破屋の宿舎に舞い戻り、数日後、不可視の飛行機に乗せられ日本は東京近海の孤島に上陸し、島の隅に建設した競技場内で霊能者達が各々の技を競うらしい。無論非霊能者の私は末っ子を抱いて観客席を離れず、村の診療所の病床で昏々と眠る夢の世界にて読み耽った漫画本に沿って事が進捗するなら、本心は日本人二人の出場の辞退を促したいところだが、物語の因果と諦め、一回戦後の平穏と怪我の快癒を祈る事にする。正直観戦は勘弁願いたいが、糞爺が末っ子を連れて観客席へ向かうので渋々追っ掛け、円形状の闘技場のぐるりを囲む観客席の一角に一行は陣取り、勝負を今晩の酒の肴にするように嘲笑した。以上の事は洞窟の奥の村を出て直ぐの話で、村を辞す迄の数日間は破屋の一階の一室で寝たり起きたりと忙しかった。
件の出会いの後、私達は破屋に戻るのだが、足腰が覚束無い私はハオの手引きで帰路を踏破出来る筈もなく、噴水の前の袂別の挨拶もそこそこに透明の巨人の手掌で運ばれ破屋の玄関で尻餅を搗いた。巨人の全貌は生憎欠片も見えないのだけれど、脚下を望む巨人の手掌越しに認めた人々の顔は驚愕と恐怖に染まり、自身が歩くのも困難な為に人様を驚かした事は相済まないと思う。世間様の惑乱の火種となった事が悲しい、混乱を助長させた容疑者の糞爺は愛想笑いを浮かべた儘末っ子の紙袋を開け、料金を支払ったか非常に疑わしい衣装の品々を見せびらかす。何処か見覚えある赤色のラグランスリーブの上着は末っ子用、緑色の大きさ違いの上着を私の為に選んだ末っ子の得意顔に相好を崩し、糞爺は先の愛想笑いを拭い去り親馬鹿の顔で末っ子の背中や胸に服を当てる。楽しそうなので放って置く。
前述の通り破屋の玄関で尻餅を搗き、立ち上がりに難渋してえっちらおっちら建物に入る。二ヶ月の間に食堂と化した空き部屋から花の三人娘が顔を覗かし、目が合うなりハオへ帰宅の一言の挨拶、ハオが笑顔で応じると笑顔を返して建物を出て行った。以降村を辞す日迄の数日に亘り顔を合わす機会は無かった。私の帰宅を喜ぶ人物は少ない、精々歌の特訓に明け暮れる善さん良さんと主に花組との不和に呻吟する非霊能者の小娘を案じて下さるビルさんの三人だ。他の人達は仲間の死をも鼻で笑う独特の感性を持つ為、仲間と括られるかも怪しい小娘の帰還を手放しで喜ぶ人は、それこそ末っ子一人だ。一人でも居るには居るから、私は恵まれている。
一階の一室の寝台に這い込み、掛蒲団を敷布団に代用して寝転び、診療所を出て噴水の水溜めの縁に腰掛ける迄の道程で一日分の気力体力を使い果たした私は先刻の小鬼の言葉を思い返し、喉に閊える鉛玉ごと溜息を吐いた。まだ喉の奥を塞ぐ鉛玉が幾つかあって、いっそ飲み込もうと口中の唾液を溜めて嚥下するが、鉛玉を通り抜けて食道を下るだけだった。膝を抱える様に四肢を折り畳み、空元気の末っ子が硬い枕を持って来て、寝台に登ると私の腹部と大腿の隙間に矮躯を落として居眠りを始めた。土産物屋巡りに疲れたと思われる。自身も座った姿勢の保持に疲れ、又待つ事に疲れ、慕う人の最期を聞き、心身共に覚醒して直ぐの衝撃に気疲れしていけない。腹部の末っ子を胸元まで引き上げ、抱き抱えて瞑目する。現代の実家の自室で前世の漫画本を読む夢は見なかった。
