実在する人物、団体、国、土地、事件等とは一切関係ありません。
このIFは、愛別離苦①の時、主人公がもっとどん底迄落ち込んでいたら、こんな行動を取っていたら、と言う話です。大分駆け足気味ですが、本編とは何の関係も無い話ですんで、其処ん所を宜しくお願いします。
一、最期の願い
大会爾後の各々の身の置き場等を決する会議、将又人類存続を万歳三唱するが如く一献、集会も闌に賀筵を辞した子供達は季節の御蔭で日の出迄時間があると言う事で、連日の疲労を回復する為に寝室へ引っ込む事にした。私達は先日お邪魔した離れ座敷を最後の寝床に決め、蒲団一式を抱え戸障子を開け、六畳間の真ん中に敷蒲団を敷き、薄い掛蒲団を掛けて就寝の準備を整えた。其処へ当代星の王様事ハオが遣って来て、私はてっきり弟さんの寝室に自分の分の蒲団一式の準備を依頼に来たと思ったが、千年の鬱陶しいお家芸を捨てた彼は他者の心中を読み取る事が出来ぬ為に不自由を強いられ、人様の言葉を聞く前に其処の蒲団の隣にもう一式敷けと尊大な物言いをして、十数年放置した弟と久闊を叙さなくて良いか尋ねる間も無く顔を顰める。此処で不機嫌面で拒否の姿勢を貫くもありかと思われたが、縮れ毛の丸い頭が前後左右に揺れ出し、末っ子の覚醒時間の限界を察して蒲団一式を貰いに座敷を出た。
渡り廊下を伝い母屋の家政婦の少女に頼んで糞爺の分の蒲団を出して貰い、一式抱えて離れ座敷へ戻り、開けた儘の戸障子を擦り抜け、私の敷いた蒲団の前で傲然と胡坐をかいて全く手伝う気配の無い糞爺が出迎えた。最初に敷いた蒲団を六畳間の真ん中から端に寄せ、新しい蒲団一式を隣に延べ、今日が最後の共寝の気持で末っ子を抱いて最初の蒲団に潜り込む。蒲団の中で生意気な糞爺に就寝の挨拶を忘れず、返事を聞き流して瞑目する。人体の急所の鳩尾に黒い額を減り込ませ、健やかな寝息を立てる末っ子の高い体温を寝巻き越しに感じ、自身の生と自身の立場と自身の居場所を確認した気持になって、無意味な郷愁に涙を催した。洟を啜る無様は堪え、息を殺して掛蒲団を脳天まで被った。
他者を非難する気も揶揄する気も無いが、隣の衣擦れが五月蠅く、先刻の眠気が霧散する様で苛々が募って蒲団の隙間から相手の寝姿を盗み見ると、寝苦しいらしく輾転反側、眉根を寄せて溜息を吐いて青白い顔を一層青白くして、非常に五月蠅い。十数年の放置を恨む弟さんの心情を案じ、無論相手の寝返り等が自身の睡眠を妨げる事実は隠して私は部屋を移す提案をした。一寸頭を擡げ、目線を横の私に転じて、糞爺は無言で拒否の意を示した。その後何度か寝心地を尋ね、全て無言で返す様子に不安を覚え、夢の国に旅立って久しい末っ子を糞爺の蒲団の中に入れた。素直を知らぬ意固地な彼は羞恥に赤面する顔を隠す様に鼻の下を擦り、しかし文句は無く、可愛い末っ子を自分の蒲団に受け入れ、軈て規則的な寝息を立て始めた。二人の就寝を確認した私も、心置きなく孤島で過ごす最後の夜の音に耳を攲てつつ寝入った。
特別夢を見る事無く、或いは目覚めの刺激の所為で記憶が混乱して遺忘し、仮令夢の内容が不明瞭でも日常生活に支障を来す事は無くて、気持良く目が覚めて蒲団を出た。片目で見通せる程度に戸障子を開け、左右に伸びる廊下を見遣り、離れ座敷の四辺を囲む廊下を誰か通れば障子越しに影が見えるので当然気付くが、正面の渡り廊下を渡る中途の場合は足音に気付かねば気付かぬ儘余所様の誰かを、人を迎える恰好でない恰好で迎える事になる。幸い人の気配も、幽霊の出る気配も無く、廊下は寂寞として、昧爽とも昼前とも異なる清々しい陽光の下に枝葉を広げる日本庭園の中にあった。扁平の自覚のある顔面に唯一突出した鼻を挟まぬよう、上半身を後方へ引き、静寂に馬鹿の様に響く音を立てて戸障子を閉め、蒲団で寝直すか考えて身を翻すと丁度起きた所の糞爺事ハオと目が合った。
寝惚け眼の外見年齢不相応の子供染みた顔を見て、唐突に思い付いた事を尋ねる。君、お母さんに挨拶したかい。
ハオは阿呆面の儘首肯した。行ってらっしゃい、気を付けてねって。
二人で良かった、良かった、と頷き合って居ると、又気になる事があって尋ねた。
「山田さんは、矢っ張り駄目だったのか」
「二ヶ月以上も前だ、死体の再生も不可能だよ」
「全知全能と言うのに、まず全能でない事が証明されたな」
ハオは不貞腐れた顔で明後日の方を向く。烏の濡れ羽色の長髪が半ば辺りで縺れ、折角の見事な髪が勿体無いと手櫛で梳いて遣り、縺れた箇所を丁寧に解いて背中を空ける。真ん中で頭髪を二束に分け、一方を肩に掛け、一方を自身の手掌に広げ更に三束に分ける。三つ編みで纏めようと試みたが、二三度編んだ所で妨害を受け、髪を纏めると言う重大任務を完遂出来ずに終わった。
分厚い手袋の無い手で肩に掛けた髪束を背中の方に戻すハオの横顔をつくづく眺め、又唐突に浮かんだ事を一度頭で考え直すと言う、人様との会話で大切な過程を省略して無遠慮に尋ねた。
「星の王様になったのかい」
彼は濃色の両目を見開き、驚愕を露に間抜け面で言った。
「なったよ。君も見たろう」
「なら、何故、此処に居られる。星の故郷の玉座は空っぽなのかい」
「…詳しくは省略するけれど、要は分身を置いて来た。本体の僕は肉体に戻って、肉体が滅ぶ迄は只の人間だよ」
「星の王様は君の分身が代理を務め、本物の君は、地上で只の人間? それは、つまり、どう言う事」
「シャーマンキングの力は、地上に居る限り封じて、シャーマンキングになる前の力だけで百年を生きようと思う」
成る程と頷き、私は末っ子の眠る蒲団を振り返る。
「新生活が楽しみだね」
緩慢に振り返るハオは、何処か幸福を滲ませる顔付きで小さく首肯した。
現在の時刻が気になって時計を見て来ると言い置き離れ座敷を出て、昨晩と同じく一人渡り廊下を渡り、母屋の茶の間に掛かる壁掛け時計で時刻を確かめ、空の明るさと時計を見比べ、時刻が昼過ぎと解った。特段す可き事も無く、勝手に台所を使って良いかも解らず、朝御飯改め昼御飯を作る事も儘ならない。踵を返して座敷に戻る。既に起き出した末っ子が蒲団を畳む所だった。一緒に蒲団を畳み、畳んだ敷蒲団を二枚重ね、掛蒲団も掛蒲団同士で重ねて運び出し、引っ張り出した場所に持って行く。蒲団をくれと我が儘を言う私に家政婦の少女が言った。
蒲団を片付け空腹を覚え、空腹の虫の鳴き声が止まぬ末っ子は、鳩尾を押さえて私を見上げる。潤んだ団栗眼を無視出来る筈も無いので、後で叱られる事を覚悟して台所に立った。其処いら中を漁り食材や調理器具を出し、一度皆洗って、数少ない調理経験の中から自信は無いが失敗の可能性の低いと思われる料理を選択して覚束無い手付きで調理を始めた。大体煮物と炒め物で、焼魚は好きでも火加減が難しく作る気力が湧かない、結局常の玉子焼きに簡単な醤油と鰹節を混ぜたお結びを作って、その場凌ぎに出すと、末っ子は大変喜び少々大きめのお結びを三個も食べ、米粒を頬に付けてにこにこ笑った。
