帰宅道中膝栗毛 作:William Sagagenji
未知との遭遇。
気分はまさしくその通り。
翻訳というのは、本質的にその正確性を完全に保証することはできないとされる。
それは当然の事で、殆どの場合、言語が違えばその言語を扱う文化も違ってくる訳で。すると「その言語・文化にしか存在しない概念」という言葉が見えてくる。此れ何を以て翻訳せん。故にこそ、「完全完璧な翻訳」というものは原理的且つ物理的に不可能なのだ。
こういった話でよく例に出されるのが
何が言いたいのかというと、翻訳を生業にしている者は、その韋編三絶ぶりを押し並べて褒め称えられるべきだ──と、僕は思うのだ。
翻って、現状はどうだろうか。
「ひひひひひッ何でえ旦那ァ、俺の丁寧で流暢な日本語に不満でもあるんスかい?」
「流暢過ぎるのも考え物ですね……」
後で
やはり、翻訳というのは人間の意志が介在するに限る。AIだの魔法だの、人外の者共に任せっきりにすると碌な事がない。
「一体、誰にその日本語を習ったんです?」
「そりゃあ勿論、俺の仕える御主人様こと引き籠もりの
なんて事だ。
どうしてもっとマトモな日本語を教えなかったんだ。よりによって、どうしてこんなべらんめえ+下っ端後輩口調を教えたんだ。というかそんな尖った日本語をどうやって教えたんだ。そう言われると何処となく桐切さんの話し方に影響を受けている気がせんでもない。
いやいやいやいや。標準語を教えろよ。
「それで……何です?
目前に迫る鼈甲色を見ながら僕は言う。
というか滅茶苦茶近い。べらぼうに近い。異性同性なぞ一切合切関係無く近過ぎる。
「ひひひ御理解早くて助かりますぜェ旦那ァ。そうですそうです異世界です。いやあ勿論旦那のガワからすりゃあ
「……はあ、それまたややこしい」
「これはもう簡単な話スよ、旦那が帰るってなったら俺も一緒に連れて行けってな話でさあ。『私をここから連れ出して』なんて……ってこりゃあロマンスみてえだ何か俺小っ恥ずかしくなってきちまったひひひひひ」
よく喋る。エラく喋る。嫌いじゃないが好きでもないタイプの人間だ。
何と言うか、今まさに『異世界から元の世界に帰りたい』って話をしている人間に対して『異世界に行きたい』というのは、些か配慮に欠けるのでは? 僕は訝しんだ。
まあそんなことはどうでもいい。
「動機を聞いても?」
「ええ、ええ! 勿論当然構やしねえスよ旦那ァ。いやしかし深え意味は御座いませんぜェ何せ此処に飽きただけスからねえ! あの引き籠もりのクソ尼、自分じゃ碌に手前の世話もできねえモンだからって俺を此処から出さねえんでえ! 酷え話じゃねえスかそう思わねえスか旦那ァ!」
聞かなきゃ良かった、そんなこと。
御宅の複雑な家庭環境はどうでもいい事として、そんなことに僕を巻き込むんじゃないよ──と言いたい気持ちを抑え込む。何か最近巻き込まれてばかりだな。
何が嫌かって、桐切さんの生活能力の無さが使用人によって証言されてしまったという点だ。あのヒトも良い歳だろうに、今まで一体どんな生活をしてきたのだろう。異世界は兎も角、現世現実日本でこんな自堕落な生活はできないと思うし、そもそも社会人として生きてきたのでは? もしかすると桐切さんは社会生活不適合者だったのではないだろうか。
近年稀に見るマトモな大人枠だと思っていたが、とんだ勘違いだったようだ。僕にはヒトを見る目が無いらしい。
……あれ? この世界に来た日本人にマトモな人間って、僕だけなんじゃないか??
