という訳で、第26話です。
「それでは、こちらへどうぞ。上着もお預かりしましょうか?」
「は、はい……」
夜の歯科学部にやって来た帽子の少女……アオバさんのジャケットを受け取った私は彼女を治療用チェアに座らせる。
アオバさんは不安げな表情で周りにある器具や薬品などをキョロキョロと眺めている。
「これ、良かったら使って下さい」
「あ、ありがとうございます……」
一先ず、顔や手の汚れが気になったので、タオルを用意する。アオバさんはおずおずとタオルを受け取り顔を拭く。
「うぅ……油の臭いが染み付いちゃってる……最悪ですけど……」
待ちに待った可愛い女の子がやって来て本来なら喜ぶ所だが……その虚ろで光のない瞳と、全身から漂う陰鬱な雰囲気が妙に気になった。
「(少し前のヒナさんみたいな……いや、それよりももっと酷くした感じだな)」
例えるなら、ブラック企業に勤めている世の中に対する鬱憤や恨みが溜まってやさぐれた限界OLといった所だろうか。私と歳は変わらない筈なのに、それ以上の人生の苦難を味わって来たような重苦しい雰囲気を漂わせる様は見ているだけで胸が苦しくなってくる。
「うぅ……」
「(ふむ……この様子だと、虫歯か?)」
かなり痛むのだろうか、アオバさんの目元からは絶えず涙が滲み出ており、右の頬に手を添えて小さく身体を震わせている。
「それで、今日はどうされましたか?」
「は、はい……み、右の奥歯が……ずっと痛くて」
「ふむ……痛むのは上ですか? それとも下ですか?」
「……り、両方……です……」
「最後に、歯を磨いたのは何時ですか?」
「…………あ、朝に……」
アオバさんは視線をそらしながら恥ずかしそうに答えた。汚れた衣服や疲れきった表情とおぼつかない足取りから考えて、大分疲れが溜まっているようだ。ヒナさんも大概だったが、目の前の彼女はそれ以上に感じる。
「(ハイランダーと言えば、確か対策委員会編3章で出た双子の所属校だったな……そんな風には見えなかったが、実は職場環境はとんでもないブラックなのか?)」
このキヴォトスに生を受けてから知った事だが、ハイランダーは土地としての自治区がない代わりに学園が管理している路線そのものが自治区としての役割を果たしているという珍しい性質を持っている。その活動範囲はキヴォトス全域に及んでいるらしい。
しかし、迷惑客を銃火器で制圧する、定時に間に合わせる為に客車を切り離して運行する、といった如何にもキヴォトスらしいトラブルをちょくちょく起こしており、実際に私も過去に数回巻き込まれ事があったりする。
アオバさんの身なりからして恐らくは整備関連の仕事に携わっていると思われるが、治安が最悪なキヴォトスの交通機関の管理に携わっているという事を考えると、この疲労困憊ぶりはある意味必然なのかもしれない。
「(だからと言って、この有り様だとその内過労死するんじゃないか……?)」
いくら激務とは言え、若い身空でこの有り様は流石に気の毒に感じる。何とかならないものだろうか。
「(と、いかんいかん。私は飽くまで歯科医。他所の職場への文句の前にやるべき事をやらなければ)」
一先ず、思考を切り替えて診察を始める。
「では、診察を始めましょう。椅子を倒していきますので、じっとしてて下さいね」
背もたれをゆっくりと下げていくにつれてアオバさんの顔が強張っていき、点灯したライトの光に目を細める。
「口を大きく開けて下さい」
「あ、あ……」
「もう少し、大きく開けられますか?」
「あ……あぁ……!」
アオバさんはぎゅっと目を閉じてゆっくりと口を開けた。私は口の中を覗き込み、口腔内全体を見回す。
「(うーん、これは酷いな……)」
アオバさんの歯の本数は上下合わせて28本。歯列自体は綺麗に並んでいるものの、所々に歯垢が付着していて、脱灰した歯もいくつかあった。
そして痛みを訴えていた右側の歯を見ると、右上の4番と5番……第1小臼歯と第2小臼歯の間が虫歯になっていた。
特に酷いのは右下の6番……第1大臼歯は咬合面の中心に大きな穴が開いており、中の象牙質は黒ずみグズグズに崩れていた。
更に隣の7番……第2大臼歯には銀色に光るインレーが埋め込まれ、その隙間から虫歯になっていた。
「(ざっと見ただけでもハッキリと分かる虫歯が合計4本。他にも怪しいのがあるな)」
口内の状態から考えて、脱灰した歯も含めてまだ虫歯がある可能性は高いし、歯茎が若干炎症を起こしている事も考えると歯周病のチェックも必要だろう。
まずはデンタルミラーを口の中に挿入し、右下の7番……第2大臼歯から順に診ていく。
「ぁ……っ……」
「(7番C2、いやC3か? 6番……これも恐らくC3、5番から1番は斜線)」
ミラーの角度を変えながら順に診ていく。右下が終わり左側へ移る。
「(1番から4番は斜線……5番6番がC1、7番はC0)」
予想通り、他にも虫歯はあったようだ。こちらはまだ表層部分であるので痛みはないようだが、この口内環境だと悪化するのも時間の問題だろう。次にミラーを上の歯に移動させる。
「(7番C0、6番C1、5番から1番斜線……右上1番から3番斜線、4番5番C2、6番7番C0……治療の前にクリーニングが必要だな」
虫歯の本数は合計7本。虫歯になりかけている歯も4本と大分酷い有り様だった。
続けて歯周病チェックを行い、CTを撮り、歯髄電気診断を行い歯髄の状態を確認し、口腔内スキャナーで口腔内のデータを読み取る。
