帰宅道中膝栗毛   作:William Sagagenji

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失礼な不審者 / 彼は恐らく海の中

 

 

「……ケッ」

 

 知らん男の第一声がこれである。失礼極まりない。

 

 異世界に来てから、今日で二週間になる。相変わらず帰還方法はその糸口すら掴めていない、割と絶望的な状況下ではあるが、だからと言って無暗矢鱈に焦っても物事は解決しないので、僕は今日も今日とてホテルのロビーでのんびりしていた。先程までは。

 

「何故貴様が此処に居る。何故貴様が異世界に居る────穂谷(ホタニ)基宏(モトヒロ)

「…………」

 

 随分と失礼極まりない奴である。と言うか、そもそも僕はこの男を知らない。

 完全に初対面だ。

 

 ホテル、ロビー──『HOTEL Midori』一階受付に面したロビーは、このホテル内に限らずこの世界の全ての場所の中で一番(くつろ)げる唯一の居場所だ。幾つかのテーブルと椅子が適当に並べられており、その内のひとつに僕は腰を掛けている。

 快適だ。充電設備もWi-Fi設備も、更には警備員も従業員も碌に見当たらないが、それでいても快適だ。快適だった。

 

 しかし、空気が読めない礼節を欠く奴は何処にでも現れる。それが丁度目の前に現れた男だ。

 

 男。

 白髪頭に荒れた肌。見て明らかに判る程には歳を食っており、少なく見積もっても五十後半、恐らく六十歳程の成人男性である。髭を剃れ。黒いコートが様になってはいるが、しかし礼節を欠くのは頂けない。

 そして恐らく、日本人。

 

「さて、人違いですね。僕の名前は“柏の葉”といいます……貴方とは初対面でしょう」

「そうか、そうだな、確かにお前と俺は初対面だ。だが俺はお前を知っている。忘れるものかよ、穂谷基宏」

 

 面倒臭え奴だ。

 と言うか非常にやりづらい。僕の本名を知っている時点で現世現実地球世界の因果が廻ってきたのは確かなのだが──或いは桐切(キリキリ)さんの如く、魔法かスキルか知らんが胡乱な能力を使った可能性もあるが──それにしたって面倒臭い事に変わりはない。

 

「では、せめて名乗りを上げたらどうです? 幾ら貴方が僕を知っていようと、僕は貴方を知らないので。それが礼節ってモンでしょう」

「“朝永(ともなが)隼人(はやと)”だ、覚えろ」と、男は表情を動かさずに言った。「まさかお前のような奴に『礼節』を説かれる日が来ようとはな」

 

「……日本人、ですか」「ああ勿論」つまり彼も被害者であり──『異邦人』という訳だ。

 

 男は図々しくもテーブルを挟んで僕の向かい側にある椅子に腰を下ろす。そして、極めて不愉快そうに僕の顔を見る。失礼極まりない奴だ。

 

「まあ何だ、今日は特段これと言って用があった訳じゃない。偶々目に入った奴が死ぬほど嫌いな奴だったから声を掛けただけだ、気にするな」

「だから、人違いだと」

「馬鹿云え、俺がお前の顔を見間違える筈が無いだろう」

「…………」

 

 知らんがな。

 どうも話が通じない種類の日本人らしかった。つまり僕の苦手な種類の人間だ。勘弁してくれ、そして願わくば視界から消えてくれ。

 

「お前が此処に居るという事は《疫病神》も居るんだろう? 奴はどうした」

()(シツ)は今……裏庭に居ると思いますよ。会いたければそちらへどうぞ」

「会う訳ねえだろ。部下を何人殺されたと思ってる」

「知りませんよ、そんなの」

 

 本当に知らん。知らん男が知らん話で知らん経緯の知らん恨みを抱いている。一歩間違えれば粘着ストーカーの才が花開きそうな人間だ。何だコイツ。

 

「……此処で遭ったのも何かの縁だろう。折角の機会だ、()()じゃ聞けなかったあれやこれやに答えて貰おうか」

「…………嫌だと言ったら?」

「引退した中年男性の独り言を聞いて貰おう」

「…………」

 