「……事情は分かりました。ええよーく分かりましたとも。理由が何であれ、取り敢えずその手の話は癙蝨を通してからにして下さい。僕の一存でどうにかできる話でもないので」
「おう言質取りましたぜェ旦那ァ。旦那は知らねえたあ思うスけど俺ァお嬢さんとは仲良しですぜェきっと良い返事が聞けらあ」
そう言うと、HALさんはようやくその顔を遠ざけ、この世の幸福を限界まで詰め込んだようなニヤケ顔を口角を下げて隠すと、人差し指で何かを回すようなジェスチャーをしてから美しく一礼し、背を向けて嬉しそうに歩いて行った。
彼女はもう、僕に対する用事は済ませたみたいだ。
「……何だったんだ、一体…………」
あの鼈甲色が脳裏に焼き付いている。
僕は再び翻訳魔法を立ち上げる。
何と言うか、突風のようなヒトだった。あと、他人を勝手気ままに引っ繰り返さないでほしい。起き上がる身にもなってみろってんだ。
さて、僕は何をしようとしていたんだっけ?
◆ ◆ ◆
何やかんやで日は沈み。
僕は癙蝨の部屋に来ていた。
僕の部屋より広い空間だ。恐らく、ホテルによくある部屋の等級の違いによる差だろうが、それにしたって名状し難い高級感が漂っている。初めてこのホテルに来た時、桐切さんが僕等に『適当に選んで構わん』的なことを言っていたのを思い出す。僕はぱっと見で過ごし易そうな一人部屋を選んだが、癙蝨はどうにも、一切遠慮をしなかったらしい。
「話は聞いたよ。何だか面白そうな子だよね、ハルちゃん」
「『面白そう』で済むものなのかアレ……」
僕はHALさんのクッソ激烈に独特な口調を思い出しながら、部屋に備えられた木製の椅子に座った。対して癙蝨は、ベランダの柵に寄り掛かって冬の冷たい風を楽しんでいる。互いを隔てる筈のカーテンが、半開きで
「十分面白いでしょ。身体構造をサクッと測って見たけど、殆どの器官が魔力浸透性の高い状態だったね。多分、錬成されてできた身体なんじゃないかな?」
「……そっちの意味か。それにしたって、錬成ってなんだ。HALさんは
「まあ十中八九そうでしょ。ニーナとアレキサンダーを掛け合わせて成功したら、多分あんな感じになると思うよ」
「うわあ冒涜的」
そう思うとあの話は──成功したらしたで、また悲劇だったのかも知れない。それとも、あの美しい鼈甲色が作り物だというのを嘆くべきか。
確かに、先程の会話の中で『造られた』的な発言がHALさんからあった気がする。まあ人体錬成なんぞ現代日本基準で言えば然程珍しいものでもない(何なら広義では僕だってそれに該当する出生だし)ので、そこまで気にしなくとも問題は無いだろう。
何であれ。
「仮に帰還方法が見つかったとして、
「それはもう、方法次第と言うしかないよカシワちゃん。物理的に制限が掛かる方法であれば、なるべく
冬の風が部屋の中を鋭く突き刺すように吹く。
僕は椅子に掛かった毛布を手繰り寄せた。
「『観念的な方法』?」
「そう、観念的な方法。この『異世界』が地球世界にとって物理的に存在しない場合、当然──物理的な移動はできないでしょ。そうなると、まず生命一個体の肉体情報を
「まあ、何となく。要するに……あれだろ? 『魂のみの行来』ってやつだろ? 輪廻転生で全く違う世界・次元に行ってしまうってのは、ファンタジー作品でよくあるロマンス描写だ」
「
「ただ────座標が分からないと、何もできない」
「そうだね」とだけ言って、癙蝨は柵の外へ身を投げる。その身体は自由落下することなく、風にゆらゆらと揺れながら波乗りのように浮いている。
そう考えると、異世界に来てから今まで空を飛ぶ人間を見たことがない。明らかに鳥ではない生命体が悠々自適に空を泳ぐ様は幾らか見た記憶はあるが、人間のそれは──この世界には魔法が地球より遥かに流行っているにも関わらず──見たことがない。
技術ツリーが何処かで分岐したのだろうか。
