色は隠れど、見逃さない 作:チアイロ普及推奨委員会の平委員
ギリギリまだ七夕です
すでに日は暮れても仕事が終わる気配は一切なかった。万魔殿においては天地がひっくり返るほど珍しいことだ。消化した書類よりも舞い込んできた書類の量の方が上回っていた。
はてさて、このままじゃ完全に書類を一掃できる日はいつになることやら。あてもないことを考えて気分が悪くなったので、飲み物でも注ごうかと席を立ち上がり、給湯室に向かった。
「た〜な〜ば〜た〜さーらさら〜」
給湯室に近づくと懐かしい童謡が聴こえて来た。優しい歌声が廊下に響いている。一瞬だけ、聞き馴染みのない声に聴こえたが、すぐに声の主の正体に気付いた。というより給湯室で歌うななんて変なことする人間という時点で大体察せれるのだが。
「今日七夕でしたか」
「お、イロハちゃんも休憩?」
「ええ、面倒臭いのが山積みです。チアキは?」
「編集作業がひと段落したとこ、来週の週刊万魔殿にも乞うご期待って感じ」
給湯室に入るとチアキがすぐにコップとパックを取り出してテキパキと注ぎ始めた。お湯の量が少なめで、好みの濃さ。教えたわけでもないのに気づけばこんなことまで覚えている。書記の、もしくは記者の観察眼とやらは本物のようだ。
茶請けの煎餅をバリバリと噛み砕きながらチアキは湯気立つ緑茶を呷る。そして歌の続きを口ずさみ始めた。
「のきなにゆれる〜」
「お星さ〜まきーらきら」
「きんぎんすなお〜」
一番の歌詞を歌い切るとチアキは煎餅のセロファンをちぎって大きく一口で口の中に入れる。チアキの歌声が頭の中でぐるぐるしながら紅茶を啜ると、一つ疑問が浮かび上がった。妙な引っ掛かりを感じると思った。
「……歌詞違くないですか?」
「あれ?こんな歌詞じゃなかったっけ」
疑問に思ってチアキに問いても彼女は全く間違いなんてありませんと言った顔でこちらをみた。しかしどうにも違うと、昔の記憶は呼びかけている。とは言っても七夕の曲にたいした思い入れもないため、そうだったか、と納得してチアキの横に置かれた籠からさっき彼女が食べていた煎餅を取り出した。
「ん〜、でも言われてみたらなんか違うような……ねえイロハちゃん2番歌ってよ」
「いやなんでですか」
唐突なチアキのお願いに面食らって訊き返す、するとチアキはイロハちゃんの歌声ってどんなのか気になった、とあっけらかんと返した。熱いうちに紅茶を飲み干してまだ淹れれるだろうと二杯目を静かに注ぎ入れる。電気ポッドの稼働音だけが給湯室に流れている。でもイロハちゃん、とチアキが切り出した。
「こう、なんか七夕らしいことしたくない?」
「いや別に。もうそんな歳じゃありませんよね、私も、チアキも」
「それに歌うだけで七夕気分なんてバカっぽくないですか?」
「まさかイロハちゃん!今日発行の週刊万魔殿七夕特集を見てないの!?」
これまた急にチアキは声を大きく荒げた。思わずビックリしてコップの中の紅茶が少し床に溢れた。床拭きを探しながら、見てねいですよ、とぶっきらぼうに答える。勘違いされちゃ面倒だからすぐに、仕事でしたから、と付け加えた。チアキは平静を取り戻して胸を撫で下ろした。
「よかった。イロハちゃんに興味ないとか言われてたら、もっと精進しなきゃ!と思うところだったよ」
「ふうんそうですか」
そう言った心持ちこそ興味ないですよと言わんばかりの適当な返事を返して、煎餅を齧る。塗られた醤油の味と固い食感、へばりついたチラシのりの香りが一気に流れて来た。チアキは再び七夕の歌のリズムを刻み始め、結局2番も自分が歌うようだ。一度大きく息を吸い込んで、綺麗な声を出した。
「ご〜し〜きのた〜んざく〜」
「わたしがかいた〜」
「お〜ほしさ〜まき〜らきら」
「空からみてる〜」
声を震わせながら伸ばした声が霞んで消えていく。バリバリと音を立てながら煎餅を齧り、ズズズと紅茶を啜る。ひとしきり歌ったチアキは満足したのか緑茶をぐいっと飲み干して、湯呑みを洗面台でさっと水洗いした。帰る時は気をつけろよと声をかけようとすると、不意にチアキがこちらに近づいて、雰囲気を変えて語りかけた。
「一つ、訊きたいんだけどさっ」
「ええ」
「笹も短冊もないけど、イロハちゃんなら何を書くのか……教えてくれない?」
「ううん。はあ……」
爛々と輝く赤い瞳孔に貫かれながら、腕を組んでうんうんと頭をふる。2度、3度頭を振って、チアキの目を見つめた。どうにも見透かされている気がしてならない。どうにも答えを知られている気がしてならない。
彼女の手のひらで踊らせれて、望む答えを引っ張り出されるようなそんな目をしていた。
「それじゃあ、今年一年、チアキが健康でいられますように。ってのはどうです?」
声は軽く、わかりやすく戯けて答えてみせた。チアキは一度頷くと瞬きを繰り返してじっと見つめてくる。いつものやかましさと彼女が切り離されると、どうも落ち着かない。仕切りに目が合うとその度に変わってしまうようで怖さを覚える。
角が鼻先に触れそうなほどずいっと近づくと、いつものように絵文字にできそうな記号的な笑い方をしてそれならいいです、と何か納得したようだ。
「七夕って感じはしませんね」
「うわ〜!イロハちゃんってばすごく冷たいこと言う!」
ようやく息苦しさから解放されて長いため息を吐いてから文句を付ける、わざとらしい反応でチアキは返す。
軽い足取りで丸い円テーブルの上に置いたトートバッグと壁に立て掛けた銃をさっさと身に纏うと、チアキはこちらを向き直してウインクをして手を振って給湯室から去っていった。
息を一つ吐いて、椅子を土台に天井についた戸棚をあさる。奥には隠していた美味しく、そしてお高い菓子が眠っておりこれを食べるのを心待ちにしていた。
しかし私がお菓子を食べようとしたタイミングで、視界の端に黒い角が引っかかった。
手を止めるとそっとチアキが顔の上半分を曝け出して勿体ぶった口調で
「ちなみに私の願いは〜……週刊万魔殿に載ってるよ〜!」
その一言だけ言うと今度はドタバタとやかましい音を立てながら出口の方に走って行った。
結局戸棚の奥にお菓子を戻して給湯室から出た。執務室に戻ると、すぐにいつの間にやらデスクの上に置かれていた週刊万魔殿を捲る。指先に伝わる紙の質感を撫でながら一文字、一文字に目を滑らせることなく集中して読み始めた。ページを捲り、穴が開くほどじっくりと見る、一通り見終えるとまたページを捲り、同じ行程を繰り返した。
そしてたどり着いた最後のページにチアキの言っていた自分の願い事は書かれていた。
『これを見ている読者との楽しい日々が続きますように』
やられたと思った。本当に彼女の手のひらで綺麗に踊り切ったようで顔が熱い。仕事ばっかで頭が回ってないのだろう。今日はもう寝て、明日に備えよう。そう思いながら彼女の願いが書かれた一節を何度か撫でた。