 僕は、どうにも碌でも無い人間に絡まれたらしい。いや全く、近所の公園で俄に現れる虚ろな目をしたボケ老人の亜種だよ、これは。それが異世界で遭遇するモンだから逃げ場が無い。何せ帰り道が見当たらないモンだから。

 

 幸いにして、今日のところは特にこの後予定がある訳ではない。ボケ老人の話に時間を割いても、僕に損害は無いだろう。そして相手は『異邦人』──寧ろ、帰還方法の件に関して全く手掛かりが掴めていない現状を回天する、何か新しい情報を得られるかも知れない。

 

「……良いでしょう。丁度僕も暇を持て余していたところです。偶には貴方のような胡乱な人間の譫言(うわごと)を聞くのも……悪くない。まあ良くもないですがね」

「そうか。途中で飽きて──いきなり暴れ出すのは無しにしろよ、穂谷基宏」

 

 

 一瞬、ちらりと癙蝨の姿が頭蓋(あたま)の片隅を横切る。

 耳が痛い話だ。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「三年前」

 

 テーブルの上には、何時の間にか紅茶(のような飲料)が置かれている。白いカップに注がれたその液体を一口飲み、朝永氏は話し始めた。

 

「俺は公僕だった。大蔵省の対戦車一課の総括官──軍隊の予算に物申す為のハリボテ、形だけの武装組織の猿山大将──それが俺に与えられた役職だった。有り体に言えば左遷だな……まあ、その頃にはもう退職する気も功を挙げる気も起きなんだ、俺も特段気にすること無く受け入れた。今となっては間違いも間違い、致命的な大間違いの判断だったんだがな」

 

 とすると、このボケ老人は元官吏か。大蔵省は、この間名称が『財務省』に変わった筈だが、恐らく朝永氏は知らないのだろう。

 

 旧大蔵省──現財務省の対戦車一課の噂は耳にしたことがある。その昔、世に戦車不要論なる胡乱な論説が流行った時期に、それにあやかって旧大蔵省が陸軍──当時は『陸上自衛隊』か──の予算を減らそうとしたことがあったそうな。「戦車一台倒すのに、戦車ではなく携行ミサイル(FGM-148 Javelin)使ったほうが安いんじゃね?」という理屈らしい。

 

 この理屈は、結果的に見れば部分的に合っていた。結局史実は「戦車一台云々の議論をするのではなく、敵対した相手国の首都に核弾頭を送り込む」ことがコスト・パフォーマンスの最適解だったのだが。まあ史実がどうあれ、戦車不要論的な件の理屈は、戦前当時も酷く批判されたらしい。

 挙句「いざとなれば、大蔵省職員自ら前線に赴き敵の戦車にジャベリンを打ち込むという決意の表れ若しくはジャベリンの使用訓練や前線に赴く義務の法制化に向けた立法府へのメッセージと解釈してよいか」とまでおちょくられる始末。

 

 そうは言っても旧大蔵省は行政府の一つ。此処まで言われたら「御指摘の資料は、御指摘のような決意等を念頭に置いて作成したものではない」とは間違っても言えず、面子を重んじて結果的に逆ギレした時の大臣によって設置されたのが『大蔵省対戦車一課』……と。

 

 戦前の話だ。

 

 何にせよ。

 彼は「三年前」と言った。つまり、何時ぞやの大司教が言っていた『勇者召喚』の()()()は彼なのだ。きっと、そうだ。

 

「お前と《疫病神》の話を聞いたのは、確か……宮内庁の役人だったか? やけに紫色の目立つネクタイを着けた悪趣味な奴が渡してきた書類に書かれていたのを覚えている。時の局長が珍しく顔を出してきたからな、ヤケに印象的だった。何であれ、俺はそこで総括官就任以来初のマトモな仕事が割り当てられた訳だ」

 

 紫色のネクタイ────紫官僚殿か。

 あの魔人、何時でも何処にでも居るらしい。それが巡り巡って今は僕の上司か。

 

