BARどん底の番犬   作:赤部二郎

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「どん底」の番犬

目覚めたのは、艦底の奥深く。金属のきしむような音と、鈍い振動が伝わる。

 

(また、ここか……)

 

鋼鉄の身体には感覚がある。重いはずの足取りも、今の身体では羽根のように軽い。

歩けば、床にギィィ……と金属が擦れる音が響いた。だから、みんなはそう呼んだのかもしれない。

 

──ギーコ。

 

最初に名前を訊かれたとき、彼は近くにあったメモ帳を手に取り、ぎこちない手つきでペンを走らせた。

 

「Mein Name ist Mosquito.(私の名前はモスキートです)」

 

「……モスキート?」

 

ラムが目をぱちくりさせながら、酒瓶を肩に乗せて近づいてきた。

 

「蚊ってこと? 蚊ァ?」

 

「蚊にしてはでかいし、ドリルだし、槍だし……え、虫なの?」とムラカミ。

 

フリントがマイクを持ったまま小さく首をかしげる。

 

「あたい的には『蚊』ってより、どっちかっていうと……ドリ公? ガッチャン?」

 

「生態が分からない時点で、ただの『未知の来客』よね……」カトラスがため息交じりにぼやいた。

 

「モスキートって名前、本気……?」とお銀。

彼はただ、コクンと頷く。

 

──だが、受け入れられたのはその名ではなかった。

 

 

 

「ギィィー……コ、ギィィー……コ」

 

ラムが歩くたびに響く音をまねてそうつぶやいたのが始まりだった。

その日から、彼の呼び名は自然と「ギーコ」になった。

 

「ギーコ、グラス洗っておいてー!」

 

「ギーコ、ラムまたこぼしたぞー」

 

「ギーコ、なんか知らんけど農業科の人がキャベツ届けに来てる」

 

最初は「それは名前ではない」と抗議するようにペンを走らせたが──どうにもならなかった。

「ギーコ」の語感はサメさんチームには絶妙に馴染んでしまったのだ。

 

BAR「どん底」での日々は、想像以上ににぎやかだった。

外見はどう見てもホラー映画の怪人である彼も、次第にその雰囲気に馴染んでいく。

 

 

 

「なぁギーコ、階段の荷物、持てる?」

 

ムラカミの呼びかけに、彼は無言で頷き、手足の槍で器用に箱を担ぐ。

副腕の指も使い、複雑なバランスで一気に十箱。筋力は異常だった。

 

「やっべぇ……ギーコってマジで役に立つな……」

 

「あたい、あいつでカラオケのエフェクト調整やってもらったら、マジいい感じになったわ~!」

 

「ついでに氷も砕けるのが便利だわね、口ドリルで」

 

便利扱いされてるのか、愛されてるのか分からないが、

ギーコ──モスキートはそれに文句を言うことなく、淡々とこなしていた。

 

 

 

ある晩、ラムが階段から足を滑らせた。

 

「あっ……!」

 

宙に浮いた体が、鈍く落ちていく――その瞬間だった。

黒い影が風のように駆け、ラムの身体を片腕で受け止めた。

 

ガシャン、と響く音。

 

ラムは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

見上げた先にいたのは、無表情で彼女を支える、あの異形の“怪物”。

 

「……お前、やっぱすげぇなぁ」

 

「うほっ、まさか助けてくれるとは思わなんだ……ありがとよ」

 

ラムが頭をポリポリとかきながら、ぎこちなく笑った。

 

彼はゆっくり、懐からあのノートを取り出した。

ペン先が滑る。

 

「Mein Name ist Mosquito.」

 

今度は、誰も茶化さなかった。

しばしの沈黙の後──

 

「……そっか。ちゃんと名前、あるんだな」

 

お銀が静かに微笑んだ。

 

「でもまぁ……うちらにとっちゃ、“ギーコ”のがしっくり来るかもね」

 

「うほっ、ギーコはギーコでいいじゃん」

 

「だな!」とムラカミが豪快に笑い、フリントはマイクで「ギーココール!」と煽り始めた。

 

彼は、また少し考えて──それから、コクンと頷いた。

 

 

 

今やギーコは、BAR「どん底」の裏口に常駐している。

不審者には睨み、泥酔者にはおぶって帰らせる。

怖がる人もいるが、常連たちは言う。

 

「あれはギーコ、うちの番犬よ」

 

そしてギーコ本人も、時々ノートにこう書くようになった。

 

「Ich bin die Hund von Dondoko.(私はどん底の番犬です)」

 

今日も金属の足音が、静かに艦底に響く。

 

ギィィ……コ、ギィィ……コ──

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