第五十一話:
私は今小さな十字路に立っている。右折か直進か思い出せず立ち往生し、既に五分は此処に突っ立ち、時折通り過ぎる住民の小母さんや学生達の視線を一身に受け、遅刻も嫌だが方角が立たないで冷汗が噴き出す。方向音痴の気は無いと思いたいが、以前の荒野の散策と言う命知らずも甚だしい行為を思えば、或いは本当に方向音痴かもしれない。
方向音痴とは前後左右、若しかしたら上下の感覚すら危うい者を呼び習わすのだろうが、その通りなら私は当て嵌まらない。私は左右も前後も上下の感覚も非常に明瞭であり、荒野のど真ん中でも左右前後上下の感覚を失った事は無い。つまり私は方向音痴ではないと言う事だ。
では、何故立ち止まるか。それは簡単な話、通学路を忘れてしまったのだ。
* * *
滑走路の見える基地を金網越しに見て、私は腰を屈めて足下の末っ子と手を繋いだ。先頭を行くハオは後方の一団を一顧だにせず金網の隙間を擦り抜けて奇妙奇天烈摩訶不思議の雑踏する中に姿を溶け込ませ、行き場を無くした一行は銘々好きに動き出し、特段する事の無い私達は露店を巡り、資金の手持ちも無い為眺めるに留まるが歩き回って所在無く佇む野郎の背中を見付けた。駆け寄って合流を果たし、雲霞の如く蠢く広場の人集りを避けて木造の小屋の見える閑寂な滑走路前の金網の前に移った。滑走路を背に蕭颯たる碧空を仰ぎ、暫く三人共黙って、何を契機に賑やかな人声に気付いたか判然しないが、目線を声の見当へ遣ると隣の野郎が満面の愛想笑いを浮かべて金網から背中を離した。
彼を引き留める理由は無い、言葉を掛けて立ち止まる性格でもないので見送るが、どうやら人様の頭痛の種の諍いを惹起し、前方の木造の小屋の柱が木っ端微塵に砕けて一緒に少年迄も吹き飛ばしたらしかった。まさか自身の眼前で堂々理不尽を振り翳すとは夢にも思わず、末っ子を抱き上げ首根っこを引っ掴んでも制さねばと使命感に駆られ飛び出した迄は良かったが、突然野郎の体が上昇し中空で止まった。幾ら爪先立ちしても自身の手が届く位置になく、渋々怒鳴る事で制止を呼び掛けんと息を吸った時、無遠慮な手が頭を掻き回して、折角吸った息は怒声でなく悲鳴が代わって出た。
手の主を見上げ、黒い遮光眼鏡をかけた良さんが居た。自身を挟んだ向いに善さんも居り、いつの間にか一行が揃い、花の三人娘の内の煙草を銜えた少女が中空で偉そうな顔の野郎に会場へ戻る事を促す。野郎も腹立たしい笑みを湛えた儘首肯し、一行相手に双子の弟だと明言して憚らない原作の主人公へ何か言付けて戻って来た。不可視の巨人の手掌か膝か肩か知らないが、会場の手前で降りて人集りへ紛れた。以上の一連の出来事を非霊能者にして全くの無関係の立場の者として静観に徹した私は、決して離れた所を歩いている訳でない山田さんの傍に張り付き、潰さない程度強く抱き締める末っ子の欠伸を顎で感じ取ってあやす。最後尾は容貌魁偉の大男と縦も横も大きいハンさんが並び、背後から敵意の塊の何者かが迫って来るような逼迫感を覚えて振り向き、つぶらな目のお二人と目が合って申し訳ない気持になった。
先の広場を方角は判然しないが太陽を目指して奥へ進み、格納庫のある広場に行き着いて、自然蠢いていた人の群れも立ち止まり周辺は騒音の坩堝と化した。格納庫の前に設えられた演壇の上に見慣れた恰好の十祭司が堵列し、真ん中の沢山の飾り羽を付けた男性か女性か一見性別不詳の小人が背筋を伸ばして一声、開会の挨拶の続きのように語り出し、正直開会まで歩き詰めで遣って来た私はいい加減立位も辛いが、校長先生の挨拶やお偉い方の祝辞を聞く気で姿勢を正し辛抱強く終わりを待った。私が抱えた為に眠気を催した末っ子は、大会のお偉い方の挨拶を半ば眠って聞き流した。非常に羨ましく思いつつ、重みの増した末っ子を落とさぬよう抱え直して、真夏なら貧血になって倒れる者が続出する殺人的に辛く長く感じる挨拶の終了を只管立って願った。
