それから数日が経った夜のことだった。タイタスは聖堂内の警備にあたっていた。礼拝堂内に異常がないか隈なく確認した後、談話室や図書室、食堂がある棟に向かうため回廊を歩き始めた。
彼を取り巻くものは静寂だけだった。大理石の床に一人分の靴音だけが規則正しいリズムで静かに響く。壁に等間隔に並んでいるアーチ窓から差し込む月の光と彼が手にしているランタンが仄かに彼の行く手を照らす。
その静けさがタイタスを思案に暮れさせた。同僚の冷やかしに応酬した時、たった一つだけ胸にわだかまる言葉があった。それは彼が常日頃から耳にしている言葉でもあった。
「神の加護、か……」
聖火騎士団に入団して以来、タイタスは神とはどのような存在なのか考え続けていた。答えはまだ彼の中で定まっていない。同僚のような、タイタスが浅ましいと断定している人間が軽々しく神の名を口にすると、ますます混乱してその全容を想像することが難しくなる。
しかし何年も熟考を重ねた末、タイタスは漠然と、神とは神の子である人間に無償の愛を注ぎ、分け隔てない慈悲深さを備えた母のような存在ではないかという想念を抱くようになった。それは無自覚だが幼き日に死別した彼の母への思慕からくる考えだった。
タイタスの母は彼が物心がつくころには既に病床に伏しており、寝室から出られない日々が続いていた。もともと病弱で交友関係を広げることができなかった彼女を見舞いに来る者はそう多くはいなかった。
「庭に咲いているあの花たちと、お話ができるようになったの。お友達になったのよ」
ある日、幼いタイタスが母の看病をしている時だった。寝台から上半身だけを起こした母が、窓の外を眺めながら言った。彼女の顔は青ざめて生気を失いかけていたが、その瞳だけは溌剌とした少女のように輝いている。彼女の視線の先では、煉瓦を積み上げた花壇に植えられた白いスミレが咲き誇っていた。
次の日、タイタスは母が眠っている間に花壇に咲く小さな白い花を残らず摘みとった。母が好んでいる花を贈り物にして、彼女を喜ばせたい一心だった。そして、力強く咲いていたこの花々を母が手にすれば、彼女の消えかけている命の灯火も再び光を増すような気がした。
「どうして花を折ってしまったの」
タイタスの期待とは裏腹に、スミレの花束を受け取った母はそれを胸に抱いたままむせび泣いた。
「私はこの花を自分のものにしたかった訳じゃない。土に根を張り咲いている様を心に刻みつけておければ……それでよかったのに……」
それから間もなく、彼女は息を引きとった。
母が流した滂沱の涙と柔らかく甘いスミレの香りが今もタイタスの脳裏に焼きついている。その涙の意味が彼には理解できないままであった。
タイタスが思考の世界から現実に戻ったのは、中庭までたどり着いた彼が芝生を横切る黒い影を目にしたからだった。
見間違いかと思ったが、影が向かった先の茂みの葉が風もないのにざわめいた。
「誰かいるのか」
ランタンを掲げながら茂みに向かって呼びかけるも、応答はない。茂みへ慎重に近づく。
野犬でも迷い込んだのかもしれない。
その予想はすぐに打ち消された。茂みに近づくにつれ、男の荒い息が聞こえてきた。
息遣いを頼りに茂みをかき分けると、男がうずくまっている。男が顔を上げる。タイタスが持つランタンに照らされているその初老の男の顔には、恐怖と観念のようなものが入り混じっていた。
男の顔を見たタイタスは驚愕した。すると、男がやって来た方向から複数人の靴音が嵐のように迫ってきた。タイタスは直感的に目の前の男が教会の関係者に追われていると感じた。
「こちらです。早く!」
ランタンの光を消して、タイタスは素早く男を助け起こした。そして身を屈め茂みに隠れながら月明かりだけを頼りに中庭の一角を目指して進み始めた。
男は狼狽しながらも彼の後に続いた。
タイタスが向かった先には古井戸があった。使われなくなってから随分と時間が経っており、側面には蔦が絡みついている。井戸の周囲も灌木が生い茂り、中庭のどの位置からも死角になりやすい場所になっていた。
「井戸の底に抜け穴があります。そこから外に出られる」
タイタスは滑車部分に取り付けられている縄の強度を確認し、人がこれを使って降下するには十分だと判断した。
「さぁ、早く下に降りてここから脱出してください」
「君はなぜ……見ず知らずの私を助けようとするのだ」
縄を差し出したタイタスに問いかける男は、あらん限りの猜疑心を働かせていた。
「私はあなたを知っている。教会を否定する者たちが開いた集会に密かに参加し、あなたの演説を聞いたことがあります」
タイタスは男に恭しい眼差しを向けながら言った。
「クルツ氏ですね。おおかた、あなたが立てた学説のことで教会の者から審問を受けていたのでしょう。その者たちの隙を見て逃げ出したところに私と出くわした。違いますか」
「そこまでわかっていてなぜ私を教会に引き渡さなかった。君は聖火騎士だろう」
落ち着きを取り戻しつつあるクルツは釈然としない様子だった。自らが納得するまで追求を怠らない姿勢はまさしく学者だとタイタスは感心した。
「私もあなたと同じく、今の教会のあり方に疑問があるのです。教会はあなたの言い分に耳を傾け、自らを省みるべきだ。あなたのように教会の権力に臆せず提言ができる人間が、一方的に迫害されるのは間違っています。だから私はあなたを助けたいと思ったのです」
「そうか。まさか聖火騎士の中に話がわかる者がいたとは。ともあれ助かった。やつらに責め立てられ、死を覚悟していたところだったからな」
唖然としていたクルツであったが、やがてタイタスに背を向けて井戸に吊るされている縄に手をかけた。