「この場合、帰還方法っていうのは……同時に『
「────そうだ。それで一つ、手掛かりが」
「…………?」
僕は、ズボンのポケットに突っ込んでおいた、とある一片の紙切れの存在を思い出し、それを癙蝨の方に投げる。
紙切れは冬の風の流れに逆らって、宙に漂う癙蝨の掌に収まる。
官吏さんが去り際に残した紙切れだ。
「……誰かの魔力が込められてるね。手紙か何か?」
「此処に喚ばれた《一人目》の日本人からのラブレターだそうだ」
「ラブレター?」
「嫌よ嫌よも好きの内、って言うだろう?」
憎んでいるだけ興味がある──無関心よかマシでしょうに。
……よく言われる言説だ。同意はしないが。
癙蝨は
────
ルチーフェロ教会・ヒンノムの祭壇にあるノートパソコン
アレの効能は
此処から出るならアレを使え
さっさと出ていけ
────
「気が利くヒトだね」
「元は大蔵省の官吏だそうだ。癙蝨を大層恨んでいたぜ、『部下を殺された』って」
「官吏ってことは、向こうから仕掛けてきたんでしょ? 気が利くだけの身勝手なヒトだね」
気が利く、という評価は変わらないらしい。
癙蝨の中での彼に対する評価がどうあれ、重要なのは彼そのものではなく紙切れの内容だ。こうした超常的で、観念的で魔法が絡む話題について、僕はどうにも知見がない。下手に僕が何か考えるよりも専門家に任せた方が遥かに良い。
「手掛かりになるだろうか、その紙切れは」
「……まあ、モノは試しに、くらい? この場でファクトチェックはできないけど、最初にやってみる指針としては十分なんじゃないかな。《一人目》ってことは、少なくとも私達よりはこっちの事情に通じてるだろうし」
ヒンノムの、ノートパソコン。
僕はその実物を見たことがある。
前に……そうだ、かの大司教に帰還の手掛かりを聞きに行った時の、帰りの直前。
『まあ、何だ。あんまり深く考えなくても良い。十字架だとか仏像だとか神棚だとかお地蔵様とか……そういう祈りの対象さ。聞いた話によると、どうも
『何で……何で、ラップトップ・パソコンが
「
「流石は『異世界』って感じだね。とは言え、一神教のくせして神が随分フランクなのは気に食わない事だよ」
「そこはまあ……異世界の神が
思えばあのルチーフェロ教会も、なんだかキリスト教めいた箇所が所々見られた気がするが、それと同時に涜神的な事物も幾つかあったような記憶がある。
十字架と、それに巻き付く蛇。
どっかから持ってきた救世主。
機械に向かって祈る信者共。
うーん冒涜的。いっそ涜神コンプリート。
まあ、此処は異世界であって地球ではないので、幾らアブラハム系列の唯一神を冒涜しようとどうでもいいのだが、現代日本人としては何となく……気分の良いモノではない。
「して、どうやって教会のラップトップに接触するんだ? 教会を頼る線は既に潰えたぞ」
僕が軽い気持ちで癙蝨にそう聞くと、癙蝨もまた軽い口調でこれに返した。
「それを考えるのが、カシワちゃんのお仕事でしょ?」
「…………オマエなァ」
「別に、
いや、まさしく。
仰る通りで御座います。
結局、やることはいつも通り。異世界に来てもやることは変わらない。昔から──中学の頃から、相も変わらずこの手順。
僕の仕事は責任取り。
癙蝨の仕事は整地作業。
僕が示した場所に向かって癙蝨が猛進する。僕が示した目標に向かって癙蝨が吶喊する。最後に僕が後片付けを終えれば、それで全てが一件落着。
失敗でもしたら、その時は腹なり首なり斬って自害すれば良い。
「────分かったよ。近い内に何かしらの
「あ、因みに、此処は異世界だからね。幾らトーテムを増やしてるとはいえ、補給が限られてる完全アウェー状態だから……いつもみたいに古典的なゴリ押し攻略は使えないよ」
「いつも通りじゃねーじゃん」
残念無念。今回ばかりは真面目に