一通りの検査が終わると、モニターにアオバさんの口腔内の画像が映し出される。
「今モニターに映っているのがアオバさんの歯です。まず、右下の第2大臼歯はインレーの下から虫歯が進み神経にまで進行しています。隣の第1大臼歯も同様でこの2つが痛みの主な原因ですね。上の第1小臼歯と第2小臼歯の間の虫歯はまだ神経に達していませんが、このまま放置していると神経に及ぶ可能性があります。それから、この3ヵ所に初期の虫歯が確認されました」
「そ、そんなにあるんですか……?」
「はい。それと、虫歯になりかけている歯も4本ありました」
「う、うぅ……」
自分の口内の惨状を目の当たりにして、アオバさんは酷く落ち込んでいた。私は落ち着かせるようにゆっくりと話しかける。
「今はたくさんありますが、きちんと治療をしていけば全部綺麗になります。これから一緒に頑張って行きましょう」
「は、はい……あの、ちょっといいですか?」
「はい、何でしょうか?」
「その……治療って、どれくらいかかりますか?すごく痛いんで……早めに治して欲しいんですけど」
アオバさんは痛みに顔を歪めながら小さく呟く。目元からは涙が滲み出てて、その手は少し震えていた。
「そうですね……虫歯の本数が多い為、身体にかかる負担を考慮して痛みの強い所から優先して治療を行い、それから数回に分けて治療を行う事になりますが……最短で1、2回で全ての歯の治療を行う方法もあります。ただ、どちらもメリットだけでなくデメリットもありますので、しっかりとお話しますね」
「は、はい……」
アオバさんは小さく頷く。
「まず、1本ずつ丁寧に進める通常の治療だと1回の治療時間が短く、身体への負担も少なく済みます。ですが、その分通院回数が多くなり全て完治するまで時間がかかります」
「その……大体どれくらい、ですか?」
「アオバさんの場合ですと、虫歯が神経に達している歯もあるので……少なくみても3、4回通院していただく事になると思われます」
「そ、そうですか……」
説明を聞いたアオバさんの落ち込みぶりからして、あまり時間をかけたくない様だ。
私は彼女を安心させるようにゆっくりと口を開く。
「そこで、アオバさんにご紹介したいのが静脈内鎮静法といって、短期集中で治療をする方法です」
「静脈内鎮静法?」
「はい。点滴で少しずつ鎮静薬を投与する事で緊張を和らげ、リラックスした状態でまとめて治療を行う方法です。治療中の記憶はほぼ残らず、仕事で時間が取れない方に特に向いています」
アオバさんは目を丸くして口を開いた。
「あの……それって、眠っちゃうって事ですか?」
「いえ、完全に眠る訳ではありません。感覚としては、うとうとして夢を見る様な感じですね。治療の際には局所麻酔で痛みを抑えるので、ストレスを感じずに治癒を受ける事が出来ます」
但し、と私は続ける。
「長時間治療になる為、顎が疲れたり、治療後に腫れや痛みが出る可能性があります。また、一度にたくさんの歯の治療を行うので、噛み合わせの微調整が後で必要になる場合もあります。静脈内鎮静法自体は安全ですが、呼吸や血圧の変動が稀に起こるので、モニタリングをしっかり行います」
「そ、それでも全部治療していただけるんですよね……?」
「はい。ですが、治療当日の食事は6~8時間前、飲み物は2~3時間前から絶対に禁止です。これを守っていただけないと治療を行う事は出来ませんのでご注意下さい。また、当日の体調が優れない場合は延期になる場合がありますので、その点はご了承下さい」
アオバさんはこくこくと頷く。
「治療後は薬の影響で眠気が残るので、終わった後は回復するまでしばらく安静にしていただく事になります。それから、治療後は眠気やふらつきが残る可能性があるので、安全の為にお帰りの際には付き添いの方がいる事を強く推奨します」
そう言うと、アオバさんは憂いを帯びた表情を浮かべる。
「あの、その……すみません。わ、私……友達がいなくて……1人では、ダメですか……?ダメなら、別にいいんですけど……」
か細い声で私に問いかけるアオバさんの表情は暗く、歯の痛みもあってとても辛そうだった。私は出来るだけ彼女を不安にさせないように気を遣いながら説明を続けた。
「いえ、どうしても難しい場合はこちらで帰りの車を手配しますので大丈夫ですよ。それから、帰宅後は身体をゆっくりと休めて、もし吐き気や頭痛などの異常があればすぐに連絡して下さい。後、当日は運転や危険作業は絶対に禁止です」
「は、はい……」
「説明は以上になりますが、何か気になる点はありますか?アオバさんのご希望に合わせて治療の準備をしますので、アオバさんが納得の出来る、一番安心出来る方法を一緒に考えていきましょう」
アオバさんは一瞬目を見開き、その後しばらく考え込むようにじっとしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「その……すぐに治して貰える方で……お、お願いします」
「分かりました。では、静脈内鎮静法での治療を行うという方向で進めさせていただきますね」
その後、問診を行い持病やアレルギー、服用している薬の有無等を確認した後、歯の治療に入った。本格的な治療は翌日からとなるので、今日は応急処置と簡単な歯のクリーニングのみを行った。