「勿論、噂には聞いていた。稀代の魔法使い、《疫病神》──そしてその付属品。仕事内容は『確保』の一点のみ。……上が何を考えていたのかは知らん。知らんが──大方、何時もの縄張り争いだろう。官吏というのはそういうモノだ。どうせ、何処かの誰かに取られる前に欲しかったんだろう。当時の情勢を考えれば、軍隊に物申す一手が欲しかったと見える。そして大蔵省の実働部隊を持っていたのは俺だった……これがお前等との最初の縁だ」

 

 ────成程、思い出した。

 

 三年前。

 何処かの何某かによく絡まれた時期があった……気がする。いや、別に胡乱な連中に絡まれるのは常の事だが、その時期は特に集中して多かったのを覚えている。

 稀代の魔法使い。癙蝨──《疫病神》の忌み名は伊達ではなく、その強大な暴力性を知ってか知らずか色んな個人または組織に狙われる事が絶えない。勿論、当時は国家も例外ではなかった。今でこそ癙蝨自身が行政の手を受け入れているから落ち着いたものの、やはり面倒事は向こう側から一切遠慮無くやってくる。

 

「『魔法』云々の話は常に手探りだ。その辺りに一番卓越しているのは軍隊だが、まさか手を取り合うわけにもいかん。結局俺は……特に何か考えることも無く、暇を持て余していた部下八人を送り出した」

「ジャベリン持たせて?」

「そうだ。それで────呆気なく死んだ」

「つまり、貴方の()()()()のせいでは?」

「そうだ」

 

 自業自得じゃねえか。

 

 ボケ老人の自分語りが一段落したので、僕は紅茶モドキを一口呷った。出てくる食料の何もかもが微妙な味しかしないこの異世界で、この紅茶モドキだけが味覚に彩りを与えてくれる。

 

「……だが」と、朝永氏は不満足げに話を続ける。「お前等が大人しく()()()()()を選択していれば、俺の部下は死ぬ事はなかった。そうは思わないか?」

 

「思いませんね」と、僕は即答した。「寧ろ、どうして此方が妥協する必要があるんです? 貴方の理由がどうであれ、行政府の理由がどうであれ──そちら側の勝手な都合でしょうに」

 

「公共性の問題だ。あんな碌でも無い危険な代物、行政の管理下に置いて当然だろうが」

「『公共性』? 『管理下』? 思いっ切り縄張り争いの道具にする気だったくせに、よく口が回るモンですね」

「そう言うお前はどうなんだ、穂谷基宏。あの観念的な暴力を独占して楽しいか?」

 

()()()? 楽しいか、だって?」僕はまた一口呷って、息を整えてから言った。「楽しいも何も無いでしょう。独占も何も無いでしょう。只々観念的な暴力だった不定形生物を、あの形(人間)にまで安定させたのは──間違いなく『僕』ですからね。褒めるのなら兎も角、文句を言うのは違うでしょう」

 

 まさか本当に『人間』だと思っているのだろうか。

 

 癙蝨。

 不可解不明瞭摩訶不思議。

 英米式分類法だと『吸血鬼』。準大陸式だと『人狼』、カトリック式だと『悪魔』、日本式だと『妖怪Ⅱ種』……人の形を模した人外。

 何らかの伝説や民話に出て来ることのない、正体不明の()()

 (シラミ)を以て(ペスト)瀰漫(びまん)させる《疫病神》。

 

「……不定形生物……血と血脈を媒介とする化物────自然生成された人智の外側」

「分かってるじゃないですか。ならば僕の功績も当然分かりましょう」

 

「『昔馴染み』の語は文字通りという訳か」朝永氏は顔を歪めて吐き捨てるように言う。「狂人め。狂信者め。よくあんなモノと幾年も(つる)んでいられる。お前の頭はオカシイ」

「オカシイとは、また……心外な」

 

 少し前に、似たような事を言われた気がする。あれは確か……桐切さんだったか?

