「そう気を落とすな。お前の働きはちゃんと認められている」
クルツとの一件があった日から幾日か経った。憔悴しきっているタイタスを訓練中に呼び止めたのは例の上官だった。
クルツを手に掛けた事実からタイタスは立ち直ることができていなかった。ようやく出会えたと思った同志からの裏切りに傷つき、感情や欲望に流される人間を軽蔑していたにも関わらず怒りに駆られた己を嫌悪し、悶え苦しみ世界を呪いながら目の前で息絶えたクルツの表情に戦慄した。心が千々に乱れ、叫び出しそうになるのを何度も堪えていた。
そんな折、上官から贈られた労いの言葉はタイタスを幾分か慰めた。いつもは感情を表に出さず冷徹に職務を遂行している彼が、心配そうに眉根を寄せてタイタスの顔を覗き込んでいる。
「お前とは一度ゆっくり話をしたいと思っていた。どうだ、今夜俺と酌み交わさないか」
そしてその日の夜、タイタスは上官に指定された部屋に向かって廊下を歩いていた。
普段のタイタスならば、上官の言葉に何か秘匿された意味があるのではないかと気を回す警戒心を持っていたかもしれない。しかし今の彼にそれだけの余裕はなかった。
タイタスは上官の言葉を額面どおりに受け取っていた。彼が恵んでくれた機会を、再起の場にしなければならないと誓った。教会に対して献身的にその敏腕を振るっている彼ならば、教会への忠誠と疑念の間で葛藤している自分を理解してくれるだろう。心の内を吐露して、夜通し彼と語り合おう。先達から薫陶を受けることで、新たな気持ちでこれからの任務に邁進していけるはずだ。
自分を奮い立たせ決意が固まったところで目的の部屋の前に着いた。扉を叩こうとしたが、その手が咄嗟に止まった。
部屋の中から何人もの男の声がする。まさに酒盛りでもしているかのような、賑やかな笑い声が聞こえてくる。その笑い声にはどことなく野卑な響きがあり、タイタスを不快にさせた。
上官からの誘いを受けたのは自分だけではなかった。しかも宴は勢いづいてきているらしく、途中から参加する自分は既にできあがったやつらを相手に酒を飲まなければいけない。落胆しその場から引き返したくなったものの、彼の好意を無にはできないと気を取り直して扉を開けた。
部屋のどこにも上官の姿は見当たらなかった。代わりにタイタスの視界に飛び込んで来たものは、貴族が取り入れるような豪華絢爛な彫刻がフレームに施された寝台だった。寝台の上で、三人の若い男たちがあぐらをかいたり上裸になって寝そべったりしながら談笑している。先程聞いた笑い声の主たちであり、タイタスが聖堂騎士団の中で見知った顔の者もいた。何かギラギラとして猥雑な高揚感が彼らを覆っている。
そしてタイタスははっきりと見た。若い女が上裸の男に組み敷かれている。
「何なんだ、これは……」
愕然としているタイタスの頭に、かつて耳にした流言の内容が浮かび上がった。
「そんな馬鹿な……」
教会を誹謗するためだけに生まれた出鱈目な話だと信じて疑わなかった光景が、目の前の現実となって繰り広げられている。
「おや、狷介の騎士タイタス君のお出ましじゃないか」
近くの椅子に座っている男がタイタスに向かって酒が入ったグラスを掲げている。食堂でやり取りをした同僚だった。
「さすがのお前も上の命令には逆らえなかったようだな」
薄笑いを浮かべる同僚の傍にあるテーブルの上には酒瓶やグラスが乱雑に置かれている。彼もすっかり酔いが回っているようだった。
「御覧のとおり順番待ちだ。まずは一杯やれよ」
「貴様……! 自分たちがどれだけ恐ろしいことに加担しているか、気づいていないのか⁉︎」
タイタスは顔色を変えて同僚に詰め寄る。
「なぜ誰もこの光景を異常だと感じない? なぜ誰も彼女を助けようとしないんだ!」
「言っただろう、長い物には巻かれろって」
タイタスの抗議を同僚は軽く笑い飛ばした。
「お偉方から指図されたことに俺たち下っ端がいちいち良い悪いを判断する必要なんてねぇよ。あんな上玉を好きにできるんだ、何も考えずに楽しもうぜ!」
身をのけぞらせて笑う同僚。寝台にいる男達の淫らな熱気と荒い息。今にも衣服を剥ぎ取られそうになっている女。
地獄だ。
タイタスの耳元で血塗れのクルツが囁く。
「貴様と俺を……」
タイタスは同僚を睨みつけながら拳を握った。自らをも滅ぼしかねない炎が身体の奥底から燃え上がる。
「貴様と俺を一緒にするな‼︎」
そう言い終わらぬ内に彼の拳は同僚を渾身の力で殴りつけていた。同僚は椅子から転げ落ち、その弾みで机の上の酒瓶やグラスが派手な音を立てて粉々になった。
そしてタイタスは迷わず寝台に向かって突き進むと、女に覆い被さっていた男を羽交締めにして引き離した。間髪を入れず戸惑う男の無防備なみぞおちに拳を叩き込む。男は呼吸がまともにできなくなりのたうち回っている。