三人の侘しい食事を終え、三人揃って流し台に立ち調理器具や食器を洗い、茶の間の濡れ縁で中天を越して西に傾斜した太陽を仰ぎ、遅く起きた家政婦の少女の吃音の酷い謝罪を宥め賺して、謝罪代わりの番茶を戴いた。その内麻倉家、道家、彼の一派の男性陣や女性陣も起きて、皆の遅い食事風景を背に、私達とハオは色々の準備が整う迄濡れ縁に座り込んで居た。準備とは帰り支度の事だ。帰る場所は、彼の一派の者等は帰ると言うより向かう場所だが、中国の秘境や日本の出雲や東京或いは埼玉の何処かに、孤島と言う海に囲まれた場所故に、まず海を渡って日本列島に上陸する。其処で道家、男性陣とは暫しの別れ、無論麻倉家も出雲へ帰る電車か飛行機に乗る為に別れ、残った者達で電車を乗り継ぎ東京埼玉の境界の旧民宿へ帰る。当代星の王様の腹心ラキストさんも之に同道し、旧民宿に一晩泊まって、予定では翌日に私の実家へ帰る事になる。
解る方は解ると思われるが、予定は未定、未来は渺茫として曖昧模糊で皆目見当もつかず、一体前世含め数十年の人生で世界規模の盥回しと言う憂き目に遭う程の悪事を働いた覚えは無いが、世界は何か覚えがあると見て、止むを得ず盥回しを甘んずる。風呂敷を一枚手渡され、必要な物を包むよう言われ、必要な物も何も身一つが大事な物で他の大事な物は自身の足下を小動物宜しく元気に動き回っている。唐草模様の古風な風呂敷を日に透かし、編目から零れる陽光の向うに幽邃な森の峡谷に挟まる建築物を思い浮かべ、其処に遺失物がある訳も無いが様子を見に行きたくなった。相談する時間も無駄に思われる程意味の無い思い付きの為、私は行きたい衝動を堪え、風呂敷に金具の劣化の著しい、帯の草臥れた髪留めを包んで四つの角を一つに結んだ。
茶の間の室内に続く廊下の方で弟さんが濡れ縁に御輿を据える私達を呼び、重い腰を上げ玄関へ出て、弟さんの浴衣用に兼用出来そうな便所の下駄を拝借して表の庭に一足踏み出した。一行は船の出る港へ行き、道中ハオが隣に並び末っ子や家族との東京暮らしに想いを馳せる様を盗み見たり、遺忘した今朝の夢の内容の、星の故郷を出る間際の現代の母の嘆き等、様々の事を脳裏に浮かべ消して悩んで、自身の腰の位置に届かぬ縮れ毛の丸い頭を見遣って、そうして一つ決意した。矢張り現代に帰り、家族が腕を広げ自身の帰還を狂喜してくれても異世界の家族のその後が気に掛かり真面な日常生活を送れない姿が容易に想像出来た。現代への帰還を諦める事は論外で、しかし異世界の家族を道連れに帰還する訳にも行かない。
非霊能者で前世も現代も至極平凡な一般人の私は、家族を天秤に懸ける事を悪い事と考える。悪事を働いた私の肉体の滅びた先は、言う迄も無く地獄だろう。だが、肝心の地獄も、この異世界の地獄に私の居場所は無く、元の世界の地獄への行き方も解らない、已んぬる哉と決意した自身の異世界旅行の末路と異世界の家族を思い、烏の濡れ羽色の髪を風の随に躍らせるハオの背中に目礼した。選べないんだ、申し訳ない、オパチョを宜しくお願いします。
二、願うは一つ
港に着くと大会選手参加者諸氏が待ち構え、銘々理想を胸に抱いて決死の覚悟で臨んだ大会の終幕を、無事とは言い難いが命あっての物種精神で喜びを分かち合い、一時は孤島を包囲した軍艦に大会主催者の伝統工芸を以て修繕し、身一つ或いは大荷物を背負って乗船するなり故郷へ帰って行った。縮れ毛頭の道蓮さんの仲間は、彼の非霊能者の仲間も一緒に白装束集団の船に乗って、青味を帯びた黒髪の日本人の少年は家族手製の筏で北海道目指して海原に旅立ち、今大会を引っ掻き回した当代星の王様の子孫の麻倉家や協力者の道家の方々は、敵艦に乗り込む事無く個人で手配した船に荷物を積み込み、予定時刻を大幅に超えて尚準備は終わらない。軍艦や白装束集団の船が孤島を解纜して暫く、簀巻きにした大荷物を担ぐ鳥のお面を被った男性が桟橋に立って水平線上の空模様を眺め、波が穏やか云々と満足げに頷き、積荷の確認を行う奥さんに良い天気だと言葉を掛ける。
荷物整理を手伝う立場の私は、しかし積荷に触れる事無く、漁の季節に列島の漁師が寝起きする漁師小屋の壁の前で突っ立った儘大人達の作業を見守る。粗末な漁師小屋は夜の海風に倒壊必至の荒屋で、壁に凭れる気も起きず、背筋を伸ばして海の彼方を見晴るかし白い繁吹きを被る鳥のお面の男性の筋骨の浮き出た逞しい体躯と貧相な糞爺事ハオの体躯を比べ、日々の鍛練の効果を思った。弟さんの貧弱な体躯とも見比べ、兄弟は母親似だろうと勝手に考えた。一週間位の滞在期間だったが島内を駆け回り、人外の跳躍を見せた人も複数人いて、空中で姿勢保持の完璧な人々を仰ぎ見た時は驚嘆したものだが、鉄棒の逆上がりの要領で天地逆転の姿勢を保つと考えるなら、道具次第で一般人も出来る気がした。
西の水平線に近い太陽の日を浴びつつ超人的跳躍の実現の為の道具を想像していた時、丁度目の前を鞘に納まる日本刀を袋から出した状態で左見右見、許嫁さんに話しがあると見て、目的の人物の所在を知って砂浜の方向へ駆けて行った。彼の掌中の日本刀に目が行き、棒状の、と言うより長大な棒を一本持って跳躍力を競う陸上競技の存在を思い出す。余り運動競技に関心は無いが大抵の運動経験者は全身が筋張って、テレビ画面の向うの人達は特に無骨で四肢や体幹の筋肉がよく見えた。前世現代に経験者の知人もないので迂闊な物言いは出来ないが、又居ても持論を披露する相手が現実に居なくて虚しい許りで前世現代の交友関係の狭さ等に感謝す可きだが、程々の筋力と呼吸が合えば不可能でもない跳躍だろう。
持参か知らない蒲団を積み込む鳥のお面の男性が、穏やかと雖も毛髪一本も風に靡かぬ、整髪料を大量に用いて庇の如く前方に張り出させた髪型の男性を顧みて指示を出し、指示通りの行動を取る男性は車椅子の男性に一抱えもある風呂敷包みを手渡す。見慣れた男性陣の屯する見当を見遣ると、見慣れた人達が大荷物を背負って船に物を積み込んでいた。女性陣を探すと自身が傍に立つ小屋の二つ小屋を隔てた突堤で尻を暖め、煙草を吹かし、南瓜頭の人形を抱え、目玉の取れた人形の頭髪を弄って、濃紺の海原を眺めているらしい。皆退屈したり、物を積んだり、今遣る可き事に忙殺されて周囲の顔色なぞ解らない。
