内の雰囲気とはまるで違う。時節柄聴こえて来る小鳥の清々しい囀りが透明の空に響き渡る。耳を澄ましていると真っ青の空と小鳥の囀りに交じって鉛色の雲と雨音が見えて、聴こえ出して、おやと目を瞬くと見慣れぬ壁紙の部屋の長椅子に蹲って居た。
昼過ぎ迄寝入っていたくせに、又居眠りしていたらしい。存外私も寝汚いと、自身の体調管理の杜撰さに呆れた。そうして呆れていると部屋の扉が勝手に開いて、勝手に開くと言う事は誰かが扉の向うの廊下に居る訳で、今入って来るとすれば食事を運び込む山田さんかマグナさん、風呂上りのハオか此処で食事を認める末っ子の誰かだろう。多分末っ子は、ハオが昼食を省略する事を聞いているので、遠慮して別室で昼食を食べて来るかもしれない。あの子はそういった配慮の出来る良い子だ。誰がそうであれと教育したか知らないが、世話係より世話の焼けない子である。
開いた扉から入って来たのはハオだった。末っ子の所在を尋ねると、やはり別室で昼食を取ると言う。私も食べようか逡巡し、椅子を立つのを億劫に思って止めた。扉を後ろ手に閉めるハオは、寝起きの私の顔を見て顰めっ面で歩み寄る。
人様の顔を覗き込み、最近空白が多いね、とハオは言って隣に腰掛けた。別室で山田さんお手製の御飯を頬張る末っ子の膨らんだ黒い頬を思い浮かべ、自身の視界の端に引っ掛かる青白い顔の少年の、愛想笑いも見られない顔を盗み見る。相手のお家芸の効果で心中に垣根は無いが、態々口に出す相手でもないので、何を懊悩するか知らないが感情を排した顔付きで正面の机上の冊子の山を見詰めるらしかった。
「頑是無い様に思われるお前は、空白を通して現世の何が見ゆる」と呟く風に言い、金属の腕輪を外した素手で少し湿った黒髪を掻き上げて、長い前髪で目元を隠すと深く息を吐いた。
「帰れない場所を見るのさ。家族が居るもの」
ハオは前髪を手櫛で梳き、左右の束を左右の肩に掛けて目に被らないよう調節して、濡れて厚みの無くなった後ろ髪を纏めて絞る仕草を見せ、髪束を手放して空いた手で頬杖を突いた。
「連れてってやろうか。君の家族の所へ」
「それは、家に帰す、と言う事かな」
黒い双眸をこちらに向け目を瞬かせるハオの顔に感情を見て取って、彼が自身の言葉に戸惑っているらしい事を察した。同時に彼自身も内心の戸惑いと私の心中を看破し、途端不快げな面持ちで目線を下げた。
「それで放置しても構わないさ。でも、オパチョは歩と一緒に居る事を望む。僕一人では、オパチョの世界は満たされない」
「君の世界は、非霊能者が絶滅して、強い霊能者の世界が出来上がって、それで良かった、万事良かったと生き残った皆が納得して初めて満たされるのかい」
「何でだろう」言下に言って一呼吸分の間を置いて続ける。「何で、歩には、力が無いのかな。一寸ね、残念に思うんだ。力が足りなければ足してやる、補ってやる、それくらいやってやる。でも、全く力を持たない歩に力を与えても、その力は贋物で、本物には成り得ない。歩は僕の悲願である世界に生きられない」
千年在り続けて、こんな思いは初めてだ。
ハオの黒目の見詰める未来は渺茫として陽炎の如く曖昧なのだろう。彼の中で人間の性能が如何に明瞭に区分されようと、性能を重視して尚性能が劣りながらも見捨て切れない存在が胸中の空に巣食うなら、贋物だろうが終生人々を騙そうが無能を切り捨てる心事を胸中の空が許さぬなら、千年の時を懸けて臨んだ人類への復讐心を無駄にする事だ。千年の犠牲者達も浮かばれまいと、それは私も思う。此処で彼が私の存在を許して未来の霊能者達の世界での生存権を承認し、非霊能者の生存条件を緩和すれば、いつか現在の世界と変わらぬ事が起きるだろう。
「そう、過ちを繰り返すだけだ。故に、以前言った、お前を見逃すと言う愚行を現実とする事は出来ない。だのに、惜しいと思う自分が居る」
「君も人間だね。千年頑張っても、中身は人間だ。人間は心変わりする。王様は、他人の意見に翻弄されて国民を苦しめてはいけないよ」
「駆除される側が言うか。可笑しな子」
