絶対、理由無く、本能的に怖いと思う人って居ますよね。
雷雨の翌日も酷い雨だった。嬰児の朝食に自力で柵を越えて来た羊が幕屋に現れ騒ぎになり、三度目の正直で雨の中嬰児の排泄の為に表へ繰り出し、現地の母親の目に余る程の有様に手伝って頂き只管頭を下げ、戻って青息吐息、昨日の四人以外誰も居ない中一人隅っこに寄り嬰児を抱いていた。間遠に聞こえる雷鳴や雨音に耳を澄まし、雨滴に打たれ雨水の染み込み強まる異国の大地の臭いに包まれ便々と幕屋で過ごして、私と嬰児の三日目は終わった。口で言う程居心地は宜しくない、何せ人様の気持を知っておきながら平然と爆弾を投げ込み遁走する野郎が居る。三日目は大体嬰児をあやして野郎を睨むだけで終わったのだった。
雨天が続く事三日、雨上がりの土の生乾きの臭い程不愉快なものはハオ以外にない。久々に表で伸びをして羊に会い、泥の上で寝転がろうとする瞬間に背中を向けて岩場迄誘導して其処で寝転がってもらい、毛を掻き分け突起を探して嬰児の口を寄せる。一日に幾度もやればもう慣れたもの、嬰児の頭が落ちぬよう、首の折れぬよう支え、羊の寝言か鼾か判然としない寝息に耳を攲て、落ち着いて来た茫洋とした時間に身を任す。臭いは耐え難くとも雨後の澄明な青空は素晴らしく、昼時の輪郭の朦朧とした雲の風の随に流れる様は退屈を忘れるに何てお誂え向きな無声映画だろう。
食事を終えて暫し岩場で日光浴し、日射しが激しくなる前に幕屋へ撤退する。三日間で目も当てられぬ程汚れたシャツを着た儘、幕屋の片隅に座って満腹の嬰児を見下ろす。緩く上下する腹部に今更だけれどげっぷ等させた例(ためし)がない事に思い至る。やおら立ち上がって岩場へ出向き、嬰児の顎を肩に乗せるように抱いて背中を叩く。少し叩いて止める。嬰児の腹部が不自然に動いて嘔吐しそうだった。嘔吐されても上着の替えが利かない事以外、私自身に不都合は無いけれど、嘔吐物の始末に難儀する事必至で諦めて幕屋に戻り不貞寝した。
因みに後日、現役のお母様がやはり見兼ねてお手伝い下さった。感謝感激雨霰と言うが、これ程の的を射た言葉は他にないだろう。
そうして更に数日、本当に数日か十数日か、日付が曖昧で余り日数に言及したくないけれど、兎に角幾日も経過した頃、奇怪な集団が全員集まった所を確認したのは二日目の朝と昼の境目辺りが最後である。爾来彼ら全員が揃う所を見ていない。大抵ハオとラキストの二人は幕屋付近に待機しており、他の人達は入れ替かり立ち替かり幕屋付近や遊牧民の周囲を徘徊し、又入れ替わって別人になる。お世話になった山田さんと顔を合わした回数も片手で数える程度で、喧しい日本人二人組は幕屋で見掛ける機会が多いと思うが知らない、同じ日本人でも二人は歩く騒音公害である。
他幾人もの人達と顔を合わす事はあっても会話を交わす事は無く、幕屋で擦れ違っても互いに不干渉を貫き、お蔭で平穏無事に過ごせた。しかし安穏と程遠い瞬間も間々あった。此処数日で一番肝が冷えた出来事、それは少女三人組、即ち花組と相対した時だ。
その日は半晴、嬰児を抱き岩場で広野を眺望し、あすこにこんな木があってこっちにこんな木があって、それで山があって、と頭の中で恐らく前世に見た妙高の神奈山を登った頃を想起し、途中雲一つ見当たらない山道から望む翠巒に息を呑み、摩周湖を見に行った時の比でないくらい喜び野尻湖を指差し後ろの誰かを振り返った。その誰かは笑って、落ちないでよ、と言って手に握る棒で地面を突っ突いた。
確か摩周湖を見に行った時は体調不良で喜ぶどころか風に煽られ立つ水波が陽光に照らされ、湖面に白い硝子片が散らかるようで、眩しくてくらくらした記憶しかない。野尻湖はご機嫌な時に見たから一層美しく見えたのだろう。その場の空気も匂いも感触も、何一つ憶えていないけれど、胸に去来した思いは残っている。だから現代に不満は無くとも、つい前世の事も想って現代の自分の経験していない事迄語ったり、やってしまったりする。
暑くなって岩場の陰に腰掛け記憶の底の妙高山や外輪山の神奈山を、遠きアフリカの広野に描いていると複数の軽い足音がして、自身の頭上で止まると辺りの空気が一変した。
胸の奥がすっと冷たくなる。背筋に冷水が流れ体感温度が下がる。呼吸が乱れ爪先に力を入れて無駄に踏ん張る。腕の嬰児が潰れぬ加減で肩を窄めて体を小さくする。硬く目を瞑り二度と開けたくないと思わせる重圧感を頭上の何かから受け取り胴を震わせ、文字通り蹲って何かと視線が合う事を避けた。
どれくらい蹲って息を殺していたか知らないが、軽い足音が一人分、一段高い岩を下りて来た。相手の足音で居場所の見当をつけ、一歩踏み出した瞬間に明るい頭髪を見付け心臓が縮み上がった。透明な飛行機に乗せられた時に理解不能な言語で人を面罵したあの少女に違いなく、も一つ足音が聞こえ金髪の少女も現れた。二人に振り向かれたら、と言っても一段上の岩に戻るには振り返らねばならないので無理な話だが、こちらを向けば自身の居場所が露見する。