ハオが男性陣に呼ばれ、足一本を動かすのも億劫がるハオは愚図愚図と漁師小屋の前で足踏みして、遠くの濁声が止まず、駆け寄るか留まるか逡巡する様子を見兼ねた私は背中を押して駆け足を命じ、渋々駆け足で男性陣の方へ向かう黒髪の残り香を嗅ぎ、石鹸の残量を尋ね忘れた事に今更気付いた。已んぬる哉と溜息を吐き、最後の難関の末っ子を見下ろす。舗装済みの地面に直接座り、大会主催者の村で買い求めた上着を羽織った末っ子は港に着く迄は元気溌溂としていた顔色を、丸で命に関わる難病の末期患者の様に悪くして俯き、船の出発が一秒でも遅れるよう祈っていた。東京の旧民宿への到着の翌日に、私が帰省する為その瞬間が僅かでも遅れるよう、出航準備の遅滞を懸命に祈っているのだ。
足腰の疲労を覚えて私も地面に尻を突き、数年間手首に巻き続けた首飾りを、末っ子の視界の外で外して風呂敷包みの中に仕舞い、荷物を小屋の壁際へ押し遣る。一拍置いて矢庭に立ち上がり、縮れ毛の丸い頭を見下ろし、さも重大な事の様に言った。
「オパチョ、私は忘れ物をした。葉さん達の宿か私達の前居た宿か解らないけれど、大事な物が無い。探して来るから、此処でハオと一緒に居て頂戴」
「うん」
と一片の不信感も抱かぬ様子の末っ子の頷きに、非常な罪悪感を覚えつつ弟さん達の宿泊施設の方向へ駆け出し、港の見えなくなる所で速度を緩め、森の奥を目指して又力一杯地面を蹴った。
森の陰の深い道を直走り、民宿独特の趣のある庭と往来を分つ垣根沿いに高山の裏の建築物の見当へ歩を進め、時折往来の端に食み出した草藪の枝葉が掠めて皮膚を裂き、蚯蚓腫れの様な索状物が腕に走って少しの痒みを覚えた。腕を掻き掻き走り続け、屏風の如く並ぶ群峰の一等低い山の山巓が燦然と輝く白い太陽を衝いて光線は森林の樹冠を照らし、天然の天井に遮られ、自然の灯火の恩恵を知らぬ私は九十九折の道路を駛走して高山の裏の建築物の鉄門扉の前を通り過ぎた。真の目的地は此処でない孤島の港の反対側にある筈だ。確証は無いし、島全体を散策する気力体力は持ち合わせない現代っ子は、只胸中の空虚感を抱え、星の故郷の向うに聞いた現代の母の悲嘆に追われ、矢張り只々走る。
直に道も無くなり獣道も無い草藪を掻き分け進み、自身が真っ直ぐ進むか紆余曲折して進むか、方向感覚を養わぬ所為で判然としないが、気持は孤島の港の反対側を向き、足腰の疲労や届かぬ筈の末っ子の姉貴分の世話係を捜す泣き声を、森林の幽遠の下陰を走って振り払う。幽霊の捜索隊の出動を恐れて歩みは止めない。出動を望まぬが、可愛い末っ子に甘い糞爺の事だから麻倉家や道家の方々に協力を懇請しないとも限らず、寧ろ幽霊を総動員して、生者は隊列を組んで捜す可能性も否定出来ないが、抑も無益な捜索に繰り出す人が何人居るか知ら。末っ子が可愛い糞爺の事だ、末っ子一人を置いて楽園に引き籠もる非常識的行為は、さすがに千年前の人生経験も手伝って敢行する事は無いと信じたい。
私は姉貴分の世話係として数年間を共にしたが、大事な数年間の内に世話の対象の子供は世話係の家族の範疇に収まり、我が物顔で世界や自分の視界と無縁の所に居る者を手元に引き寄せる。何度救われたか知れない何気無い行動に、感謝の念は尽きないが、今も恋しい家族の悲嘆が耳の奥に響き、瞼の裏に浮かび、現実の立ち位置に左顧右眄して思考が縺れる。前世現代は曖昧だが優柔不断を嘯いて憚らない自身が居る。しかし乍ら窮地に立つ者にとって優柔不断は卦体が悪く、又許されざる愚行である。愚行を承知で旧民宿まで貫こうとしたが、陶磁器の破砕音の向うに聞いた家族の声が、末っ子の弱々しい声が、私に不断を許さず決断を迫る。一方を選択せよと世界も家族も迫るが、無理だと直感した。
高山裏の峡谷の建築物を通り過ぎて更に奥の森の道無き草藪を突き進んで大分行き、不意に肌が粟立つ様な形容し難い温風が吹いて周囲の立木の間が騒がしく、今一切の身動きはならないと、息を殺して草藪の中に屈み、天然の天井の隙間に覗く曇天を仰ぎ見た。草木の葉が参差として頭上を覆い、僅かな隙間の鼠色の風の行方に意識を凝らす。不気味な風は間断なく人様の身辺を揺さぶり、段々物騒な気配を色濃くして、非霊能者の感覚や能力の及ばぬ所の存在を遣り過ごし、只管耐えた。眉間を脂汗が伝い鼻の付け根で左右に分かれ、頬骨の辺りで一時流れが滞る。風が断続的に吹き、軈て風音が間遠に聞こえ、深呼吸の後、漸く中腰姿勢で行動を再開した。
薄暗い森を駆け抜け、薄闇が途切れる頃に細雨が降り出して脂汗と一緒に鬱陶しい毛髪を濡らし、細い毛髪も太い毛髪も関係無く肌に貼り付き、首を振る度に長い数本が首筋や着物の下に這い込み背中にくっ付く面積を広げ、不快感が渦を巻く様で頭を掻き毟った。孤島の亜熱帯気候が嫌で長袖を捲るか考えたが、素肌に髪の毛が巻き付く不自由と不快感を顧慮し長袖の儘を譲らないで、汗と雨滴が綯い交ぜて布が肌に貼り付く感覚と糸屑が巻き付く感覚を比べて、前者の方が幾分増しだと言う事に想到する。長い毛髪は幾ら払っても付き纏い、布は直に皮膚と一体化して忘れ、項と背中の違和感を背負って陰の無い広場を、後方の薄闇を離れ明るい方へ駆けた。
前世現代も見慣れた某曜日サスペンスドラマの犯人逮捕、或いは犯人独白後の自害の現場の崖っ縁に駆け寄り、両手両膝を地面に突いて薄汚い繁吹きが砕ける崖の底を覗き見して、目的の兇器の突端を見て腰を落とした。暗い海の波間に隠見する岩礁は、崖を落ちた物があれば衝突は免れない。
ハオは星の王様の力を封じ、一介の霊能者として地上の百年を生きると宣言した。漫画本の誰かが、誰かの蘇生は敵わない、肉体の、主に頭部の損傷が激しい為だと言った。頭部の著しく損壊した肉体は一介の霊能者の治療での補填が困難で、それこそ星の王様の人外魔境に浸かった力を使わねば欠損部位の治癒は敵わず、人間の領域内の者には治せない。第一頭部は脳がある、四肢等の末梢神経も再生能力は無いと言われるらしいが中枢神経の脳や脊髄はもっと異なる。特に脳は生命維持に必須の物で、他者の想像力で補える物ではない。神経を作る永久細胞は、持ち主が終生付き合う物であって他者が関与する事は無い、記憶を司る海馬なぞ他者の想像で創って良いものではない、他者が創った脳なら別物になってしまう。
私のす可きは一つ。現代の家族や異世界の家族の一方を選べず懊悩し、腹を痛め命懸けで自身を産んだ母親を絶望に追い遣り、頑是無い末っ子を苦しませ、尚選べないと嘆く位なら何処にも帰らなければ良いだけの話だ。
口で言う分には簡単だが、轟音にも思われる潮騒を聞き乍ら崖の底を覗き込み、繁吹きの掛かる岩礁の突端に激突した際に全身を駆ける衝撃を想像すると眩暈や吐き気を覚える。港に戻り、東京の旧民宿に一泊し、現代の家族の住所を訪ねて、其処に自身を待つ人達は居るのか、又居ても真面に顔を見る事が出来るか、家族と言う存在を天秤に懸けた身で温かな居場所に収まる事が許されるのか。