 あの時僕は何と言っただろうか。

 

 あの時、僕は────。

 

()()()()()、官吏さん。慣れてしまえば、何もなにも、どうという事はない。相手がどんな連中でも、相手がどんな摩訶不思議でも、相手がどんな暴力性を抱えていようとも『昔馴染み』になってしまえば────慣れてしまえば、一体何を恐れる必要があるのでしょう」

 

 そう言って僕は、ベルトに付けられた()()を右人差し指の甲で軽く叩く。

 これこそまさしく()()の象徴。暴力性への()()の果て。

 

 朝永氏は一気に紅茶モドキを呷った。その額には青筋が在々と浮かんでいる。カフェインの摂り過ぎだろうか。

 

 何であれ。

 

「貴方が癙蝨を恐れるのは結構。今後は僕等も、別に貴方がたと積極的に関わろうとも思いません。貴方がどういった経緯で此処(異世界)に来て、どうしたいかは知りませんが……僕等は何時か、此処から出ていきますからね」

 

 僕も彼に倣い、紅茶モドキを一気に呷った。カップの底に溜まった茶葉が喉を通り、やや(から)い。ちゃんと味がある……悪くない。しかし、そろそろマトモなミルクティーが恋しいものだ。帰りてえなあ。

 

「で、僕は貴方の話に付き合いましたよ。今度は僕の番です」空のカップをテーブルに置いて、僕は姿勢を正す。「さて、今の僕等が探しているのは『帰還方法』────何か一つでも、手掛かりだけでもご存知ではありませんか、官吏さん?」

 

「知らんな。帰ろうと思った事すら無い。今更あんな世界に誰が帰るかよ」

「……ふうん。そうですか」

 

 収穫無し。クッソ激烈に時間を無駄にした。只々ボケ老人の譫言を聞くだけに時間を費やしてしまった。

 如何せん。

 

「話は終わりだ、穂谷基宏。《疫病神》に宜しく伝えないでおけよ」

 

 朝永氏は手元のカップが空であることをチラリと確認すると、席を立った。そうして()()()()と肩を回して立ち去ろうとする彼の背中に、僕は最後に一つの疑問を投げかける。

 

「何故……何故、僕に声を掛けたんです?」

「あぁ?」

「普通、『死ぬほど嫌いな奴』には話し掛けないんですよ」

 

「ああ、何だ」彼は振り返らなかった「簡単な話だ。俺がお前を──お前等が嫌いなのは、お前等が()()からだった」

 

「強い?」

精神(ココロ)じゃあねえぞ、物理の話だ。何せ《疫病神》は人外だ。化け物だ。俺等善良な一般市民はおっかなびっくり近寄ることも避けてえモンなのさ。つまりは()()

「ならば、何故」

「だからな?」

 

 ゴトン。

 と、何かが落ちるような音がした。いや、音はもっと軽い音だった気はするが、僕の気持ち的にはそれなりに重い物が落ちた──ような気がした。そして、心無しか身体が軽くなったような────。

 

 僕は慌てて、自身の左側を見る。

 左腕の、肘から下が失せていた。

 

「異世界の神様とやらは、前世地球の神様と違って気前が良い。《疫病神》みてえなヒトの皮を被った化物共を振り払える力をくれるくらいには、な」

「な────────ッ!?」

 

 身体が条件反射で勝手に動く。

 右手がホルスターから得物を取り出し、左手が無いので遊底(スライド)の凹凸部分をテーブルの角に引っ掛けて装填。そのまま跳ぶように立ち上がって、銃口を朝永氏に向ける。

 

「《疫病神》は今まで散々好き勝手してきたそうだが、此処(異世界)じゃあそうもいかん。てめえの唯一的な暴力性は唯一絶対じゃあない。俺が『一人目』、桐の字が『二人目』、あの生意気な餓鬼が『三人目』────全員、無力と思えば痛い目を見る。『宜しく』とは言わんが、《疫病神》にはそう伝えておけよ、“穂谷基宏”」

「…………ええ、ええ。良いでしょう、良いでしょうとも。そう伝えておきますよ、“朝永隼人”」

 

