──だって、あいつ、友達いねえだろ。
背後に聞こえる雑音混じりの少年の声は平静を乱す事無く普段通りの声音で、平生の少年の態度を知らぬ私が大事無いと言うのも可笑しいが、淡々とした物言いに一種の羨望を抱いた。後方の自称未来王と一緒に温泉に浸かる末っ子が驚愕の悲鳴を上げ、鼻の長い男性が冷汗を流して後退りするが、友人の有無の自覚のある自称未来王に制された。魔法使いの帽子を目深に被る腹心の彫りの深い精悍な顔が翳り、俯き加減で自分の主人の心中を案じた。
昨晩より私は前世現代の事を中心に想起し、成る丈現実にある出来事や未来の出来事について思考せぬよう心掛け、この意図的な思考も読まれている可能性は否定出来ないが、彼との関係が崩壊する事や彼の性状を鑑みた時、自身への心的打撃を考慮して安全策を取った。要するに現実逃避、彼のお家芸を疎んじて目を逸らしたのだ。
少々熱めの温泉に下半身を浸し、二人は弟さん一行と友人一行の試合終了まで長風呂して、手拭いで全身の水滴を拭い、彼は末っ子と揃いの渋色の外套を羽織って今晩の宿と風呂の都合、一時解散即ち自由行動を告げる。僅かの間の退出の挨拶の後、腹心ラキストさんは鼻の長い男性を引き連れ孤島の診療所に傷の癒え切らぬ体を安置せられる眼鏡の男性の慰問に向かい、全く予定の無い私達は、自称未来王事ハオと共に崩落の危険性がある先の宿舎、峡谷に挟まる風に建っていた建築物の残骸を見に行った。特に誰が言い出した訳でもない、只何処へ行く予定も無い三人組で島内を彷徨い、高山の天辺の太陽を貫かんとする山容を振り仰いで、誰ともなく足が向いて辿り着いた先が件の建築物の残骸だった。
孤島の港から見る山容を高山の正面とするなら、裏側の森の深くの峡谷に挟まる形で屹立する建築物は、先日の光線に貫かれ、風雨を凌ぐ壁や屋根は崩れて安眠の出来る寝床ではなくなった。一晩野宿で凌ぎ、今晩は弟さん一行の宿泊する宿屋にお邪魔し、翌日富豪の民間人の要請で集った軍艦の群れを掃討して次の会場へ赴く。末っ子の世話係の私は孤島に居残り、漫画本通り事が進むのを悠々閑々と待てば良い。漫画本と現実の不穏な相違点が散見しようが、此処まで来て修正は効くまい、物語が物語として存立せんが為、無能の小娘は余暇を満喫する。潰れた観音開きの鉄門扉の隙間をこじ開け、一階の瓦礫が堆積した四隅の陰に青白い光を見た気がしたが、霊能者の二人の反応は乏しく、錯覚か反応を示す程思い入れある相手でないか、思惑は判然しないので私も無視した。
抉れた床を最下層まで下り、裸足の末っ子を抱き上げ硝子片や瓦礫や電気コードや剥き出しの鉄筋を避けて進み、屋根の抜けた青天井の下、築山の如く兀然として侘しく残る本来の一階の床を仰ぎ見て溜息を吐いた。見上げる築山の山巓にて、先日、彼は光線を浴びせた白装束集団の一人を焼き殺した。当然殺さねば彼自身が殺される、相手より早く相手を殺害した、言葉にすれば至って単純な話で、命を狙う者を前に見逃すと言う法は無い。自衛と言えば自衛、過剰防衛と言えば過剰防衛だが、根を絶たねばいつ迄も遣って来る相手の行動を看過する程甘い性格でない彼は、多少甘さを見せる末っ子に疾呼されて緩慢に振り向き、末っ子の指差す築山の山巓を見遣った。あすこに行きたいらしく、身を乗り出して両腕を伸ばす末っ子を抱き締める。可笑しくて堪らない、そんな笑顔でハオは私達を築山の山巓へ引っ張り上げた。
本来の地面と同じ目線に立ち、漸く何処ぞの画展で絵画を観覧する様に露出した地層を眺める最下層を脱し、新鮮とは言い難い空気を吸い込んで咳き入った。三人揃って瓦礫の脅威の届かぬ其処に腰を落ち着け、私は汚いとか、元は建物の一階の土足で行き来した床とか委細構わず寝転がり、地層の様に抉れた断面を外気に曝す上階の残骸をつくづく眺め、視界の端に縮れ毛が割り込んだ所で目線をそちらに転じた。末っ子も姉貴分の世話係を真似て四肢を目一杯伸ばし、大の字になって寝転がる。末っ子を挟んだ隣で衣擦れがしてハオが寝転ぶのが解った。丸く切り取られた天井は、表の碧空を天井にして、存外こちらの方が風情があって良く思われた。種類の解らぬ小鳥が青天井を横切り、低めの囀りが築山に仰臥する私達やハオの耳をくすぐった。