まず、神経まで達した2本の虫歯は幸いまだ浅いので、感染した部分のみを除去して出来る限り神経を残す方向で治療を進めた。虫歯を除去した後、中を綺麗にして薬剤を充填した後に仮封を行う。
次に、口内全体の歯垢や歯石の除去を行い、小さな虫歯や虫歯になりかけている歯はフッ素を塗り再石灰化を促す。
一通りの処置が終わった後、帰宅後のケアと、本格的な治療についての説明を行い、治療に関する同意書を書いて貰い、薬の処方と次回の治療予約を行った。
「本日はお疲れ様でした。それでは、明日の11時で予約を承りましたので、お待ちしております」
「は、はい……よ、よろしくお願いします……」
歯の痛みが収まったお陰か、アオバさんの顔は先程よりも明るくなっていた。
私はアオバさんの背中を見送った後、彼女が心から笑えるようになる事を願いつつ、持ち場に戻った。
なお、夜間診療が終わり帰宅した後、何故かアヤメさんに「また他の女たらしこもうとしている気がする」と、ジト目で睨み続けられ、就寝前にまたいっぱいヤリまくる事となったが……嫉妬するアヤメさんの顔も、猫のように私に甘えてくるアヤメさんの顔も、とても可愛かったので寧ろ役得だった。
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翌日。アオバさんの治療の予約時間が近付いて来たが、アオバさんの姿はまだなかった。
すると、スマホの着信音が鳴る。
『す、すみません……内海アオバです……!』
電話の相手はアオバさんだった。何やら慌てている様子だったので、落ち着かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「こんにちは、アオバさん。どうかされましたか?」
『き、急に修理の仕事が入ってしまって……その……予約した時間に行けなくなっちゃって……すみません』
タイミング的に何となく察しはついていたが、案の定だった。アオバさんは申し訳なさそうな声色で答えた。
「そうでしたか。お忙しい中、ご連絡下さりありがとうございます。それでは、今日の予約は一旦キャンセルして、改めて違う日時で予約し直しますか?」
『は、はい……あの……ちなみに、今日の夜って、大丈夫ですか……?その、ウチの部署は突然仕事が入ってしまう事が多いので……なるべく行ける時に全て終わらせたくて……あ、ダメなら別にいいんですけど……』
電話の向こうのアオバさんの声からは焦りと申し訳なさ、そして何処か投げやりを通り越して虚無に近い諦めの感情が伝わってきた。
「今日の夜ですね?因みに何時頃に来られる予定か教えていただけますか?」
『えっと……19時くらいには行けると思います』
「夜間診療ですと、全て急患扱いになるので他の急患の方がいらっしゃる場合、待ち時間が長くなってしまう可能性がありますが、それでもよろしいですか?」
『は、はい……大丈夫、です』
アオバさんの返事を確認すると、私は少し間を置いて説明を始める。
「再度ご説明しますが、静脈内鎮静法は安全の為に絶飲食を守らないと治療をする事が出来ません。また、治療後にふらつきや眠気が残る事があるので付き添いの方の同伴が必要になります。アオバさんは付き添いが難しいとの事なので、今回は回復の早い薬剤を使用して、十分に身体を休めてからお帰りいただく事になります。帰りの車はこちらで手配しますが、今からでも絶飲食は守れますか?」
『は、はい……大丈夫、です』
「分かりました。では、夜の診療で対応させていただきますね。19時頃に来院いただければ、準備を整えてお待ちしています。念の為、来院時に改めて絶飲食と体調の確認をさせていただきますので、よろしくお願いします」
『あ、ありがとうございます……!』
条件はあるものの、治療を行えると分かったアオバさんの声は先程よりも明るくなっていた。電話を切ると、私は治療に向けて思考を巡らせる。
「(さて、治療自体は私1人でも出来なくはないが……万が一という事もあるし、安全を考慮すると人手が必要だな)」
普段の夜間診療は私1人で行っているが、今回は少々大がかりな治療になるので私以外にも助手が必要になる。そうなるとネネコ先輩やコズエ達にも手を貸して貰う必要になるが……
「あら、そんな難しそうな顔をしてどうしたのハモリちゃん?」
どうしようかと考えていた矢先、ネネコ先輩が私の顔を覗き込む様に声をかけてきた。
「ああ、ネネコ先輩。実は、ご相談したい事がありまして……」
私はアオバさんの治療の件について話した。一通り話を聞いたネネコ先輩は、小さく微笑みながら口を開いた。
「話は分かったわ。他ならないハモリちゃんのお願いだし、私も手伝うわよ~」
「ありがとうございます」
ネネコ先輩にお礼を言うと同時に、休憩室のドアが開く。
「私達も手伝いますよ、ハモリ部長!」
振り替えると、コズエだけでなく歯科学部の部員全員が揃っていた。
「コズエ、みんな……」
「すみません、盗み聞きするつもりはなかったんですけど……私達もこれからは夜の診療を手伝おうって、決めてたんです。ですよね、ネネコ先輩」
突然の出来事に困惑する私に、コズエは頬をかきながらそう言った。
続けて、ネネコ先輩が会話に入った。
「ハモリちゃんがお休みしていた時に、みんなと話し合ったのよ。ハモリちゃんだけ昼間も診療をしているのに夜も1人でやるのは負担が大きいし、これからは経験を積ませる意味でも、私達もお手伝いしようってね」