少し寝て目覚めると、洞窟内の為太陽の位置が解らず時刻も判然しない。室内を見回し、窓際の寝台なので窓硝子の無い窓の向うがよく見え、上体を反らし首を伸ばすと柵の中の野球場があった。人影はなく、何故広大な土地を柵に囲うだけで放置するか、柵の周囲の森林の成長の度合いを見ても植物が育たない環境でない事は間違いない。畑を耕し何か育てれば経済的且つ建設的、有意義な土地となる。土地の開発はその土地に住む人々の裁量次第だが、将来の生活を思案すれば畑は必須と思われるが、村人でない私の卑見故、余り参考にしないでもらいたい、だから私見は胸中に仕舞い披露する機会は無い。
抱いた儘の末っ子の矮躯を寝台の中央に寄せ、頭部を自身が使った枕の位置に寝かす。寝台から足を降ろして窓硝子の無い窓枠に手を突いて起立を試み、脂汗を滲ませ漸く立って、端から一瞬暗転する視界を、頭を振り回復を促しその場に踏ん張った。ともすると頽れる足腰を叱咤し、窓枠を掴み少し身を乗り出す様に凭れて向うの村の景色を遠望する。白けた土の段々や岩壁の中の村を眺め、何気無く見回した先に赤茶けた土が棋布した壁や地面がある。そうして破屋の一階の一室から見渡せる範囲を見遣り、所々白と赤茶の比率が異なる箇所を見付けた。天井の方は赤茶が多く、又壁も上方に赤茶が多い、下方は白けた土が多く見られた。白い土の方が加工し易いのか、本来の土の色が上方に多い赤茶色なのか、二ヶ月間も逗留して景色をつくづく眺める時間も気力も無かったが、時間を作って、と言っても退屈凌ぎに眺めるだけだが村を見晴るかして新たな発見に目を瞬かせた。
村を観察する事体感時間にして一時間、長時間の立位に体が続かず頽れて額を壁にぶつけ、派手な音が室内に響いて自分自身で驚き跳び上がった。間抜けと言う勿れ、自覚済みの事柄を他者に指摘される屈辱は己を一層惨めにする。その無様に忸怩し、静かな寝台静かな室内を確かめて胸を撫で下ろした。一切の身動きを止めれば衣擦れも聞こえない静寂が部屋全体を覆い、宿泊施設で聞いた五月蠅い時計の秒針の音も、村に時計が無い為、類似の音も聞こえない。末っ子の呼吸音は小さ過ぎて届かない。表の往来の人声も村の隅の破屋迄届かないらしく、全く無音の部屋に一人座り込む。すると脳裏に去来する声がある。山田さんの声だ。節榑立った手が頭を掻き回す音、温もり、鼻腔に蘇る料理の匂い、山田さんの好きな燗酒、カメラの手入れの音、説教、しつこい涙が溢れて頬を濡らした。
額を壁に押し付け、いつぞや暇潰しに押し競饅頭をして遊び、相手は山田さんだった。涸れる気配の無い涙を袖で拭い、嗚咽を殺して蹲った。
「まだ泣くの」と呆れた調子のハオが言った。
私は内心出て来るから流すだけだ、と駁論し、震える両手で耳を塞いだ。しかし耳に届く音響より自身の喉から出る嗚咽が気になり、両手を口元に押し当て咽び泣いた。
「死は、いつでも訪れる」とハオ。
「惨めな死は嫌ねって」と私はいつかの言葉を繰り返す。
「どんな死に方が良い」
「老衰か、どうしようもない病気以外で死ぬのは、どれも酷いと思う」
「理想的な死だね。歩なら出来そう」
前世は出来なくて現代の私に続いているが、どうせ空白で読めぬハオには解るまい。若しハオが異世界云々の真実を心底信じた時、彼の言う空白部分は開示されるのでないか、ふと私は思った。
「どうした?」
