生者必滅、会者定離   作:赤茄子

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 題名の四字熟語は造語です。
 私は育児の経験はありませんし、現地の子育ても全く知りません。
 上記の事をご理解、ご承知の上でお読み下さい。


第五話:食膳困餒

 最初の失敗談は、まず排泄だった。親戚の子育てを逐一刮目して見届けた訳でないが、記憶の彼方の子育てはおしめを当てて汚れたら交換する筈で、最初からおしめと言う物を念頭に置かぬ育児方法は知らなんだ。よって私が前世含め初体験の子育ての失敗の一は排泄だった。環境の全く異なる外国で現代日本風の育児を試みる事は無謀の極みであったらしく、胃に、腸に何も無い、空っぽの消化器に腎等の泌尿器が機能しているかも怪しい瀕死の嬰児が拾った翌日早朝に特段異常の無い尿を漏らすなぞと誰が思うだろう。無論、私が思った訳だ。

 岩場で少年元へ葉王─以後面倒臭い為片仮名で呼び習わそう─を背中で見送った後、某少年漫画の世界と気付けた事は奇跡に等しいが気付いたから今後に影響する、と言った上手い話は無く、トリップ後も以前と変わらず幽霊や妖怪が見えるとか、可笑しな変化は見られない。強いて言えば、乙破千代と命名された嬰児が自身を気に入ってくれた御蔭で首の皮一枚繋がった事、以降将来の自称未来王の腹心の子育てをする事、その間自身の首は繋がっている事が約束されたくらいだ。そうして翌日、自身の立場に変化無く、容態が急変したのは嬰児の方だった。

 その晩私は、岩場に御輿を据えて眠る時は硬い石のベッドに横臥し、蚊に食われませんようにと何処かの誰かに祈りつつ就寝した。

 昧爽夢の国の出入り口付近で右往左往する頃、異変に気付き飛び起きても時既に遅し、明色の長袖ティーシャツが湿気を帯び、一寸撫ぜて指の腹を見ても汚れは無いが布を触れば微かに濡れている。心臓が早鐘を打って背筋に冷汗が滴り、無地の白いシャツに斑が出来た。

 恐る恐る捲って確認すると黒い地肌が朝焼けを受けて黒光りしていた。慌ててティーシャツを開いて濡れた臀部を外気に晒すが、拭かずに自然乾燥させてかぶれやしないかしらと思案投げ首、此処いらで子育てに知悉している人物は皆無だろうから人選に苦慮し、結局人の好いかは別として、決して人の悪い訳ではない山田さんを叩き起こし助言を乞うた。山田さんは私の言葉を聞き、起床後の開口一番に言った。曰く、子育ては解らんから聞いてくれるな。

 聞くなと言うが言っただけで手を貸して下さった。濡れた汚れ物は致し方無し、無事な箇所で嬰児の臀部を拭い、山田さんの上着を一枚拝借して全裸の嬰児を包み抱き上げる。あやす迄も無く非常に大人しく居眠りしていた嬰児の肝っ玉に感心した。

 二人揃って嬰児の世話に汲々としていると直に皆が起き出し、烏の濡れ羽色の長髪に昨晩岩場で見掛けた草を引っ掛けたハオが遣って来て、お腹空いたね、と言って破顔した。私はその時、彼自身の抱える起き抜けの空腹感を吐露したものとばかり思ったが、真っ白の太陽が昇って遊牧民の家畜の鳴き声を聞き、御飯をどうするか考え、そうして気が付いた。彼は人の心を読める、物語はそれに煩悶する彼の事も描かれていた。頑是無い子供の頃の彼の行いにけちを付けても詮無いので止すとして、心を読める彼は意思を正しく伝える術を持たない嬰児の代弁者であると考えられた。すると先程の発言は、と想到し踵を返した。

 怪しい集団は質素な朝食を済ましたなり二手に分かれ、一晩過ごした先に居残ったのはハオとラキストと喧しい日本人の二人組、そんな四人は何処からか喬木を引き摺って来て作業を始め、俄に辺りが賑々しくなった後の声の掛け難さ。踏鞴を踏んで又身を翻すと岩場に向かった。

 真昼の太陽の恩恵と言うか災禍と言うか、兎に角光の届かぬ所なぞ無いと豪語出来る程、太陽が辺り構わず照らし出す御蔭で昨晩の岩場の下段の景色がよく見えた。薺に似た植物の生える箇所を見詰め、それが本当に稲のようなので一寸驚き、間近に確認しようと一段岩を下りて駆け寄って屈み込む。穂らしき部分もあり、やはり稲らしい。

