アインナッシュは鐘撞堂の夢を見るか?   作:木彫りの心臓

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五話/アインナッシュの魔術師

 

 

 

 取り敢えずニュースになっている物件はすべて回った。その数、オフィス街だけでなんと6件。密集していたため時間はさほど掛かっていない。

 

 魔力──というか被害者の精力──はいずれの現場も地脈を通って柳洞寺へと流れている。

 

 その地脈に沿うようにして歩くと、ぽつんぽつんと散発的に空気が澱んだ箇所が見受けられた。

 

 三つ数えたあたりで川にちょうど突き当たる。今日は新都だけを回ると決めているので深山町へは行かないが、きっと向こうも似たような感じだろうことくらいは読み取れた。

 

 堤防を並んで歩く。

 

 陽の光を浴びてキラキラと煌めく未遠川。潮の香りはまだしないが、広い川幅はこれが海へと繋がっていることを強く意識させる。

 

 ときおり散歩中の人とすれ違いながら、街を(わけ)る境界線での大源(マナ)の動きを視る。同時に、歩く度に足裏から大地へ俺自身の魔力を流して霊脈(レイライン)をより精密に測る。

 

 一歩間違えればここの管理者(セカンドオーナー)であるトオサカの怒りを買うことになるが、これでもギリギリのラインは見極めている……つもりだ。

 

 半刻ほどそうして歩き、とうとう端の端──埠頭(ふとう)まで辿り着いてしまった。

 

 貨物船が停留しているようで、荷下ろしの為にトラックやフォークリフトが地上を忙しなく走り回っている。コンテナを降ろす為のクレーンも右を向いたり左を向いたりと働きっぱなしだ。

 

 日曜日だというのにご苦労なことである。

 

 

「ちょっと、疲れた……。休みたいんだけど!」

 

 

 綺麗に並べられたコンテナを眺めていると、息も絶え絶えのカノンが枝垂れかかってきた。

 

 堅いアスファルトの上をずっと歩き続けてきたのだ。食後の運動と呼ぶには少しキツかったかな、彼女にとっては。

 

 

「そうだな。少し休憩しよう。飲食店はないが、ほら向こう。休めるところはある」

 

 

 意外と人の来る場所なのか。いくつかの自動販売機とベンチ、それとアズマヤ──ニホン風のガゼボ──が設置してある。

 

 

「んあ゙ぁー……。疲れたぁ。……ん」

 

 

 女の子失格レベルの声をあげて、カノンはアズマヤのベンチに寝転がった。もっと淑やかにしろと文句を言ってやりたいが、別に誰が見てるわけでもないので口を(つぐ)む。

 

 自動販売機でテキトーな飲み物を買って渡してやった。ポカリスエットとか言うよく分からない名前のやつだが、多分スポーツドリンクだと思う。

 

 

「ぷはっ。ふうーーーぅ、生き返った」

 

「久々の運動だったか?」

 

「うん。……まあ、そうだね。疲れたけど、久しぶりに外をこんなに歩いたわ。だから、ちょっと楽しいって気持ちもあるかな。……ありがと。一応、お礼言っとく」

 

「そりゃどうも」

 

 

 潮風が頬を撫でる。潮騒をベースにウミネコの鳴き声が風に乗って奏でられる。

 

 ここは空気がいい。澄んでいる。

 

 意識を少しだけズラして視れば、道理で。眼に映るのは至って普通の大源(マナ)──いや寧ろ非常に豊富だと言えるだろう。海はまだ神秘が比較的残っているから。

 

 

「ねえ、今日はあとどのくらい歩くの?」

 

「この後は中央公園に行って終わりかな。……地脈が結構しっかりしている。幹が太いというべきか。主要な部分を押さえてしまえば枝の先の魔力の流れも十分に測れるだろう」

 

「え。じゃあ今日一日歩いたのは無駄ってコト?」

 

「違う。今日こうして歩いたから分かったんだ」

 

 

 オフィス街という末端部分の状況と、未遠川付近の主幹部分から測れる状況の一致。二つの点を繋ぐことでその仮定は初めて成り立つ。

 

