アインナッシュは鐘撞堂の夢を見るか? 作:木彫りの心臓
一話/カリオンの福音
春はまだ遠く。氷点下こそないものの、ロンドンには冬の寒さがまだ残留している。雨天が多いこともあり、冷気と湿気に街は包まれている。まるで海の中に沈んでしまったみたいな日が続いていた。
しかし今日は珍しく快晴だった。雲ひとつなく、カラッとした空気が広がっている。このまま夜になれば夜空に星が見えることだろうが、この季節のロンドンは天気が不安定だからその時まで分からない。
ここ一ヶ月ほどのルーティンだ。カノンをアイテールのところへ連れて行き、俺は俺で、ベールナルやスラーなんかの衛星都市や、時計塔本部の教室へ行って講義を受ける。
とはいえ、昨日からそのルーティンも一部崩れたが。
というのも、
アイテールに曰く、
──
だが、そもそも俺はその
なんでも
『父上は委細承知していただろうけどね』
とは、アイテールの言だ。
今日も彼/彼女はそちらの対応で忙しいのだろう。昨日に引き続き、アイテールのところでの特別授業は白紙となった。つまるところ、事が落ち着くまでは休暇ということだ。
カノンの状態だけは毎日チェックしなければならないのでこうして家に向かってはいるものの、簡単な問診をするだけなので30分も掛からずに終わる。
「────ん?」
家に辿り着き、鍵を開けようとして、その異変に気がついた。
ポストに投函物があるのだ。普通の新聞屋がこんなところまで来れるはずもなく、また法政科の出版物はこちらの家では
見てみれば、それは便箋だった。多少分厚くはあるが……。
差出人は不明。判も押していないところから見るに、直接ポストに入れたもののようだ。簡単な
「…………
魔術回路を駆動させ、何かあればすぐに対処できるようにする。
中から出てきたのは紙の束だった。何やら文章が
「"ある麦畑を巡られたのは初めの安息日から数えて次の安息日であった。弟子たちは穂を摘んで、手で揉みながらそれを食べた"……ルカの福音書?」
パラパラと他のページを捲ってみるも、内容はよく知るルカの福音書のものだ。もちろん知識として知っているだけなので、何ページか別の福音書のものが混ざっていても気づかないだろうけど。
とはいえ、この福音書のコピーに魔術が掛けられているのは分かっている。恐らくどこか一節を抜き出して読み上げるのが
系統としては聖堂協会の扱う魔術──秘蹟に近い。
「誰だ……?」
このような胡乱な手段を取る人物の心当たりがまるでない。あいにくと聖堂協会に友人はいない。……友好的ではない知り合いはいるが、彼らがここに来れるはずもなく。
「ま、いいか」
危険性はほぼない。仮にあったとしても、それは
そもそも、もしこれが大事な用なら、もっと分かりやすくしろって話だ。
ガチャリと、いつも通り鍵を開けて中に入る。
途端、フワリと花の香りが鼻腔をくすぐる。玄関に置いてあるシクラメンの鉢からだ。鮮やかなピンクが美しく、嗅覚だけでなく視覚でも楽しめる。
シューズケースの上には写真立てやドライフラワー。ほこりは見当たらず、生活感と清潔感が確かに両立していた。
一ヶ月で変わるもんだな、なんて他人事みたいな感想が頭に浮かぶ。
リビングに入ると、そこではカノンがノートと教科書を広げて勉強をしていた。魔術の勉強ではない。普通の
これは俺が勧めた。魔導の道に進むのでなく普通の暮らしに戻るつもりがあるのなら、普通の教養を身につけておけ、と。
カノンは入ってきた俺に気がついたようで、顔をあげてこちらへ視線を向けた。
「あ、いらっしゃい」
「おかえり、だろ。一応ここは俺の家なんだから」
「そうだけど。でもなんか違うじゃない? やっぱりいらっしゃいの方が実態に合ってるよ」
「……ま、そうかもな」
テーブルの上に便箋を置いてキッチンの冷蔵庫へ向かう。俺自身が飲み物を飲みたかったというのもあるが、一応カノンの食事事情を見るためのものでもある。
牛乳を飲みながら冷蔵庫を上から下へ見ていく。
俺が作り置きしておいたおかずは全体的にバランスよく消費されている。ちょっと野菜の減りが遅いが、まあ、口うるさく言うほどではない。
「これなにー?」
