青みを帯びた明るい黒髪、と名状し難い頭髪の色を見て目を瞬がせ、目前の人は逆立てた毛先が揺曳して髪留め用の帯が脱げかけ着地と同時に帯の位置を直した。凝った意匠の上着を着込み、下腿の露なズボンを穿き、大きめの靴を履いた足で地団駄を踏んでその人は末っ子に似た縮れ毛頭の人を指差し、大喝一声、素っ飛んで行って胸倉を掴み上げて前後に揺すぶった。その剣幕たるや悪鬼羅刹の如く凄まじい形相で、水溜めの縁で大人しく尻を暖めて居た私は気圧され手足を縮め取っ組み合いを見物した。観戦者になる気は微塵も無かったが、何やら自身の不手際で縮れ毛頭の人が暴行を受けているらしい事は解った。しかし制止の声を掛けようと喧嘩が終わるとは思えない。
困じ果てた私は周囲の人達に助けを求めようと思い付き、首を巡らし人々の顔色を窺い、救いの手を期待するだけ無駄と、通り掛かりの人達の顔付きを認め諒解した。下手に声を掛ければ喧嘩を囃し立て、取っ組み合いが激化する事は想像に難くない。目前では野次を飛ばす者もないのに激化の一途を辿る喧嘩を繰り広げ、既に顔面が腫れ上がって痛々しい二人の少年が怒鳴り合い殴り合う。流血沙汰は免れない。引き離し気を落ち着かせたいが、聞く耳を持たない事は少年二人の顔付きを見れば解る。双方の剣幕に辟易し、他者を宥める技術に長けているかは別として、他者を無言で圧し、閉口させる事に長けた人物が身近に居ると思い出して、肝心の人物が末っ子と共に土産物巡りに出ていて当てにならないと肩を落とした。
少年の甲高い声が一層激しく、高く響いた時、鈍い轟音が地面を揺らして喧嘩の現場が吹っ飛んだ。本当に吹っ飛んだ。地面は抉れ、小さい窪地が出来て、手前の自身が立つ地面と同じ高さの地面に突っ立つ人影を、砂塵の中に見付け戦慄した。硬質感ある漆黒の髪が埃塗れでも美しく、後ろ髪を逆立てた一本角の小鬼が居た。長柄の刃物を突き立て、肩幅に広げた足で大地を踏み締める小鬼は、一足踏み出し、一足飛びで窪地を越して向うの少年二人を相手にがなり立てた。
「喧しい、何を、馬鹿をやっている、早く行くぞ」と小鬼は喝破して刃物を仕舞うと二人の首根っこを掴んでこちらに戻って来る。
水溜めの縁で腰掛けた儘の私と目が合い、私は仰山に跳び上がって身震いし、確かな足取りで、迷う素振りも見せず歩み寄る小鬼の眼光は鋭く、逃げる術を持たぬ為座って待つ状態の私の内心は半ば泣いていた。
「うちの馬鹿共が失礼した。連れが居るなら、早く戻ると良い、パッチ村の中でも暴れる者は腐る程居る。弱い者は死ぬぞ」
案外話せる小鬼だった。私は小鬼の暗色の双眸を見遣り、そして数十日間の旅で見覚えた容貌と合致するので、声は初めて聞いたが、間近に小鬼を見る事で正体に想到する。
「若しや、葉様の御友人の方々ですか」
と私が言うなり明るい黒髪の少年が飛び起き、縮れ毛頭の少年は小鬼に放られ、二人は改めて構えを取ると私へ敵意を向けた。
「てめえ、ハオの仲間か」と明るい黒髪の少年が断定的な口調で言う。
「んなぁぁにぃぃぃ!!」と縮れ毛頭の少年が動物のように跳ね起きて四つ這いで臨戦態勢を整える。
私は敵意を向けられても抵抗の仕様も無い為、その場に座った儘身を硬くする。
そんな徒人の雰囲気を犀利な感覚で感じ取ったらしい小鬼が後の二人へ掣肘を加え、事なきを得た徒人に向き直り出しかけの刃物を仕舞って眦を吊り上げる。
「ほう、確かに一度横茶基地で見掛けた顔だ。随分間抜け面で弱い奴が居るものと思ったが、生きて、パッチ村に辿り着いていたとは」
「相変わらず、よく憶えているな。にしても、豪く普通っぽい奴じゃねえか」
「くそ、こんな所でハオ組と出会すなんて」
銘々好き放題に言って、小鬼が一歩踏み出して言った。