その願いは存外早く叶い、正面の格納庫の扉が開いて急に辺りの喧噪の種類と言うか、人の緊張の度合いと言うか、目に見えた変化があって、その変化に気付けぬ私は傍の山田さんの外套を摘んだ。曰く、特大の飛行機が格納庫から出て来て、大会参加者達はそれに乗り主催者一族の村へ向かうらしい。パスポートも無しに不法入国を宣言されたのだから参加者達は気の毒な話だが、山田さん善さん良さんのお三方が振り返って私の顔を真面に見る。正面に豪壮な機体を輝かす旅客機があると、日本人のお三方はおっしゃるが、無論非霊能者の自身の目は空っぽの格納庫の中が見えるだけだ。諦観の体の私は深く頷き、今から笑いっ放しの膝を死に物狂いに立たせ、冷汗か脂汗か或いは両方を手掌より滴らして立ち尽くした。今朝から上機嫌の野郎の背後を護る三人娘はこちらを振り向いてにやにや笑っている。宜しい、ご要望にお応えし、臍で茶を沸かせる程怯えて、腹が捩れて腹痛を起こす程無様を曝して進ぜよう。
軈て参加者の群れが動き、しかし私は方向が解らないので立ち往生し、見兼ねたハンさんと容貌魁偉の大男事ビルさんの話し合いの結果、ビルさんの肩に末っ子共々担がれ搭乗した。不思議な事に透明の機体に透明の内装は、透明であるだけらしく指先で突くと硬質な感触が伝わり、座席と言われ降ろされた尻の下を突くと目の粗い生地の感触が指先を通して解った。
膝の上に本格的な居眠りの態勢に入った末っ子を載せ、否抱き抱え、真後ろに山田さんか善さんか良さんの気配を感じ、斜め後方に人様の不幸を酒の肴宜しく噴き出すのを堪える風の少年に扮した糞爺が居て、飛行機を降りたら横面を引っ叩いてやると決意した。震えを押さえ切れず、着座の姿勢も難儀だから全身を震えるに任せ、暇潰しと気を紛らわす事を兼ねて周囲の人々を見回し溜息が漏れた。本当に不思議な事だ。私の目は機内と外気を隔てる壁や人々が安楽な姿勢で腰掛ける座席も見えない、機内を照らす照明も荷物を置く頭上の棚も、本来背凭れに隠れる人の後ろ姿、その全てが見えないのだ。
不意に腕の末っ子が身動ぐので落としそうになって仰天し、脚下の薄い陰の塊を認めて震え上がった。機体の陰は出来ないのか搭乗者の陰ばかりが足下のコンクリートの足場を覆い、其処に誰も突っ立っていないから一層不思議でならない。同じ非霊能者が現場を目撃すれば搭乗者の群れは空中に浮き上がり静止して居る訳だが、機内の霊能者達は外側の目撃者の衝撃なぞ毫も気にせず各々好きな席に着座し、種も仕掛けも無い(ように見える)空中浮遊の騒ぎを何処吹く風と飛行機の離陸を待つのだろう。大胆不敵と言うか、非霊能者の目撃を考慮しない暴挙に少し呆れた。これで大会や神様の存在は人に知られてはならないと嘯くから可笑しな話だ。気付いてくれと言わん許りの主催者の行動を、私は目撃してしまった者として口を閉じる事で、無用の衝突を避けた。