キッチンからリビングを覗いてみれば、カノンが分厚い便箋を掲げていた。先ほどのものだ。
「俺宛の手紙。なんだが、解読方法がイマイチな。どこか一節を読み上げると、掛けられた魔術が発動する仕組みなんだが……」
「クシロンには聖書の知識がなくて分からなかった、と」
「癪だが、まあ、その通りで間違いはない」
「ね、これ、わたしも読んでみていい?」
「別にいいけど、もし答えが分かっても読み上げるなよ。危ないかもしれないんだから」
「分かってるって」
ぺらりぺらりと小気味よくページがめくられていく。中ほどまで進んだ時、カノンが「あれ」と声をあげた。
「どうした?」
「一節抜けてる。ほら、ここ! 17章の、えーと、32節ね!」
「……別に前後の文の繋がりは不自然じゃないけど」
「そりゃそうでしょ。ここ短いもん。たった三単語の文よ」
随分と詳しい。前見た資料では、クリスチャンとかそういう記載はなかったと思うが……。学校の普通の公立校だったし。彼女の両親が信心深かったのだろうか。
それとも『天使』となったことで、そういった知識が後付けされたのか。たしか聖杯戦争におけるサーヴァントも、呼び出された時代の知識を聖杯から授かる、とかなんとか。
その割には自分がなんの天使なのか理解していないようだけど……。
まあ、それは今はいい。
「その抜けた一節。言えるか?」
「え、言っていいの?」
「いざとなったら俺が守る。この家が吹き飛ぶくらいの威力なら防げるし、呪詛の類いも問題ない」
爆破のような高威力の範囲攻撃だとすると、俺たち以外にも被害がいく。そうすると話が大きくなるし、なにより買う恨みも倍増する。もしこれが暗殺の手口だとしても精々がこの家を消し飛ばす程度だろう。
呪詛についても同様だ。御し得ないものを使い周りに被害が出れば、困るのは俺ではなく送り主。それこそ強力な悪霊はまず使えない。
どちらにせよ対処は可能だ。
「じゃあ……。"
稲妻が閃くように人の子は現れる。そのとき家の屋上にいるならば、たとえ己の持ち物が家の中にあろうと入るな。畑にいるものも、同様に戻るな。
これが30節、31節の内容。
それを受けての32節───。ソドムの出来事を思い出せ。振り返ったロトの妻は塩の柱となったではないか、か。
「────うわっ!」
カノンの唇が閉じられた瞬間、その紙束──福音書のコピーが発火した。彼女はそれに驚き、咄嗟に手放す。テーブルの上で、それは緑色の怪しげな炎に呑まれていった。
「なんだったの……? 結局全部燃えちゃったけど」
「いや、これは───」
灰となったそれに触れる。まだ微かに魔力がこびりついている。
「───
灰を『修復』する。もっとも、燃えてしまったものは元には戻らない。燃焼とは化学反応だ。それは錬金術の分野である。俺が今しているのは燃えカスを燃えカスのままに繋ぎ合わせること。
小さな灰がひらひらと舞いながら
「いや結局読めないじゃん?」
「そうでもない。よく見ろ」
「ん? ───あ!」
全てがすべて、完璧に燃え切ったわけではない。ところどころ、燃え残りとでもいうべき場所があったのだ。一文字だけだったり、一単語だけだったり。
それらを元の福音書の束に戻し、順々に読むことで別の文章が浮かび上がるというわけだ。
「……"バゼット・フラガ・マクレミッツからの定時連絡が途絶えた。以て、冬木の地へ赴き、フラガの魔術刻印及び至上礼装を回収せよ。──秘儀裁示局 ミリョネカリオン"……か」
ああ───と思う。
感嘆の言葉が浮かんで消えた。
マクレミッツともあろう者が敗れるとは。まだ聖杯戦争は始まってすらいないというのに……。やはり勝敗を分けるのはマスターの力量ではなく、サーヴァントの質なのか。
それとも、地の利とでもいうべきか──御三家の持つアドバンテージには勝てないか。
「ねえ、わたしにはサッパリなんだけど。これってどういうこと? バゼットって誰?」
「昔の同僚。──と言っても、俺がいたのは数ヶ月程度だけど」
「ふーん。その人もクシロンみたいな仕事をしてるんだ?」
「ティンタジェルでのことか? まあ、確かに近いと言えば近いか。そうだな、あれの数倍血生臭いのをイメージして貰えればいいかな」
───封印指定。