別段三人を恐れる必要は無いだろうに、何故か私は三人が恐ろしく、近寄り難いと言うより近付きたくないと言う気持の方が勝っていた。内心気付かず帰ってくれと祈るも、そうは問屋が卸さない、希望は砕かれ二人が振り返る。目を瞑り顔を上げずに気配を絶って耐え忍ぶ度胸の無い私は足音に目を開け相手の気配に顔を上げ、二人が振り向いた時には体もその見当を向いていて、何故か怖いと感じる相手と真面に向き合っていた。
「居た。あんた、赤ん坊の世話で居るんでしょ」
と明るい頭髪の少女が言い、私の居場所が知れて漸く御輿を上げた一段上の岩の縁に立っていたらしい少女も下りて来た。煙草を銜えている。
明るい頭髪の少女はマッチとか言った少女だろう。金髪の少女がマリで、銜え煙草の行儀の悪い少女がカナと言う人と予想し、当たろうが外れようが彼女達との生活に関係無いので構わないし愛称しか思い付かないので忘れても良さそうだ。
「赤ん坊、マリ達で世話する。……あんたは消えて」
金髪の少女は後ろ手に持っていたらしい持参物を前に突き出して言うが、声がくぐもって聞こえ難い。
「それは駄目って、ハオ様言っていたでしょ。赤ん坊があのガキ気に入っちゃってるって」
銜え煙草の少女─少女と言ったが間近に見ると年齢が大分曖昧で少女と表現するには少々年嵩に思われた─が窘め、頭を掻き毟りながらこちらを睨み付ける。
「何で?」
「意味解んない」
と年少の二人は言って顰蹙する。
乾燥した風が寂寞とした岩場に吹き荒び、皮膚を引っ掻き痛痒く、しかし必要以上に恐ろしく思う人物を前に暢気に腕を掻く訳にもいかず、又直に痒みも失せ痒かった箇所がひりひりし出す。
「ハオ様が抱いたら、赤ん坊が泣いたんだって。そのガキじゃなきゃ泣き止まないそうよ」と銜え煙草の人は言う。
勿論嘘だ。第一私は初日にハオから嬰児を取り戻して以来、山田さんに産衣代わりの布地を提供してもらった時以外に手離した覚えは無かった。
ハオが嬰児を抱いたのは初日の私の手から奪取し、私が奪還する間の数秒間或いは数分間で、あれ一度切りである。
「ええぇ、嘘だあ」
「ハオ様に抱かれて泣くって、失礼な子」
「ま、赤ん坊だから、言ってもしゃーないわよ」
三者三様のご意見を披露して下さったお三方は新しい煙草を銜え、岩に立て掛けていた箒を手に取り、持参物の上の方を持ってぶら下げて、銘々構えを取って危殆な雰囲気を醸し出しつつ一足踏み出した。それを座り込んで見届ける程危機管理のなっていない阿呆を演じる気も無い私は不穏な気配を漂わせ一足二足と近付く三人を注視しながら、岩に背中を預けてやっとこ立ち上がる。切ろうか迷い横着して切るのを見送った前髪の所為で視界が悪いが、立って頭を真っ直ぐにすると凶悪な日光の洗礼を受け目が痛んだ。
金髪の少女が一人出張って持参物、目玉を留める糸の解れかけた人形を自身の顎の高さに持ち上げ、すると糸繰りや手遣いや絡繰り無しに動く事の無い筈の人形がぴくりと動き、糸も無しに腕が上がって手に持つ拳銃の銃口がこちらを向く。
西部のガンマン人形、と彼女は呟き、長い前髪の奥の薄い色の目をぎらつかせ、口元を動かした時、
「マリちゃん、そりゃ駄目だ」
「ハオ様に叱られるよ。止めな」
残る二人に制止された。
金髪の少女は人形を胸に抱くと目を眇めて言う。
「……つまんない。赤ん坊居なきゃ、殺すのに」
大変物騒な事を呟きその発言が合図だったのか、一斉に三人は岩を登って何処かへ去ってしまった。風が吹いて砂塵を巻き上げ三人の気配を一掃し、そうして何も無くなった、先刻迄彼女達の突っ立っていた空間を見詰めて深く息を吐き出した。無意識の内に呼吸が止まっていたらしかった。
その後風が強まり空気が埃っぽく、鼻や目の痒み痛みに涙が滲んだ。再び壁伝いに腰を下ろし塵埃の舞う中色の悪い空を仰ぎ、腕の中の嬰児の生きている証拠の体温に安堵して、滲んだ涙が膨らみ一粒頬を滑り落ちた。よく解らないが、とても恐ろしかった。
今、私は件の岩場で半晴の空の下、自身と大差のない体温故に生きているか呼吸の様子を窺う事で生死を確かめる嬰児を抱いて退屈している。嬰児に大事無いかと身振り手振りで現役のお母様に尋ねたが、特に問題無いそうで、寧ろ私の体温が高いと心配された。当然私は現役のお母様に何を言われたのか解らないから首を傾げていたが、通り掛かったラキストさん─これがあって敬称を付ける事に決めた─に助けて頂き自分の体の異常に気付いた。気付いたが気分も何も変わりない。現役のお母様曰く、疲れたのでしょう、との事。
要するに発熱ではなく、単に慣れない暑さにばてていただけだった。
怖悸(ふき):怖くてドキドキする事。
現出(げんしゅつ):出現。現実になっちゃった。
花組と会話……全くしていません。
実際に花組が居たらどうしましょう? 怖くて震える自信はあります。