 日本より遥か遠い土地で稲を見るとは思わず、鳥肌が立つ程感激して顔を近付け暫く見続ける。

 しかし稲があっても嬰児の腹は膨らまない。別の意味で膨らみ兼ねない為、可及的速やかにお乳を用意せねば餓死も有り得る。餓死はこの世に蔓延る様々な死に方の中で最も苦しいと聞くが、私は焼死の方が苦しいと思う。前世で自身が如何な死を遂げたか知りたくもないが、今の祖父か父の運転中、凄まじい速度で流れる景色を車窓から眺め、車の運転だけはすまいと固く決心した過去を踏まえると何となく予想がつく。身の毛立つような誰かの車は、確か高速道路を走行していた筈だ。死ぬのは勿論誰でも嫌だ、餓死も焼死も轢死も圧死も、何だって嫌に決まっている。けれども、誠に残念な事に嫌でも生き物故に死は遣って来る。

 話を戻そう。脱線ばかりで申し訳ない。

 稲があろうが無かろうが嬰児の腹に収められる物でなければ、其処にある稲なら私達が食べる他無い。嬰児は空腹を抱えた儘、美味いか不味いかで言えば、飽食国家生まれの飽食国家育ちの私の場合、不味い不味いと言いながら稲に手を加えた料理を食べるに違いなく、腹ぺこの嬰児はその様子をまじまじと見上げる事になる。それは宜しくない。育ち盛りの前の期間も大切で、後の成長期に影響を及ばすのだもの、育児とはどんな瑣末な問題も油断ならぬものなのだ。

 さて、だからお乳はどうしよう。育児を買って出た手前、ハオに相談するのは論外として、残るラキストと日本人二人組にお乳の相談を持ち掛けても解決するかと言えば、まずしない。確信を以て断言する。

 頼らないなら四人の存在は脇に寄せ、腕の中の身じろぎ一つしない嬰児を案じつつ、どうしましょう、と首を捻っていた時、目前に名状し難い腐臭を放つ不気味な物が迫り出し、仰天した私は甲高い悲鳴を上げて仰け反ってそのまま尻餅を搗いた。腐臭を放つ不気味な物、それは豊満な毛に砂や草が絡まり放題の、一見不衛生に思われる恰幅の良い羊だった。

 嗚呼、びっくりした。私の一言を嬰児と羊だけが聞き、不意打ちに人様の顔面に向かって面長な阿呆面で突進して来た羊はこちらを一顧だにせず、上唇下唇を器用に動かし、人の観察していた植物を穂の部分から当然の顔で食べてしまった。その唇の敏捷な動きに感心するばかりの私は、食べる箇所が無くなり植物が用無しになってもその場を微動もせず、メエだがベエだか鳴く羊と目が合う迄座り込んでいた。

 羊の目玉は同じ目線で見詰め合うとこちらが蛇に睨まれた蛙の如く身動きを封じられる効果があるらしく、足腰の力の抜けて膝立ちも出来ない怯懦な私は嬰児を掻き抱き身震いし、緩慢に振り向き一足二足と踏み出す羊の行方を見守る事しか敵わなかった。

 羊の阿呆面が迫る。又、メエだかベエだか一声上げ、巨体は鈍い音を立てて地面に転がった。

 惑乱した私は尻を地面に突いた儘無様に後退り、その瞬間一際大きく不気味な声を上げた羊に肌が粟立ち涙が滲んだ。

 混乱の境地に放られた私が、何、と呟いた時だ、腕の中の嬰児が発見のきっかけとなったあの時以来の泣き声を上げたのだ。すると横たわっていた羊がのそりと起き出し、確かな足取りで歩み寄ると目の前で勢いよく横たわった。そうしてそっと毛を掻き分け目的の突起を見付け、其処に腕の嬰児を寄せてやると噛み付くように吸い付いた。忙しなく上下する頬と口元を見る内に視界が不明瞭になって、二三度瞬くと滲んだ涙がほろほろと滑り落ち、嬰児の黒い肌を濡らして濡れた箇所だけ妙に黒光りする。明瞭になった視界は激烈な陽光に一瞬暗転するが、少し待つと回復して洟を啜り片手の甲で涙を拭い、戸惑う人間なぞ委細構わずに瞑目して寝転がる羊を見て呟く。

「この羊がMAMA……?」

 自身の声が震えるのが解った。

 こうして嬰児のお乳の問題は、何故かこの羊が時間になると自ら寄って来て横臥し、さあ飲ませなさいと言わんばかりに私を見詰めるので解決した。後に知った事だが、この羊の独断でお乳を提供している訳で、つまり羊の飼い主が居る。これは喧しい日本人二人組に聞いた話で、実はハオがその日の夕暮れ方、羊の飼い主に許可を取ったらしい。




食膳(しょくぜん):料理、食事、料理をのっけたお膳。
困餒(こんたい):苦しんで飢える事。

 私は煮物なら南瓜の甘煮、焼くなら塩鮭か鱈か秋刀魚か鮎が好きです。
 ハオ様、多分ですが、夕方に見掛けて慌てて許可貰いに行ったのではないかと思います。羊も他人の羊ですし、下手すりゃ窃盗とか思われますし。
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