アインナッシュは鐘撞堂の夢を見るか? 作:木彫りの心臓
■話/八百年後の君へ
深い森の中。
隙間もないくらいにぎゅうぎゅうに敷き詰められたモミの木によって、昼間でもあっても夜のように昏く、夜にいたってはただただ暗闇だけが広がっているのみ。そういった森。
とはいえ、開けた場所もあるにある。高木が枯死などして倒れた結果出来上がる、ギャップと呼ばれるぽっかり空いたスペース。
昼間であれば陽光が差し込み、夜であれば月も星も見えるだろう。
そんな偶然できた空き地に一人の男が佇んでいた。
彼は空を見ていた。
正確には───指で輪っかを作り、それを覗くようにして
満天の夜空。森が切り抜いた全天のごく僅かだというにも拘らず、そこには数千数万の星々が煌めいている。されど、男が見ているのは星ではなかった。
虚空である。
男は虚空をただ見つめていた。
星と星の狭間。虚ろな空間。或いは───『無』と呼ぶのが適当なのかもしれない。
どのくらい眺めていたか。空き地から見える星のうち、東の端にあったものが西の端に移動するほどの時間だった。
必然、男の見ていたものも同じように移動し、やがて見えなくなった。
「…………」
男はひどく残念そうにため息を吐くと、スッと手を下ろして空き地から立ち去っていく。
そんな男に、話しかける女の声があった。
「師よ、何をしておられたのですか?」
女は男の徒弟であった。
魔術師である男にとって唯一の教え子である。
「宙を視ていた」
男は簡潔に己が行動を述べる。しかし、そんなことは女も理解している。彼女の問いは単に、"何故見ていたのか"ということに他ならない。
だというのに、男はそれを語らない。その必要はないと言わんばかりに。
「師よ、どうか私にご教授下さい」
対して女は食い下がる。
男は見向きもせず、女の前を通り過ぎていく。
「師よ」
「…………」
再三の懇願。女は膝をつき、両手を組んで握りしめている。それはさながら祈りを捧げる使徒のようでもあった。
そんな女の様子を見て、男も足を止めた。振り向いたその顔には、怒りも喜びも悲しみも、なにも浮かんではいなかった。ただ『無』であった。
さりとて、男にとって女がどうでもいい存在であったというわけでもない。彼にとってその無表情こそが標準であり、表情の変化は無駄でしかないと判断しているだけである。
「……我が娘。我が後継。我が智慧を授かりし者よ。お前に問いを投げる。我らに流れる血の色を答えてみよ」
「それは赤にございます」
「その通りだ」
女は僅かに困惑する。このような当たり前のことを答えさせて、それに何の意味があるのというのか。しかし、女は続けざまに訊ねられたもうひとつの問いに躓くことになる。
「───では、赤とはなんだ」
「それは…………」
女は思考を巡らす。赤を定義する言葉を脳内から必死に検索する。
夕焼けの色。錆びた鉄の色。
しかしそれは例えに過ぎない。それを口にしたところで、ではそれは何色かと再び訊かれて堂々巡りだ。
女は分からなくなっていった。
赤とは、どのような色だろうか。
「───ハ。意地が悪かったな。許せ」
男は、悩む女の頭上に言葉を掛ける。口では笑ってはいたものの、やはり表情は変わっていなかった。
「皆が皆、血は赤だと云う。しかし私が見る赤とお前の見る赤に差異があろうなどと誰も考えん。色だけではない。目に映る全てに云える。自らが眺める景色が、他の誰かの眺める景色と同一であるなどと何故思えるのか。同じ瞳で、同じ脳で、同じように見たでもないのに」
口調も、表情も、何ひとつとして変化はない。しかし嘆きのような言葉だった。
「師よ、しかし貴方には"眼"がございます」
「そうだな。私には他者の視界を借り受ける"眼"が確かにある。多くのヒトの視界を得られよう。だがそれでは足りぬのだ」
男は女に目を向ける。二人の視線が交差する。側から見るには何も変化はないが、男と女の視界には確かに変化があった。
女は何も見えなくなり、男は己の視界と女の視界の両方を得ていた。眼球は確かに女についたままであり、見えているものも女の目の位置から覗く景色である。しかし、それを見ているのは男のみであった。
「差異はある。お前の見る世界の方が彩りに溢れている。では───何故差異が生まれるのか。私の目とお前の目、真実を映しているのはどちらかなのか。もし、どちらでもないとしたなら、真の世界とはどのようなものなのか」
ひどく、それは辺りに響いていた。男は肺の空気を人一倍に吐き出しているわけでもない。至って平らな音の波形のはず。
けれど、そこには確かに沸るような熱があった。
「───私はそれが知りたい」
「それが、空を見ることと関係があるのですか」
