生者必滅、会者定離   作:赤茄子

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第六十八話:後顧之憂②

 激烈な疼痛に意識を取り戻した私は喉が裂けん許りに絶叫した。見開いた目で捉えた索状の赤発が無数に走る自身の右前腕部全体の醜さに総毛立ち、不気味さの余り左手で索状物を掻き毟ると、その一筋一筋に亀裂が入り、又皮膚も皮下組織も骨も何もかもが罅割れして、陶磁器が割れる際の鋭利な音が自身の腕から発せられ右腕を掻き毟った左の手指が罅割れた。足場の無い為にぶらつく両脚にも無数の亀裂が見られ、割れ目から噴出する激痛に喚き散らし、胸元を抉らんと爪を立て、視界に迄蜘蛛の巣状の罅が走って固く目を瞑った。爪先から脳天に至る迄、全身が罅割れ、内外の刺激に関係無く脈打つ痛みが鋭い音と共に自身を破砕する。

 自身の絶叫に掻き消され、生憎正気に戻る事は無かったが、耳元で誰かが名前を叫び続けるらしい。名前を叫ぶ者が腹部に腕を回し、自力で昇降もしない体を引っ張り上げ、圧砕せんとする身辺の圧力を掻き分けて更に人様を上へ上へと引き摺って行く。私は激痛の最中で、上昇するに連れ疼痛が増す事に気付き、自身を引っ張る者に放せ、降ろせ、出せと繰り返し訴え、手足を振り回し拘束から逃れ様と努めたが、拘束力は弱まるどころか一層強まり、泣き喚く私は引っ張る者を罵り出した。腹部に回る力は面積を広げ、到頭全身を包み込み、抵抗する術を無くした私は引き摺られる儘何処か的皪と輝く一角に押し込められた。

 永遠にも思われる激痛を抱え、光り輝く空間に蹲った私は嘔吐きながら頭を擡げ、指先を真っ白にして、漸く上半身を起こし周囲の景色に目を白黒させた。

 見慣れた障子戸と直角に並ぶ文机、出窓に山積みされた文庫本、背後を顧みてぴたり閉じた押入れを見付け、四つ這いになって襖を開け中身の確認を行い、雑に畳み仕舞った蒲団が記憶の儘にあって脱力した。二段構造の押入れの上段に蒲団が仕舞われ、下段に低い箪笥を置いて衣類を仕舞う、念の為抽斗を開けて見ると季節の服が丁寧に畳まれていた。襖を閉じて出窓に向き直り、障子戸を開けて硝子の向うの景色を見遣る。二階建ての日本家屋が現代の実家で、自室は二階の角部屋だ。幼馴染の家と歩道を望む筈の自室の出窓の向うは、記憶に違わず、懐かしき家並みと田舎風景が広がり、手前の庭の左手は白壁の倉が相変わらずの威圧感を放ち、右手の雑木林も薄暗かった。

 蹌踉と立ち上がり廊下に続く襖を開け、家族に踏み磨かれた十年来の付き合いの廊下の木目に目を落とし、ふと顔を廊下の鉤の手になった向うに向け、覚束無い足取りで鉤の手になって直ぐの梯子段の所に立った。肺一杯に息を吸い、胸が痛くなる程吐き、反射的に浅い呼吸をして涙が滲む。猫が跳躍の度に爪で引っ掻く汚い土壁に手を添え、壁伝いに頽れて嗚咽した。喉の熱く染みる様な痛みや目の奥の灼熱した痛み、鼻に染みる痛み、その煩瑣な感覚が愛おしく、感覚が全てを本物だと告げている。土壁を掻くと崩れる埃が爪と肉の間に挟まり、爪越しに埃を見て、薄黒い爪の先に苦笑が漏れる。同時に又嗚咽が喉から漏れ、数年間確かに腕に抱いた感触を、二度と感じる事が出来ない現実を思い出して泣き崩れた。

 一頻り泣いて漸く梯子段を下りる。木の軋る音が現代の実家への帰還を教え、喜びと一抹の後悔と重石の如く腹の底に落ちて忘れられない孤独感、或いは霊能者達の跋扈する世界の哀惜の念が残留し、心中複雑な、煮え切らぬ態度で家族に相対するのかと思うと夢に見る程望んだ現実に気が重くて嘔吐しそうだった。梯子段を終えて一階の床板を踏み、手摺りを掴んで一歩を踏み出す覚悟を決め、そっと手を放して向いの一年中開けっ放しの台所の戸の奥の家族を捜し、顔を覗かせ中の様子を窺う。調理中や食器洗いの最中なら物音がして、話し声もあって賑々しい台所だが、覗く前から解っていたが、矢張り物音一つない室内には誰も居ない。茶の間か知らと踵を返して廊下を忍び足で行き、障子戸の一寸前に立ち止まり、戸の下部に嵌め込まれた磨り硝子越しに姿を見咎められ、再会の開口一番に怒声を聞く羽目になったら、と不安に駆られた。