すると、ネネコ先輩は真剣な眼差しで真っ直ぐに私を見据える。
「あの時……ハモリちゃんが突然倒れたって聞いた時、本当に心配したんだから。数日前のアビドスでも無茶をしたみたいだし……だから私もみんなも、ハモリちゃんの力になりたいのよ」
続いて、他の部員達も次々と口を開いた。
「私、まだ先輩やゴズエちゃんみたいに歯の治療は出来ないですけど……いつか同じ様に立派な歯医者さんになりたいんです!」
「辛い事があった時、いつも先輩は私達を励ましてくれました。だから今度は、私達が先輩の力になりたいんです」
「だから先輩、これからもよろしくお願いします!」
彼女達の言葉に、私は目元が熱くなるのを感じた。ああ、自分はなんて幸せ者なのだろうかと、思わずにはいられなかった。
「みんな……ありがとう」
それから皆で話し合った結果、今後の夜間診療はローテーションを組んで昼間と同じく複数人で行う事が決定した。
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「さっきはああ言ったけど、ハモリちゃん的には夜のお楽しみがなくなるのはちょっと残念だったかしら?」
コズエ達がそれぞれの持ち場に戻った後、私と2人きりになったのを見計らってネネコ先輩がクスクスと笑いながら声をかけてきた。
「ええ……そこはまあ、否定は出来ませんね……」
ネネコ先輩が言っている事も一応事実ではあるので、私はちょっと気恥ずかしさを感じつつも返事をする。
「………………ねえ、ハモリちゃん」
「どうしました、ネネコ先、輩……」
気が付けば、私の眼前にネネコ先輩の大きく開かれた口腔があった。
虫歯菌に侵された事のない、純白に輝く28本の歯のラインは緩やかなカーブを描き、前歯の縦横の幅の黄金比はまさに芸術そのもの。
その美しい28本の白い歯を支える土台たる歯茎は艶やかな光沢を放つ綺麗なピンク色で、強く引き締まっていた。
下顎の歯茎の向こう側に収まる柔らかな舌は唾液に濡れながら小さく蠢いており、柔らかな感触を想起させる頬の裏側の粘膜と合わさり、迎え入れた全てを暖かく、そして優しく包み込んでくれそうだった。
その一番奥の薄暗い喉の奥にはリンゴのように赤く丸みを帯びた口蓋垂が呼吸に合わせて小さく揺れていた。
数秒か、或いは数分、はたまた数時間か、その生命力溢れる美しき光景に、私は見惚れていた。
「(ああ、そうだ。この興奮が、溢れる情動が、全ての始まりだった)」
このキヴォトスの生徒として生を受けて、私がたくさんの可愛い女の子達の歯を見たい為に歯科医になるという夢を抱くきっかけとなったのが、ネネコ先輩の歯だった。
ネネコ先輩は我武者羅に歯科医になる為に勉強をしていた私に声をかけてくれて、勉強の手伝いをしてくれたり、歯科医院の経営に必要な知識を教えてくれたりもした。私の性癖を知りながらも、私に対して親身に接してくれて、歯科学部の設立に成功した日は一緒に喜んでくれた。
そして今でも、歯科学部副部長として私の仕事をサポートしてくれているだけでなく、部の財政管理を担ってくれている。
もしネネコ先輩がいなければ、歯科医としての今の私は存在せず、アヤメさんと出会う事もなかっただろう。だからこそ、ネネコ先輩は私にとって夢を目指すきっかけを与えてくれた恩人で、心から尊敬している先輩だ。
そしてその美しい歯は、ユメさんとはまた違った美しさがあり、私の夢のはじまりの象徴とも言える。
大分前に行った歯科検診以来見る事が叶わなかったその歯が目前にある事実に、身体中の血液が沸騰していくのを感じていた。
「ふふっ、どう?元気出た?」
「あっ……」
口が閉じられた事に思わず声を出してしまった私を、ネネコ先輩はクスクスと笑いながら見つめていた。
「ハモリちゃんは本当に素直で良い子ね~。私はハモリちゃんのそういう所が好きよ」
ネネコ先輩の手が、そっと私の顔に添えられる。
「オマケに、最近は何だが大人っぽくなってますます魅力的になってるし…………好きな子でも出来たの?」
「!?」
ネネコ先輩の口から出た言葉に声が出そうになるのを何とか抑えた私だったが、ネネコ先輩はそんな心の動揺を見透かしてるかのように妖しく目を光らせ私の顔を見つめていた。
「隠そうとしても私にはお見通しよ~?だって、ハモリちゃんから知らない女の子の匂いがするんだもん……ねえ、どうかしら?」
「……はい、仰る通りです」
元々隠す気はないし、ネネコ先輩に嘘は吐きたくないので私は素直に自白した。
「ふふ、怖がらせちゃったかな?」
「いえ、ただ少し驚いただけなので……」
「まあ、実を言うと半分は勘だったんだけどね~。ハモリちゃんが分かりやすい反応するからついからかいたくなっちゃって」
「せ、先輩……?」
ネネコ先輩は、ゆっくりと私の耳元に吐息がかかる距離まで顔を近付けた。
「ちなみに聞くけど……ハモリちゃんはその子の事をどう思っているの?」
「はい……私にとって、その人は……何があっても守りたい大切な人です」
「そっか……ハモリちゃんがそう言うのなら、きっと良い子なのね…………うーん、何だか妬いちゃうなぁ~」
「あ、あの……ネネコ先、っ……!」