「この借りは返さねばならん。君、近いうちに私の家を訪ねたまえ。教会の行く末についてはその時にゆっくり語り明かそう」
「その日を心待ちにしています」
タイタスは体の奥底から起こる昂りを感じた。立場や手段の違いはあれど、初めて同じ理想を分かち合える同士に出会えた気がしたからだ。
「あなたは教会が不要だと唱えている。私は教会の変革を望んでいる。筋道は異なっても、私たちが志すものの本質は同じです」
自らが発した言葉に感じ入り、思わず涙が滲んだ。
「人々の意志や尊厳に、教会の支配が及ぶものではない。教会の栄光を掴むことよりも、人間自身が幸せになるための努力が尊ばれるべきだ」
「なんだと⁉︎」
クルツが振り向く。思慮深く温和そうだった顔つきが、一瞬にして怒りと憎悪によって歪められていた。
「私の神聖な思想を、狭い視野で都合のいいように解釈しおって! 少しは学がある若者だと思ったが、やはり私の思い過ごしであった!」
そして苦り切った表情のままタイタスに詰め寄る。クルツの豹変ぶりと剣幕に、タイタスは気圧される程だった。
「よく聞け、教会の狗め。生まれながらにして悪であり無力な人間がいくら努力を重ねたところで救われることはない。その人間が寄り集まって権威を振りかざしている教会組織が腐敗の温床であることは言うまでもない」
今度はタイタスが呆気にとられている。
「人間の救済の道は教会への服従でも自身の努力でもない。意志も自由も、全てを放棄して神に己を捧げることだ!」
「本気でそんなことを思っているのですか……」
自分の耳を疑うような言葉の数々に、身体中で湧いていた血が急速に冷え切り、めまいすら覚えた。
「人間は生きている限り進歩し続けなければならない。意志を、自由を、捨てる? 人間の可能性への最大限の冒涜だ!」
「進歩だと? 人間が考えつくものなんて、せいぜい気に入らないやつをいかに残酷にいたぶって従わせるか、それくらいだ。これを見てみろ!」
困惑して声を震わせているタイタスに、クルツは右手の甲を突きつけた。指にあるはずの生爪が全て無くなっている。タイタスは息を呑んだ。
「私を審問したやつらは、私が提唱した説を撤回するまで拷問を続けると言い放った。貴様はこれでも、我々自身の中に我々を救う要因があると言うのかね!?」
「あなたが人間の悪意によって受けた屈辱や痛みは同情に値する。だが……それでも良心というものを全否定することは受け入れられない。あなたを助けようとした私を、あなたは信じてくれないのか?」
「貴様が私を逃がそうとしたのは、私に利用価値があると思い込んでいたからだろう!」
失望と恐怖が一度にタイタスの胸中に去来した。目の前にいる人間は志を同じくする仲間どころか、彼の信念に対峙する最大の脅威であった。
どうすればこの衝突を解消することができるのか。どうすれば踏み躙られた教会の名誉と己の自尊心を取り戻すことができるのか。どうすれば己の正しさを証明できるのか。
答えを出すことができないまま、タイタスは無意識に帯びている剣の柄に震える手をかけていた。
「それ見たことか。貴様も他のやつらと同じように、暴力をちらつかせて私を脅す気だな」
クルツは勝ち誇ったように嘲笑的な笑みを浮かべている。
「私は決して悪辣な人間どもに屈しない! 神の栄光のためならばどんな犠牲もいとわない!」
無秩序にタイタスの中を駆け巡っていた感情が、ただ一点の憤怒へと凝結されていった。その憤怒が彼に無慈悲な俊敏さを与えた。
「ならば犠牲になればいい。神の栄光のために!」
そう言った次の瞬間、タイタスは抜くても見せず振りかざした剣を真正面のクルツに斬り下ろした。
絶叫したクルツはよろめき、背後の井戸に背を預けて倒れ込んだ。身体を震わせ、何か話そうと口を微かに開閉するが、その度におびただしい血が流れる。
「地獄だ……」
ようやく消え入りそうな声で出てきた言葉だった。見開かれた彼の両目は目の前のタイタスではなく、自らに苦痛にまみれた死を授けた運命そのものを見据えていた。
「地獄だ……!」
そしてクルツの瞳の光は暗い絶望の底へ沈んでいき、彼は動かなくなった。
「タイタス!」
クルツの絶叫を聞きつけて姿を現したのは、数人の聖火騎士だった。タイタスの上官とその部下である。彼らが手にしているランタンの光で一気にその場が明るくなり、クルツの遺体が照らし出される。
クルツの変わり果てた姿に年少の部下たちはぎょっとして立ち竦んでいるが、上官の男だけは全く動じない様子でタイタスとクルツを交互に見やった。
「お前がやったんだな」
血塗れの剣を握り締めたまま立ち尽くすタイタスに上官が問いかける。
「こいつはいかれた宿命論者でした。だから、私は……」
上官は溜息を吐いた後、放心状態のタイタスの肩に手を置いた。
「いいか、これは不運な事故だ。お前に非はない。今夜はもう部屋に戻って休め」
事務的で乾いた声だった。そして彼は顎をしゃくって部下たちにクルツの遺体を収容するように指示を出した。
彼らがクルツの遺体と共にその場を去り、タイタスは闇の中に取り残された。
地獄だ。
クルツの最期の言葉が、呪詛となってタイタスの耳の奥でこだましている。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
クルツの名前と最期のセリフの元ネタは小説『闇の奥』の登場人物のクルツからです。
既に執筆したところまで掲載話が追いついてしまったので掲載頻度が落ちそう……でも次は大切な章になる予定なので失踪することなく書き上げたいです。のんびりやっていこ〜。
皆様暑さに気をつけてお過ごしください!