第七十話:愛別離苦①
まるで学校に遅刻寸前の心持ちで目が覚めて、久し振りの時刻を気に掛ける緊張感に胸を撫ぜて早鐘を打つ心臓を宥め賺し、落ち着こうと深呼吸を試み、足の激痛に別種の緊張感が体の芯を走って悲鳴を上げた。記憶の町並みを逍遥した際に抉った足の甲の傷が治癒の暇も無く現実に戻り、意識の覚醒と同時に傷口が開いたらしかった。煎餅屋の前で見た肌色の窪みは無く、真っ赤の傷口から真っ赤の血が止め処無く溢れ、余りの出血量に背筋が寒くなる気がしたが、意識の向うに聞いた声を思い出し、気を取り直して峡谷の建築物を這い出した。歪んだ鉄門扉を擦り抜け、疼痛に気を取られ気付かなかった空模様を仰ぎ、高山の絶巓に掛かる夕焼けの鮮烈な赤色に目を細める。夕間暮れの森の道を突き進み、樹木の下陰の深い所に蟠踞する孤島の薄気味悪さを振り払い、痛む足を引き摺り、時間を掛けて不可視の潜水艦の潜った砂浜に出た。
潮騒に交じる松韻の侘しさ、水平線に見える赤味を帯びた黄金色の落日が紺色の海面を照らし、水波の硝子片が金色に光り輝き、目先が眩しく片手を額に翳して光量を限定する。脈打つ足の甲の疼痛は止まず、軽い砂粒が海風に巻かれ皮膚の上を滑り、濡れた箇所は砂が付き、鮮血淋漓として肌に滴る箇所は押し流され血溜まりを作り薄汚い砂浜を一層汚い色に染める。天然の垣根を背に、砂地に直に腰を下ろし、暮れる海原を眺め膝を抱え、帰るか知らない人達の影を薄闇の海原に求めた。潮風は日が暮れるに連れ強まるらしく、季節外れの潮焼けした手の甲足の甲が痛み、血を流す傷の具合も忘れて薄暮の海岸に座り続けた。
落日の最後の意地とばかりに、水平線に沈む瞬間、凶悪な閃光を放って、日は力尽きる様に沈み、身辺の夜陰と自身の作る陰の境の曖昧な夜が来た。海底大陸に出撃した一行は未だ帰らず、孤島に居残った事を後悔する気持は無いが、いつ迄一人海面を眺めて待てば良いのか、私が地上に戻った直後に星の王様の気が変わり皆の魂を懐に抱え込んでいるのか、真相は墨汁の空に呑まれ判然しない。夜の闇の海原に、海面を隆起させ、海水を置いて虚空に首を伸ばす人達の姿を想見し、霊能者の力の利便性を鑑みて考え直すと、不可視の潜水艦に乗って帰るなら人影を探すより一塊の濃紺の影を探す方が楽だと思い付いた。現代っ子の不自由な目を見開き、一塊の暗闇の中に一塊の濃紺の影を求め、眼球の表面が乾いて新たな痛みを覚え、逆さ睫毛のしつこい痛みに似た痛みを、目を擦って遣り過ごした。擦るのを止めても皆は戻らない。
軈て汚い黄金の月が分厚い雲の上に現れ、汚い月明かりで無闇矢鱈に辺りを照らし、段々中天に近付き、汚い黄金は美しい黄金に豹変して、正円に近い月は到頭中天を越した。目映い月影を見詰め、目の慣れた頃、満潮の海面の何処かに潮騒と違う異音を聞き付けはっとした。弾かれた様に顔を上げ、自然背筋を伸ばし、真正面の海原を凝視して異物の発見に熱中する。異音は月光が一点に注がれる真正面の海の其処から発せられ、私は腰を浮かすと、遮二無二波打ち際の手前に駆け出し山の如く膨らむ海水に息を呑んだ。
盛り上がった黒い海水が海面に落ち、轟音を響かせ潮騒以外の物音のない静謐な夜の闇を裂き、一塊の濃紺の影は海上に現れた。水が地面に叩き付けられる様な破裂音が其処いら中にして、その中に微かに聴き慣れた音でママと叫ぶ声があった。地面に落ちる暗い繁吹きが足の甲と傷口を叩いて、末っ子の声どころの話ではなく、激痛に悶え、忘却の彼方に旅立った疼痛が再来した。血餅の付着する皮膚を爪が掠め、傷口の肉ごと剥がれて鮮血が迸る。痛い、と言葉が口を衝く僅かの間に自身の胸元に飛び込む影があって、尻餅を搗いて迄受け止めた影は、夜陰より一等濃い黒色の縮れ毛の丸い頭が特徴の末っ子だった。