「貴様一人か? ボスはどうした? 仲間も居ない、ボスも居ない、脆弱な貴様一人で、俺達を殺しに来たのか、偶々通り掛かったのか」
「偶々、此処に座って、人を待って居ただけです」
「む。そうか、それはすまなかった」
後方の二人が突っ立っていた筈なのに転倒した。
「誰を待っていた、貴様らのボスか」
「はい、オパチョと言う子供とハオ様を」
明るい黒髪の少年が立ち直ってこちらへ駆けて来るなり人様を爪先から脳天まで観察し、腕組みして鼻を鳴らした。
「連中の仲間にしちゃ素直じゃねえか。蓮、どうするよ、ハオの事、聞いとくか?」
「ふん、まあ、確かに素直に喋りそうだが」
「て、お前ら、本当にハオと因縁あるのかよ!」
と縮れ毛頭の少年も立って駆け寄り、小鬼と明るい黒髪の少年の肩を掴み前後に揺らして涙目で叫んだ。そうして頭や上半身が大きく前後に揺れ、船酔いに似た症状を見せる明るい黒髪の少年に比べ、小鬼の方は眉根を寄せて凶悪な面で肩を掴む手を引っ剥がし、膝で後方の少年の顎を蹴飛ばした。
私は三人の遣り取りを噴水の水溜めの縁に腰掛けた儘、微動もせず、飽きもせず眺め、ふと思い付いた事を言い出そうか止めようか、口を開いて閉じて声を出すのを暫し躊躇って結局言う事に決めた。縮れ毛頭の少年の姿は不可視の旅客機に搭乗の際も見ておらず、異国の大地の横断の旅でも見ていない、恐らく村で出会った少年なのだろう。つまり、彼は何も知らない。自身の知りたい出来事を目の当たりにしたのは、それは目前の小鬼と明るい黒髪の少年、ハオの弟さんと異国の大地横断の旅を共にして、この大会主催者の出身村に着いた二人でなければ私の質問の内容を理解する事はないと思われる。
「一寸、宜しいですか」と意を決した私が言葉を掛けると三人は一斉にこちらに向き直った。
小鬼の方が目顔で続きを促し、私が言い出すのを静聴の体で待った。他二人も緘黙した仲間に倣い口を噤み、私の言葉の続きを待つらしい。
「葉様と此処に来られたお二人に、お聞きしたい事が御座います」
「連中の仲間のくせに、馬鹿丁寧だな」
「山田さんをご存知ないですか?」
小鬼と明るい黒髪の少年は首を傾げ、互いに目配せして山田とは誰だと話し合い、小鬼が軽く目を見開いてボリスさんに殺された人と言い当てた。
「そうです、その方です。その方は、山田さんとおっしゃいます、それでダマヤジと呼ばれているようです」
「その男がどうした。ボリスに殺され、全身の血を抜かれ、死体は干涸びて消えた」
改めて聞くと耳を塞ぎたくなる死因だ、亡骸の始末も惨憺たる方法でないか。忘れていた灼熱が目の奥に再来し、鼻の奥がつんとする。
「本当に、御遺体は、無いのですね」
「ボリスも殺され、奴の媒介の血も飛散した。貴様の言う男の持ち物も、何も残ってはいない」
到頭堪え切れず又泣き出した。遺品一つ無いとは酷い話でないか、山田さんが生きた証も何も干涸びて消えたとしたら、後は死者の山田さんは生者の人々に忘れ去られる以外に話題が無い。死人に口無し、幽霊の見えない私等の常識は、死者は墓地に眠り、時折生者が訪れて相手の墓前で拝み、日常生活では死者の事を思い出しもしない。逐一思い返し悲嘆に暮れては生活が成り立たない、年に数度の行事の際に偲び、それで懐かしむ程度で非霊能者の営みは続くのだ。
上記の営みは、元の世界の場合だ。現在の私が上記の儘に過ごすには、身辺の平和が不足している。自身の味方がない。寄る辺も無い。忘却の営みは安心安全、全て保障され反故にされる事の無い世界が前提の不安定な造りである。異世界に於いて絶対の味方が肝要だが、この際絶対でなくとも味方と称せる相手なら心の拠り所と言える。私は前世の記憶通りと雖も一度羊のママと言う拠り所を無くし、今回山田さんと言う拠り所を無くした。手元にある拠り所は、末っ子一人だけれど、あの子はハオの事も大好きだから困らせたくない。