 これからは、このように歩き回る必要もなくなるが、少なくとも今日のことは必要だった。

 

 

「──さて、休憩は済んだな」

 

「えー、飲み物飲んで終わり? もう少し居ようよ」

 

「脚の疲労はすでに治っている筈だ。質の良い大源(マナ)を取り込めば、君の身体は自動的に不調を癒す。昼であってもそれは変わらない。……もうすっかり元気なのは知ってるんだぞ」

 

「ちぇっ! なんだってこうわたしよりわたしの体に詳しいんだか」

 

「語弊がある……」

 

 

 なんてやり取りもあったが、結局カノンは素直に立ち上がってくれた。

 

 新都のセンタービルを目標にして歩く。

 

 途中で右に少し逸れるのだが、ひとまずはアレを目指して進めば間違いない。この街一番の高層ビルはここからでもよく見える。

 

 田園風景が徐々に近代的な街の景色に切り替わる。

 

 そんな中で、切り取ったかのようにぽっかり開けた場所がそこにはあった。

 

 そして、そこは魔術的にもぽっかり空いた場所だった。未遠川から測れなかった空白地帯。──否、暗黒地帯。

 

 

「…………ねえ、クシロン。これって───」

 

「カノンでも気付くか。ああ、いや、()()()はむしろ君の分野だったかな」

 

 

 満ちる怨念。

 

 消えない妄執。

 

 魔術師である自分はもとより、『死の天使』であるカノンもまたこの場所の異質さを正しく感じ取っていた。

 

 十年前の大火災。その中心地がここだったらしい。建設途中の公民館は全焼。それどころか周辺の建物さえも跡形もなく焼き消えたそうだ。

 

 死傷者はおよそ500名。先の公民館などを含め、焼け落ちた建物は130棟を超える。

 

 そのすべての残留思念が染みつき、呪詛として定着してしまっている。

 

 魔術師として、また元執行者として軽々にその言葉を扱うべきではないが、しかしそのあり方は世界を塗り替える大禁呪──固有結界に酷似していた。

 

 それほどまでに、そこだけ世界(テクスチャ)が違っていた。

 

 

「…………」

 

「顔色が優れないな。すぐ離れよう。見たところ今回の聖杯戦争には関わりがない場所のようだ。魔力が澱みきってはいるが、手を加えられた形跡はない」

 

「……いや、ちょっと待って」

 

 

 青白い顔。油汗の滲んだ額。けれど気丈にも目の前の不浄を睨みつける紺碧(こんぺき)の瞳。

 

 カノンは公園から離れようとはせず、それどころか中へ入っていった。淋しげな木々を抜け、枯れた草を踏み締めて。誰もいないガランとした公園を歩いていく。

 

 ときおり目元を押さえながら、彼女が向かったのはとある石碑。『レンズ』をズラし、そこに刻まれた文字を認識する。そこには日本語で大きくこう刻まれていた。

 

 ───『慰霊碑(いれいひ)

 

 また、その三文字の下には大火災で犠牲になった人たちの名前がズラリと並んでいた。

 

 

「お祈りでもする気か?」

 

「悪い?」

 

「悪くはない。──が、それは無意味なことだ。ここにあるのは残留思念。死者そのものじゃない。祈りは誰にも届かない」

 

「届くよ。たしかにクシロンの言う通り、死んでいった人たちの魂には届かないかもしれない。けど、この場所に置いていかれた、いつかあった誰かの無念にはきっと届く」

 

 

 だから、それを"誰にも届かない"と言うんだ。

 

 そりゃあ俺だって犠牲になった無辜の人々に同情しないほど薄情ではない。

 

 しかしアレらは、生前にアレらの元になった人物が今際の際に抱いた強烈な感情がカタチになったものに過ぎない。そこにあるのは"記録"だけ。

 

 これは極論に近いが、言ってしまえば遺言状のようなものだ。遺言状そのものにどれだけ声をかけようと文面は変化しないし、当然ながら遺言を残した人に言葉が届くわけもない。

 

 だというのに────。

 

 カノンは膝をつき、指を組んだ手を胸の前に掲げる。そして目を瞑り、静かに祈りを口にした。

 

 

「"主よ、永遠に続く安寧を彼等に与え賜え(Eternal rest grant to them O Lord,)

  絶えることのない光で彼等を照らし賜え(And let perpetual light shine upon them.)