「然り」
古代ギリシャの哲学者プラトンに曰く。
我々の世界にあまねく存在する全てのモノは、真に完全たる窮極の世界から落ちた影に過ぎない───のだという。
世界はどうしようもなく不完全であり、我々の知覚する全てのものは嘘偽りである。仮に、生まれた時から洞窟の中で身動きの取れない存在がいたとして、洞窟に写る影だけを見続けたのなら、その者は影をこそ現実のものだと認識するだろう。同じように、我々の認識している世界とは真世界の影に過ぎず、真世界に存在するものこそが万物の本質である、と説いたのである。
彼はこれを───イデア、と呼んだ。
「───このイデアをな。見ることの出来る存在がいるのだ、宙の彼方には」
男はプラトンの語る全てを信じているわけではなかった。だが、万物には真の姿が存在していると確信していた。ヒトの手では決して剥ぎ取れぬヴェールを纏っているだと。
女は、しみじみと語る男の姿に先ほどの己の姿を幻視した。男は祈りを捧げているわけではなかったが、しかし空を見上げるその眼差しは、己より上の存在を崇める使徒そのものであった。
女にとって、師たる男より上の者などひとりしか思い浮かばなかった。
「それは、我らが王のことでしょうか」
それを聞いた男は、ハ、と乾いた笑いをなんの感情も乗せずに発した。
「我が王が真世界を知るものか。……その可能性は九百年前に断ち消えた。或いはもっと前か」
王と呼びながらも愚弄するような言葉を男は吐く。
続けて呟かれた言葉は囁きのようで、女の耳にはかろうじて届いたかどうか。それは男の見せる数少ない感情の発露であった。
「ここではない、偶さか位相が重なった場所。誰も観測できない昏い孔の中───ソレは在る」
それはさながら独唱であった。歌い上げるように
同時に、流れるようにして男は己が胸に爪を突き立てた。ぐちゅりと食い込み、やがて一つの塊を体内から取り出す。
───血。
血の塊であった。
宇宙空間にいるかのように、掌にて浮遊する血液でできた球体だった。
「お前にはどう見える?」
この血が。この塊が。この球体が。
この鮮やかな赤色が───。
「宙の彼方に在る
「では、何に……?」
「
男は捧げ物かのようにその血玉を天高く掲げた。
「私にはただの血にしか見えなかった。他の者も同様だろう。されど、
月の王の置き土産。死して果たせず、ついぞ辿り着けなかった夢の残滓。形無き朱い戒め───。
卵と男は形容するが、さながらそれはバロットのようであった。孵りきらなかったのである。誕生を待たずして、それは役目を終えたのだ。
「この卵───死したものではある。死者の蘇生など魔法ですら成し得ないものだ。しかし、動かすことなら出来る。私やお前の在り方こそがその証明である」
受けて女はこくりと頷く。
男も女も生者ではない。謂わば動く屍。人間の血を吸って生き存える吸血種。魔術世界に於いて、死徒と区分される存在である。
魂は穢れ、脳は幽体であり、肉体はエーテルによって作られている。全て死後に再構成されたものではあるが、或る意味では擬似的な死者蘇生と呼ばなくもない代物だ。
また、魔術世界においてはそうでなくとも死者は動く者である。ブゥードゥーに於けるゾンビ。またはその源流たるアフリカはコンゴの地母神ンザンビ。のみならず、ネクロマンシーは世界中にあり触れている。
ましてや、男は西暦以前より生き続けた魔術師。動かざるものを動かすくらい雑作もない。
本質を知り、本性を知り、本物を知り、その影の大源たるイデアを掴んだのならば───もう。
ドクン
と、脈を打つ。
その血液の集まった球体が、心臓のように脈動し始める。バロットに仮初の生命が吹き込まれていく。
「ときに、市井の魔術師共は魔術刻印と呼ばれるもので魔術を継承するのだという───知っていたか?」
「いえ、寡聞にして存じ上げません」
「そうだろうとも。私はこうして二千年以上も、お前にしても一千年近くこの森に引き篭もっているのだから」
胎動する血の卵をその手に、男は悠然と女へ歩み寄っていく。
「今更だが、私も彼らのやり方に倣おうと思う」
「と、申しますと?」
「───巣立ちの時だ。魔術師よ」
流れるように、いたって自然体で、男は女の心臓を手刀で貫いた。
すぐさま引き抜かれたものの、その手には持っていたはずの血玉が見当たらない。在りかはもちろん女の体内である。
「幻想種、魔術礼装、そういった強大な神秘を帯びたものを核として魔術刻印は作られるそうだ。であれば、これでも成り立つだろう。ともすれば、他のものより強固な血の戒めとなるやもしれない」
「───、──────!」
女は声も出せず悶えている。