 それだけ言って、朝永氏は忽然と姿を消した。

 後には、少しばかりの魔力の残り香──そして、彼が一瞬前に立っていた場所に、一枚の紙切れが落ちているのみである。ぽつり、ぽつりと、左腕の断面から血が滴り落ちる。

 

 いや全然違え。ぽつりぽつりなんてレベルじゃない、普通に流れるように出血している。段々と傷口から痛みが脳髄に運び込まれ始めた。

 痛え。痛えよう。なんてことをしてくれたんだあのボケ老人。癙蝨の暴力性を嫌悪していたくせに、これじゃあ畢竟同類じゃないか。同族じゃないか。完全に僕が馬鹿を見た訳だ。

 

 乱暴に得物の安全装置(セーフティ)を降ろし、ホルスターに仕舞う。

 

「……本当に、碌でも無い人間だ」

 

 僕はそれだけ呟くと、落ちている一枚の紙切れを拾ってズボンのポケットに入れ、落とした自身の右腕を拾う。そして癙蝨が居るであろうホテルの裏庭に向かって走り出した。今回ばかりはさっさと直して貰わないと失血で死ねる。僕はまだ死にたくない。

 ややふらつきながら走る。

 

 

 

 視界の隅で、メイドのHALさんがテーブルに放置されていたカップを片付ける様子が見えた。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 裏庭に生えるトーテムは、凡そ二十本程までに増えている。

 

「まさか、こんな所にまで因果が巡ってくるなんて、ね。しかも三年前の」

 

 癙蝨は、僕の左腕を直しながらそんな事を言った。いや、全く以て同意見としか言えなかった。

 世界とは、斯様に狭いものである。実際は世界を跨いでいる訳だから『世界は狭い』という言葉が得体の知れない違和感を持ってしまうが、それにしたって狭いものは狭い。

 

 僕の腕は、案外──或いは予想通り──すぐに戻った。そもそも左腕は綺麗に切り取られていただけだったから、落ちた腕の現物もある訳で。引っ付ければすぐ治る。

 朝永氏ことボケ老人こと官吏さんは、ほんの少しだけ気遣いをしてくれたようだ。じゃあ最初から腕を切るな。他所様の腕をぶった斬るのは違法だろ常識的に考えて。幾ら此処が異世界で、現世現実日本の刑法が適切に機能しなくとも、倫理道徳はまだ機能し得る筈だろうに。

 

 官吏さんには、何時かこのツケを払って貰おう。

 

 何であれ。

 

 僕は癙蝨にお礼を言い、そのランダムモノクロ・ミディアムヘアに一旦の別れを告げて裏庭を去った。空がやや朱色めいて陽が傾いているのを見るに、そろそろ晩飯の支度の時間だ。

 

 

 

 照明が疎らに点灯している廊下をゆっくり歩く。まだ目眩が少しばかり残っているので、やはりふらつきながらゆっくり歩く。目指すは厨房。

 先程までの貧血状態──と言うより失血状態──は、癙蝨が血液を注ぎ足してくれたお陰で解消された筈なのだが、そうであってもいきなり体調が改善されるということはない。

 

 とは言え、治ったことに変わりはない。一晩熟睡すればこの目眩も彼方へ消し飛ぶだろう。

 

 風邪を引いたような感覚で廊下を歩いていると、厨房の扉の手前に一人ばかりの人間が居ることに気付く。誰だろうと考える必要は無い。元よりこのホテルに居るのは、僕と癙蝨と桐切さんとHALさんだけだ。当該個体は緑色でもモノクロでもないことを考慮すれば、その人間はHALさんだと分かる。

 

 僕は彼女に軽く会釈し、そのまま厨房に入ろうと扉の取っ手に触れる。

 

 

「            」

 

 

 ん?