  彼等が穏やかに憩わんことを(May they rest in peace.)─────"」

 

 

 木々の隙間を通り抜け、夕陽がカノンを照らす。

 

 差し込む光は真っ赤に色づいていて、まるでそこにステンドグラスでもあるみたいだった。

 

 

「"───Amen."」

 

 

 死者への祈りの言葉。

 

 清廉なるレクイエムが(うた)われる。

 

 それでなにが変わるわけでもない。この空間にへばりついた怨念が減ったり、呪いが消えたりすることもない。この土地はこれからも無念を叫び続け、るだ、ろ……う……───?

 

 変わらない筈だった。

 

 そう、変わる筈がなかった。

 

 しかし。

 

 肌を刺すような悪寒が消えていく。全身に重くのしかかるような圧力(プレッシャー)がなくなっていく。

 

 無論、すべてが消えたわけではない。変化があったのはこの周囲だけで、大部分は残っている。全体と比べれば消えたのはほんの一部、雀の涙ほどに過ぎない。

 

 けれど、たった四節の詠唱でこの変化を起こすというのは明らかに異常だ。聖堂教会の連中でも出来るかどうか。いや、出来なかったからこそ今こうして残っているのだ。

 

 

「……『天使』の面目躍如、だな」

 

 

 太陽は大いに傾いている。日没は近い。月はまだ見えないが、夜はまもなく訪れるだろう。

 

 ならば、彼女の力も調子を上げ始める頃合いだ。

 

 

「ここ、花も添えてあるし、多分一番人が来る場所だと思うんだ。なら、この場所くらいは気持ちのいいところにしたいじゃない?」

 

「……悪かった。謝るよ。たしかに君の祈りは届いたようだ」

 

「ま、こういうのなら任せなさい!」

 

 

 えへん、とカノンは胸を張る。

 

 帰国したらアイテールへ報告しないとだな。ここまでの『浄化』が行えるとは思ってもみなかった。

 

 死者の魂の収穫というか、サーヴァントへの特攻として彼/彼女はカノンを同行させたんだろうけど、全く別の成果をあげたわけだ。

 

 

「けど、魔術──この場合は秘蹟呼びの方がいいのか?──を使うのなら先に言ってくれ。今回は幸いにも周りに人がいなかったけど、もし見られてたら面倒なことになるから」

 

「えー、でも光ったり火を出したりとか、そういうのじゃないじゃん」

 

「それでも一応念のため、ね」

 

「はーい」

 

 

 すごい! えらい! と手放しで褒めてあげたいところだが、そんなことをしてもし彼女が魔術を好きになってしまったら大変なので重箱の隅をつつくような真似をする。

 

 カノンは少しだけしゅんとして、けれどもそれ以上へこむこともなく、ただやる気のない返事だけして立ち上がった。

 

 

「今日はここで最後だっけ?」

 

「そうだな。一旦ホテルに戻って、その後俺はまた外出するが君は留守番だ。何をしていてもいいが、部屋からは絶対出るなよ」

 

「分かってるって」

 

 

 そう、ホテルへ踵を返そうとした時、

 

 

『───これ以上の蛮行は許容できぬぞ、時計塔の魔術師よ』

 

 

 しわがれた声が木霊(こだま)した。

 

 木々の陰から蟲が溢れ出てくる。のみならず、草、石、街灯、あらゆる陰から蟲が湧き出てきた。

 

 それらは集まり、固まり、体を為す。

 

 現れたのは一人の老人だった。

 

 冬木の聖杯戦争における御三家が一角。

 

 

「マキリ───」

 

「如何にも」

 

 

 カノンを背後に移動させて前に出る。同時に魔術回路を奔らせる。

 

 