孤島の半晴の空は軈て暮れ掛かると、青天井は明るい夕焼けに変わり、高山に遮られた暗い夕日が建物の穴に射し込み、錆びた鉄筋や砕けた硝子片が照り返して、上階は光に溢れ賑々しくなった。衣擦れが聞こえてハオが上体を起こし、川で魚を獲って来る云々と言って出掛け、又行儀の悪い事に無言で行こうとするので出掛けの常套句を言って送り出した。魚釣りか罠を仕掛け獲る方法か、魚の捕獲方法は不案内の私は待つだけで、一時間くらい経って焼いた魚を数匹、串に刺した状態で片手に持って帰って来た。此処は建物の中の上、床はコンクリート製だから串や枝は挿さらない、川原で焼いて来たようだ。
山田さんの手料理や腹心の手料理を食べた事は数有れど、自称未来王手製の焼魚、即ち手料理を食べた記憶は、実は余りない。圧倒的に親戚の小父さんや魔法使いの帽子を被った腹心の手料理を食す機会が多く、三人で行動した僅かな期間のみハオの焼魚を齧った。以前山田さんの手料理を男の料理と言ったが覚えがあるような無いような、しかしハオの焼魚はその比でない、鱗や内臓の処理も等閑にして火勢の豪快さに任せ芯迄焼き、満面の笑みを浮かべ焦げた魚を突き出して来る。その焦げ具合と他の魚の焼き加減を見比べて、彼が態と焼き過ぎたり、程好く焼いたりと調節している事が解って憤慨した。一度も生焼けの魚を渡された事は無いが、食い物で遊ぶなと言う側の彼が遣る事に腹を立て、焦げた魚を突き返した時は、意外にも素直に謝って程好く焼けた魚と交換し、焦げた魚は責任を以て平らげていた。
本日手渡された焼魚は程好く焼けていて、他の焼魚も程好い加減だった。暮れ泥む夕空の天井の下、三人で焼魚を認め、残った串は燃やし、お腹も出来上がって心底慕う人の膝の上で微睡む末っ子の欠伸を見て漫画本の内容を思い返した。弟さん一行の宿舎の露天風呂に手拭い一枚を腰に巻き、風呂の道具一式を持参で闖入し、烏の濡れ羽色の長髪を湯船に浸からぬよう軽く纏めると言う手間を面倒臭がって、余所様の居る前で堂々とお湯に漬ける無作法を素知らぬ顔でやらかし、昨晩野宿した事を棚に上げて宿舎の人や其処に寝泊まりする人達に大変な迷惑を掛ける。中身は糞爺と言うのに行儀の悪さは生来の性格と諦める可きか、いや矯正は可能だ、今夜彼が恥をかかずに済むように、今から行儀作法を教授す可きかしらと考えた。
不意に日が翳り目先が暗くなる。雨雲が来る描写は無いし、翌日の雨天の描写も無かった、偶々分厚い夕雲が太陽に被さったと見て顔を上げ、昨晩の末っ子宜しく目睫の間に迫るハオの顔に悲鳴が漏れた。背筋を反らして顔を背け、触れそうな鼻頭を離し、彼の膝で寝息を立てる末っ子の寝姿に脱力した。相手の無言の訴えを承諾して重たい矮躯を抱き取り、自身の膝の上に寝かし、後方に手を突き薄暗い夕空を仰いだ。彼も同様に床に手を突いて夕空を仰視する。
そうして薄暗い夕空が墨汁を数滴垂らした程の暗い空になる頃、小鳥の囀りも夕風も止み、昨日の潮騒に松籟を耳の奥に聞きながら私は前世現代、漫画本の内容を考える事を止めようか考え、明日の軍艦撃破を完遂して人々の蘇生の完了を確認次第、末っ子と今生の別れの言葉を交わす為に止めようと決めた。
「空白と思考の入れ替わりが激し過ぎ、酔いそう」とハオが言った。
矢張り完全に前世現代を思考し続ける事は出来ぬらしく、抑も一つの事を丸一日考え続けたら気違いになる。神経衰弱と言うものに陥り兼ねない。私は元来普通の人間だから一つ事を考え続けると言う尋常ならざる精神力を要する真似は出来ない、良くも悪くも、私は徒人である。
「考え事をね」
「そりゃあ、解るよ。オパチョの将来の心配、明日の僕の事とか」
私は反らした上半身を戻し、姿勢を正して隣の自称未来王の横面を見遣る。長い前髪も後ろに流れ、繊細な鼻が真上の空を向いていて、濃色の双眸が何を見るか知らないが感情を排した顔付きで居た。
彼を理解しようと努力する事を止めない、彼が千年間求め続けた事を、人生経験が数十年程度の私が叶えられるとは毫も思わない。偽善だ綺麗事だと罵詈されても、相手が求める事を試みる事は、別段悪い結果を齎すとは思われない。故に思考は続けたい、だが人類の終焉の時は目前で、天罰を下す相手が隣に居て、その天罰を下す力を得る為に死地へ赴かんとする者も又同じ人で、この人の死を残念がる事は、理解の為の努力を止めたと同義であると考えられ、私はこれを読まれたくない。