足腰を叱咤して蹌踉と立ち上がり、先程の不気味な温風が頬を掠めて心臓が跳ね、焦燥が募る一方で足が地面を離れない。選べないじゃないか、と言い聞かして深呼吸、細雨の雨脚が強まり雨滴が肌を叩いて項の毛髪を払い不快感が薄まった。霏々として降る雨の中、指呼の間にある岩礁へ着地する気持で虚空に身を躍らせた。瞬間、着物の裾を何かが引いた気がしたが、思い出したのは異国の大地で出逢った羊のママの長い鼻面だった。
三、たったひとりの舫う声
蓬け起った草藪の葉擦れを聞いて目を見開くと、鯱の背中を髣髴させる濃紺の海面に両膝を突いて、鈍重な頭を振って序でに周囲の様子を確かめ、引いては寄せる薄汚い波の向うに白茶の毛玉を認めた。何気無く足元に目線を落とし、半透明の自身の膝小僧を見て肩の力が抜け、水の感触も水中に漂う塵の感触も無い海面に立ち上がって、懐かしい毛玉に涙を滲ませる。
耳元に繁く通う耳障りな葉擦れに頭上を仰ぎ、鼠色の分厚い雲と本式の雨が降り頻る薄暮の空の下、自身の立つ位置から遥か上方の崖の森と草藪の、生前では聞こえる筈の無い葉音に感慨深い気持で溜息を吐いた。目線を下ろして頭部か全身が強か打ち付けられた岩礁を探し、光沢感ある赤黒い岩礁の突端を洗う白い繁吹きが崖に当たって砕け、又別の繁吹きが掛かって際限なく洗い続ける。直に赤黒い岩礁は、其処いらの真っ黒の岩礁と区別がつかなくなった。
べえ、と背後に目頭の熱くなる様な鳴き声が響き、やおら振り返ると異世界の星の故郷の中で、遂に逢う事の敵わなかった羊のママが居た。
一足二足と海面を踏み締め、ママは私の腰に長い鼻面を擦り寄せて、又聞き慣れた懐かしい濁声で鳴く。その声が、馬鹿な事を、今直ぐ皆の所へお戻り、早く治して貰いなさい、と言う様で、勿論私の願望は重々承知で、稲に似た植物が簾の如く体毛に絡まった腹部の、今は汚れ一つ無い綺麗な腹部に手を滑り込ませ、胴体に腕を巻き付け抱き締めた。二重三重に毛皮の重なった首に顔を押し付け、幽霊の姿でも煩わしい鼻水を垂らし、郷愁を煽る腐臭が鼻を衝いて、自然笑い声が漏れた。
誰も聞く者は居ない、精々抱き締めるママが耳を震わす程度で、私の独白を聞く者は、言い終える前に到着する事は無い。丸で殺人犯の自害寸前の独壇場、本来崖っ縁で語る可き事柄を、独白後の身投げを終えた頃に漸く語り始めた。
「母さん達は、幽霊が見えなくて、私の姿は見えない。オパチョは見えるけれど、あの星の故郷にでも飛び込めば、私の体は忽ち砕けてしまい、きっと幽霊の見える人でも見えまい」
瞑目すると真っ暗闇で、創作物や他霊能者の言では行く可き場所が光って見えるとか、光る道を辿った先に極楽浄土や死後の世界があるとか、色々言うし、色々聞くけれど、別世界の魂の私の視界には魂の故郷へ辿り着く道標が見えない。未知の環境に置かれ、帰る道も不明瞭で、右往左往する許りの迷子の心持が解って笑いが止まらない。
一際大きな波が押し寄せ、崖にぶつかり、繁吹きが私達の半透明の体を擦り抜けて行く。違和感も何にもない、体内を巡る感触も無い、ママの感触はあっても現実の物の感触は一切感じなかった。
「ハオは怒るか知ら。オパチョが居るから、百年経たずに星の王様業に戻る事は無いと思いたい。でもね、矢っ張り駄目なんだ。選べないし、悲しいし、もう、どうしたら良いか解らない」
頭が痛い。余り考える事は得意でない。頭の悪い自覚はある、発想が貧困な事も、気の利かない事も、皆解っている。
瞼の裏に現代の実家が映り、茶の間の長い卓袱台の前に端座する母の痩せた土気色の顔が浮かび、時折庭を歩き回って暗い倉を覗き、鬱蒼とした雑木林の間隙を縫って細い幹の向うに娘の影を捜し、幼馴染の翔子の家を訪ねて最後に娘の姿を目撃した場所を聞いて、何度も聞き直して、何度もその場所を訪れ、そうして其処に娘の姿はなく、帰らぬ母を案じた家族に連れ戻される。学校の登下校の時間帯に歩道に立って、学校の見当を見遣って首を伸ばして爪先立ちして、陰の長い道を歩く児童の群れに私を捜す。
潮騒が遠退き、腕の中のママの腐臭も遠ざかる。瞼の裏の真っ暗闇に意識を凝らし、中々帰られぬ我が家を見て、乳鋲を打ち付けた田舎の門の前に痩躯の母の青褪めた顔と目が合う。我が子は何処、と近所を彷徨い、時に遠方の駅を彷徨い、いつ迄も私の名前を呼んで目線を彷徨わせる。
幼馴染の翔子の様子は如何か、あの日遊びに誘い出掛け、ふと背後を顧みると其処に幼馴染の私の影は無く、方々捜し回り、声を張り上げ名前を呼び、応じる気配の無い幼馴染の行方を憂慮し、ぐるり首を巡らし乍ら家へ帰り、到頭警察沙汰の大事となった光景を目の当たりにして小学生の彼女は何を思ったか知ら。余り思い煩う必要は無い、と伝える手段の無い私が、今更声高に言っても、現代の知人の誰も私の声を聞く者はない。遊びに誘ったばっかりに、と意気消沈の体で日々を過ごす後ろ姿を想見し、仮定は仮定、現実の翔子の有様とは異なる事を信じる他無い。
嗅ぎ慣れた自室の畳の匂い、愛猫達の鳴き声、冬季の炬燵蒲団を捲った天板の下の真っ赤な空間に腹を出して寝転がる野性味の欠片も無い寝姿、祖母の勝手口を開閉する音、祖父の威厳に満ちた怒鳴り声、自動車の後部座席から見る運転席の父の薄い頭、母の私を呼ぶ声、現代の家族を愛惜する私は前世の家族との袂別に決心がつかないのだろう。二度も家族と真面な挨拶の無い別離を強いられる自身の境遇を忌む可きか、この塗炭の別離を強いる何者かを見付け出し、清算を求めるか。無力を印象付けられ、又事実無力な小娘に過ぎない私が、幾ら何者かに抵抗を試みようが無力の事実は変わらず、泣き喚き地団駄を踏んでも顧みる者もないと思われる。
此処に無力や罪悪感に歔欷する小娘を案じ、種属も全く異なった母親が居て、動物特有の腐臭を漂わし長い鼻面で黒い頭を撫ぜる。今の私に残る縋る相手の第三の母親は、無力無能の小娘の泣きっ面を笑うでもなく胴を横たえ、異国の大地の荒野に見た家族団欒の光景を再現せんとする。過去に大量の植物の垂れていた腹部の体毛に顔を埋め、何の痛痒も無い死の瞬間を笑い、家族を選べぬ優柔不断の自身を笑い、声の届かぬ家族を想って泣き、散々泣き喚いた後に頭を擡げ、黒い水波の立ち騒ぐ海原の水平線上の、頭上の雨雲より一層暗い空に目線を転じて嘆息した。無闇に喚き、徒に時間は過ぎて、暮れ泥む西空の雨の模様に家族と幼馴染の憂いを見る気持で御輿を上げた。
ママが鼻面を上向かせ、濁声で尋ねる様に鳴き、解った顔でそれに頷いていい加減な方向を指差し、星の故郷に行って参りますと言うなり身を翻す。幽霊の飛翔の方法は皆目解らぬが、海面を蹴ると半透明の体が持ち上がり、水中を泳ぐ感覚で四肢を振り回すと思う方向に体が進んだ。
