生者必滅、会者定離   作:赤茄子

56 / 74
第五十五話:

 いやに平静な鼓動を額に感じ、又伝わる温度の寂寥感に耐える為顔面を覆う両手の爪で皮膚を掻き、痒い程度の痛みを五月蠅く思いつつ涙でしとどになった顔を同じく濡れた手掌で拭った。全く効果は無い。濡れる面積を増やすばかりで水気を拭き取る事が出来ない。しかし当時の私は濡れた顔面や額の鼓動や安心感ある温度も構わず、只々二度と手の届かない所へ行ってしまった人を偲び、与えられる刹那の優しさに身を委ねて悲しみに暮れた。寒々しい背中を庇う他人の外套の衣擦れが耳朶を掠め、一瞬意識が引き戻されるが律動的に響く後頭部への衝撃に瞑目し、薄闇の誘引を受け入れて真っ暗の孤絶した悲しみに沈んだ。

 遠くでハオの名前の後に敬称を付けて呼ぶ低い声を聞き、顔を離して様子を窺おうとしたが、後頭部を叩かれ頭を擡げる隙が無い。頭上でハオの声が、外套を通して籠もった様に聞こえるが内容を聞き取る事はしない、している暇があるなら体内に溜まった涙が涸れる迄咽び泣いた方が健康的で建設的に思われる。無論慟哭の最中に前述のような事をつらつら考えなぞしないが、慟哭の真っ最中の私は周囲の人々の心配も迷惑も一切顧みる事無く泣き声を上げ、後で当時の曖昧模糊とした意識の中に見聞きした出来事を追懐すると、頻りに末っ子が私に呼び掛け、腹の辺りで丸まって暖を取っているように思われた。どうも山田さんの死の直後の自身の身辺の子細は朧な記憶を掘り起こしてもちっともはっきりしない、はっきりしない記憶だから、初めから事実が不分明であるのは仕方がない、記憶に無いなら無いで書きようがない、それだけだ。精々夢の現代の自室で一人漫画本を読み耽った記憶しかない。

 閉じた瞼を押し上げる、視界が明るくなって眩しいくらいだ。燦爛と輝く天井の白い照明が直下の目を射り、眼底に鋭い痛みが走って片手で光を遮ろうと腕を上げかけ小首を傾げた。肩の上がり具合が悪く腕を持ち上げられない。精確には顔の位置迄持って行けない、肘の伸び具合も宜しくない、意識が明瞭となった後の自身の不調に背筋が寒くなって半身を起こし、その動作も又緩慢に遂行するのがやっとと言う有様である。上体を支える肩肘に力が入らず胸部が寝台にぶつかり、圧の掛かった腹部の辺りで蛙が長く鳴き、同時に硬い物体が腹を押し退けんとする様に蠢いて、私は驚きの余り奇声を上げて寝台の上に引っ繰り返った。

 再度天井を仰ぐ形で仰臥し、現在の体調で可能な限り素早く起きて蛙の正体を確認した。其処に蹲る丸い物体を認めて件の蛙かと身構えるが、蛙の頭部と思しき箇所は見覚えた縮れ毛の塊で、続く胴体も見知った渋色の外套を纏った黒色の肌の矮躯だから血の気が引く程仰天した。私が圧殺未遂で苦しめた相手は可愛い末っ子だった。慌てて抱き起こして意識の確認を行い、瞬間力無く閉じた団栗眼が見開かれ、末っ子は飛び上がって病み上がりの姉貴分の世話係に抱き付き、抱き留められなかった私は、末っ子の跳躍の勢いを殺し切れず無様に引っ繰り返った。黒く広い額が黄色い私の額と衝突し、骨同士の搗ち合う音が室内に響いた。文字通り響いて、驚いた風のハオが顔を出した。

 青白い面を横目に、漸く寝台の置かれた部屋、即ち自身が臥床していた部屋が大会主催者の村に到着して直ぐ選んだ破屋の一室と異なる内装に気付いた。破屋の寝台は非常に硬く寝心地は地面での起臥が増しと思われるくらい酷い、だのに今自身が半身を横たえる寝台は、ある程度の綿の詰められた敷蒲団が敷かれ、薄いが頑丈な作りの掛蒲団が末っ子に引っ掛かり、これだけなら寝具を用意したと予想するが、内装の変貌具合は部屋の構造から全て別の部屋と取り替えでもしなければ説明出来ない。破屋に照明なぞ無かった。抑も風が吹けば倒壊必至の、村の端の人気の無い荒屋を選んだのだから照明器具の類が残っていても、出火の危険無く使用出来るとは考え難い。以上の事柄を瞬時に把握し、私は末っ子を抱いて現代の実家に有りそうな縄簾を撥ね上げ部屋に飛び込んで来たハオを見遣った。彼も私の阿呆面を見詰める。

