アインナッシュは鐘撞堂の夢を見るか? 作:木彫りの心臓
足音を殺して歩く。
部屋の主に気付かれないように。
魔力もほぼ完全に隠蔽できている。第六感のような説明不能な力でもない限りバレることはないだろうけど、この部屋の主はピンポイントでこういった能力に秀でている。慎重に事を運ぶ必要がある。
ベッドルームに入れば、そこには膨らんだ掛け布団があった。枕元には彼の黒髪が見てとれる。一束だけの朱い髪が寝ぐせでピョコンと跳ねているのが可愛らしい。
「ふふ」
と、つい笑い声が溢れてしまった。
すぐに口を塞いだけど、残念ながら少し遅かったようで、ベッド中の人影はゆっくりと起き上がる。そして、いかにも機嫌の悪そうな目つきでこちらを睨んできた。
「……鍵、掛かってたよな?」
「先生に借りたの、コレ。寮のマスターキーね」
ギザギザがまるでない、ハンマーみたいな金の鍵をクシロンに見せつける。特別な魔術礼装のようで、このベールナルにある学生寮に付属している
もし無くすようなことがあればボクも君もロンドンには居られないね、とは先生の弁だ。
「ンなもん貸すなよ……。で、なんの用?」
「んー、ちょっと買い物に付き合ってよ」
「は? もう一人で行けるだろ」
「いいじゃん別に。どうせ今日はヒマなんでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
クシロンは心底面倒くさそうにしながらも了承してくれた。
ベッドから抜け出して、クローゼットからいくつか衣服を取り出す。そして着替えるために今着ている服をその場で脱いでいく───って、いやいや!
「ちょっとぉ! まだわたし居るんだけどっ!!」
「いや別に……え、だから?」
心底から不思議そうに訊ねてくる。わたしがなんて声を荒げたのかまるで理解できていないらしい。いや、違う。……理解できている筈だ。その上でこの反応なのだ、こいつは。
多分、羞恥心とかそういうのはどっかに落としてきてしまったのだろう。
「うら若き乙女に裸を見せつけるなんてどんな趣味してんのって言ってんの!」
「いやだから、俺は別に気にしないから。気にしてるのは君だろ? ならさっさと部屋を出ていくとか、行動に移すのは君の方だろ」
「じゃあ一言言ってよねっ! もう!」
「あー、それはごめん」
廊下に急いで避難して、寝室のドアに思いっきり閉める。壊れるんじゃないかってくらい強い力で。
ヤバ。わたし顔あっつい。
多分耳まで真っ赤だ、これ……。
扉の向こうでは衣擦れの音。本当に小さい音のはずなのに、何故だかわたしの耳は拾ってきてしまう。その度にさっき見た肌色がフラッシュバックする。
……なんか癪だ。
なんで寝起きドッキリしてやろうとしてた側がドキドキしなちゃいけないのか。驚いて心臓を高鳴らせるべきはあいつの方だったのに。
「…………」
ムニムニと自分の頬を揉む。熱、さっさと引いてくれないかな。早く早く。
しばらくして、ガチャリと扉が開かれる。そこに居たのはいつものクシロン。相変わらず若者らしくないフォーマルな格好だ。
それを見てなんだか安心した。
「それで? どこ行きたいんだよ。言っとくけど今日は日曜日だからどこも混んでるぞ?」
「……いいの。デートならともかく、多少の人混みはおでかけをより楽しませるスパイスみたいなものだから。まったく人がいないのもそれはそれで淋しいものでしょう?」
「なるほど。一理あるか」
そこからは早いもので、鞄ひとつをそれぞれ持ち、ベールナルの外にあるバス停からバスに乗り込んだ。これはクシロンが時計塔本部に行くときと同じルートだという。
「
「じゃあわたしも来月からはこのバスで通うことになるんだ……!」
「おう、そうだよ」
初めて二階建てバスに乗って興奮するわたしに対して彼は、これからは好きに乗れるんだからはしゃぐな、と遠回しに言っているのだ。直球で来ないあたり、こいつも大概面倒くさい男だ。
