異国の大地の遊牧民の遊牧地へ移動の度に体験した不可視の飛行機を再度搭乗し、待望の地面に足を着け笑う膝に手を突いて踏ん張った。四辺は僅かな星明かりの恩恵も虚しく頭上を覆う真っ黒の空が底力を見せ付けて同系色の闇に包まれている。両手の届く範囲の人の顔も判別出来ず、小娘の頭に手を載っける人の声で人物を判断し、案の定山田さんが頭を撫ぜ近くに控えて下さるので一行の代表の自称未来王の掛け声を待った。腕の末っ子の感触と頭皮を揉む山田さんの手の感触と、二人分の体温を頼りに暗闇の中で息を殺す。別段猛獣が居て自身の命を狙う訳でないが、一寸先も見えぬ闇の所為か普段通りの呼吸をする事が困難だった。其処に居ないと解っていながらも、夜陰に潜む無頼の輩から身を護る為に、つい気配を絶とうと努力してしまう。
山田さんの声と善さん良さんの声が頭上に聞こえ、俯き加減の頭を擡げ、夜空の星と遠方の黒い群峰の境目、空と大地の境まで目線を上げた時突然目先が明るくなって肩が跳ね上がった。顔の真横に青白い横顔があって驚駭の余り後退りして山田さんとぶつかった。明かりの向うの青白い顔は、最早こう見えるが常識のハオの手掌に灯した火影に照らされた横顔で、夜目の利かぬ頓馬な小娘の抱く末っ子の安否を気に掛け自身の横を定位置と決めたらしい。寝惚け眼を擦る末っ子を顧み、今日は休もうと言って、当たり前の顔でその場に寝転がって目を瞑る。異国の大地で活躍した幕屋は持ち込み不可なのか将又持っていないだけか、恐らく後者だろうが幕屋は持ち合わせない為、急遽一行は夜天の下、雨風を遮る物を周囲に巡らす事無く就寝した。
翌日、太陽三竿昇る頃、一行は起き出して行動を始めた。朝食は各々準備した携帯食糧を齧り、抑も携帯食糧の用意すら儘ならぬ私達はラキストさんに分けて頂き、口中をぱさぱさに乾かしてハオの目指す何処か名も知らぬ町へ向かう。道中末っ子曰く、貧弱を極める私や可愛い末っ子が風邪を引かないよう、昨夜も内々に持ち霊を使い暖を取ってくれたとか、素知らぬ顔の野郎を盗み見て伝わるか否かは別に内心感謝の言葉を述べて目礼した。先頭の烏の濡れ羽色の長髪が乾いた風に靡き顔を隠すが、元から前髪が長い上、人前で感情の起伏の激しさを発露させる事も稀な彼の気色に見当をつけるのは容易でない。後で、別に内緒で持ち霊を使う事もないだろうと思ったが、結局動機を聞きそびれて永遠の謎となった。
景色に変化の見られない、格別面白くもない罅割れの酷い道路伝いに平坦な大地を直歩き、向うの色褪せた群峰を正面に据えた町が見え出したのは、暮色が鋭い山嶺に掛かる頃だった。此処でハオは一度一行を制し、今夜は町の外に泊まって明日の朝に弟一行の出発を見届けたら自分達も出発しようと言う。金魚の糞宜しく黙って先頭について回るだけが能の私に、拒否する理由も無いが権利も無いので、やはり黙って奇怪な集団の次の行動を見守った。
宣言通り町の灯火の目視出来る距離に野宿して、翌日昧爽、一人起き出し町へ向かうハオの背中を、纏め損ねた前髪の間隙に認めて追うか逡巡する。黄色い風に朦朧と見える背中が町の出入り口の看板を潜るのを見届け、胸元の熟睡中の末っ子を考慮して、その場に座り込んでハオの帰還を待った。時が経つに連れ寝入っていた人々が目を覚まし、町を貫く大路を弟一行が闊歩する様を揃って見届け、身支度を整え町へ入り、先に町に居たハオと合流した。