すると突然、ネネコ先輩が私の首筋に噛み付いて来た。ネネコ先輩の歯が皮膚を突き破ろうとする感触に私は言い様のない感覚を覚えるが、私は何故か抵抗する事なくそのまま受け入れていた。
ネネコ先輩は何度も首筋に歯を突き立てて、しばらくすると首筋から口を放し、歯形がついた箇所を舌で舐め回した。
「ん……あっ……ネネコ、先輩……」
暖かく柔らかい舌の感触が私の心を掻き乱し、理性が溶けていきそうだった。
「ごめんね、ハモリちゃん……」
ネネコ先輩の両腕が私の身体をそっと包む様に抱き締められた。
「私、その子に嫉妬しちゃってる……ハモリちゃんは、私の大事な可愛い後輩なのに……取っちゃヤダって、いなくならないでって、思ってる……」
ネネコ先輩に抱き締められている私には、ネネコ先輩が今どんな顔をしているのか分からない。
だが、その声はかすかに震えていて、両腕は決して放さないと言わんばかりに力強く私の身体をぎゅっと抱き締めていた。
「私、ダメな先輩だよね……ハモリちゃんの幸せを喜ばなくちゃいけないのに、ハモリちゃんを困らせて……」
「そんな事はありませんよ」
「えっ……?」
ネネコ先輩の抱擁から離れた私は、その今にも泣き出しそうな顔を真っ直ぐに見つめる。
「はじめて出会ったあの日からずっと、ネネコ先輩は私の夢を応援してくれた。どんな時でも私を支えてくれた。だからこそ、私は夢を叶える事が出来た。そう、貴方がいたから私はなりたい自分になれた。このキヴォトスに生まれて良かったんだと、胸を張って言えるんです」
私はネネコ先輩の手をそっと握り締める。
「ありがとうございます、ネネコ先輩。貴方は、私にとって最高に大好きな先輩です」
きっかけは決して褒められたものじゃないけれど、ネネコ先輩との出会いは私に夢を叶えたいという熱意を与えてくれた。
ネネコ先輩のこれまでの献身があったからこそ、私は夢を叶える事が出来た。それは、変えようのない確かな事実だ。
「それに……謝るのなら私も同じです。ずっと近くにいたのに、ネネコ先輩が抱えていた苦しみに気付く事が出来なかった。こうして本当の事を話してくれたのが、私は嬉しいんです」
「ハモリ、ちゃん……」
思えば私は、アヤメさんと恋人になってから浮かれていたのかもしれない。ずっと近くにいた先輩の事を心の何処かで大丈夫だと安心していて、抱えていた苦しみに気付く事が出来なかった。
それに何より……自分のせいで大好きな先輩が悲しむのは、何よりも辛かった。
「だからネネコ先輩……これからもずっと、私の大好きな先輩でいてくれますか?」
「…………ハモリちゃぁぁぁぁぁぁんっ!!!」
「うおっ!?」
私の言葉に一瞬だけ目を見開いたネネコ先輩だったが、すぐに表情を崩してにっこりと笑ったかと思ったら突然両腕を広げて私の身体を抱きつき頬ずりをしてきた。
「もう、好き好き好き好き好き!私も大好きだよハモリちゃ~ん!ああん!ハモリちゃんのほっぺ柔らか~い!」
「ちょ、ネネコ先輩落ち着いて……」
アヤメさんよりも大きなネネコ先輩のたわわに実った2つの果実と頬の柔らかい感触、身体から溢れる甘い匂いにドキドキしつつも何とか離れようとするが、ネネコ先輩の両腕は私の身体をガッチリと拘束し抜け出せなかった。
「ハモリ部長、何か大きな音がしましたけどどうしまし……た?」
いつの間にかやって来たコズエは私達を見て石のように固まり、頬を赤く染めていた。
「ね、ネネコ先輩そろそろ離して下さい……」
「ん~、ヤダ。もう少しハモリちゃんを堪能させて~」
「あ、あの……何があったんです……?」
その後、何とかネネコ先輩の抱擁から抜け出せたものの……ネネコ先輩の私を見る目が何だか湿っぽくなり、コズエはコズエで何か言いたげな風に私達をチラチラと見ていたのが気まずかった。
『いやまあ、控え目に言っても自業自得だと思うよお姉ちゃん』
……取り敢えず、アヤメさんに今回の事がバレたらマズい事は理解しているので私は1人、どうするべきか頭を悩ませるのであった。
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「はい、これでおしまい」
「わぁ、治ったー!ありがとー!」
時は経ち、夜の歯科学部。私は変わらずやって来た患者達の歯を治療していた。
「お疲れ様、ハモリちゃん」
「ありがとうございます、ネネコ先輩」
今までと違うのは、私以外にもネネコ先輩やコズエ達がいる事だ。あれからしばらくして2人共落ち着いたのか、普段通りに接してくれている。
「…………」
「あの、何か……?」
「何でもないわよ~?うふふ♪」
と、思ったのだが。時折私に向けられるネネコ先輩の視線が妙に湿っぽく、前世で散々二次創作で見てきた、愛が重い生徒達に囲まれる先生になった気分を味わっていた。
「(まあ、ネネコ先輩の気持ちは嬉しいし、顔も歯も綺麗だしそんな先輩に愛されてる事に文句はないが……私にはアヤメさんが)」
『そんなに迷ってるならさぁ、いっその事あの先輩もアヤメ先輩みたいに食べちゃえば良いんじゃない?』
「(んんっ!?)」
イザナが何かトンでもない事を言い始め、私は心臓を鷲掴みされた感覚に襲われた。
『まあ、あのアヤメ先輩の事だから間違いなく嫉妬の炎をメラメラ燃やすだろうけど、話せば分かってくれると思うよ?お姉ちゃんが筋金入りのお節介焼きで女好きでたらしの変態さんなのはアヤメ先輩も理解しているし』
「(……言葉に悪意を感じるのは、私の気のせいかな?)」