 深呼吸の後、危惧した怒鳴り声を拝聴する覚悟で障子戸の前に出て、勢いよく障子戸を開け、長方形の卓袱台を置いた茶の間兼仏間に踏み入り、目を瞬かして再度不安を覚えた。人影がない、物音も呼吸音も気配も無い部屋に一人立ち竦み、庭に面した廊下や奥の居間等を左見右見、しかし誰も居ぬ間に血の気が引くのが解る。茶の間の庭に面した廊下の障子戸を開けて大窓の硝子の向うの庭を見遣り、廊下に立って右手の角迄走り死角の廊下を覗き、二階と繋がる玄関から直ぐの梯子段より大分細身の梯子段がある。記憶の現代と変わらぬ家の造りに疑懼し、のろのろ後退りして玄関へ駆け出した。

 早春の煦々たる日差しは長閑に庭を照らし、日和にそぐわぬ薄暗い倉に張り付く意識を引き剥がし三和土に飛び降りた瞬間、爪先に激痛が走った。陶磁器等の硬い物が割れる音がした。咄嗟に体を折り曲げ爪先を抱える様に蹲り、裸の足の甲に無数の亀裂を認めて、此処が現代でない事に心底落胆した。此処が何処で、何故現代の実家が再現されているか皆目解らないが、正直良い気分ではない。痛む足を引き摺って玄関の引戸を開け、庭の雑木林や倉を見比べ、そうして乳鋲の打ち付けられた田舎の農家然とした門を潜り歩道に出た。向いの幼馴染の家や斜向いのお家を訪ねる気も起きず、現代の最後の記憶を辿って道を歩く。幼馴染と遊ぶ約束を交わし、当日母の髪留めを付け、遊びの中途で鬱陶しく思い外してしまった髪留めは、今私の後頭部で本来の用途で使用されている。当時の運動靴も長袖も着ていないが、風景は当時の儘に思われた。

 暫く見慣れた町を歩き回り、過疎化の進んだ為跡継ぎが居なく、後は潰れるばかりの閑古鳥が鳴く商店街の看板に目が留まり、錆びた看板を潜って一番手前の本屋の自動扉の前で立ち止まった。店先の陳列棚に並ぶ雑誌は週刊誌が大半を占め、近寄って表紙を見ると週刊の漫画雑誌が何冊もあって、文芸誌は買うより立ち読み客が多いのか表紙が草臥れて見えた。泥落としの上に立って勝手に開いた自動扉を通り抜け、中の本を眺め、幾ら自身の記憶通りと雖も前世の本は見当たらない事に気が付いた。前世現代共通の本は勿論有る、例えば某週刊少年漫画雑誌、月刊誌然り、霊能者達の漫画掲載の過去のある雑誌もあるが、現代で当の漫画は掲載の過去も予定もない。歴代総理大臣の姓名が馬鹿馬鹿しい名前に置き換わっていたり、某芸能人の名前が冗談も甚だしい名前だったり、前世と同じ名称の物や者がないでもないが、矢張り多くは前世と異なり、記憶の齟齬の修正に難渋した事を思い出す。

 少女漫画の棚で足を止め、長い間ご無沙汰していた単行本の背表紙を眺め回し、ビニールに覆われていない単行本を取って頁を捲り、現代で読み耽った内容と寸分違わぬ内容に、まるで本物の現代のようだと感心した。少年漫画の棚、青年誌の棚、色々店内を巡って確認するが、目新しい漫画本は置いていない。記憶の更新が無いなら、現代を離れた後の漫画本の続きが、この自身の記憶で構築した町の店頭に並ぶ筈がない。がっかりして、店を出て、何故か腰を屈めて拾う、否抱き上げる所作で、両手で虚空を掴んだ。空手の手を開き、現代で暮らした約十年間では決してない手掌を見詰め、不意に遠くで甲走った悲鳴、否泣き声を聞いて頭上を振り仰いだ。

 両腕を伸ばすが重みは無い、数年来の重みも温もりも現代に無く、当然現代の記憶を基に造られた町なら此処にその重みや温もりがある理由は無い。しかし腕に肌に確と残る感触は、数年間、寄る辺無き私を生かした感触で、又其処に寄る辺、即ち家族を見い出した筈だ。家族の許に帰りたい。それは私の悲願である。だが、数年間自身を生かした重みを置いて一人家族の許へ帰るのは憚られ、しかし家族の許への帰還を断念するのも前世の無念が許し難い。非業な死に様の前世は、それでも一時幸福で、或いは幸福絶頂の頃に死んだと考えられ、家族に対し申し訳ないと思うが、満足行く一生であったと言えば、そうだと断言出来る。