と、そんな会話をしながら、大英博物館を通り過ぎていく。
講義の日だったらここで降りるんだろうけど、今日はおでかけなのでバスに乗り続ける。テムズ川を渡って向こう側が今日の目的地だ。
サウス・バンク。
元は倉庫街だったそうだけど、二十年くらい前から再開発を進めており、今ではすっかり様変わりしている……らしい。というのも、わたしは前のサウス・バンクを知らないからだ。
わたしの目に映るのは、
「わあぁ……!!」
思わず感嘆の声をあげる。
バスの中からも見えたけれど、遮る窓枠もない今、その全貌を余すことなく視界に収めることができたからだ。
高さ135メートル。
河岸に建てられた巨大な車輪。
ロンドン・アイ。
今やビッグ・ベン、大英博物館にも並ぶロンドンの名所のひとつだ。
「なんだ、アレに乗りたかったのか。……おー、結構並んでるな」
ほら、と彼が指差す先を見る。
たしかにそこには観光客と思しき人たちが列をなしていた。言葉通りかなり並んでいる。待ち時間は多分一時間以上。
ロンドン・アイが開業して3年と少し。まだまだ盛況みたいだ。
「うーん、どうしようかな」
混んでいるだろうとは思っていた。けど、ここまでとは予想していなかった。並ぶにしてもせいぜい30分程度だとばかり……。ちょっと予定が狂っちゃうかも。
「
「え」
悩むわたしを見兼ねたのか、クシロンは助け舟を出してくれた。
「い、いいの?」
「二人で25ポンドずつだろ? 別に大した金額じゃない。そのくらい出すよ」
大した金額じゃない、か。
いや、
というか、高価だとみんな思ってるからわざわざ長い時間並んで乗ってるわけで。───と、そういえば魔術師ってお金持ちなんだった。
魔術の研究には大抵の場合お金が掛かる。先生が教えてくれた宝石魔術なんかはその最たるものだ。先生は
クシロンの財布から取り出された黒色のカードに
全面ガラス張り。10人は乗れそうな広々としたカプセル。緩むことなく車輪は回転していき、ひとつ、またひとつとカプセルが頂上を通り過ぎていく。
15個のカプセルが15分かけて昇って、とうとうわたしたちの番が来た。
絶景───。
そうとしか表現できない。ロンドンの土地勘に優れていれば、アレはなんだの、コレはどうだの、色々と想いを馳せることも出来ようが、わたしによってそれらは都会の圧倒的な景色を彩るだけのものに過ぎず。
晴れに晴れた空は蒼く透き通っていて、白い雲がそのまま溶けていってしまいそうだった。自然的な空の色とは対照的に、地上は昔ながらの建物だったり高層ビルだったりが紋様を描いており、横断するテムズ川が太陽を反射してキラキラと輝いていた。
「──────」
なんでか言葉は出なくて。
凄い不思議。イングランドの外にだって行ったのに。飛行機にだって乗って、
こんなロンドンの景色に、わたしは感動してる。
───ああ。
やっぱり、わたしは英国人で、その首都であるこの街に憧れていたんだ。
「クシロン」
「なに?」
「わたし、ロンドンに来て良かったよ」
彼が目を見開く。琥珀色の瞳が僅かに揺れる。わたしからそんな言葉が出るとは思わなかったみたいだ。
そりゃそうだ。
だって、ティンタジェルからわたしを拉致した張本人だもんね。
お母さんと離ればなれになったのは嫌だし。今でも納得してるかっていうと、どっちかと云えばしてない。
「───でも、うん、来て良かったよ」
クシロンは少しの間、ぽかんとしていたけれど、やがて小さく微笑んだ。
「そうか。ありがとう」
……あーあ、やっぱり癪だ。
魔術師じゃなくて、任務を遂行する仕事人じゃなくて、年相応の17歳の学生で、わたしよりほんのちょっと年上の男の子。
その無邪気な笑顔に、ちょっぴり、そうほんの少しだけ、ドキッとしたのは内緒なのです。