色々気にはなるが、今は仕事中なのでネネコ先輩の件は一旦忘れる事にする。
外は既に日が落ちており、そろそろ予定していたアオバさんの来院の時間だが、まだ姿は見えない。
「そう言えば、ハモリちゃんが話していた例の子はまだ来てないみたいね」
「ええ。でもまだ時間はありますし、私達は何時でも治療が出来る様に準備をして待つだけです」
とは言うものの、未だに連絡がないのも少し気になる。よほど整備の仕事が長引いているのだろうか。仮に今日が無理なら日を改めて予約し直せば良い話だが、まだ応急処置しかしていない事を考えるとあまり日が空くのはよろしくない。どうしたものかと考えていると、来院を告げるベルが鳴る。
「す、すみません!遅くなりました!」
聞き覚えのある声がしたので入り口へ向かうと、息を切らし肩を揺らすアオバさんがいた。
「お疲れ様です、アオバさん。一先ず、こちらにおかけ下さい」
「あ、ありがとうございます……」
よほど急いだのか、しんどそうにしていたアオバさんを待合室のソファーに案内する。ある程度アオバさんが落ち着いた所で、私は口を開く。
「今日は夜遅くにありがとうございます。ちょうど今は他の患者さんはいないのですぐにご案内出来ますが、その前に血圧と酸素飽和度の確認をさせていただきますね」
「は、はい……」
私は早速、血圧計とパルスオキシメーターを準備した。アオバさんの腕にカフを巻き、指先に小さなクリップを付けると、『ピッ、ピッ』と小さな音が響く。
「血圧は……少し高めですが、緊張してるだけですね。酸素飽和度も98%……大丈夫です。最後に確認させて下さい。絶飲食は守れていますか?」
「はい、何も……お腹もすいたし、喉もかわきましたけど、ウチの部署ではいつもの事なので我慢しました」
さらっとブラックな職場に対する怒りと諦めの感情が混ざった声が発せられたが、下手につつくのはマズいと判断し、私はカルテにささっとメモを入れつつ、アオバさんの緊張を解すようにゆっくりと話を続ける。
「よく頑張りましたね。これで準備は整いました。では、こちらへどうぞ」
「お荷物はこちらでお預かりしますね」
「あ、ありがとうございます……」
部員の子がアオバさんの荷物を受け取ったのを確認した私はアオバさんを診察室へ案内した。
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「冷たいのが入りますよ……ふわっとしますから、力を抜いてくださいね」
「んっ……」
治療用チェアにアオバさんが座ったのを確認した後、私は改めて治療の流れについての説明を行った。
その後、麻酔担当の子がアオバさんの腕に点滴の針を刺した。痛みに一瞬だけ顔を歪ませたアオバさんだったが、点滴が流れると次第に目蓋を閉じてうとうとし始める。
「今から治療を始めますね。まずは仮封を外して中を綺麗にした後、神経が剥き出しになっている所を特殊なセメントで蓋をして詰め物を入れていきます。他の歯も一緒に進めていきますが、痛いと感じたら指を動かして下さい」
「ふぁ……」
アオバさんがうとうとしながらゆっくりと口を開ける。
「今から口を開けたままにしておきますね……大丈夫、痛くないですよ」
コズエがシリコン製のバイトブロックを上下の奥歯の間にそっと置き、歯科用開口器……マウスオープナーを口角に引っ掛けると、アオバさんの口腔内が剥き出しになる。
「では、仮封を外していきます。その後、麻酔をしてラバーダムをかけて細菌が入らないようにしてから治療をしていきます……コズエ、ライトの向きをもう少し左下に」
「はい、部長」
私はマイクロスコープを使い仮封材を慎重に外していく。全て除去したのを確認すると麻酔をして、麻酔が効いてきたのを確認するとラバーダムをアオバさんの口に装着し、ぽっかりと穴の空いた2本の奥歯が露出する。
穴の中を洗浄した後、セメントで剥き出しになった神経に蓋をして、口腔内スキャナーで型取りを行い専用の3Dプリンターにデータを入力。出来上がったセラミック製の詰め物を装着する。
次に、右上の2本の虫歯の治療に取りかかる。ラバーダムやマウスオープナー、バイトブロックを調整し直し、虫歯を除去していく。まだ神経には達していないので、削り過ぎない様に慎重にエアタービンを動かす。
「ん……」
歯に伝わる振動に小さく反応するアオバさんだが、特に痛がるそぶりはなく、ゆったりとしている。
「コズエ、もう少し上に」
「はい」
「……………」
コズエは吸引器を使い削った歯の破片を取り除いていく。すぐ近くでは麻酔担当の子が随時バイタルの確認を行っている。
数分かけて虫歯を除去し終えると、再び口腔内スキャナーで型取りを行い、専用の3Dプリンターにデータを入力。出来上がったセラミック製の詰め物を歯に装着する。
残る初期虫歯3本は軽く削った後、レジンを充填し固まったら噛み合わせを調整する。
全ての虫歯の治療が終わった後、ラバーダム等の口を固定していた器具を全て取り外し、全体の噛み合わせの再確認と、出血・腫れの有無を確認する。
その後、仕上げに全ての歯にフッ素を塗布していく。
長時間治療した後は口腔内が乾燥しやすく、治療で削った歯のエナメル質が一時的に弱っている可能性がある為、全体的な再石灰化促進と虫歯予防効果を最大化する為だ。
やがて治療が終わると、アオバさんに声をかける。
