緋色の雪が降り続いている。雪は折り重なって倒れている兵士の死体の上にも降り積もる。赤い雪に埋もれていく死体の山は、かつてタイタスが南方の異民族と死闘を演じた戦場を彷彿とさせた。
憎々しい異民族たちの損壊した屍と血の海。屍の上に絶対的勝者として君臨した自分。笑いが込み上げ、この勝利が自らの栄華の始まりだと信じて止まなかった。
だが、その時と現在のタイタスの境遇は何もかもがかけ離れている。倒れている兵士たちは皆、この赤い雪が降り始めるまで彼の忠実な手下であった。彼らは突然苦しみだしたかと思うと、獣のような叫び声を上げて周囲の人間を無差別に襲い始めた。凶人と化した兵士たちに応戦し、タイタスは部下たちを手に掛ける結果となった。
眼前の凶人たちを斬り伏せ当面の窮地を脱したが、タイタスは息を切らしながらその場に膝を突く。彼自身の肉体も兵士たちを豹変させた因子によって侵食され、既に限界を迎えていた。しかしその限界を凌駕する精神力によって辛うじて意識を保っている。
「まさか『緋昌薬』を己の身体で味わうとはな……」
苦々しく顔を歪めてタイタスは呟いた。彼が受けた屈辱を知る者はいない。彼の周囲には異形へと姿を変えられた末、理性と命を奪われた兵士たちの死体しかいない。
南方の異民族によるホルンブルクへの侵攻を食い止め、オルステラ大陸を危機から救った英雄として凱旋したタイタス。タイタスの戦果を称える教皇とオルステラの諸侯に対し、彼は異民族を殲滅するための追撃を進言する。しかしタイタスの凶悪な一面を恐れた教皇たちは彼の意見を聞き入れず、彼にフロストランド地方の辺境の地エンバーグロウの統治を命じた。
自らを僻地に追いやった聖火教会に対しタイタスは復讐を誓う。元罪人の更生組織である私兵団「緋翼」を設立し、兵団長として町の治安維持に勤めながら、水面下では着々と教会への復讐を果たすために必要な研究をユルゲンを始めとした緋翼の研究者たちに進めさせていた。タイタスは緋翼の研究者たちに自らの宿願を成就させるため、彼らを徹底的に支配した。人質を取って脅迫することも当然の手段だった。
そうまでしてタイタスが渇望した研究の狙いは「緋昌薬」と名付けられた薬の完成である。摂取した者は身体能力が格段に向上するが、人格が狂暴となり人間としての生が潰える禁断の薬。
そして十八年の月日が経ち、研究者たちの死に物狂いの努力と叡智の結晶として緋昌薬は完成した。タイタスが計画を実行に移す時が訪れる。
決行の日はタイタスの権力を象徴するために建設された大聖堂の落成式当日。彼は祝砲と称して打ち上げた弾丸の中に緋昌薬を混入させ、見学に訪れた街の住民たちに薬を散布した。たちまちエンバーグロウの街は大混乱に陥る。凶人と化した人間を救う手立ては、一部の研究者に秘密裏に研究させ製造した血清を用いるしかない。タイタス自身と緋翼の兵士たちは事前に血清を体内に取り込むことで、意識を保ったまま超人的な戦闘力を手にする。
タイタスは街の人々を人質に取り聖火教会の権力を掌握した後、緋昌薬の力を完全に使いこなした兵士たちと共に大陸を征服するはずだった。
落成式が始まって間もなくタイタスの周囲の緋翼兵たちが次々に凶人へと変貌を遂げ、彼の計画は狂い始める。
「ただの道具である貴様らが……なぜ従うべき主に逆らうのだ。一人では何もできない弱者のくせに……」
緋昌薬が全身にもたらす激しい痛みに抗いながら、タイタスは隣にうつ伏せで倒れている男を睨みつけた。その男は緋翼に属する研究者でありタイタスの側近であったはずのユルゲンである。既に息絶えているユルゲンの右手には短剣が堅く握られたままであった。
ある任務に対しユルゲンはタイタスが望む結果を残せなかった。ユルゲンの失態を見逃す代わりに、タイタスはユルゲンの母親を彼の目の前で部下に殺させた。
母親の亡骸を抱きながら嗚咽していた彼が自分に向けてどのような感情を抱くかなどタイタスは考えもしていなかった。そして落成式での混乱に乗じてタイタスへの復讐を果たそうとした彼はあえなく返り討ちに遭った。
しかし今のタイタスにとってユルゲンの裏切りは瑣末なことになりつつある。タイタスが命に替えても自らの手で裁きを与えなければならないと決意した人間は他にいる。この混乱と無秩序を招き入れ、タイタスの年来の悲願の成就を台無しにした人物。
その時、落成式場に一つの人影が現れる。人影はタイタスを目指して静かに歩み寄った。蹲るタイタスは青筋を浮かべ、殺意をこめてその者を睨め上げる。
「ヴェルノート……。よくも裏切ったな……‼︎」
彼を見下ろしている青年は、ユルゲンと共に緋昌薬の研究を行っていたヴェルノートだった。彼はタイタスの最期を見届けるため厳かな表情で彼の傍らに立っており、その姿はタイタスにとって死神のようであった。