「……驚いたよ。監視だけに徹するつもりかと思っていたが、こうしてわざわざ出向いてくるとは」

 

「出向くともさ。余所様の土地を好き勝手に歩き回り、それだけに飽き足らず、先程のように霊地を荒らす輩がおるとあってはな」

 

「なるほど。ご(もっと)もな意見だ」

 

 

 呪われた土地を浄化したことを"霊地を荒らした"と言うのは違くないか、とも思うが、それはあくまで捉え方の問題で、相手の言っていることの殆どは間違っていないので特に反論をすることはない。

 

 

「──して、何用だ。もし帰国勧告であるのなら、申し訳ないがそれには従えない。こちらにもやるべきことがあるからな」

 

「カカ───。面白いことを言う。勧告じゃと? ぬかせ。これは通告よ」

 

 

 消えた筈の怨念が再度渦巻いている──そう錯覚した。それほどまでに濁った魔力がマキリとその周囲を覆っていた。

 

 ジジジ、と冬に似つかわしくない蟲の羽音が何重にも重なる。ガサガサ、と草を掻き分ける蟲の足音が幾重にも連なる。

 

 

「クシロン……わたし……」

 

「大丈夫。これは君のせいじゃない」

 

 

 不安げなカノンの声。

 

 (なだ)めるように言葉を返す。

 

 この状況はカノンのせいではない。さっきは霊地がどうこう言っていたが、多分引き金になったのは俺の地脈調査の方だ。

 

 冬木の地に根付く魔術師として、自身のテリトリーを調べ上げる外部の魔術師など放ってはおけない。逆の立場だったら俺でも同じことをする。

 

 だから、これは自明の戦いだ。

 

 

「蟲共──かかれェ!」

 

「──Meine Idee(星を廻せ),」

 

 

 数千匹近くの蟲の大群が津波のように押し寄せてくる。その全てを刃にて切り落とすことは叶わない。ならば、どうするか。

 

 

Schanzkleid(閉門)───!」

 

 

 取る手段は防御。

 

 全面に不可視の障壁を複数枚展開し、蟲の突進を堂々受け止める。

 

 とはいえ蟲たちもそれだけで止まるほど柔ではない。『強化』を施していない壁は決して無敵の壁ということもなく、いくつかは破られてしまった。全てを防ぐことは出来なかった。

 

 しかし勢いは殺せた。

 

 蟲も散逸している。これならばそれぞれ斬ってしまえる。

 

 

Schneiden(斬刑)!」

 

 

 小さな刃を限度いっぱいまでばら撒いて蟲を斬殺していく。嵐のような群れそのものではなく、溢れた端から少しずつ削っていく。

 

 

「よくやるものよ。だが、いつまで保つかな?」

 

「────」

 

 

 べちゃり べちゃり べちゃり

 

 両断された蟲の体液が撒き散らされる。量が量。地面だけでなく、障壁や、宙を舞う刃にも付着する。

 

 そうなってしまえば、不可視など意味をなさない。

 

 蟲が吐き出す薄汚い液体がぬるりと光る。炎で空間が歪むように、俺の周囲の壁や刃が目に見えて現れる。これでは硝子(がらす)と何も変わらない。

 

 蟲の動きが変化する。手当たり次第に突っ込んでくる、という動きから、明確にこちらの攻撃と防御を掻い潜ろうという動きへと変わっていく。

 

 

「……どうしたもんかな」

 

 

 正直まだ余裕はある。しかしこのままではジリ貧だ。

 

 蟲共の群れを掻っ切ってマキリの首を斬る。それだけなら容易い。だが、それをする意味がないってのが困りものだ。

 

 アレはただの蟲の集合体。本人そのものではない。アレをいくら斬殺しようが本体にはノーダメージ。戦闘は終わらない。

 

 迫る蟲を斬る"いたちごっこ(cat-and-mouse)"を続けながら思考を回転させる。

 

 どこかに居る本体を倒すか、この場にいる全ての蟲を鏖殺するか。俺が"勝つ"為の道はその二つだけ。

 

 前者はまず不可能。理論上やれなくはないけど、そんな低い勝率に賭けるのは愚かだ。

 