 では、現代の家族の場合、現代の生の場合は、私は其処で一生を終える事無く訳の解らない世界に遣って来て、いつ非業な死に様を曝すか知れない毎日を送り、その中で家族まで見い出して、自分勝手に幸福を覚え現代を忘れると言う理屈は通らない。現代の家族は必ず私の帰宅を待って居る、毎朝毎晩、毎日玄関に突っ立って私が喜色満面の笑みを湛えて帰るを待つ情景は容易に想像出来る。帰らねば、と脳裏に自身の悲鳴が轟く。すると又甲走った泣き声が聞こえ、数年間自身を生かした重みが、私の帰還を待って居る事実に懊悩した。縮れ毛の丸い頭を振って、自身の腰よりもっと低い背丈の子供は、私を見上げて抱擁を強請る。子供を連れて行こうか、と唐突に考えが浮かび、駄目だ無理だと頭を振って案を撤回し、理由を自分自身に言い聞かした。

 子供──末っ子は、あの一見少年、中身はミイラも真っ青の糞爺が大好きで、心底慕っているから現代の実家に連れて帰るなぞ不可能だ。なら糞爺も一緒に、と思うが、糞爺が承諾する可能性は万に一つも無い、無理矢理連れて行けば嫌われるし、第一引き離す行為はしたくない。糞爺の心中は判然しないが、私が現代に帰還する事は別段構うまい、帰宅を待ち望む人達が向うに居る訳で、それを制される理由は無い、但し末っ子を連行となれば話も反応も違って来ると思われ、糞爺の性分故、全力で連行の阻止に掛かるだろうから七面倒臭い。同時に末っ子も峻拒の体で糞爺の居る世界を選ぶ様は想像に難くない。私はあの霊能者達の世界の異物であり、寄る辺無き魂であり、帰る可き場所は他に有る徒人だ。無能の徒人は、世界の流れに任せ、世界の朽ちるに任せ、只在るが儘に在ろう。

 商店街の端から端迄を踏破して、罅割れた足の痛みに歩く気力も阻喪した私は跡継ぎの居る煎餅屋の前の腰掛けに腰を掛け、裸の足を指の腹で擦り、瘡蓋擬きの破片が捲れ落ちて、地面に触れた瞬間、牡丹雪が肌にくっ付き体温で溶けて消える様に消滅するのを見てしまった。軈て再び全身が罅割れ、形が崩れ、破片は飛散すると先の様に消えるのだろうと恐怖や緊張感を孕んだ吐息を漏らして思った。破片の捲れた箇所は凹み、大分深い筈だが肉や骨は見えず、石の破砕した際の切り口の様な肌色の粗い断面が露出し、凹みに指先を突っ込むと激烈な疼痛が背筋を駆け上った。指先を離すと破片が飛び散り、矢張り雪が溶ける様に消えた。呆気ない最期だと思う。人生はこんなものだ。

 何度目か知らない溜息を吐き、私の大嫌いな快晴の空を眺め、もうずっと真昼の空の儘だと気付き、時間の経過も呑気なものだと辟易した。腰掛けに手を突いて退屈を腹一杯に一人謳歌し、そろそろ物寂しい店先に暇乞いしようと御輿を上げた時、腹の底に響く重々しい絶叫が頭上から降り注ぎ、絶叫が汽笛だと気付いた頃には目前に豪壮な機関車が迫っていた。前衛的書体で乙斗星とある牽引車が凄まじい勢いで通り過ぎ、後の客車が数十両、後は貨物車が数十両続き、盛大な列車が目の前を走って行く。段々とその速度は落ちるらしく、遥か後部のある貨物車の扉が開け放たれ中から整髪料の効いた黒髪を二股に分けた髪型の、何も言えず永遠の別れを迎える羽目になった男性が身を乗り出して手を伸ばす。

「掴まれ!!」

 矢庭に男性目掛け駆け出した私は、伸びた腕に飛び付いて泣き出した。

「やった、アユム、めっけ!」

「何だよ、そんなに会いたかったのか? 可笑しいな、ハオ様に頼んだ筈なんだが」

 私は只々悲しくて、寂しくて、しかし負の感情を凌駕する程嬉しく、泣いて喚いて子供と男性との再会に震えた。




後顧之憂(こうこのうれい)
:後々の心配事。

 帰りたい場所があります。
 でも、別れ難い人達が居ます。
 平気だと嘘を吐けば、後で死にたい程後悔するのでしょう。

 書き直してえー。
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