「変な子、自分を殺す奴の死を惜しむか」
私は腹を括ってハオに向き直った。
すると彼も姿勢を正し、膝を突き合わせ、双方感情の抜けた顔付きで見詰め合う。彼の心情は皆目見当もつかないが、私は叫んで訴えたい気持を抑える為に、意図的に感情を取っ払った。
「正直、これを口にすると、前に言った遣りたい事、君の千年間の苦労、全部を否定するから言い辛い」
「もう解っているのだけれど」
目の奥が灼熱して痛みを覚え、溜息を吐く事で熱の発散を試みるが、喉が閊えた様な違和感が邪魔して息を吐き損ねた。
「やってご覧」
とハオは皮肉を言って、胡坐をかくと両の足首を鷲掴みして少し前傾姿勢になる。人様の苦悩の発露を嘲笑するようで、その思考が被害妄想である事も承知済みで、苦悩と言うなら彼も千年間一つの事に懊悩している。
「君は千年前、お母さんを亡くして、独りぼっちになって、陰陽師になって、色々考えて、誰に相談するにも、事が事だけに相談出来る相手も見付からなかったのだろうけれど、つまり、君は千年間、ずっと独りで物事を考えて来た訳だ」
彼は何も言わない。
「学校の勉強で、解らない所は、解答があるから良いけれど、解らない所は本当に解らない、答えが出て来ない。人に教えて貰って、理解出来るなら良いけれど、道徳の授業とか、そんなのじゃあ、只議論する事が目的であって、一つの解答を目指す授業じゃない、納得いかない事は納得いかない。でも、議論するから、クラスの皆と騒ぐ。一つの問題を、皆で考える」
彼は何も言わない。
「君は、話し合う人が居なくて、一人で結論を出し、その千年の解答を、今皆に否定されている。又は非道徳的とか何とか、だから皆、君の前に立ち塞がるのだと思う」
彼は何も言わない。
「私には、君の知らない家族が居る、家族と離れ離れになって、素直に寂しいと感じる。でも、普段から感じる訳ではない、何故なら、普段はオパチョが居る。でね、オパチョが居ない時、それでも寂しくない時がある、嘘吐けと思うか知らないが、君が一緒の時は、存外寂しくない」
彼は溜息を吐いて目線を下げた。只無言だった。
「一人は寂しい、寂しいと感じる、考えるのは、寂しくない時を知っているからだ。不幸に思う時、それは幸福を知っているから、一等幸福でない時を不幸と感じる。私はオパチョや君と居る時、幸福や寂しくないと感じて居る」
彼は何も言わない。
「私は幽霊が見えない、星の王様は幽霊みたいなものらしいから、君が星の王様になると、私は見えない、幽霊の見えない私には、死は終わりで、永遠の別れ、私は君と永遠にお別れする事を寂しいと、嫌だと感じている」
「本当に?」
「本当さ」
彼は一寸目線を上げる。膝の上の末っ子の寝顔でも見詰めているのだろう。
「君の千年の答えを否定するけれど、今度は一緒に、皆で一緒に考えよう」
「無理さ」
「ハオ、お願いだから、死なないで欲しい」
千年の悲願を諦めて欲しい。
目の奥の灼熱が眼球を突き上げて表に溢れ、物の輪郭が朦朧と見え出し、喉の違和感が痛みに変わる。正面の彼は顔を上げ、真面に私の顔を見ながら言った。
「僕は、千年前に始め、その悲願成就が目前なんだ。今更考え直すくらいなら、この儘続けるさ」
私は黙って耳を澄ました。
「事が事だけに、って言うけれど、その通りさ。始めてしまった、もう、後戻り出来ない。投げ出す事も許されない。大衆の非難も、憎悪も、全て解っている。やって来た、と言う自覚がある。でなきゃ、見飽きる程地獄に堕ちたりしない」
私は黙って耳を澄ました。
「始めた瞬間に手遅れさ。二度と戻れぬ道、一度抱いた悲願を叶える為に費やした時間は戻らない、やって来た事実は消えない、全てを終えた時、僕は漸く──幸せになれるんだ」
震える両手で顔面を覆うと、眼下に健やかな寝顔の末っ子が居て、私は涙声になりそうな喉に力を入れて確りと発声した。
「そうかい。なら、君の幸せな世界で、私が滅んでいなければ、世界の隅っこの方で、オパチョと君の幸せを見守る事にするよ」
深い溜息が聞こえてハオは、風呂でも入ろう、と言って、膝の上の矮躯を抱き上げ、顔面を覆う私の一方の手を握って引っ張り上げた。笑って脱力気味の膝を立たせ、汚い着物の袖で顔を拭くと少しひりひりした。
自分で自分が何を書いているのか、段々解らなくなって来ました。
でも、もう一寸…!