 

 今、僕は何か言っただろうか。

 最近どうも独り言(モノローグ)が多くなっているせいで、時々自分が言葉を思考しているのか、それとも言葉を発声しているのか、判断に迷う時がある。しかし、僕の口は今のところ閉じたままだ。音が出るとしたら鼻からだろうが、残念ながら僕には無意識に鼻から声を出すような特技も趣味もない。

 

 当然、廊下には僕とHALさんしか居ない。桐切さんも癙蝨もこの場には居ない。他の第三者の存在も居ないはずだ。そうなると、やはり僕の空耳だろうか。

 ホームシックも此処に極まれり。いよいよ精神的な疲れが限界を迎えようとしているのかも知れない。早いところこの胡乱な世界から抜け出さないと、最終的に発狂するやも──タイムリミットは思いの外近くまで迫っているのだろう。

 

 いやしかし、確かに聞こえた筈だ。しかも、結構すぐ近くから。割とすぐ側で。

 まさか。

 

 僕は手を掛けた扉のすぐ隣、壁に寄り掛かるメイド服姿の人影に声を掛ける。

 

「今……何か言いましたか、HALさん?」

 

 そこに居るのは、確かにHALさんである。

 日本で一般的に認識され得る「メイド服」の最大公約数の如き格好で、その場に居る。僕の目線より少し低い背丈。紺色の短い髪に、日本人では恐らく見掛けない鼈甲(べっこう)色の瞳、何よりその健康的な小麦色の肌は見間違える筈もなく──HALさんである。

 こんな属性マシマシ癖カラメの人間が都度二、三人も発生する筈が無かろう。

 

「何をそんなに急いでいるのですか、と言ったのです」

 

 僕は────その場で固まった。

 

 思えば、桐切さんと違って、僕がHALさんと会話をすることは今まで殆ど無かった。いや、機会は幾らでもあったのだろうが、特に会話を必要とする事柄もなければ、僕自身が他人に積極的に話し掛ける人間ではないので──そして向こうから話し掛けてくることも殆ど無いので──会話と言えるような会話は無かった。

 

 そんな訳で、僕は彼女が何か意図して僕の様子を伺うような発言をしたことに、素直に驚いた。

 思わず、扉の取っ手から手を離す。

 

「急いで、いる? 僕が?」

「貴方のことです、カシワさん。いえ……カシワノハ、でしたっけ。それともホタニさん?」

「“カシワ”で構いませんよ。そんな事よりも……」

「ええ、そうです。貴方は急いでいらっしゃいます。何をそんなに急ぐのですか」

 

 成程。さては僕と官吏さんの会話を聞いていたな。

 HALさんは廊下の壁に寄り掛かったまま、視線だけを僕の方へ向けて問うた。

 

「先程貴方が会った老爺は一人目です。私の仕える引き籠もりは二人目、私を造ったあの小僧は三人目──その全てのヒトがこの世界に順応し、文句一つも言わずに適応しています。翻って、貴方は──貴方と件のお嬢様は未だに『帰る』とばかり言い、帰還方法を探している」

 

 一人目、二人目、三人目。

 僕の前にこの異世界に来た、元日本人の三人。この胡乱な世界に適応した異邦人。

 

「……僕からすれば、適応する方が全く理由(ワケ)が分からない。もう死んでいるなら話は別ですが、僕等は只単に……この世界に飛ばされただけですからね。帰りたいと思う方が、寧ろ正常ではないですか?」

 

 三人が三人とも、現世現実地球世界の住人であるというのに、日本という国家文化圏で生まれ育った筈なのに。その実、帰還方法を探しているのは四人目(と五人目)の僕等だけだ。何故だろうか。

 

「しかし、皆様方は一度も『帰りたい』と口にしたことはありません。いえ、一度も、は流石に過ぎた表現かもしれませんが、それでも──貴方のように、能動的に帰還方法を探すヒトは貴方以外に居ません。何故、貴方が帰りたいのか──私にはそれが理解できません。何か()()()()に未練でもお有りで?」

「……み、未練?」

 

 未練。

 ────()()だって!?

 

 コイツは何を言っているんだ??