濁声が揺曳して威圧感の塊の様な精霊のママが私を追い掛け、濡れた鼻面が虚空を泳ぐ手を突き、湿った感触を覚える実体の無い体に、寂寥とした大地で繰り返し硬い体毛に覆われた狭い額を撫ぜる感触を思い出した。索莫たる気持で同様の動作を、霊体同士で繰り返し、手掌に感じる硬い体毛の柔らかい箇所に指先が引っ掛かり、皮膚を引っ張る感触もあって驚いて手を放した。離れた指先を追ってママが首を伸ばし、大きな鼻の穴が開く様で、つい悪戯心が芽生えて小指を突っ込みたくなる。異国の大地に寝起きした頃はハオのお家芸の御蔭で黒い鼻の穴に指を突き刺す願望を見抜かれ、彼が腹を抱えて笑うので、鼻頭に出来た皺を深く刻む人間臭い笑顔が業腹で仕方なく、彼の頭を滅茶苦茶に掻き回して遣ろうか真剣に考えた。
若し現代の家族の許に帰れぬと事実が明瞭になった時、異世界の家族と共に現代と変わらぬ空模様を眺めて、現代の家族の健康と長寿を願い、いつ迄も空を仰ぐのだろう。異世界から現代の家族の許に帰った時、変わらぬ空模様を仰ぎ見て、異世界の家族の健康と心底慕う相手との家族仲と末長い幸福の繁栄を願い、いつ迄も飽きる事無く空を眺めるのだろう。世界が違えば非霊能者や死者の関係と同じ、違う世界の家族の事は、死者が生きる家族の幸福を願う事と大差ない。世界が異なる時点で、異世界の今を生きる者が声の届かぬ家族を想う時、それは死者の願いと、果たしてどれだけ違うだろう。余り違いは無いと思われる。だって大差なぞ無いもの。
雨音が勢いを増し、黒い海面に白波が立ち、崖で砕ける繁吹きが飛び降りる際に立った足場に近付き、いよいよ本格的な嵐が遣って来たと思って、しかし風雨の影響を受け付けない霊体の私は、異世界の星の故郷を探して悠々閑々と虚空を泳ぐ。孤島を背に異国の荒野の真っ只中に在った観光名所の遺跡の奥の村に行くか、大会参加者の内、三人一組、計四組と大会運営委員の十祭司のみが上陸の権利を持つ海底遺跡の奥の生きた星の王様の寝所を訪ねるか、其処で星の故郷に身投げ出来るか知らないが、兎に角星の故郷を見付け出さねば話は始まらない。
何処から探しに行こうか思案投げ首、腕組みして唸っていた時にママの耳を劈く大音声の報告に竦み上がり、何事と立位の姿勢に直って、ママの黒目が向く孤島の見当に目を凝らす。自身の飛び降りた崖っ縁の海の側に、淡く白く発光する看護師の恰好の巨大な女性を認め、同時に巨大な注射器から塵の様な小さい黒色の塊が荒波の打ち寄せる崖下の岩礁の群れに飛び込んだ。着水の音は当然聞こえないが、黒色の塊が荒波に飲まれ、呼吸の為に一度浮上するかと思ったのに浮上の気配もなく、脈打つ筈の無い心臓が跳ねた気がして、黒い海にママを伴って潜った。
黒い荒波が黒い尻尾の様な物を飲み込んだ気がした。大して目が良い訳でないが、黒い尻尾の様な物は、あれはハオだったのではと胸騒ぎがして泣きたくなった。君が居なくなったら、オパチョはどうするんだい。
四、声の届く距離
海中の視界は甚だ悪く、細かい塵が半透明の体を擦り抜け直ぐ遠方に運ばれ、渦を巻いて海底に没し、時に浮上して黒い繁吹きとなって雨滴に混じる。激しい風雨も海中に届く事は無いが、嵐の波濤が風雨を呑んで暗い泡が立ち、又その泡が邪魔で視界が利かない。幽霊の腕に接触する物は同じ幽霊の羊のママの体毛だけで、現実の海水や海の塵等は霊体を非常な速さで通り過ぎ、実体を持つハオの総身を打ち、遠く光源の無い真っ黒の視界の向うに華奢な体躯の沈む様を認めた。黒色の尻尾が一条の白泡を曳き、細い四肢を遮二無二動かし沈み、否彼は自分の意志で海底目指して泳ぐのだと気付いて、何故嵐の海の底を目指すか解らず、私も遮二無二抵抗感の無い水を掻いてハオの着物の裾に手を伸ばした。
ママの濁声一声、刹那目線を着物の裾から逸らし、後方のママの長い鼻面を顧みた為、次に進路に向き直ると其処は真っ黒のがらんどうで、目標を見失ったと焦燥に駆られるも脚下に尻尾の軌跡の泡が漂い、更に底の方へ降りて行った。軌跡の泡は瞬く間に海の藻屑と消え、二呼吸分の間を置き、目を凝らした先に黒色の塊が海面目指して藻掻く姿を捉えた。黒色の塊は言う迄も無くハオで、繊細な指を目一杯広げて頭上の水を掻き、片腕に草臥れた風の薄汚い蒲団を引っ掛けて四肢を振り回し、海面に達する直前、幽霊の私と目が合った気がした。霊能者で筆頭とも言う可き能力を備える彼だが、荒波に揉まれ乍ら一介の幽霊を認識する心身の余裕があるとは思われないが、事実目が合った錯覚を起こさせる程の可能性を秘めた相手である事が解った。幽霊になって見るものだ、と内心感服し、その可能性を絶やさぬ為に無茶は止しておくれと思う。
白波立つ海面を出て嵐の全天を仰ぎ見て看護師の女性の腕が胴体の脇を掠め、仰天して飛び退って腕の引っ込む方向を回顧し、凄絶な風雨の中に腕を束ねた憤怒の形相悍ましき小鬼事道蓮さんが居て、視線の痛い現場を逃げようと身を翻すも突然一方の足首を掴まれた。生前の体験とは又違う、敢えて言葉に表すなら包帯で緊縛した直後の血液循環の悪くなり始めた時の様な不愉快な痺れが、手の触れる箇所から脳天迄走って総毛立った。生身の人間で霊体の捕縛を可能にする者は先日の末っ子の言葉を思い返しても、不可能でないにしろ数は多く無いと思われ、その生身の人間で霊体に直接触れて捕縛すると言う芸当を披露した海中の者を見遣ると、道蓮さんの憤怒の形相も生温い、悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す形容し難い形相のハオがか弱い小娘を睨み上げて居た。
その顔付きの恐ろしさ。私は恐怖の余り悲鳴を上げ素手で拘束を解こうと生身の手を引っ掻き、原理は非霊能者には解り兼ねるが自身の指先は擦り抜け、濡れた皮膚に引っ掛かる感触も無い。海水や海風や海の塵が擦り抜ける現象と変わらなかった。恐怖の対象を振り切る為の上昇を試みるが、己の膂力を上回る握力で足首を握り締められ、海中の相手は歯軋りの肌の粟立つ音の聞こえて来そうな顔で奥歯を食い縛り、強引に人様を下方へ引っ張って河童宜しく水中に引き摺り込もうとする。自身の悲鳴が嵐の雨音の中に一層高く響き、大粒の雨滴の紗の向うの真っ暗の空に稲妻が見え、数拍遅れの雷鳴が轟き、季節外れの大嵐に星の王様の怒りを垣間見た気がした。
不意に背後に人声を聞き、両の腋下に例の不愉快な痺れが走り、全身が持ち上がって巨大な看護師の女性の腕に合わした巨大な注射器の上に転倒し、丸で感情を排した時の野郎の様な顔の弟さんが、雨滴の打つ箇所の痛々しい嵐の空を背景に立って居た。隣に金髪のお医者様と包帯の取れた元包帯男が片膝を突いて控え、二人を風除けに屹立する道蓮さんが前に出て、幽霊の私の眼前に立つと拳を握り締めるので、私は霊体を殴る荒技をハオ同様に披露し兼ねない人達を前に震え上がった。制止の言葉なぞ意味を成さぬ雰囲気で、抑も今の私の言葉に如何なる説得力も効力も持たぬ事は明々白々、皆々様の御顔を見上げると言う、平生は造作無い挙動も憚られて呼吸も儘ならない。