「お帰り」と私。
「ただいま」と末っ子。
私達は出迎えと帰還の挨拶を交わして再会した。
地上では約一日振りの矮躯を抱き締め、散々抱き締めた後に海水を割って浜辺を目指す足音に顔を上げた。星の王様が自称未来王だった頃の腹心ラキストさんが腿を引き上げ波打ち際に帰り、私の出迎えの常套句を聞くと帰還の常套句を返して下さった。彼の背後に大勢の選手参加者諸氏が浜に戻って、皮膚を傷付ける海水を落とす為に、着物の裾を絞ったり毛髪の束を絞ったり、陸地に着いた人達は各々好きに喋り動き黙って地上の生と人類の存続を喜んだ。
徐に立って、私は周囲の人々の顔を見回し、目当ての顔がない事に不安を覚えた。脈打つ激痛が遠退く程辺りの人の顔に注目し、肩を突かれ背後を顧みるが、背後に人が居る訳でなく、腕に抱える末っ子が頓馬な姉貴分の世話係の為に目的の人物の所在を教えてくれた。その人物は浜に上がった所で、波の届かぬ所に突っ立って隣の弟さんの横顔を覗き込む。暗色の大きな布を体に巻き付け、腰の辺り迄を濡らし、憑き物が落ちた様な顔付きのその人物は照れ臭そうな笑みを湛えて十数年放置した弟さんに頷いた。
重い矮躯を抱き直し、私は波の来ない道を選んで駆け寄り、先に相手が気付いて硬い顔をする。不機嫌とか憤怒の形相でなく、不安を露にした顔に、相手の心境を見透かす能力は持ち合わせないが、経験則に拠る機微の変移は察せられない程でもないので少し察した。出掛けの寸前に掛けた言葉に返事は無かったが、今送り出した相手が帰って来た事実は変わらず、私は従前通り出迎えの常套句を言った。
「お帰り」
相手は烏の濡れ羽色の長髪に顔を隠し、それでも小さな声で、只今、と今度は返事をくれた。
私が地上に戻る際、又激烈な疼痛が全身を襲い、赤い索状物が自身で確認出来る範囲の四肢を走り、発赤に沿って肉体(魂)は罅割れて、陶磁器の割れる音が体から発せられた。地上に戻る作業も命懸けの私は、一人先に帰され、意識が戻った現実の体は記憶の町で作った傷を持ち帰り、幸い亀裂は直っているが窪みは消えない。地上に下る間際の激痛の最中の絶叫を耳の奥に再生し、ふと自身の声の中に別の声を聞いた事を思い出し、異郷の魂の溜まり場の記憶は渺茫として掴み倦ね、全容を把握する事は敵わないが、聞き取ろうと意識を凝らすと、不思議と耳の奥の音響が判然し出して四肢の末端が金氷になって身震いした。声の主に憶えがあった。大好きで、大切で、それでも物理的に距離を置いて、再会の好機に恵まれるか否か、万事運任せの相手の悲痛な声は、思い出すだけで涙を催す。
──歩、歩、……何処…帰って来て。
あれは母さんの声だった。
「それで、これからだが」と威厳に満ちた老爺の声が耳朶を打った。
地上にて約一日振りの再会を果たした私共は、その後足の甲の傷を指摘され、出戻り早々小娘の足の治療をする羽目になったハオの心境は何処吹く風、治療を終えるなり彼の一派と実家の麻倉一家と協力者の道一家が孤島の宿舎に嘯聚し、長方形の無闇に長い卓袱台を取り囲み、代表として麻倉家家長の老爺─お名前は失念し申し訳ない─が言った。自身の膝に収まる末っ子は、私達の隣に座るハオの黒髪の毛先を弄って、何故此処に居るのか理由は定かでないが、事の概略次第の問答は聞き流し、世話係と揃って蚊帳の外に居た。