大会主催者の出身村を訪ねる旅は、概ね上記のように弟一行を生温かい目で見守り、時に先回りし、傍で見ずとも犯罪行為と言う他無い行為を繰り返す事十数日間、時々この糞爺は只の家族好きでないかと疑いたくなる程弟に目を掛け、軌道修正などを行い、犯罪者予備群なぞでなく全く手遅れの犯罪者の様相を呈して家族を追っ掛けた。弟に事実を告白し、実家との間を取り成してもらえば良いだろう、と内心何度も愚痴を零すが、彼の真意が実家にない事も承知している。しかし、前述の通り犯罪者宜しく付き纏うのも如何なものか。付き纏いと言う行為が犯罪である事は間違いないが、付き纏い続ける者を犯罪者と言うのは、実際逮捕されたら犯罪者だけれど、一般的呼称は変態に違いない。彼は自身がそう言う行為を繰り返している自覚があるか無いか、多分悪気も無いし無いのだろう、悪気が無い変態が一番いけないと思う。
ある日、夜来の雨の繁く降る深夜、とある寒村に辿り着いて滅多とお目に掛かれぬ無人の石造りの家屋を複数見付け、其処で一晩を越すと決まったある時、風邪の引き始めの症状が出て山田さんに末っ子と離れて寝るよう言い付けられて、別の家で日本人四人仲良く就寝の体勢に入った瞬間、表で私を呼ぶ甲走った声がして慌てて出て見ると末っ子が居た。稲妻が真っ黒の空を引き裂き、黄色や白色の無数の割れ目を作っては消え、又作って消える。嵐も生温い大嵐の中、風雨に巻き上げられそうな矮躯で地面に這い蹲り、雨中でも判り易い泣き顔の末っ子はハオの様子を見てほしい、と医療の知識も持たない私に懇願した。
正直ハオの健康管理は腹心のラキストさんの担当であるが、末っ子は自分の姉貴分の世話係を頼って大嵐の中を駆けて来た。姉貴分として鰾膠も無く断るは姉貴分の世話係の名に泥を塗る恥以外の何物でもない。山田さん達を振り返ってラキストさんを呼んでもらい、腹心の到着を待つ気も無い私達は世話係の任を大義名分と言い張ってハオと末っ子の泊まる家の扉を蹴破り侵入を果たした。雨が吹き込むので建付けの悪い扉を蹴飛ばして閉め、壁際の硬い寝台に項垂れる恰好で腰掛けるハオに駆け寄った。上体が前傾して一層内に入った細い肩を掴み、彼が顔を上げるより先に足下の末っ子を見遣り、聞くのを失念した彼の容態について尋ねた。
末っ子は、ちぃ、ちぃ、ちぃ、と頻りに舌打ちの様な、表現に難儀する言葉か只の音か判然しない、要するに音を繰り返す。早々に理解を放棄し、何やら一刻を争うらしい鬼気迫る顔付きの末っ子を信じて、慎重な手付きでハオの上体を起こし顔を覗き込む。最初目にした時は言葉もなかったが、一拍置いて、今度は私が悲鳴を上げた。
「オパチョ、タオルとか消毒液とか、兎に角綺麗なタオルは」と私は自身が何を言っているか全く解らなくなって出るに任せた言葉を好き放題言い放った。
「タオル、ちぃ、ハオさま、ちぃ!」と末っ子は私の頼んだ物を一度復唱しただけで後はすっかり忘れて其処いらを駆け回った。
私達が動転した訳は目前のハオの顔にある。前髪の生え際か脳天か知らないが、まるで頭を搗ち割った様に黒く温かな液体が淋漓として額に滴り、鼻筋を通って二股に分かれて両の頬を濡らし、顎を伝って胸元や、項垂れていた所為でズボンや床に迄黒い斑を作ったり水溜まりを作っている。尋常ではない出血量だ。今に貧血を起こして昏倒し兼ねない程血を流し、それで頭が重くて下を向いていたのかと得心するが、当の本人が満面に愛想笑いを湛えて違うと否定した。糞爺曰く、アサクラ─漢字は私が失念して申し訳ない─家に遺る自分の式神が敗れ、自分の術が自分の身に帰って来たそうで、傷も治すから問題無いとか。
無論私は腹を立てた。顔が熱くなって真っ赤になるのが解る。
問題のある無しでない、何だその態度、怪しからん奴、心配して泣く子供を前に笑う馬鹿があるか。
唾が飛ぶのも構わず怒鳴り散らし、祖父の怒った時の口癖まで飛び出した余勢で開いた手を振り被り、流れる液体に真っ黒の顔を見て我に返った。血の気が引くのを覚えて手を下ろし、激昂した自身を抑えようと無意識に浅くなった呼吸を深い呼吸に直して頭を殴って気を落ち着けた。ちっとも落ち着かないが、怪我人を引っ叩く事はないと思われる。全身が震えるのが解る。激怒とか憤慨とか、余っ程の怒りを抱いた事は、前世や現代を振り返っても数える程も無い。私は前世現代含め数十年の人生で、初めて震える程の怒りを覚えた。