笊に小豆を空ける際の耳障りな音に似た水音がして、背後に気配を感じて振り返り、暗澹と私を見据える濃色の双眸が段々見開かれ、片腕に干していた狸の死骸と見紛う程汚らしい蒲団を注射器の上に立つ集団の真ん中に放り投げた。烏の濡れ羽色の長髪は海水と雨水に濡れ、暗い海中では惑乱の極致にあった為に気付かなかったが、今砂浜に打ち上げられた海豹の恰好で注射器の上に這い登ったハオの身辺を淡紅色の蛍火の様な光が旋回し、次第に暗くなり、看護師の女性がお医者様の指示で陸地に降り立つ頃にはすっかり消えてしまった。着地の衝撃は無いが、眼光鋭く睨み付ける皆々様の視線は物理的効果があって、霊体に物理的も何も無い筈だが、身の周りを圧迫され、人様を威圧する眼力に一矢報いらんと、弥猛に心を奮わせ睨み返すも弟さんの後方に控える本物のお侍様の眼力に根負けした。
ハオはお医者様を傍に召喚して、狸の死骸に似た蒲団と見間違える程汚い私の死骸を膝に乗せ、首から下の治療をお医者様が、頭部の治療をハオが担当して私の意見を聞く事無く勝手に蘇生を始めてしまった。見る見る内に損壊部位が補修され、全く一度限りの命の有難みも輪廻転生や来世の希望もない光景に辟易する。私は誰に伝わる筈の無い真実に抵触しない程度に意見を述べ、お医者様初め、現場の生者の全員が之を黙殺、声高な主張も物の見事に流れ、死骸の補修を完了するとハオの手が霊体の私の腕を掴み、有無を言わせず魂が無いだけの無傷の死骸に押し込んだ。生前の私は非霊能者で彼らの蘇生術を目の当たりにしても何が起こっているか丸で解らなかったが、いざ自身が蘇生術を受けると、蘇生術とは随分乱暴且つ単純な手法を取るのだなと思った。
渾身の力で抵抗を試みるが、仕舞いには後頭部を鷲掴みにされ、額を死骸の額に叩き付けられた。衝突の衝撃は一切無いが気分の良いものではない。気の毒がったママの濁声が周囲の誰かを制す様に聞こえ、最後の砦のママに助けを求めるが、ハオ以外の誰かに脚を抱えられ死骸の中に押し遣られた。
星の王様の全能と言う広告詐欺の様な非全能の力を引っ張り出す迄もない損傷具合だったらしく、一介の霊能者の二人の能力で死骸は直り、直った死骸の魂の収まる空間に無理矢理押し込まれた私は抵抗虚しく、収まる可き場所に収まった。人一人分の狭隘な部屋に膝を抱えて鎮座する気持だった。
大粒の雨滴が肌を叩く感覚が半透明の体は擦り抜ける筈なのに擦り抜けず、遠くに猫の嚏が聞こえ目を開け、目薬とも違う雨滴が瞼の丁度上がりかけた所に当たり、半身を捻って兇器の雨を避けた。蘇生完了の言葉をお医者様の口が告げ、意識が明瞭になって、無闇に伸びた頭髪が泥濘を掻き回す音に跳ね起き、泥を落とそうと両手で後ろ髪を束ねて絞る真似をした時、真っ暗な濃色の双眸が目睫に迫って来て上半身を反らし、目線を余所へやる。
「何て馬鹿な真似を。何を、して、…馬鹿!」
と怒号が正面から顔面に唾と一緒に飛んで来て首を竦め、そろりと目を開けて相手の顔を真面に見て、腹の底に灼熱した鉛が落ち込む。悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す形相は鳴りを潜め、真っ赤な憤怒の形相のハオに、腹の底の鉛の爆発と同時に噛み付く勢いで怒鳴り返した。
「馬鹿は承知だ。馬鹿だから良い案なぞ浮かばない、何が最善かも解らない、一方に決め兼ねるから」と言葉が続かず喉が閊えて咳き入った。
「オパチョがどれだけ捜したと思う、オパチョはずっと、泣いて、歩を捜していた」
と此処で弟さんが容喙する。
「兄ちゃん、オパチョを出すのは卑怯だ」
ハオは肩越しに弟さんを顧みて、直ぐ顔をこちらに向け直して猛獣が威嚇するが如く歯を剥き出しにして怒鳴った。正直声が大き過ぎて、又一言一言の間が殆ど無く、前の言葉に後の言葉が被さるようで大変聞き取り難い。
「何故こんな真似を、何故死を選ぶ、折角地上に戻ってこれからって時に、これからって言った張本人が、一緒にって言った張本人が、何故死ぬ、何故居なくなる、何で何も言わないんだ」
胸を軽く叩き、咳を落ち着けて言った。「馬鹿だもの、君の言う通りの馬鹿しか出来ない大馬鹿だから」
「何でだよ」声が嗄れて語尾は勢いをなくした。
「何でも、何も無い、私の都合だ。都合上、終生オパチョと居続けられる自信が無い、君が居れば寂しい思いもしない、君が帰って来てくれて、本当に良かったと思う」
ハオの拳が泥濘を殴り、撥ねた泥を避ける為に一瞬目を瞑ると視界が真っ黒になり何も見えない、暗闇の向うに乳鋲を打ち付けた田舎の門扉を見て腹の底から痛みを伴った熱が迫り上がった。熱は喉を上って口蓋を貫き、脳天を衝いて全身を覆う。到頭目の奥が痛み出し、両の手掌で瞼を圧するがハオの手に阻まれ、膝の上に両手を纏めて拘束された。
震える声が記憶のママの濁声に重なり、異国の大地に居た頃のハオの顔が瞼の裏に浮かび上がって、その儘の顔で言った。
「君の言った事を信じる」
はっと目を見開いた目睫の間に異国の大地に居た頃とは少々異なった雰囲気のハオが、身震いする程真剣な顔付きで私を見据えていた。
「シャーマンキングになって、グレートスピリッツに連れて行こうとした。でも、歩の魂だけ、…グレートスピリッツは受け容れなかった。漸く、漸く、理解出来た」
膝の上の私の両手を握るハオの両手が震える。彼は今にも蹲りそうな位背中を丸めて尚続けた。
「歩、御免、信じる。信じなくて、御免、信じるよ、君の言った帰れない世界の事、逢いたい家族の事」
「有難う。でも、信じるなら、尚更私の意見を聞いて欲しい。私はね、選べないんだ。向うの家族は当然逢いたい、当然帰りたい、只今って言いたい、でもその為にはオパチョと言うもう一人の家族とお別れしなければいけない。私に、その選択は出来ない。解るだろう?」
私共の四辺に佇む人達の困惑の声を黙殺してハオは言う。「解る、勿論解るさ。だから、僕が、何とかして見せる。何とかする」
私は無責任甚だしいハオの言葉に憤慨し、両手を拘束する彼の手を振り解き乍ら怒鳴った。
「なら、山田さんを生き返らして見せろ。君の千年前のお母さんを生き返らして見ろ。出来るかい、出来ないだろう、出来もしない事を、君は出来ると豪語する、君はとんだ嘘吐き野郎だ」
「母さんもダマヤジも、もう転生する以外に方法は無い、それは誰の力でも不可能だ」