 見詰め合って開口一番、お早う、と私は目覚めの挨拶をした。私の挨拶に倣ったか特段考えも無く言ったか知らないがハオも挨拶を返し、寝台の傍に寄って来て破顔する末っ子の縮れ毛を撫ぜた。末っ子は笑い、幼児特有の甲走った声に私は頭痛と眩暈を覚え目元を片手で押さえる。意識は野郎に抱き寄せられ咽び泣く所から始まり、誰か聞き慣れたようなそうでもないような声が聞こえ、しかし確認する事無く嗚咽し続け、途中視界が真っ黒くなって目を覚ますと現在の状態だった。人様が困惑して思考が縺れ、その心中を読み取った野郎曰く、泣いた後高熱を出してぶっ倒れ、荒屋の設備で対応出来ない程容態が悪化して不承不承担当の十祭司を呼び出し医療設備の整った、所謂診療所へ運び込んだ、今日で私が寝込んで二ヶ月経ったという。二ヶ月と言えば、夢で見た漫画本通りの進行ならそろそろ東京へ選手一同移動開始の刻限である。こちらが問う迄もなく、野郎は数日後に移動すると言い、一度最初の破屋へ戻ろうとも言った。診療所は好かないらしかった。

 拒否の理由も無い私は末っ子を降ろし、自身も寝台を降りた。が、膝が不可視の飛行機に乗った時の如く笑って足が前に出ない。二ヶ月間朦朧とした意識の儘寝台で眠りこけた代償であった。転倒した際、其処に居ると危ないので末っ子を縄簾の向うへ遣り、代わってハオが遣って来て手引きをしてくれる。本来要介護どころの話でない千歳の糞爺が矍鑠として、数十歳の小娘の方が腰が曲がり一足踏み出すのも難渋する光景を、知る人が見掛ければとんだ茶番劇と思うに違いない。当の本人達は至って─糞爺の心境は知る所でないが─真剣その物で、足が前に出ない、と言う数十年の人生に於いて未曾有の現象に直面し、冷汗や脂汗を滲ませ一歩一歩確かに踏み締めて縄簾の向うの末っ子の許に着いた。

 当の小娘と急遽世話係を兼任する事になった糞爺は立位の保持も危うい状態で合議し、結果、宿泊先の破屋まで徒歩で向かうが、道中入り用の物を購入旁歩行の訓練となった。甚だ不本意であるが、立ち止まって小憩するのも辛い。私は糞爺に引かれる儘時間をかけて患者の居ない診療所を出て、先刻初耳の入り用の物について気息奄々と尋ね、それは君が要る物さと抜かす糞爺の阿呆面に立腹した。考える間も無く入り用の物を尋ねられても思い付く筈がない、そう言う大事な事は前もって言っておく可きと思われる、君だって急に必要な物、欲しい物を尋ねられて咄嗟に出て来るかい。糞爺は糞憎たらしい笑顔で首肯した。

 診療所は段々構造の村の上層部に位置し、土産物屋の密集する階は大分下だが、精霊王を囲う柵より一段高い段にある。入り用の物も其処いらで買おうと決まった。しかし診療所は上層、土産物屋が下層と言う事は階の上下を階段や梯子で繋ぐ料簡で、足腰の弱った若輩の身には堪える。が、他に道は無い。意を決して階段を下り、空の様子が全く解らないので時刻は不明だが、土産物屋がちらほら見える頃、私の足腰は限界を超過し冷汗と脂汗が綯い交ぜになって傍目に見ても健康と言える体調でない事は明白だった。洞窟を掘ったか元来ある空洞を利用したか知らない大会主催者の出身村は、村の様相を整える為、岩を掘り勾配の急な階段を作り、木々を接いで梯子を作り、兎に角激しく起伏した段々畑も真っ青の岩壁に減り込んだ村で、其処から下ろうと言うから病人や老人は骨だろう。実際病み上がりの私は眩暈と頭痛と傷心の所為でぶっ倒れたくて堪らなかった。