 

「未練も何も、僕の全ては向こう側に──現世現実日本に残したままです」

 

 未練。まるで僕がもう死んだみたいに。

 僕はまだ死んじゃいない。

 

「僕には友人がいます……別に癙蝨だけが友人ではないんです。皆、結構長い付き合いの連中です。愉快な連中ですし、国籍も種族も様々です。こんな前触れも無く異世界に飛ばされた()()()、手放せる連中じゃないんですよ」

 

 鼈甲色が探るように僕を見ている。

 

 脳裏に、友人達の姿が(よぎ)る。もう随分と会っていないが、記憶の中の連中は少しも薄れることなく存在している。そう簡単に忘れてたまるか。

 あの愉快な連中は、今頃どうしているのだろうか。僕が居ないと分かった瞬間、ケタケタ笑いながら探し始めるだろうさ。『さていよいよ夜逃げときましたか?』『いや、養家への仕送りが面倒になったんだろう』『何方(どちら)にしても、何も言わずに消えることはないでしょうに』という気の抜けた会話が聞こえる聞こえる。特徴的な二本のアンテナと柔らかい二つの耳が互いに揺れ動いて、穏やかに話す声が聞こえる。光景が見える。

 

 或いは、殿下はどうだろうか。思えばあの人とも割と長い付き合いになる。まあ、あの人からすれば僕なんか……路傍の石程ではないにしろ、精々その辺の有象無象と同程度の存在ではあろうが、それにしたってある程度の親交はある。会わなくなってからもうそろそろひと月にもなろう──そう思うと、却々寂しいものがある。

 

「僕には仕事があります。買い手市場でようやく見つけた仕事です。只のバイトじゃない、御国に仕える官吏のモノマネとは言え、責任と義務があることに変わりはありません。事前告知も無く異世界に飛ばされた()()()、放棄して良い責務じゃないんですよ」

 

 鼈甲色がスッと細くなる。探るように僕を見ている。

 

 脳髄に、例の悪趣味な紫色のネクタイが過る。あの労働と護国の致命的中毒者(ジャンキー)は、今頃何をしているのだろうか。まあ彼の事だ、僕が行方知れずと分かった瞬間に血眼になって僕を探し始めるだろう。そして僕が不在の間、溜まりに溜まった書類と帳簿をブン投げてくるに決まっている。

 彼が──あのうざったい紫官僚殿が僕の上司になったのは、恐らくお互いの運が(すこぶ)る悪かったのだろう。武官寄りの思考回路な彼と、文官そのものである僕とでは、あまりに相性が悪過ぎる。

 

 とは言え、仕事は仕事だ。僕が選んだ仕事だ。彼にせよ、僕にせよ、仕事にはちゃんと取り組まなきゃならない。それを投げ出す訳にもいかない。そもそも仕えている先が御国であって、即ち陛下の一兵卒な訳だから、今のような勝手は許されない。

 

「それだけではありません。僕は学校に通っているし、財産も当然向こう側に置いてきた。そもそも僕の根源(ルーツ)は日本であって、日本という国の文化産業社会制度を前提として『僕』の思想信条は定まっています。僕の持つ何もかもが、僕を構成する大部分が、向こう側にしか存在しない────帰る理由は、それだけで十分です」

 

 僕は日本人だ。本質的に、日本でしか生きられない。

 

「…………」

 

 鼈甲色が一旦消える。彼女が目を閉じたのだ。

 

 この世界の現地住民、HALさんが一体何を考えているのかは全く想像がつかない。僕の今の発言を面白半分に聞いているのかも知れないし、或いは割と真面目に噛み砕いているのかも知れない。

 

 ……まあ何も考えず適当に捲し立てたが、実のところ、そこまで真剣に考えている訳ではない。

 日本語には「郷に入っては郷に従え」という有名な言葉がある。現状の僕は、この言葉の或る意味で逆行した状態にあると言えよう。この世界に従う気も無いのに、この世界に留まっている。

 まさしく異邦人。さっさと帰りたいところではあるが、残念ながら出口が何処にも見当たらない。

 

 単純な理屈で、僕はこの世界に馴染む気が無いから、帰りたいのだ。

 