「この世に不可能があるなら、私の何を何とかすると馬鹿を言う」
「家族を諦めなくて良いように、君の世界とこの世界が、安全に繋がらないか、今直ぐと言う訳には行かないが、必ず実現して見せる」
「それは、山田さんやお母さんを生き返らせる事と何が違う。君、不可能だよ、君の言う事は、山田さん達を生き返らせる位荒唐無稽な話だぜ」
先に力無く項垂れたハオは、解っている、と呟いて、それきり黙ってしまった。
恐らく私共の会話の内容を半分も理解出来ていない弟さんが慰め顔で横に屈み込み、丸まった背中を頻りに撫ぜ、相手の耳元に口を寄せて何事か助言するらしい。十数年間放置した挙句兄と呼び出した弟を顧みもせず星の王様に就こうとした麻倉家の長男は、弟の言葉に発奮し、それでも精彩を欠いた顔で姿勢を正した。
「僕が、諦められない。歩が居なくなる事、一人で悩む事、今の苦痛に一人耐える姿も、見ていられない。どうしようもない事は百も承知だ、でも駄目なんだ、諦めるなんて、到底出来っこない」
「片方の家族を選ぶなんて、私には出来ない。死んだら、向うに帰れても、家族は私が見えない。あの星の故郷にでも飛び込めば、私は砕けて、オパチョにも見えないだろう。ねえ、選べないんだ」
「選ばなくて良い。僕が何とかする。口約束しか出来ないけれど、実現して見せる、見せるから、こんな事をしないで欲しい」
風雨に煽られ乱れた彼の長い前髪が額や頬に貼り付いて、後ろ髪の尻尾も首に巻き付き、非常に鬱陶しそうな姿も構わず私の肩を掴んで懇請する。濃色の双眸に暗い光は無く、憑き物の落ちた様な人間臭い悲哀を帯びた目に私は言葉を失くし、只頭を振る許りで、喉から嗚咽が漏れた。
肩を掴む彼の手に次第に力が入り、涙の気配は無いけれど、しかし次の瞬間に涙を滂沱として流し始める気がして、重たい腕を外そうと手を掛けた時に彼は呟く様に言った。
「君が求めるように、オパチョに見出したように、僕だって」
結局文句を垂れて駄々を捏ねても、当代星の王様の玉座をもぎ取った、神様の領域に達した当代の霊能者の最高峰の能力を恣にする彼に逆らう術は無い。彼が私の真実を確信し、数年前から言い続けた真実の告白を歯牙にも掛けず鼻で笑って一蹴した事を恥じても、来る未来への帰還の望みは捨てられない。異世界の家族も同じ、家族は家族、一家団欒を見出だした相手を切り捨てる事は出来ない。天秤に懸けて良い物悪い物があり、私は悪い物を懸け、自身の悪行に忸怩して選んだ道を彼に断たれ、断った当人は一介の霊能者として生きる百年の意志を、翻意してでも私が一方の家族を諦める必要の無い世界を活現して見せると嘯く。何故不可能と断言するのか問う勿れ、何故可能と考える事が出来るのか、出来る出来ないは案外明瞭なのだ。
それでも、と期待を胸に抱くは彼への信頼感か、将又逃避行への諦念か、項垂れる私の頭を彼が下手糞に撫ぜて、家族の許へ生きて帰ろうと何度も言う。親戚の小父さんの山田さんの様に撫ぜた手付きは見る影もない、乱暴でなく、撫ぜられる感触も無い、無闇に髪の毛を掻き回し、主に細い毛髪が縺れるだけの嫌がらせ染みた慰撫に私は洟を啜って額を泥濘に押し付けた。
IF番外編:異境の常識
大会後の会議乃至賀筵の翌日の一騒動に皆々様を煩わし、星の王様の援護もあって無事麻倉家の監督下に入り、東京埼玉の境界の旧民宿に御厄介になって、最初数年分の義務教育を受けていない事を理由に公立中学校へ通う事を提言したが、麻倉家の管理の手間を省く名目で私立の中学校高等学校に通う事が決まった。急遽孤島で一別となった星の王様の腹心の箴言に、大学を出る事、とあって数年分の義務教育の遅れを挽回する為、旧民宿に到着後、半年は勉強漬けの生活を送った。何せ麻倉家に寄寓の身、中学卒業程度の学歴で中学から最悪高等学校迄の学費とその期間の生活費等を返す余裕のある給料を貰える就職先が見付かるか、と考えて見て、無いと内心断言出来る。末っ子に寂しい思いをさせたが、男親事ハオが居るので、末っ子の遊び相手の役目は彼に甘えた。
麻倉家は、お金を返す必要は無い、と何度も気遣って下さるが、居候期間の諸々の費用を奨学金の様な物と考えると、一概に有難く頂戴致しますと御厚意に甘える事は出来ない。十数年振りの生家へ帰宅したハオが人様の背中に凭れ、日々の些細な愚痴か弟さんの愚痴か、時折義妹の許嫁さんの愚痴を零して半年を過ごした。御蔭で勉学に身が入らず注意力散漫、異世界の老朽化の進んだ人家の襖や床が爆発の危険性を孕む事を知って、一層身辺の事物に気を配り、不穏な家内の二階の六畳敷きの奥座敷を自室に宛てがわれた日から額の冷汗が止まらない。ハオは危険を察知出来ぬ私に呆れ、この勉学に勤しんだ半年の大半の時間を、私の周囲の危難を払う為に背後に控えてくれたのだ。
私も驚いた。前世の記憶の漫画本に出て来る家が、現実の異世界の寓居が、老朽化の進行と共に家具や家の基礎や柱に至る迄、凡そ生活するに必要不可欠な身辺の物が揃って突然爆発し、破片が自身に襲い掛かるのだから大変危ない。旧民宿到着直後こそ異世界の実家と変わらぬ素材や構造と、千年前の死者を現代に黄泉返らせる事と異世界の実家への通路の確保が等しく不可能であると盲信した様に、建物の素材云々も同等な程盲信し、異世界の常識を打ち破られた瞬間の心境は筆舌に尽くし難い。あの衝撃は凄まじい、何が凄まじいかと言うに、床を伝わる物理的衝撃と爆発の現場を目撃した心的衝撃だ。平然と番茶を啜る許嫁さんに爆発の余波を食らって引っ繰り返る弟さん、日本家屋の爆発現場に顎を落とす花組とお医者様、修繕費を計算する家政婦の少女、人様の阿呆面を笑う星の王様の姿は今もはっきり憶えている。
孤島を出港後、船酔いに魘され睡魔も余所へ出掛けた旧民宿到着当日、下船した時点で時刻は正午丁度、電車を乗り継ぎ寓居に着いた時刻は、近所の家々の換気扇から夕食の良い匂いが漂い、食べ盛りの子供の腹の虫の催促もあって到着早々お夕飯の支度に取り掛かった。家政婦の少女の城にお邪魔し、彼女の指南を受けて夕食作りを手伝い、実家のお勝手を髣髴する簾の垂れた出入り口を出這入りする事数回、夕食の準備も万端整って皆長い卓袱台を囲い、戴きますの挨拶の後箸を持ち和風の食事を認めた。末っ子が頻繁に醤油の小瓶を渡すので、受け取る度に使うハオの手を、掛け過ぎ注意と言って制し、元の色の判然しない醤油色の焼魚や煮物や御浸しの醤油味の汁は自身の食べ止しの料理に掛けた。