別の一人が掴みかかってきたが、酒が入った状態でタイタスに適う相手ではなかった。彼も瞬く間にタイタスの鉄拳を食らい床に伸びた。
「狂っている! 貴様らはみんな狂っている!」
最後の一人の胸倉を掴み、タイタスは拳を振るいながら叫ぶ。それは怒号よりも悲鳴に近い。
「くそぉ、くそっ、くそっ! どいつもこいつも俺の期待を裏切りやがって‼︎」
彼を突き動かすものは義憤だけではなかった。殴り続けなければ、もう自分を保っていられなかった。手を止めた途端、果てしない闇に飲み込まれてしまいそうだった。その暗黒への非力な抵抗のため、彼は教会に盲従し目先の欲望に囚われた男たちを殴り続けた。
やがて息を切らしたタイタスが男の胸倉から手を離すと、既に失神していた彼は糸が切れた傀儡のようにその場に倒れ伏した。
煮えたぎっていた怒りが、一気に静かな悲しみと虚しさへと翻った。そしてタイタスは悄然と寝台の隅に座り込む。
ようやく上官の真意を悟った気がした。彼は自分のことを女をあてがえば簡単に管理できると踏んだのだ。今、床の上に転がっている男たちと同じように。
彼はタイタスの理解者を装いながら、タイタスの人間性を微塵も理解していなかった。タイタスが誇りや信念を持った一人の人間であるということを度外視していた。
上官は冷徹で誰よりも組織に忠実な男だ。彼にとっての忠誠は、人間を道具のように扱うことであってもそれが組織の意思ならば躊躇なく全うすることだった。
「これが……俺が愛し敬っていたものの正体……」
鮮血の滴る掌を呆けたように眺めながら呟く。
「俺は教会の名誉のために人まで殺したんだ……! それが、この仕打ちか……!」
恐れていた闇が忍び寄り、タイタスの心を蝕んだ。感情をいくら吐き出しても楽にはなれない。半生を捧げて追い求めていた理想は打ち砕かれた。努力が報われたと思った瞬間は全て幻想だった。
「俺の人生はいったい何だったんだ。もう、何も期待できない。こんな人生に、何も――」
「なぜ、生きているのか」
悲しげに響くが芯の通った声だった。我に返ったタイタスが声のした方に顔を向けた。
「なぜ、私がこんな苦しみを受けるのか。なぜ、運命はこんなにも過酷な試練を私に与えるのか。私も何度も人生に問いかけた。けれど、人生は決して答えをくれなかった」
寝台に横たわっていた女が身を起こしタイタスを真っ直ぐに見つめている。彼女の瞳の深さにタイタスは思わず息を呑んだ。その深さの中に彼女が今までに味わった計り知れない苦悩と絶望を垣間見た。筆舌に尽くし難い運命の奔流に直面しながらも、彼女の瞳は穏やかな湖面のように澄み渡っている。毅然たる姿はただ、神々しいまでに美しかった。
「人生に期待することも、問いを投げかけることも間違っている。私が人生に対して答えを示し続けるしかないのだと。私の生き方で、私にしか出せない答えを」
彼女が内包している光に目が眩んだかのように、タイタスは目を細めた。
「……君の名前は」
「ファラメ」
タイタスはその名を噛みしめるように呟く。
「君はなぜこんなところにいる」
初めてファラメの表情が曇り、目を伏せた。タイタスもきまりが悪そうに顔を背ける。
「言いたくないなら言わなくていい」
問いかけるか否かしばし逡巡した後、彼は再び口を開いた。
「君をその境地に至らしめたものは何だ。なぜこの現実を受け入れることができるんだ」
「私はいつか――子を授かることになる。聖火の祝福を受け、大陸全土の人々を守り導く使命を背負う子を」
慈悲深い眼差しをタイタスに向けるファラメの言葉には、彼にそれを信じさせるだけの力強さがあった。
「その子が私を待っている。私も、愛する我が子に会いたい。だからその子に会いにゆくために、今の苦しみに意味があるとわかった。自分の幸福だけを選ぼうとした以前の私では、きっと気づけなかった」
「意味など……あってたまるか」
項垂れたままタイタスは弱々しく呟いた。
「自分の幸せを願うことの何が悪いんだ。君が犠牲になるいわれなどあるものか!」
ファラメが示す悲壮な決意に、タイタスは深く心を打たれていた。しかし彼は、彼女が立ち向かうことを決めた現実を認めることができなかった。その決意の中に無垢な愛しかないからこそ、彼女を餌食にしている世界を激しく憎んだ。
「やはり俺は……もう、駄目だ。こんな地獄で……俺は君のように気高くは生きられない。俺はきっと……正気を失ってしまう……」
タイタスの頬を涙が静かに伝う。ファラメが彼の背後に近づき、そっとその背を撫でる。
「どうか諦めないで。人生は待っている。あなたにしか出せない答えを――」
彼は瞳を閉じて背中から伝わる温もりに身も心も委ねた。