男が何気なく手にしていた血玉。あれこそは男が死徒となった際に送り込まれた朱い原液───月の王の血を集結させたものであり、そこに己が生涯に於いて学んだ魔術の知識を刻みこんだものである。
謂わば、男の全てといっても過言ではない。
そんなものを埋め込まれたのだ。拒絶反応は生半なものではない。女の意識はほぼないに等しく、師である男の声すらも、今の彼女には届いていなかった。
「我が王の原血。その真の姿を私は見た。知った。理解した。……そうさな。これよりお前が継いでいくそれを───イデアブラッド、とでも呼ぼうか」
己が生み出した特異なる魔術刻印を男は謳う。
「……、…………、…………」
女はもはや廃人であった。男の言葉も届かず、ただ己を冒す血の濁流に呑まれるばかり。一千年の土台だが、今回の場合載せるものが重過ぎた。
「───さて、やるべきことはこれで済んだか」
男は満足そうに、さもスッキリしたと言わんばかりに頷くと、チッと舌打ちをした。腹が立つことがあったわけではない。これは単なる魔術の一工程に過ぎない。
舌打ちの刹那。目の前の巨木の一本が枯れていく。生命力を何かに吸い上げられているかのように、急速に。
やがて轟音と共に倒壊し朽ちていった。元々内部が腐っていたかのように、倒れたと同時にバラバラに砕け散ったのだ。
その倒木の滓。おが屑の如しその塊の中から、やがて一頭の獣が立ち上がった。熊にも似て、狼にも似て、蜘蛛にも似ていた。けれどどれとも似つかず。そして、それは木彫りのような見た目をしていた。
「西へ。ひたすら西へ。森を抜け、河を越えて西へ行け。───追いつかれるな、決して」
木彫りの獣は応えるように咆哮をすると、女をその背に乗せて西へ駆けていった。真っ直ぐに。脇目も降らず。
男はそれを見ていた。
木々に遮られ見えなくなっても。仮に木がなくとも、小さくなって見えなくなるまで。ずっと。
そうしてしばらく───。
あと半刻もすれば夜も明けるかという頃。
西を向く男の背中に投げかけられる声があった。
「こそこそ隠れるのはやめにしたのか」
美しい女であった。
地面に触れるかというくらい伸ばされた黄金の髪。透き通るような純白の肌。鮮血にも似た緋色の瞳。
いっそ造られた存在なのではないかと疑うほどの美しさを兼ね備えた女が、男の後ろに立っていた。
「もはや今の貴女に私の魔術が通じないことは分かっていた。であれば、抵抗は無駄だと思わないか?」
「そうか。道理ではある。しかし以前の貴様であれば、この期に及んで尚醜くもがいたであろうに」
「ハ。酷い評価だ。いや間違ってはいないがな。なに、新境地というものよ」
男は暗示や催眠に長けた魔術師であった。
男を追ってこの森に入った者は、奥へ進むにつれて男の存在が記憶から消えていく。男の名前も、男の正体も、男が存在したという事実さえ書き換えられ、知らず森を抜けた後には男のことなど何一つとして覚えていない。
魔術師として、死徒として、男が外敵から身を守る術であった。
数十年前もこうして目の前の女が森に入ってきたが、その折には確かに撃退していた。
しかし、此度は違う。女とて無策で二度挑んだわけではない。
男の魔術は『意識』に働きかけるものだ。形ある記憶と言い換えてもいい。形があるからこそ男は好きにそれに触れることが出来る。変えることが出来る。
対して、女は一人の魔術師を協力者としていた。その魔術師は『無意識』に働きかける魔術を得意としていた。形なき記憶と言い換えてもいい。それは夢に近い。本人すらもあやふやなもの。形がない故に何者にも侵されない領域である。
どちらが勝ったかは明白だ。
女は男のことを忘れず、男の元へ辿り着いた。
「最期だ。こちらも相応の礼をとってやろう」
男は振り返る。向こうが相応の礼をとると言っているのに、いつまでも背を向けているのは無礼だと感じたからだ。
両者の視線がかち合う。男の琥珀色の瞳と、女の黄金色の瞳が交差する。
「───答えよ、矮小家畜の我が隷属。
月の
貴様にとって血とは何や?」
「───謹んで
私にとって、血液とは真理そのもの。
その生命の持つ情報の全て。過去・現在・未来に繋がる知恵の果実。真の世界、真の
問答はそれで終わった。
それ以上、女に問うべき事もなく。
それ以上、男に言うべき事もなかった。
一歩、女が前に出る。二歩、三歩と男へ向かって歩いていく。
男は何をするでもなく、ただ立っていた。自らの運命、彼にとっての死神が近づいてくるのを、ただ黙って眺めていた。
男の目の前まで来て女は立ち止まる。スッと腕を掲げ、手刀を構えた。
男は頷いて、黙って
「さらば」
その日、ひとりの魔術師、ひとりの死徒が消えた。
十二世紀のとある夏の日のことである。