事件は食後の団欒の最中に起きた。使用した調理器具の片付けも終わり、明日の朝食の仕込みを後回しに茶の間へ家政婦の少女と戻って、屋内外問わず風呂の使用時間を尋ね、又内二人が大変な風呂好きである事も伝え、連絡事項の確認を行いつつ茶の間の襖を開ける。数十分後、この襖が爆発する古びた襖なのだが、出入りの都度、時に乱暴に開閉するが爆発の予兆は全く無かった。第一襖の爆発なぞ繊維か塗料に混ぜ物でもなければ有り得ぬ話が、何故か異世界と言う一言で有り得てしまうから、異世界の建築物の建設や内装等に使う素材、技術の歴史、それを請け負う業者の料簡は小娘には解らない。
前世の期間含め現代の世間様で久しく見ないブラウン管テレビを六畳敷きの居間と十畳敷きの茶の間の二間続きの部屋の北側の窓際の隅に据え置き、卓袱台のテレビから遠い短い辺に座る末っ子とハオの、末っ子の隣に端座し、保護者のハオと明日の色々億劫な手続きの話をし乍ら遠い画面を眺め、異国の大地を思い返して安穏な時間の空気を噛み締めた。当夜の寝床は何処に用意するか尋ねると、彼は不満顔で私を睥睨するなり末っ子の頭を撫でた。私は末っ子の反抗期が始まり共寝を拒否される日迄、共寝を敢行する心積りで、不貞腐れた顔のハオに言うと自分もそうすると言うので暫く寝室が一緒になる事実に、三人が起臥出来る広い部屋があるか不安に思った。
特段意味は無いが壁掛け時計の秒針の規則的音を快音と思い込んで聞き澄まし、船酔いの所為で余所へ出張中の睡魔が呼鈴を鳴らして帰還するなり瞼が重くなり、薄明かりの向うで黒電話の受話器を取って応対する家政婦の少女の声が聞こえた。それで意識が明瞭になって時計を振り返る。時刻は午後七時半を回り、持参の風呂敷包みを漁って入浴道具一式を出そうと腰を浮かし、中腰姿勢で末っ子の縮れ毛の丸い頭越しに烏の濡れ羽色の頭頂部を見下ろして風呂の時間を尋ね、ハオは一寸顎を上げ、高い位置に目のある私に目線を合わし、うんうん唸って入ると言った。彼の入浴の意志に首肯し膝の辺りへ目線を遣って、卓袱台に顎を乗せ、少々行儀の悪い恰好の末っ子が入浴の意志を示し、本日の入浴先は男湯女湯のどちらか続けて問い、末っ子が決め倦ね腕組みして思案投げ首、腕を解くなり三人が良いと言い出す始末で私が困った。
その時、突如床が鳴り、震動が足底を伝い脳天に響いて、次いで背後に轟音が轟き、床が持ち上がる錯覚を起こした。咄嗟に卓袱台に齧り付く末っ子を抱き締め、両膝を突く勢いが良過ぎて脚全体が痛かった。茶の間の隅の画面の向うの報道番組が終わる頃、轟音の余韻も消え、恐る恐る背後の有様を顧みて、部屋の出入りに使う襖の無残な姿を認めた。其処に二枚の襖が並ぶ筈の長方形の穴の向うに廊下の白壁が見え、木枠や板が木っ端微塵に砕けた証拠の破片が散らかり、睦月の底冷えする冷気が暖房の効いた茶の間に這い込み、素足に絡み付いて胴を震わせる。腕の中の末っ子の喜色に満ちた笑い声で正気に返ったが、其処の襖が爆裂した事実は変わらず、破片が手前に座る花組の座蒲団の近く迄飛び散って、茶の間の一同口を噤んで襖の残骸を見詰めた。
目を瞬がせ阿呆面で襖の残骸を見詰め、爆発した、と呟くと隣のハオが朗らかな口調で同意し、彼は襖の爆発を老朽化が進んだ所為と言う。幾ら異世界の人間でも、そんな馬鹿な話があるものかと阿呆面を引き締め激昂して卓袱台を叩き抗議の声を上げると、磁器の湯呑を取って番茶を啜る許嫁さんが彼の言い分に同意した。この世界の襖や床、人間の使い込んだ物は例外無く古くなると平素溜める鬱憤を晴らす為に一世一代の大爆発を起こすと言う。許嫁さんの静謐な眼差しに気後れして二の句が継げない私の蓬髪を、胸元の末っ子が引っ張るので注意を向け、蛍光灯の白々しい光に照らされ黒光りする額に目線が行く。末っ子は満面の笑みを湛え、羊のママが狸と狐を挽肉になる迄蹴飛ばしたいと言っている、と随分物騒な事を言った。
よく解らないなりに頷いた。発散したい負の情念は発散した方が心安い、ママの気が済む迄、でも死なない程度に蹴れば良い。
隣のハオを振り返り、不自然な程硬く握り締められた一方の拳が卓袱台の上で震え、一方の開いた手の指先には擦過傷を作り、畳の目に逆らって畳を引っ掻いたのか、彼の座る座蒲団の手前の角付近の畳に一条の毛羽立った傷を認めた。入浴後に擦過傷が湯に染みると言って、旧民宿の内部に不案内の私に絆創膏を強請り、自分で治せば良いものを、お医者様のお手を煩わして指の腹の赤い傷を治して貰った。
擦過傷の出来た指の腹を舐めて入浴道具を所望するハオの言葉に時刻を思い出し、午後九時迄に寝床に潜りたがる末っ子とハオの覚醒時間を気にしつつ、風呂敷包みを放り投げた二階の座敷へ行こうと立ち上がる。茶の間に流れるお笑い番組の馬鹿に甲高い笑い声が五月蠅くて、テレビの方を見遣った時、ハオを挟んだ向うに引っ繰り返る弟さんが卓袱台に縋って漸く起き上がり、呟いた。
「……小鬼ストライク」
威力が桁違いだ云々、と弟さんは死んだ魚の様な目で襖を見詰め続けた。
倚門之望(いもんのぼう)
:出掛けた我が子の帰りを待ち望む母の情。
(意訳?
:実は幽霊の時に見た羊のママは、現代の母さんが、無事で居て欲しい、生きて帰って来て欲しい、と言う娘を想う気持が世界を超えて具現した姿。
蘇生完了後は主人公に羊のママの姿は見えないので、その後どうなったかは知らない。)
IF倚門之望。駆け足ですが、これが愛別離苦以外の終わり方です。IFだし良いや。本編を書いている途中に思い付いた最後なので、第一話に登校風景を書いていなければ、これが愛別離苦に代わって終章に載っかっていました。
神経衰弱と言うか、本編は設定上ネガティブと書いたので、如何にそのネガティブ具合を出すかと迷う内に書き終わっちまいました。極限状態のネガティブな人が、どんな行動を取るか、考えた結果がこれです。実際は余所の人の言葉なんて聞きやしませんよ、心がイっちまった人は。
正直山田さん、千年前のお母さんの件は書くか迷い、結局書きました。だって他に良い譬えが思い付かんかったんです。でも、本当の所、神隠しだろうが、神様にんな力があるのか解りませんが、私の中じゃ、少なくともハオ様に異世界を繋げる力は無いと思います。だから不可能です。何故不可能と決め付ける? と言われたら、私は反対に、何故可能と思えるよ? と言い返したい。
てな訳で、結論、不可能。
早く帰れると良いな。
IF番外編、異境の常識。何も語る事は無い。敢えて言うなら、麻倉に出して貰った費用は、稼ぐようになったなら、実家に帰る迄返し続けるのが、多分一般常識。私立高ぇよ。返せるかな、この主人公。
後、語る事があった。
何が起きたのか。主人公が幽霊見えないなら、どんなセクハラしても抵抗しないんじゃね? と狸と狐。腰か尻に抱き付こうとしたら、ハオの小鬼ストライク食らった。ハオだから本当に小鬼なのかは知らん。威力は葉の小鬼ストライクと比べちゃいかん。