飲めば飲むだけ、頻繁にお茶を継ぎ足す為に立ったり座ったりを繰り返す家政婦の少女が気の毒で、湯呑に注がれた番茶に手を出す事を止め、又今度彼女が席を立つ際は、自らお茶注ぎ係を請け負おうと決める。係引き継ぎの機会は案外早く訪れ、末っ子を膝から下ろし、綿の薄い座蒲団を離れかけた時、自分は何もしない亭主関白染みた性格のハオが着物の裾を引っ張って、電気ポット脇の急須を取った所の家政婦の少女に声を掛けようとした私を制した。しかしその程度の制止が数年間傍で彼を見て来た私に対し、効力を発揮する可能性は乏しく、又手元の急須の蓋や茶葉の始末等に追われ、あっちこっちと忙しなく動き回る彼女を見れば、一層彼の制止の効果は薄まる。
中腰姿勢で彼の手を外し、更に掣肘を加えんと手を伸ばす彼の懐に末っ子を嗾け、拒む訳にいかない可愛い子供を受け止める間に、私は家政婦の少女に手伝いを申し入れ、彼女は当然の申し出に恐縮する様に低頭し、お湯の残りが少ないので水を入れて来て欲しいと言った。快諾して電気ポットを携え、茶の間の襖の隙間を擦り抜けて廊下に出た。床板の軋る音が、最後迄交換される事の無かった宿泊施設の窓掛けの金具を髣髴して、あの頃の退屈を謳歌出来た、茫漠とした時間が戻って来たと安堵に胸を撫で下ろした。
水を足して茶の間に戻り、襖を閉じて家政婦の少女に渡し、近くに控えようか迷って片膝を突いて急須の中身を覗いた。茶葉が無い。茶筒の蓋を開け、目分量で適当に茶葉を入れ、お湯を注いでいたら末っ子が呼び戻しに来た。無論ハオのお遣いである。
家政婦の少女に一言断りを入れ、末っ子に手を引かれ席に戻った。
「歩さん」と麻倉家家長の老爺が言った。「貴女は、これからの御予定はお有りかな」
どうやら私の今後の行動、身の置き場、事情も深夜の会議の議題の一つらしく、そう迄して事を大袈裟に取り上げなくても良いだろうに、大人の立場故、そうも言えぬ事情や世間体もある。前世現代の生を足しても老爺の年齢に達する事はないが、中高年か少し若い程度の者として、大人の事情を無視する訳にもいかない。精神的な年齢は中高年か少し若い程度だが、その思考と性格は、隣の糞爺と同様に赤ん坊から遣り直した所為か大分幼いように思われる。無論この場の誰も知らぬ事情だから、私は外見通りの子供の意見を述べれば場の収まりも良く、不審がられる事も滅多に無いと考えている。
「特には。只、そろそろ家に帰らねばなりません。家族が心配して居るでしょう」
「失礼だが、家族はご存命で?」
「勿論です。私の事は、数年帰っていませんし、もう死んだものと思っているかわかりません。だから帰らないと」
「確かに、御家族がお有りなら、帰らねばなるまい。ご両親も、さぞ心配なさってお出でだろう」
「そうですねえ、早く帰らないと。母は勿論、友人にも多大な心配を掛けているでしょう」
「そうか、では、歩さんは御実家に帰られる、と」
私が首肯すると末っ子が言った。
「オパチョ、ハオさまとアユムと、いっしょがいい」
「ハオ様が一緒だよ」と私は隣の糞爺事ハオの纏う布の端を引っ張った。
「ハオさまとアユムと、オパチョ」と末っ子は語尾の口調を弱めて言った。
「参ったな。ハオ様。ねえ、ハオ、どうしようか」
隣の彼は緩慢に頭を擡げ、感情を排した、しかし何処か人間臭い色を残した顔付きで私を睨み、私とハオの間に座る末っ子の縮れ毛の丸い頭を撫ぜて言った。