嫌なことだ。僕は頭脳労働は苦手なんだ。脳髄を使うより得物を使った方が、物事を上手く早く速く聡く解決することができる──経験則。
「分かった分かった。なるべく今までの手順を踏襲ながら、高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対応するような計画を立てるよ」
「……それもまた古典的じゃない?」
「選べる手も、得られる情報も限られてるんだ、臨機応変にもなるさ」
何であれ。
それが必要ならそうしよう。頭脳労働が回避できないならばやるしかない。浅学菲才無知蒙昧の権化たる僕が無い頭脳を振って御覧にいれましょうぞ。
いや全く以て不本意だが。
癙蝨は、空中で一回転した後にベランダの柵の手摺に着地した。ランダムモノクロのミディアムヘアを冬の冷風に靡かせながら、そのままベランダに降りて部屋に入り、窓を閉める。
部屋の中が、段々と暖かくなっていく。
僕は、まだカーテンの閉じられていない窓の外側の景色──先程まで癙蝨の背景に過ぎなかった景色──に意識を向ける。
美しいものの最上級を取り外したその夜空は、癙蝨とはまた違った趣を醸し出していた。現世現実日本で見る夜空とも違う────それはそれは、不思議な諧謔を内包する夜空だ。
住処である千葉県東葛飾市の自宅から見える夜空というのは、遥かの西に東京の淡い都市の夜光が蛍の如く見えていた。あの点々とした光が、戦前はもっと燦然と光り輝いていたというのだから驚きである。
翻って、今まさに窓の外に広がる夜景はどうか。
見えるのは、都市の夜光ではなく星空である。地上の害光に邪魔されないそれは、純然たる星空である。電線が街を駆け巡り、電球と蛍光灯とLEDとチェレンコフ光が爛々と夜空を照射する──現代日本の東京近郊では、却々お目に掛かれない星空である。
自然の美しさというものは、やはりどの世界でも変わらないものだ────などとは欠片も思わない。
僕の知らない星辰を動かすこの夜空は、僕の求める美しさではない。こんなものは畢竟、産業廃棄物と背比べできるかどうかの価値でしかない。
僕が求める夜空というのは、もっと人工的な光に包まれた、文明の夜空なのだ。先進文明の夜空なのだ。日本の夜空を求めているんだ。
自然に満ちた異世界の夜空は、僕の心の中にある得体の知れない不吉な塊を一層重くして、心を圧迫し始める。
帰りてえなあ。
「……カシワちゃん? またホームシックでも発症しちゃった?」と、癙蝨が問う。「もう三週間も経ってるもんね、無理もないよ」
その言葉に、意識が不吉な塊から幾らか離れていく。嫌な方向に突っ走ろうとした思考がそこで一旦止まり、意識が──いつの間にか眼前にまで迫っていた──癙蝨の眼球に移される。
「こういうところはホントに昔から変わらないね、カシワちゃん。今夜は添い寝でもしてあげようか? 昔みたいに」
「……遠慮しとこう。そう単純に気が紛れるってこともないだろうし。それこそ昔みたいに、は」
「そう?」
「そういうモンだ」
僕は癙蝨の額に手を当てると、そのまま軽く押し退ける。大した抵抗もなく「あうっ」という呻きと共に癙蝨の顔面が僕の眼前から離れる。
そうして椅子から立ち上がり、お世話になった毛布を椅子の背もたれに掛ける。
「遅い時間に悪かった……今後何かしら動く時は、力添えを頼む」
「言われなくとも、その辺りはいつも通りに」と、軽い口調の返事が返ってくる。「トーテムは継続して増やしておくよ。何かあったら役に立つし、何もなくても保険はあって嬉しい飾りになるし」
「恩に着る」
「いつもの事じゃん」
「……それもそうか」
そう言って、僕は癙蝨の部屋を出た。
「……そういや」
廊下を歩きながら、僕はある一つの違和感を覚える。
「────癙蝨に添い寝して貰ったこと、あったっけ?」
僕は記憶力に自身が無い。真実は癙蝨のみぞ知る。