透明の背凭れに凭れる覚悟も無く、背中を丸め両膝を立て、腹部と太腿に末っ子を挟む形で座り、一瞬体の沈む感覚に動転して悲鳴を上げかけたが、大勢の陰が地面を滑っているのを見て飛行機が動き出したと解った。飛行機は道路を滑走し、ぐんぐん速度を上げて浮き上がる。機内らしく寒風が顔面に吹き付ける事はない。奇妙な浮遊感を覚え口中の唾液を飲み下し、傾斜地に突っ立った時の違和感が全身を襲って堪らず末っ子の脳天に顔を伏せた。体の前面に圧迫感があり飛行機の離陸を察した。恐る恐る顔を上げて黒い縮れ毛越しに身辺の風光を眺め遣り、あっという間に無愛想な灰色の地面を離れて白い雲の中へ突入し、足腰が力み過ぎて痛みを訴え出す頃、雲の上に出て遥か遠くの雲海に息を呑んだ。
本日の空は半晴、白雲が透き通った秋空に点綴し、雲の上でも地上の模様を見下ろせるかと思われたが、いざ飛び立って雲の上へ来ると脚下を雲が覆い、綺麗か薄汚いか美醜の不分明な景色は主観的に美しいと感嘆する程の雲海が広がるばかりだった。しかし景色の美しさは油断ならない。主催者は搭乗者の気を緩めさして落っことす計画かもしれない、心の強さ云々と誰ぞが言ったが、心身の強度を試すなら心の準備の半端な内に機外へ放り出す暴挙も厭わないと確信めいた気持があった。十祭司の大会の開催手段が大雑把である事は、常々と言う程接した覚えも無いが、予選の会場や飛行機の件もある為過言でない事は確かだろう。
果たして十時間後、寝飽きた末っ子の不穏な予言の後、私は全く聞こえなかったが小人の結びの言葉と同時に尻の下の座席の感触が消えた。
自身の喉が裂けん許りの悲鳴が出かけ、一瞬恐慌の余り悲鳴すら呑み込むが押さえ続ける胆力に欠け、耳を劈く大声が口を一寸衝いた時、首根っこを掴まれ後方へ引き寄せられた。肌の粟立つ腕を叩かれ、漸く末っ子を抱く力の加減を忘れた事を思い出した。顎の下の縮れ毛と額を叩く硬い皮膚の感触の御蔭で我を取り戻し、震える全身を叱咤して振り返り、親戚か、或いは近所の娘の慌て振りを笑いたい小父さんと目が合った。私の左右は善さん良さんが居て、大分前の方に、風に外套を翻すハオが胡坐をかいて落下最中の人々を鼻で笑っていた。
「ちっちぇえなあ」
とハオは言って自分の脚に肘を突いて眼下の群れを見詰め、頬杖を突いた状態で器用にこちらを振り向いた。
「歩、お前も怖がり過ぎ。この僕が居て誰か一人でも取り損なうなんて、そんな無様な真似をするかい」
この野郎なら笑顔で冗談と一言で済まし、そして遣り兼ねない。最後は救助の手を差し延べてもらえると思うが、後の救助の有無よりその前の落下中の恐怖の方が問題なのだ。だが、今目の前で笑顔の糞爺に詰め寄っても洟も引っ掛けない事は目に見えている。非常に業腹であるが、此処は抑えて緘黙するに限る。
「馬鹿で可哀想な子」と金髪の少女事マリオンが言った。
「さっすがハオ様! あんたも感謝なさいって」と南瓜色の頭の少女事マチルダが言った。
「まあ、全部が透明の飛行機に乗って、その状態で急に落っこちるんじゃ誰でもビビるって」と弁護して下さったのはハンさんだ。
「貴重な体験だったと思っておけ。そう言う物だと思う方が、気も楽だ」とハンさん同様に弁護らしき言葉を掛けて下さったのはビルさんだった。
「しっかし、そう考えると、歩目線だと可成りシュールな光景だったろう」と善さん。
「だろうな。全員空中に等間隔に並んで浮いて、その儘離陸…違うな、動き出すんだからな」と良さん。
「今も大して変わんねえだろう。ま、又暫くは空の旅だ」と山田さんは言って私の頭を掻き回した。
「オパチョいる。へーき!」
私は末っ子の脳天に顔を埋めて深く、肺の底の空気迄を吐き出さんと息を吐き、震えの止まらぬ手で縮れ毛を撫で回した。
よし、どんどん行こう。
省こう省こう。どんどん行こう。