「私はね、家族が大好きだ。だから、オパチョが大好きだ」
「僕らの未来に歩の生きられる余地は無い。オパチョはお前を求めるだろう、ママを求めたように。でも、この星の為には、お前も滅ぼさなければならない」
「だから、オパチョには生きて欲しい」
「オパチョは生きられる。お前は、許されない」
「でも、人が生きるには、土地が必要だ。土地とは、世界と言う物の中に在る。だから、世界は存続しなければならない」
「この星を救う。人の生きる土地は、今は穢れ、痩せ衰え、浄化を必要としている」
「今の世界でも、人は生きている」
「土地は疲弊し、人は土地と共に飢え、土地と共に息絶える。今の世界に、飢え無く、呼吸の安楽な場所は無い」
「それでも、無力な私の様な人間は、生きている」
「藻掻いている。息苦しくて、他者を踏み躙って、踏み台にしてでも呼吸しようとする」
「それに自覚が無いのは問題だ。それを見える君達は、見えない私達を滅ぼして、星と共存するんだね」
ハオは到頭頭を抱えて溜息を吐いた。
「歩も見たろう。オパチョと出会う前、死体の転がる村に辿り着き、死体を踏んで転んだろう。世界は、軈て足の踏み場も無く死体で埋まる。止めるには、原因である人間共に解らせるしかない。でも、人間共は理解しない。もう、駄目なんだよ」
「私は、非情だけれど、家族が無事なら良い。私の家族は、まだ無事だから、無事な家族を滅ぼされるのでなければ、私は仕方ない、寂しいけれど潔くあろう」
「何故、解ってくれない」
「家族が生きるには、他の人達が必要だもの。人は、陳腐な言い方だけれど、繋がって生きる。土地を、世界を、一人で維持は出来ない。生きるには、人が、多数必要なんだと思う」
「シャーマンだ。シャーマンが生きれば良い」
「シャーマンが生きるのに、無能や無力な奴は不要かい。本当に、一種類だけが残れば良いのかな」
不要だとハオは即答し、そうして顔を上げて私の横面を見詰める。私も前髪が伸びて、寝起きもあって髪留めで纏めていないので、伸び放題散らかり放題の頭髪は視野を狭めて光源を限定する。要するに、視界が暗い。ハオの気配は衣擦れが頼りだった。
「君は、一人で悩んで、一人で結論付けたんだ。仕様がないよ。それでやって見ろよ。私は、私自身の事だから反対だ。困るもの」
「汚い世界に、オパチョを住まわせて良いのかい」
「それは、卑怯だ」
「何で、君は無力なのだろうね」
「困っているよ、無力過ぎて。帰れないし、護れないし、何にも出来ないし」
ハオは又溜息を吐いて頬杖を突く。前傾姿勢の所為で折角肩に掛けた前髪が手前に落ち、首をくすぐるのか、鬱陶しげに払って項垂れた。
「オパチョは、幸せに生きて欲しい。仕方ないから君に任す。私は、その時迄、お姉ちゃんで居よう」
ハオは腕を倒して、骨の歪みそうな悪い姿勢で更に頭を垂れて、首が痛くないかしらと心配になる程低い姿勢で起き上がる気配はない。
「触れ合えない家族に届けたい言葉を届けるには、一体どれだけ、何を頑張れば良いかしら」
「連れてってやろうか」
「オパチョの幸せな未来を見届けたら、適当に彷徨うさ。気持だけ戴こう」
私は夢の家族に思いを馳せ、羊のママの存命中に愚痴として零した言葉を思い返す。死ねば異世界に帰れるのだろうか。隣のハオの後頭部と痛そうに伸び切った首を見詰めて、頬袋の様に頬に御飯を詰めた末っ子の顔を思い浮かべ、ふと詮無い事を思った。
異世界に帰れるか。それはハオにだって解らない。何故なら彼は、異世界を信じていないし、異世界を思う私の心を読む事が出来ない。世の中上手く回るね、と言うと、皆下手糞だから滅ぼすんだ、とハオは吐き捨てるように言い返した。意図が伝わっていない事実を察し、口では同意し、内心はやっぱり上手く回ると頷いた。何が上手く回るのか、きっとハオは読み取れないから私の事を分からず屋と思っているだろう。
帰りたい。
誰だって無条件に自分を受け入れてくれる、自分を待ってくれている人の所へ帰りたいですよね。
私は実家に帰るのが面倒臭いですが、帰る日は滅茶苦茶楽しみです。