深く、深く、胸に痛みが走る程深く息を吐いて、怒りも一緒に吐き出して、目の奥が熱くなって、もう抑えられない。一瞬目の奥が灼熱して物の輪郭が模糊として見えず、瞬きして目元の熱を逃がすまいと努めるも、奥の熱が溢れて勝手に流れて行った。
この年で、人前で泣くなぞ恥以外の何物でもない。大嵐の中を走って濡れ鼠だから雨滴と混じって判り難い事を願うが、相手は人様の心中を見抜くお家芸を持つ糞爺だ。熱を逃がす様に深呼吸し、今以上の醜態を曝す前に濡れた袖で濡れた顔を拭き、震える手で涙目の末っ子の縮れ毛を撫ぜて言った。
「ハオ様は、自分で治せるって。大丈夫、平気、ハオ様は強いね」
「ハオさまああぁぁ」
私の言葉が届いたか知らない末っ子は、愛想笑いを引っ込めて人間臭い変な顔で末っ子を抱き上げた。
「歩」とハオが末っ子の額を撫ぜながら無関係の筈の私を呼んだ。
「何だよ、オパチョはねえ、君を、君をだねえ」と私は胸中に燻ぶる怒りを抱えた儘応え、御蔭で何を言いたいか一向に纏まらない。
「これを言ったら、今度こそ君にビンタされそう」
「何だ、又馬鹿げた事を抜かすか」
「いやね、言っても大丈夫かい」
「知らないよ、君が何を言いたいか、私は心なんぞ読めない」
「そりゃそうだ。嫌だなあ、ビンタは」
「良いさ、拳骨をお望みか、喜んでぶちかまそう」
「もっと嫌だ。でも、言わなきゃ、最後は蹴りが飛んで来たりして」
「やってやろうか、糞野郎」
ハオは変な顔の儘続ける。
「歩にとって、オパチョの怪我と僕の怪我って、同列なんだ」
私は心底呆れた風に溜息を吐いて肩の力を抜いた。
そういや大分前、異国の大地で末っ子が駆け回って膝小僧を擦り剥いたのに腕が痛いと泣き叫んだ事があった。あの時は、すわ骨折か脱臼かと、私が一人で大騒ぎした。山田さんやハンさんが様子を見て下さって、結果は腕は打撲だったが今も思い出すだけでぞっとする出来事だ。
「仮に君が指を切ったとしよう、同時にオパチョが膝を擦り剥いたとしよう、私はオパチョを心配する」
「逆だったら」
「そうだね、君の方だ」
「やっぱり」
「何て下らない問答だろう。君が指を折ったなら、君を心配する。君が指を千切ったなら、君を心配する。オパチョは体が小さい、小さい分、色々の事に気を付けなければならない、これは常識だ」
「僕は治せる。君はそれを知っている。なのに、心配する。オパチョと同列に扱う」
「不満か。第一、頭から血をだらだら垂らす人を見て心配しない馬鹿が居るものか。知っている相手なら尚更だ。嗚呼、気持悪くなって来た、血の臭いが酷い」
「酸欠じゃないかな」
私は糞爺の言葉を無視し、糞爺の隣の汚れていない掛蒲団に顔を突っ込んで瞑目する。胸がむかむかして喉元まで胃の内容物が迫り上がる様だ。
間断なく雷鳴の轟く大嵐の扉の向うから腹心のラキストさんの声が聞こえ、風雨に全身を打たれながら室内へ入り、糞爺の怪我の具合を見て相応の処置を施すらしい。掛蒲団に顔を伏せた儘微動もしない私の後頭部を、多分ラキストさんが小突き、非常に億劫だけれど顔を上げて犯人を確認すると、やはりそうだった。戻って早く寝なさい、腹心の彼は言うのだが、如何せん体が言う事を聞かない。物に預けた瞬間重みを増した頭を振って、冷たい節榑立った手が額に被さり簡易体温計になる。その心地好さに目を瞑ると暫く辺りは真っ暗で、次に目を開けたら翌日の昼を過ぎていた。
あんな怪我なら誰でも心配すると思います。
私は気絶します。