突然目の前の小娘が泣くので、三人は大層驚いた風に後退りして、明るい黒髪の少年の方が口を開いた。
「その山田って奴、お前にとって、大事な奴か?」
「ええ、はい、とてもお世話になった方です」喉を震わせ言葉が続くに任せた。「だって、そんな、私、何も言っていない、有難うなんて、足りないじゃないか、山田さん、とてもお世話になって、熱出した時もずっとお世話に、オパチョを育てる時も、夜泣きも、服を汚した時も、何でも手伝ってもらって、大丈夫って言って、いつも、いつも、本当にね、親戚の小父さんを思い出すようで、お世話に、ハオを恨む人に捕まった時も、助けてくれて、私が悪い時、窘めて、ハオが怒らないようにとか、私が謝れるようにとか、飛行機も、怖いって、大丈夫って、アメリカに着いた時も、いつも、いつだって、でも、何にも言っていない、皆さんと行ってしまう時、私、寝ていたし、何も言わない、又風邪を引いて、寝込んで、何にも言っていない、行ってらっしゃいも、怪我しないでねも、気を付けても、何も、どうしよう、居ない、死んで、もう逢えない、何処にも居ない、もう逢えない、そんなの寂しい、居ないなんて、寂しい」
逢いたい。帰って来て欲しい。でも、あの人はもう死んだ。
私が両手で顔を覆い項垂れていると、頭上に立つ二人と事情を知らぬ一人が困惑する気配を感じた。随分後になって耳に付き出すが、ハオの一行が周囲の人達の口に上る時、大抵は良い噂でなく悪い噂で、害意が酸鼻を極めて他者を復讐へと突き動かす。異国の大地の遊牧民と共に暮らした日々の中で末っ子共々誘拐され、瀕死の重傷を負った経験は一度切りだが、ハオへ向く怨嗟や憎悪や嫌悪の負の感情を肌に感じた事は複数回記憶にある。異国の大地で大脱走劇を演じた時、日本の宿泊施設に滞在した時、ハオは行方を眩まして私達に近寄らなかった。彼は自分自身を対象とした負の感情を察知し、可愛い末っ子と世話係の無力な小娘の身を案じ、後図を謀って傍を離れたのだ。しかし、存外誰もハオの心遣いを知らない。一行が察しているか、それは私の方が距離を置いて見る為判然しないが、可愛い末っ子を遠くに置いた、彼の単独行動の理由を知る者は少ないらしい。
彼は彼で、存外気の良い人だ。先刻のように出掛けの挨拶を無視する等、少々の問題に目を瞑れば一寸無礼講の平々凡々な人物と言えない事もない。平生は此処まで弁護する真似はしないが、共に過ごした経験も無い人達に悪い噂を吹聴されるのは、可愛い末っ子の姉貴分の世話係として我慢ならない。
これは山田さんの場合も同様である。頭上の三人─内一名は山田さんを名前すら知らないが─が数分間顔を合わしただけの山田さんの人相すら遺忘するのは、それは山田さんがお亡くなりになった為だ。彼ら三人はハオの麾下の霊能者と言う情報だけで、私の知る山田さんを悪く言うだろう。数分顔を見た覚えのある程度の関係で、その人の悪い噂を信じ込むのは許し難い。彼はお酒を愛し、肴に蟹を好み、写真の撮影が趣味のカメラ小僧だ。風の噂では、彼も残虐非道の殺人鬼のように言われる。それが我慢ならない。尤も三人を前に咽び泣く頃は何も知らないが、三人がそれぞれ、私の反応に不信感を抱いている事は解った。
涙の滂沱として顔中を濡らす私を見下ろす三人は、少し経って誰かが肩を叩き、俯けた顔を半ば上げた瞬間だった。
「やあ、彼女が世話を掛けたね」
「アユム、ふく、えらんだー。みてー」
と末っ子が地面に引き摺りそうな紙袋を振り回し駆け寄って、三人の間を擦り抜け私の膝に抱き付いた。
「歩、行こうか」
ハオは常の愛想笑いを湛えて腕を取った。
味方のように傍に居てくれた人が死にました。
しにたい。