タイタスはヴェルノートが独自に研究を進めていた万能薬の効力に目をつけ、その技術を応用して緋昌薬の研究をすることを彼に命じた。それは彼の意に反することであったが、タイタスは彼の愛する者の命と引き換えに研究を行うことを迫った。
タイタスはヴェルノートを完全に取り込むことができたと慢心していた。しかしヴェルノートはタイタスを重大な局面で裏切る。ヴェルノートが彼と緋翼兵たちに渡した血清は偽物だった。
「血迷ったか! 私に従うしか能がない罪人の分際で!」
「ええ……私は罪人。薄汚い人殺しです。だが、それはあなたも同じだ」
感情をぶつけるタイタスにヴェルノートは淡々と答える。
「裁かれる時が来たのです。暴力と恐怖によってどんなに人間の命と自由を支配したとしても――その心まで支配することはできない」
「戯言を……! 許さん……許さんぞ‼︎」
タイタスは最期の力を振り絞る。彼はしゃがんだ姿勢から素早く立ち上がり、一閃でヴェルノートに斬り込んだ。脇腹から肩口にかけて斜めに深い傷を負ったヴェルノートは、よろめきながら赤い雪が降り続ける天を仰ぎ、倒れた。その表情には一切の驚きも恐れもない。彼は初めからこうなることを知っているかのようだった。そこにはただ運命を受け入れる静謐さだけがあった。
「ヴェルノート‼︎」
落成式場に若い女の絶叫が響き渡る。現れたのは黒いおさげ髪と褐色の肌を持つ女、タイタスがヴェルノートに緋昌薬の研究を強いるための人質として利用していた彼の恋人だった。盲目の彼女は他の仲間の手を借りながら凶人がひしめき合う危険な落成式場内を突破し、最愛の者を追ってきた。彼女は仲間たちと共にヴェルノートの許へ駆け寄る。
「リンユウ……」
ヴェルノートは弱々しく恋人の名を呼ぶ。リンユウは身を震わせその場に力なく座り込んだ。
「私はようやく……自分の罪と向き合うことができた。ずっと苦しかった……。私の研究が罪なき人々の命を奪ったことも……君に嘘を重ね続けていたことも……。だが……その罪の元凶に……タイタスに抗うことを決めたのが余りにも遅過ぎた……遅過ぎたんだ……」
リンユウはヴェルノートの手をそっと握る。そして恋人の最期の言葉を聞き漏らすまいと、顔を近づける。
命が尽き果てようとしているのはヴェルノートだけではない。タイタスもまた呻き声を上げながら再び膝を折る。それでもなお、抑えきれない怒りが彼の中で荒れ狂っていた。苦い思いを味わった様々な場面での記憶が目まぐるしく脳裏に現れては過ぎ去っていく。
何一つとして自分の思い通りになることはなかった。期待しても期待しても、その全てに必ず裏切られ続けた。
だが、タイタスはその怒りの中に違和感を覚えた。何か決定的な見落としをしている気がした。
「結果的に……こんなに多くの犠牲者を出してしまった……。私は……本当に愚かだ……」
「あなたがしたことは全部、私のためにしてくれたことだった。世界中の人たちがあなたの敵になったとしても、私はあなたの味方よ。それに――」
夥しい血で赤く染まっているヴェルノートの手をリンユウは強く握り直す。彼女の頬を涙が伝う。
「あなたは苦しみ続けた末にちゃんと自分の答えを出せた。あなたは……愚かなんかじゃない」
ヴェルノートはその言葉によって激しい悔恨の念から解放された。リンユウを見つめる彼の口元に微かな笑みが浮かぶ。死にゆく彼の表情はこの惨状に似合わず穏やかだった。
「答え……人生への答え……」
タイタスがうわ言のように呟く。彼女の言葉は彼が忘却の彼方に葬っていた情景すら呼び起こした。
人生に裏切られたと感じ、失望の泥濘に沈んでいく自分が救い上げられた瞬間は確かにあった。
私の神。今はその容貌も、名前すら思い出せない。彼女は私の悲しみに寄り添いながら、人生に答えを求めるのではなく答えを示し続けよと言った。なぜ私は彼女が与えてくれた温もりを忘れ、彼女が私の中に灯したはずの光を見失ったのか。
タイタスは身につけている革手袋を外した。彼の手の中で、かつて黒衣の女から譲り受けた指輪が光っている。
指輪は彼が抱え続けていた人間としての苦悩を取り去った。それはつまり、彼が苦しみの中に生きる意味を見出すことを放棄したということだった。代わりに指輪によって与えられた破壊への衝動に彼は飲み込まれ、その力に溺れていった。
彼は指輪を引き抜く。指輪は彼の手から滑り落ち、降り積もる赤い雪の中に消えた。
「私は結局……人生に求められた答えを出せなかった訳だ……」
視界が狭まっていき、暗く冷たい永遠の暗闇が背後からのしかかってくるのを感じた。
もう、悔い改める時間もない。
タイタスは小さく舌を打った。
権力を極めし者第三章のラストは、力に溺れたタイタスと力に抗ったヴェルノートが対照的に描かれているのかなと原作を振り返りながらそれを意識して書いておりました。
次のお話で完結です。あの方に締めてもらおうと思っています。
ここまで読んでいただきありがとうございました。よろしければ最後までお付き合いいただければ幸いです。