それは魔術師にとって最高の栄誉であり、同時に最低の烙印である。
"一代限り"であり"学問では習得出来ない"特異能力。そんな稀少極まりない存在が世界から永久に失われてしまうのを防ぐために幽閉する。
カノンの現状に近いが、しかし決定的に異なっている。
例えば、先日"橋の底"から
カノンのような限定的な自由すらも、彼らには許されていない。
昏い部屋の中、ただ生かされているだけの存在だ。
そのため、封印指定された魔術師たちは時計塔を去る。それこそ死に物狂いの逃亡だ。捕まったらホルマリン漬けにされるんだから堪ったものではない。
対して、魔術協会側としては逃亡されるのまでいいとしても、仮にその先で得難い神秘が失われてしまったら堪らない。だから、彼らを捕らえるための特殊な人員が存在する。
それこそが封印指定執行者。三十人ばかりで構成された、その名の通り強制的に封印指定を執行する者たちである。
彼らに求められるのは純粋な戦闘能力。
抵抗する封印指定の魔術師と、場合によっては介入してくる聖堂協会の代行者とをまとめて相手取ることもあり得るのだから。
法政科が魔術世界における警察/裁判官であるのなら、対して執行者は軍人/特殊部隊である。
「マクレミッツはニホンで行われる聖杯戦争に参加していた。彼女は凄腕だったが、連絡が途絶えたってことは……死んだんだろうな」
魔術刻印の回収とはそういうことだ。刻印の継承は死体からでも出来る。刻印の良いところであり、同時に魔術師の業の深さを物語っている。
しかし、マクレミッツは後継者がいたっけかな。彼女まだ独身だったと思うけど。
まあ、それはいい。
ともかくとして、俺はニホンへ向かわなければならなくなった。すでに辞めてしばらく経った職場の上司から直々に仕事の依頼が来たんだ。嫌で嫌で仕方ないが、やらないわけにもいかないのがツラいところ。
なによりミリョネカリオンには恩もある。ロード・ソロネアに拾われるまでは世話になっていたわけだしな。
「カノン。そういうことだから、俺はすぐブリテンを発つ。面倒はアイテールに見てもらえ」
そう言って俺は荷造りのために
「え、それは無理。だってアイテールさん忙しいし。それにクシロンがどっか行くならついていって監視しとけって言ってたし」
「監視って……。逆じゃないのか、それ。というかついていくだと? 無理に決まってるだろ。君なあ、自分の立場分かってるのか?」
「それは羽が付いてるからでしょ! 見てて───」
カノンはそう言うと立ち上がり、俺に対して背中を向けた。なんの変哲もない服と、そこから伸びる一対の青白い翼。
なんだ、と声を出そうとして、はたと気づく。
なんの変哲もない服? それはおかしい。彼女の翼は実体化している。だから今まで背中丸出しの服を着ていたわけで……。
「カノン、まさか……」
「あ、気づいた? でもそれだけじゃないんだよね」
魔力が渦を巻く。収納されるように彼女の心臓へと吸い込まれていく。カノンを包み込む膨大な魔力が、徐々に薄れていった。
そして、背中の翼もスーっと透明になっていき、じきに見えなくなった。俺にとってはなんとなく感じとれるが、他の者たちはまるで分からないに違いない。
「霊体化、できるようになっていたのか」
「そう! これなら文句ないでしょ? 疲れるから長時間は出来ないけど、三時間くらいならぶっ通しでも大丈夫よ」
先ほどまでは根本の部分だけ霊体化させていたのだろう。それなら普通の服も着れるし、そちらであれば丸一日でも保てるようだ。
いや、しかし、それでも連れていくのは気が引ける。遺体の回収だけとはいえ、聖杯戦争はもう開始間近。マクレミッツもやられるほどの魔境だ。そんな場所でカノンを守り切れるのか。
流石に俺の一存で決めて良いことではない。
「……分かった。アイテールに確認を取りに行く」
「え? だからアイテールさんは良いって言ってるじゃん!」
「一応の確認だ。いくら忙しくても
毎日書かせている健康状態のセルフチェックアンケートをカノンに投げ、アイテールのいる黄色いスポンジの家へ向かう。
道中の俺の心境は「断ってくれ!」だった。
彼/彼女がどんな回答をするか、薄々感じてはいながら。