「お疲れ様です、アオバさん。治療は全て終わりました」
「あ……もう……おわったん、ですか……?」
「はい、全部綺麗になりましたよ。今から鎮静薬を止めますが、点滴はそのまま残しておいて、ゆっくり回復するまで見ていますね」
麻酔担当の子が点滴のバルブを閉じ、薬の流れを止めた。その後、患者用の回復室に案内しベットの上に寝かせて、暖かいブランケットをかける。
「薬の効果が自然に切れて回復するまでの間、ここで横になっていて下さい。意識がハッキリして、歩行に問題がなければ点滴を抜き、お帰りになれます。随時バイタルの確認をしますが、もし何かあれば遠慮なくお申し付け下さい」
「は、い……ありがとう、ございます……」
アオバさんは初めて安堵した様に小さな笑みを浮かべると、ゆっくりと目を閉じた。
「部長、後は私が見てますので部長もお休みになって下さい」
「ああ、ありがとう」
麻酔担当の子に後の事を任せて私はその場を後にした。
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「お疲れ~ハモリちゃん。後の事は私達でやっておくからね~」
「本日もお疲れ様でした、ハモリ部長!」
「ああ、みんなもお疲れ様。さあ、行きましょうかアオバさん」
「あ、はい……」
夜間診療の時間も終わり、後の事をネネコ先輩達に任せて私はアオバさんを軽トラックの助手席に乗せてアオバさんの自宅へと向かった。
「……………あの」
「どうかしましたか、アオバさん?」
暗い夜道をしばらく走っていると、助手席に座るアオバさんがおずおずとした様子で声をかけてきた。
「てっきり、タクシーを呼ぶのかと思ったんですけど……」
「ええ、実はタクシー会社が何処も電話が繋がらなかったので……少々乗り心地が悪いのは謝ります」
「あ、いえ……こうして誰かに送って貰うのは初めてなので、ちょっと緊張してるだけです……」
「ああ、そうでしたか……着くまでもうしばらくかかるので楽にしていて下さい」
実を言うと、1つだけ電話に出たのだが、その時のやり取りが……
『ん?あ~、今からですかぁ?客は子供1人?1人暮らしで少し眠気が残る可能性があるから玄関まで付き添って鍵を開けてもらえますかだぁ?ハァ~……ガキのお守りかよめんどくせ。ハイハイ、こっちは忙しいんですからさっさと行き先は何処か言ってくれませんかねぇ?』
『…………図に乗るなよゴミが』
という、明らかに人を見下し切ったその声に柄にもなくキレてしまい、こちらから電話を切ってしまったのであった。
幸い、アオバさんが回復した頃には夜間診療も終わっていたので、ネネコ先輩達に片付けと戸締まりを任せてアオバさんと面識のある私が急遽、彼女を自宅まで送る事になったのだ。
そもそも、キヴォトスの住民達の民度を考えると、ぼったくりタクシーやらタクシーの売上金を狙うチンピラやらがいる可能性もあるし、今のアオバさんを暗い夜道に1人で行かせるのは危険だと思ったので護衛も必要と判断して今に至るのである。
『けどさ、ワープでビューンって行った方が早くないかな?』
「(緊急時なら兎も角、あまり人前で使うものではないからね……治療もそうだが、安易に楽な方法に頼ってばかりいて、もし使えなくなら困るだろう?)」
『んー……それも一理あるか』
脳内でしばらくイザナと会話をしている内に、アオバさんの自宅が見えてきたので車を停める。助手席を見ると、アオバさんは治療の時の様にうとうとしていた。
「着きましたよ、アオバさん」
「ん……あ……す、すみません……眠ってしまって……」
「いえ、今日は急なお仕事や治療でお疲れでしょうし、無理もないですよ。今日は本当に、お疲れ様でした」
「あ、ありがとうございます……」
アオバさんの身体を支えながら、私はアオバさんの自宅の玄関へ向かい、アオバさんから預かった鍵を使いドアを開けた。
「大丈夫ですか、アオバさん?」
「あ、はい……もう、大丈夫です……」
車内で少し寝ていたお陰か、さっきよりもアオバさんの顔色は良くなっていた。
だが、目元は僅かに震え、身体もフラフラと揺れていて見るからに疲労が溜まっている様だった。
「アオバさん。実は、お渡ししたいものがありまして……少し、お待ちいただけますか?」
「え?は、はい……」
そう言って私は軽トラックに一緒に積んだある物を運び出す。
「……あの、その鍋は……?」
私が手にした物……鍋を見て、アオバさんは困惑した様子で呟いた。
「アオバさんは今日1日お食事をしていないと聞いたので……私が作ったんです」
鍋の蓋を外し、中身をアオバさんに見せる。
今回作ったのは野菜のポタージュだ。材料はキャベツにじゃがいもに玉ねぎににんじんをバターで炒めてフードプロセッサーで細かくし、牛乳とコンソメで煮詰めたものだ。
治療後は鎮静薬の影響で食欲が落ちたり、飲み込みが少し鈍くなる可能性があり、出来るだけ柔らかく、刺激のない、噛みやすいものがベストだ。
アオバさんの様子だと調理をする余裕もなさそうだし、かといってコンビニ弁当の類は朝から何も口にしていないとなると胃に負担がかかるので、飲みやすく栄養も取れるポタージュにした。
鍋の中身を見たアオバさんは目を見開き、困惑した様子で私を見つめる。
「こ、これを……私に……?」
「はい。アオバさんは今日1日頑張りましたので、そのお礼みたいなものです」