 後者は結構望みが持てるが、相手の(てふだ)が俺の想定より多ければ危うい。勝率は七……いや六割といったところか。

 

 "勝つ"ことを目指すなら、この六割を通すしかない。

 

 ……が、六割に命を預けるほど"勝つ"ことに拘ってはいない。

 

 

「だから、やることはひとつだ」

 

 

 全身の()()()()に魔力を流す。

 

 どくん───と心臓の鳴る音を聞いた。

 

 合わせて、全身の血管という血管、末端の毛細血管までもが熱を帯びる。魔術刻印に隣接するありとあらゆる部位──皮膚/筋肉/骨/臓器/神経──が悲鳴をあげる。

 

 

「ッ、────!」

 

 

 焼かれるような痛みが全身を襲う。

 

 奇妙な例えだが、白日に晒された吸血鬼の気分を味わっているかのようだった。

 

 

Es ist ein Wort(耳をすまして)───」

 

 

 まず一節。痛みで麻痺しかけている舌をなんとか動かしてソレを唱える。

 

 

Es ist ein Licht(目をこらして)───」

 

 

 続く二節。マキリの眉がぴくりと動いたのを感じる。向こうもさっきまでの『無』ではないと気づいたらしい。

 

 

Es ist ein Dorn(肌でかんじて)───」

 

 

 三節。もっとも、気づいたとして何ができるわけでもない。『障壁』も『刃』も元より突破は適っていない。

 

 

Es ist ein Duft(鼻をきかせて)───」

 

 

 四節。これは攻撃ではない。だからそう構えることもないのだが、それは向こうが知る由もないこと。

 

 

Es ist das Blut(舌でねぶって)───」

 

 

 五節。マキリは蟲を一斉に退かせる。一時的に防御へ回したか。全群で攻めても突破出来ないという判断だろう。こちらとしてはどちらでも構わない。

 

 

「───Ach, Idee Blut Sieben(私の原理が世界を廻す).」

 

 

 六節。最後のソレは意味を解さない単語の羅列。

 

 代を重ね、真意を忘れ、魔術刻印(ソイツ)を読み解ける者はいなくなった。けれどその呪文だけは、己が為すべきことを覚えている。

 

 

「なんじゃ……これは……?」

 

 

 マキリが呟く。

 

 その疑問は何に対してか。

 

 その言葉は誰に向けたものか。

 

 "変わったことなど何もない。世界に変化は何もない。この地に変化は何もない。目の前の人物も、己のカタチも、何も変わっていない"

 

 "都合六節の呪文を唱えたというのに、自他共に変化が見られない。これではただの独り言だ"

 

 多分、マキリはそう考えて混乱している。

 

 

「貴様、一体何を────」

 

「[お前は、]」

 

 

 (ほし)を震わせる。

 

 

「[アインナッシュ・クシロン・ヘルツなんて知らない]」

 

「何を──言って……」

 

「[見たこともない。聞いたこともない]」

 

「言って…………───」

 

「[───会ったことなんて一度もない]」

 

「──、……?」

 

 

 マキリの幽鬼めいた眼が殊更に暗く染まる。こちらに対する殺意が薄れていく。

 

 侍らせた蟲たちも同様だ。敵意も殺意もなにもかもが消え去り、ただ主の命令を待つだけの置き物と化した。先ほどまでの猛攻が嘘のように。

 

 

「ふう……。帰るぞ、カノン」

 

「……え? は? なに、これ? いったい何がどうなってるワケ!?」

 

「いいから。早くしないとまたぞろ戦いだ」

 

 

 説明は後だ。まあ、後でするつもりもないが。

 

 頭にハテナを浮かべるカノンを担いで全速力で公園から離脱する。そう、俺が選んだのは"勝つ"ことではなく"逃げる"ことだ。

 

 チラリと背後を窺う。

 

 追いかけてくる蟲は一匹もいない。

 

 宵の口の公園には、何故己がそこにいるのかも思い出せない老人だけがポツンと一人残されたばかりである。

 

 

 

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