私は言葉を繋げようと口を開き、涙か鼻水か将又唾液か痰で咳き入り一時的な呼吸困難に陥り、ハオに背中を摩られ、咳が落ち着き肩で息をしながら謝辞を述べた。烏の濡れ羽色の前髪が汚い床に擦れ、美艶な毛先が箒の代わりに床を掃く。可哀想だから前髪の左右の束を摘まんで肩に掛けてやった。
その瞬間、別に関連する出来事があった訳でないが何故か思い出したので、思い出した事を言った。
「ハオ、…様」時々敬称を略すから気が抜けない。「出掛ける時、行って来ます、とか言った方が良い。言わなくても、行ってらっしゃい、と言うから反応が欲しい。帰って来たら、只今、と。言わなくても、お帰りなさい、と言うから君の返事を期待する」
ハオは渋い顔で唇を尖らして言った。
「そんな、面倒臭い」
「何を言う。挨拶だ、挨拶だよ、出掛ける時の一声と帰って来た時の一声さ。大事だろう」
「言わなくても、出掛ける事は解るだろう」
「礼儀だ。親しき仲にも礼儀有り。家族でも言うよ。君は言わないの?」
「言わなかったら母さんが追い掛けて来て、しつこく言うな。そういや、そうだね」
「オパチョの教育に宜しくない」
「そうか、改めよう」
ハオの手を煩わして立ち上がり、隣の寝台に腰を掛けて窓外の野球場を見遣る。家屋は皆村の中心部の野球場を向き、見える人は精霊王の玉貌の拝謁の栄誉を賜る訳で、見えない人はだだっ広い空き地が柵に囲われ放置されている様にしか見えない。ある意味無礼千万の行為だが、見えないから無作法の自覚は無く、故に精霊の王様の恩恵も全く無い。尻の傍の末っ子の寝顔を見下ろし、可愛い子供に与えられた精霊の王様の慈悲慈愛は何処まで信用出来るかしらと思案投げ首、無垢で可愛い子が幸福に包まれ長生き出来るお慈悲なら幾らでも頂戴したいが、幸福が抜けるなら要らない気もする。黒く福々しい頬を突き、生きている体温に目を潤ませた。
背後に寝台の軋る音を聞いて振り向くと、黒髪を寝台一杯に広げたハオが寝惚け眼を擦って末っ子の横に寝転ぶ所だった。長髪の垂れる頭が縮れ毛の丸い頭の乗っかる枕を越し、細い顎の下迄越して胴体を横たえた。下肢を曲げて末っ子を抱き抱えるように眠るハオに、期待も無くお休みと一声を掛け、時間をかけて横に並ぶ他の寝台から掛蒲団を取り上げ外套を羽織った儘の二人に掛けた。ハオの返事は無かった。
返事が無い事で思い出した。私は現代の家族に、行って来ます、と一声掛けて家を出た。行ってらっしゃい、と家族の声も聞いた。挨拶をした手前、常識的に考えるなら、必ず帰宅して只今と一声掛ける可きである。帰る方法は、未だ解らぬ為、家族に告げる可き帰宅時の一言を、私は胸に仕舞った儘今日に至る。言いたいな、と濡れた目元を拭い野球場を眺めて思った。
凄え今更ですが、此処だけの設定。
ハオは霊視の為に眠る際も騒音が激しくて睡眠の妨げとなっているのでは、と思い、現に原作でも可愛がっているオパチョと寝る描写(廉価版での)が見られませんでした。
完全版で、葉の心の声が聞こえて中々眠れないみたいに言っていましたので、ハオは普段皆から離れて眠る、とこの物語では前提として書きました。幕屋では仕方ない。
日本上陸後は、まあ、コンセプトの一つなので仕方ないとして、オパチョ(皆)と一緒に寝るようになりました。以上此処だけの設定でした。
出掛ける時の挨拶。しないと何かもやもや。
帰った時の挨拶。此処に居るよ~、という報告。
それが出来なくなった時、凄え寂しい。
家族への挨拶。凄え大事と思う。