それに、と私は続ける。
「アオバさんの様に毎日お仕事を頑張っている人には、美味しい物を食べて元気でいて欲しいので。まあ、一言で言えば私の趣味です」
可愛い女の子達の笑顔が見たい、というのは私の本心だ。アオバさんの抱える苦しみを全て理解する事は私には出来ないが、それでも私は彼女に笑顔でいて欲しい。ただ、それだけの事だ。
アオバさんはしばらく私を見つめていたが、やがて俯き、肩を震わせ始めた。
「あ……う、うぅ……ひっく……」
「アオバさん……?」
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
突然大きな声を上げて号泣するアオバさん。瞳から大粒の涙が零れ落ち、喉の奥を震わせて叫んでいた。しばらくして落ち着いた所で、アオバさんはゆっくりと口を開く。
「……ほ、他の人に料理を作ってもらうなんて生まれてはじめてで……いつもは仕事が終わると……1人でコンビニのご飯を食べているんですけど……だから……び、びっくりしちゃって……」
突然の事で面食らったが、特に身体の調子が悪いという訳ではなさそうだ。私はアオバさんの様子を見ながら口を開く。
「それでは、少々遅くなりましたが夕食にしましょうか。取り敢えず、私が準備をしますので台所をお借りしても良いですか?アオバさんはゆっくり休んでいて構わないので」
「はい、はい……!」
それから私はアオバさんの自宅へお邪魔し、ポタージュを温め直して器によそった。
「はい、どうぞ」
「い、いただきます……」
アオバさんは恐る恐るスプーンでポタージュを掬い、口に入れる。
「……う、うぅ……ひぐっ」
再びアオバさんの瞳から涙が零れるが、アオバさんの手は止まらず、次々とポタージュを頬張っていった。
「美味しい……美味しい、です……!こんなに美味しいもの、生まれてはじめてで……!」
「……おかわりなら、まだまだありますよ」
「はい、いただきます……!」
それからアオバさんは、ポタージュを全て完食した。美味しそうにポタージュを頬張るアオバさんの顔は、とても幸せそうだった。
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その後、鍋と食器を洗い終えた私はアオバさんと向かい合っていた。
「……き、今日はありがとうございました」
「どういたしまして。後はゆっくりと身体を休めて下さいね」
「はい……あの、ちょっと聞いて貰いたい事があるんですけど、良いですか?」
「ええ、構いませんよ」
私の返事を聞いたアオバさんは一瞬だけ逡巡する素振りを見せるが、やがてゆっくりと口を開く。
「私……ずっと朝が嫌いでした。どうせ期待しても裏切られ続ける、自分を取り巻く世界の全てが憎くて……何も出来ない、変えようともしない自分が嫌で……起きたらまた、1日が始まってしまうんだって思うと、何で私は生きているんだろうなって考えちゃって……」
言葉を紡ぐ度に顔を歪めるアオバさんを、私はただ静かに見つめていた。
「けど……今は何だが、明日に期待出来そうな気がするんです……仕事の量が変わる訳でもないし、幹部達の無茶振りがなくなる訳でもないのに……明日が待ち遠しいと、思えるんです……」
そう言うと、アオバさんは、私の目を真っ直ぐ見つめる。
「こんな気持ちになったのは……ハモリさんのおかげです。ハモリさん……私、今とても幸せです……!」
アオバさんの笑顔を見て、私もまた胸がすく様な気持ちになった。やはり、頑張る女の子には笑顔が一番だ。
「……私も、同じですよ。私も、アオバさんが元気になってくれてとても嬉しいです」
そして私はスマホを取り出す。
「もし良かったら、モモトークの連絡先を交換しませんか?」
「えっ、良いんですか!?」
「ええ、勿論。ちょっとした雑談をしたり、一緒に遊びに行けたりしたら、と思いまして。まあ、私も歯科学部の仕事があるので四六時中という訳にはいかないですけど」
それから、と私は続ける。
「その……今更ですけど、私とアオバさんって同い年ですし……友達になっても、良いですか?」
私の言葉にアオバさんは目を見開くと、やがて目元からポロポロと涙が溢れだす。
「あの……大丈夫ですか?」
「うっ……す、すみません……ただ、友達になりたいって言われたのが、はじめてだから嬉しくて……」
アオバさんは涙を拭うと、私の目を真っ直ぐに見つめ口を開いた。
「その……ハモリさん。これから、よろしくお願いします……!」
「ありがとうございます。じゃあ改めて……私の方こそ、これからよろしくね……アオバ」
こうして、私とアオバは友達になった。
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「それで?こんな夜遅くに帰って来たと思ったらまた知らない女の匂いを漂わせて、しかも首筋に歯形まで付けてる事について何か弁明はあるのかしら?」
「…………アヤメさん、全て話します。だからその……手に持ったライフルを一旦降ろしていただけますか……?」
そして自宅に帰った私は……額に青筋を浮かべ、身の毛が逆立つゾッとした笑みを浮かべながらライフルに弾を込めるアヤメさんを前に平伏していた。
『お姉ちゃん頑張れー、頑張れー、頑張れー』
アオバ「えへへ……ハモリさん、また会いたいなぁ……」