 身体の不調より慕う人の死から浮上出来ない心の方が大事で、未だ感傷に浸る私は末っ子の気遣わしげな顔に気付けない。破屋への帰路の途次土産物屋の中に服を見掛け、末っ子の恰好と見比べ、丁度良い機会だとハオに服の購入を提案する。彼も愛想笑いでなく人間臭い笑顔で応じ、三人でよろよろと幾つか土産物屋を覗き、自身で提案しておきながら甚だ申し訳ないが大幅に低下した体力の限界も限界を超え、一人下層の広場の中央の噴水の煉瓦造りの水溜めに腰掛けて待つ事になった。木造か石造か離れた位置で見るだけでは解らない鳥の像が水を吐き出している前に座り、末っ子が気に入った着物探しに繰り出し、珍しくハオがお供と言う形で少し後ろを行く。心配そうな顔で振り向く末っ子に手を振って、序でに私に似合う着物も見繕ってほしいと頼むと、俄然やる気になって階段を駆け登る。溌溂とした足取りの矮躯を小走りに追い掛けるハオに、気を付けて行ってらっしゃいと手を振った。外套を翻して末っ子を追う糞爺は人様の挨拶を無視して行きやがり、一度出掛けの一言や帰宅の一言の重要性について議論せねばならないと思った。

 そうして一人便々と噴水の水溜めの縁に腰を掛け、村人の着る民族衣装以外の衣装を纏った村人然とした人波を眺める。此処の村人でない村人風の人達が皆大会の本戦参加の決定した選手だから驚きである。各々衣装は個性豊かで街中を歩けば衆目を集めるに違いない。末っ子も、糞爺も、勿論今の私の恰好も街を歩けば携帯電話のカメラを向けられるだろう。

 煉瓦造りの水溜めの縁に後ろ手に手を突き、筋肉の痩せた肩と肘が辛くて止め、背中を丸めて溜息を吐いた。いっそ横になって眠りたい。寝飽きた気もするが座位を保持するのも疲れる。身も心も疲れ、雑踏の中に一人ぽつねんと座っていると寂しい気持になる。異世界で体調不良になった事は数回あり、大抵一行の隠れ蓑の遊牧民の一家の母親や女性陣が面倒を見てくれて、日本に来てからは山田さんにお世話になった。塩味のお粥、醤油で味付けた玉子焼き、鰹節と醤油を混ぜたお結び、他諸々、宿泊施設での生活は殆ど山田さんの手料理を食べていた。特に玉子焼きが現代の実家の味に近くて懐かしかった。

 又涙が滲む。軽く洟を啜り、袖で濡れて鬱陶しい目元を拭い、それでも熱くなる目頭を押さえ、声を殺して歔欷した。泣けば山田さんが頭を撫ぜてくれると思って、どうしても泣き止めない。

 ぶり返す悲嘆に暮れ、無性に前世の母の声が聞きたくなった。前世の私は母の声を真面に聞けないのに、何故か母の声は記憶の底の沼に浮沈していた。時折顔の記憶だけになりそうで、時の流れを恐ろしく感じた。現代の家族の許へ帰り、早く声を聞きたい、そう強く思う。帰れば聞ける、帰れば逢える、もう逢えないのは死んでしまった人だ。

 止め処無く流れる涙を押さえ、傷心も何もかも、胸中を空っぽにする様に深く息を吐いた。

「其処のお嬢さん」

 と全く聞き慣れない声が降って来て顔を上げた。

「日本人かい?」

 とその人は言い、咄嗟に私は頷いた。

「では」

 その人は末っ子に似た丸い縮れ毛の頭を軽く振り、恐らく懐に隠し持っていたのだろう、とても仕舞う事の出来る大きさではないが仕舞っていたのだろう。

「日本海(ニッポンかい)?」

 日本海側の日本列島、そして海を描いた、妙に緻密で色鮮やかな絵が、A3か2か知らないが大分大きな画用紙に描かれている。

 返答に窮した私は、一拍置き、気を取り直して答えた。

「日本海ですね。とてもお上手です」

「ニッポンかい?」

「はい」

「ニッポッ!!」と全文を言い終わらぬ内にその人は私の眼前から消えた。




 ギャグにすらならないギャグは私のギャグセンスの限界故です。
 原作主人公側(?)のキャラと初会話。
 やっと、やっと此処まで来た!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。