「今度は、お前が放置か」とまるで恨み言を吐く様に語気を強めた。
「私だって、どうすりゃ良いか、頭が悪いから妙案なぞ思い付かない」
「帰るって、だって」とハオは言葉を濁して黙った。
そうして話は纏まり、身寄りの無い彼の一派の男性陣の大半は太っ腹の道一家が引き取り、女性陣事花の三人娘は麻倉家の弟さんご夫婦が引き取る事で議決し、最後に公的文書等の身分を証明出来る物の無い末っ子は麻倉家の兄弟の両親─鳥のお面を被る男性とその奥さんだ─が養子に取る事で落ち着いた。住む場所は弟さんご夫婦の現住所、東京だか埼玉だか知らない僻陬の地の旧民宿に決まった。
深更会議が終わり、季節の御蔭で日の出迄時間があるので、各々就寝の為に部屋に引き取って、ハオは先日のように弟さんと同室するかと思われたが、今日は末っ子と残り何度機会の有るか知らない共寝に感慨深く蒲団を敷く私に、隣にもう一式敷けと言う。偉そうな、尊大な物言いに立腹したが、眠気も手伝い、怒りは長続きする事無く鎮まって蒲団をもう一式敷いて私達用に敷いた蒲団に、末っ子共々潜り込んだ。尊大な星の王様も隣の蒲団に潜り、輾転反側、中々寝付けないと見て、今からでも弟さんと一緒の部屋に寝ては如何、と提案するが無言で却下された。布の擦れる音が室内に繁く響き、余程寝苦しいのかと一寸起き出して尋ねるが、矢張り無言で寝返りを打って、掛蒲団を脳天まで引っ張ってまだ体を転がす。落ち着かない様子に不安が募り、既に夢の国に旅立って久しい末っ子を、寝付けない可哀想な星の王様の蒲団に入れてやった。彼は洟を啜る様に、と言っても実際に洟を啜る訳でないが、乾いた鼻の下を擦り、可愛い末っ子を抱き締めた。
旭日眩しき昼間近の時刻に目覚め、私は掛蒲団を蹴飛ばし、唐突に昨晩の集団の中に親戚の小父さん宜しく山田さんが居なかった事を思い出し、御遺体が消えたのは数ヶ月前と言う事もあり、矢張り蘇生は敵わなかったと見て、仕方ないと項垂れた。
蒲団を這い出し廊下に続く襖を開け、左右に伸びる廊下を見るが人影は無く気配もない冷たい様に胴を震わせ、襖を閉じて後方の蒲団の盛り上がりを顧みる。襖の開閉は、人々の寝入った宿舎の静寂を考慮して、細心の注意を払って静かに実行したが、起きて抜け殻になった蒲団の隣の蒲団の小山が動き、烏の濡れ羽色の長髪を手櫛で梳きながらハオが目を覚ました。寝惚け眼の阿呆面を見遣り、山田さんの序でに思い出した事を、起き掛けの回転の鈍い頭を承知で尋ねた。
「ハオ、お母さんに、挨拶したかい」
彼は寝惚け眼をこちらに据えて、軽く頷いた。
「言ったら、行ってらっしゃい、気を付けて、てさ」
「良かったじゃない」
「うん、まあね」
「後、お早う」
「うん、お早う」
弟さんご夫婦に連れられ、私達とハオと未だ腹心らしいラキストさんと、未来の温泉旅館の仲居に採用された花組は、日本は東京、或いは埼玉の旧民宿に向かって昼過ぎに島を発った。旧民宿で一泊し、翌日私の実家に行く事が、その日の旧民宿での会議で決定した。此処で問題に想到し、電車の乗り方と地名駅名の違いを確認する為に一人旧民宿を脱走して本屋に走るが、後を追い掛けて来た末っ子が泣くので、二人で本屋で電車早見表や地図帳を開き、睨み付けた。
帰ろう、家族の許に。
でも、此処の家族とも離れ難い。
どちらか一方しか選べないなら──。
ちゃっちゃと行きます。
脱走とか言いますが、別に外出程度を咎める人は居ません。居ない筈。
てな訳で、主人公帰宅?