「そうですか」と、HALさんは言った。「そこまでして帰りたいのですか」情緒も何も無く、只々淡々と表情一つ変えずに、抑揚の極端に薄い声でそう言った。機械のような声だった。

 

「それにしても。貴女はどうして、僕にそんな事を聞くんです」

 

 貴女には一片も関係の無い事でしょうに、という言葉は流石に飲み込んだ。が、言わなくても分かるだろう。

 

 そんな事を考えていると、()()()、と僕の視界が揺れた。

 このタイミングで、どうやらまた貧血の目眩がやってきたらしい。どうにも体調不良は勘弁ならない。人の会話中にやってくるなと文句一つも言いたいが、一体誰に言えばよいのだろう。いやあのボケ老人だ。

 

「ぐえっ」

 

 ところが、何を思ったのか僕の目眩は大袈裟にも足を地から離し、僕の胴体は横側にブッ倒れ──治った左腕を強打した。

 はて、何かが可怪しいぞ……と思う間も無く、僕は自分が足を払われたと理解した。

 

 背中を盛大に床へと打ち付ける……ということはなかった。僕の背中が床を叩く寸前に、HALさんの腕が僕を支えてくれたらしい。

 

「……何しやがるんです、HALさん」

「さて、何の事やら」

 

 僕を適当に床へと降ろして巫山戯た相槌を打ちながら、僕より随分と目線が高くなった褐色メイドの鼈甲色の目が近付いてくる。

 

「別に、貴方が何を考えて動き、何を考えて『帰りたい』と思うのか、なんて────正直どうでもいいんです」

「……はい?」

「前から思っていましたが、貴方の話は冗長でつまらない──聴いていて非常に苦痛です」

 

 絶句した。

 いや、話し掛けてきたのはそっちだろう。千歩譲って僕の言葉が冗長で空虚で卑屈で苦痛なモノであっても、話し掛けてきたのは間違い無くそっちだろう。少なくとも、足を払われる程僕に非がある筈もない!

 

「理由はどうでもいい、知りたいのは『本当に帰還願望があるのか』の一点だけです。貴方の言葉が嘘か本当か、私が気にしているのはそれだけです」

「……何故です? 一体何が目的なんですか、貴女は」

 

 眼球の直前にまで迫った鼈甲色が僕の眼球を見ている。いや、本当に僕を見ているのかどうかすら分からない。何も分からない。只、僕の身体は何時の間にか彼女に拘束されて、碌に身動きが取れないことだけは否が応でも分かる。その様子が怖くなったので思わず目を逸らす。

 

「理由が気になりますか?」

「そりゃ気になるでしょう。何も悪い事していないのに此処まで盛大にコケにされて、スルーできる程神経図太くないですし」

 

「そうですか」とまた適当な相槌で返して、HALさんは言った。「では、貴方のその……翻訳魔法を、一旦切って頂けますか?」

 

 これ以上何をされるか分かったモンじゃなかったので、言われた通りに切る。そして合図代わりに視線をその鼈甲色に向ける。これでもう言葉は通じない。

 

 目の前の顔がゆっくり動く。口角が上がっている。

 

「ひ、ひひひひひひひひひひひひひひひひッ」

 

 悍ましい嗤い声が聞こえる。

 成程。翻訳を通さない声というのはここまで恐ろしいものなのか。

 正体見たり。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あ?

 

「ひひひひひひ、聞こえるでしょうそうでしょう。結構練習した甲斐があったってなァ。どうです旦那ァ、俺の()()()、ちゃーんと聞けるでしょう」

「────────は??」

「理由が知りたいって話スよねぇ、折角の機会だァ旦那の母語でお答え致しやしょうか。ひひひひひ」

 

 いや。

 いやいやいやいや。

 何かもうさっきまでの話の内容とかクッソ激烈にどうでも良くなったんですがそれは。

 

 

 

「俺はね、()()()()()()()()()()()()()、旦那ァ」

 

 

 ────えっ何ヒト変わった????

 

 

 

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