朝もやに煙るエンバーグロウの街の石畳を、リンユウが歩いている。民家の屋根や木々、往来を純白に染めている雪。母親に手を引かれ道を歩く子どもは厚いコートを着込み耳当て付きの防止を被ってふっくらとしたシルエットが愛らしい。
街の住民にとって見慣れた街並みが、彼女にとっては何もかもが鮮やかで尊かった。雪国の厳しい寒さによって、吐息が目の前で白く曇ることにすら感動を覚える。
やがてリンユウの視界に周りの建造物よりも一際巨大な石碑が現れた。石碑の周りには供えられた色とりどりの花が風に揺れている。彼女は立ち止まり、唇を引き結んで石碑を見上げる。それは街を襲った悲劇によって命を落とした住民と、統治者であったタイタスの霊を慰めるために聖火教会によって建てられた慰霊碑だった。
落成式での事件から数日後。ヴェルノートが遺した血清の製法が聖火教会へと渡り、事態は沈静化に向かった。しかし、彼はまた今回の陰謀を企てたのは自分であると罪を告白する文書も残していた。聖火教会は彼を事件の首謀者として公表し、タイタスを非業の死を遂げた英雄として丁重に弔った。慰霊碑が建てられたその日から、彼の死を悼む者たちからの供花が途切れることはない。
そして今、事件の日から早くも数ヶ月が過ぎようとしている。街の復興は着実に進んでいた。事件によって家族や友人を喪った者たちは多数いるが、彼らは前を向き率先して破壊された建物の修復や怪我人の治療に当たっている。リンユウもまたその内の一人だった。だが、忙しない日々に身を投じていても、凄惨な事件の光景や愛する者との死別の悲しみが薄れることは微塵もなかった。
赤い雪が降る落成式場で、闇の中を生き続けていたリンユウの瞳に光が宿った。彼女が視力を手に入れた理由はヴェルノートの研究の本来の成果であったのか、彼の愛がもたらした奇跡であったのか、今となってはわからない。
徐々に色彩を帯びていく世界で彼女が生まれて初めて目にしたものは、血溜まりの中で眠るように息を引き取っている恋人の姿だった。もう二度と彼の耳に届くことはないと知りながらも、リンユウは彼の遺体に寄りすがり何度もその名を呼んだ。泣いて、泣いて、ひとしきり泣いた彼女がようやく顔を上げると、彼らの近くで倒れている初老の男と目が合った。魂を失った、ガラス玉のような瞳が彼女に向けられている。
リンユウはすぐにその男がタイタスであると気づいた。恋人の命を奪った当人を前に、なぜか怒りや憎しみは沸き起こらなかった。彼の顔に刻まれた深い孤独と、彼が長い間出口を求めてもとうとうたどり着けなかったと感じさせる徒労の色が彼女の胸を刺し、悲しみが溢れかえった。
タイタスの行為はリンユウにとって紛れもない悪である。だが、彼女は絶対的正義も生まれつきの悪も存在しないのだと考えている。人間の前にはただ、分かれ道が広がり続けている。その分岐点は常に、人間の行動が理性や尊厳に反してはいないかと問いかけてくる。過ちに気づき自分の力で流れを変えることができる者もいる。だが、誤った選択を続ければ大抵その者の心は頑なになる。そこに至るまで費やしたエネルギーと時間を無駄にした事実を認められなくなる。そしてより正しい選択をする力を失っていき、後戻りができなくなる。
彼には進む道を選ぶ自由すらなかったのかもしれない。あるいはその自由を放棄したくなる程の出来事が彼に降りかかったのかもしれない。タイタスの空虚な死に顔を見たリンユウはそう思った。彼の努力が阻害されず、自分の中に備わる意志によって岐路を選び続けることができれば、こんな結末は訪れなかったのではないか。
彼の罪を今すぐに許すことはできない。だが、彼の死後の眠りは安らかなものであってほしいと願う。リンユウの心境は錯綜していた。
「おはよう、リンユウ」
慰霊碑を見上げる彼女の背中に誰かが声をかけた。振り向いたリンユウが微笑む。
そこにはリンユウの友人であり聖火教会の神官のフィナが立っていた。波打つ銀の髪が朝日を受けて美しく輝いている。
「おはようございます、フィナさん。すみません、いつも私の用事におつき合いいただいて……」
眉を落とすリンユウにフィナは慈悲深い眼差しを向ける。
「いいのよ、何もしないで見ている方が心配だもの。あなたは目が見えるようになったばかりなんだから」
二人は街はずれに向かって歩き出す。進むにつれ民家の数や人通りが減っていき、雪がますます深くなっていく。
彼女たちが向かった先はエンバーグロウ雪山だった。歩き慣れない雪山の道を、リンユウはフィナに手を引かれながら一歩ずつ慎重に踏み進む。険しい道のりだが愛する者が眠る場所へ着実に近づいていると思えば苦ではなかった。
雪山の中腹に雪に覆われた針葉樹の森がある。エンバーグロウの街から隔絶されたその森の奥に、ひっそりとヴェルノートの墓標が佇んでいる。墓標の前に到着したリンユウは、簡素な石碑に積もっていた雪をそっと払った。そしてフィナと共に祈りを捧げる。時折雪が枝から落ちる音だけが響く閑寂な空間で、彼女は落ち着いて恋人の安やかな眠りを願った。
ここはあまりにも寂しすぎる。だから、この冬を越したら花を植えよう。彼が眠る大地に花々がしっかりと根を張り、溢れる生命力で彼を見守ってくれるように。
祈りを終えたリンユウは墓標の周りを見渡しながらそう思った。エンバーグロウの慰霊碑に手向けられているような豪華な花を大量に準備することはできないが、人目を避けるような場所にしか埋葬できなかったヴェルノートに少しでも平穏を与えたいと思った。
「リンユウ……」
隣に立つフィナが表情を曇らせる。
「あなたは強くて優しい。……だから、心配なの。私にはあなたがどれだけ自分の気持ちを抑えているのか想像もつかない」
雪山の頂から吹き下ろす冷たく湿った風がリンユウの頬を撫でた。
「もっと思い切り怒ったり悲しんだりしていいの。憎んでいいのよ。人間は一人では寂しくて生きていけない。恋人や神、国家……何かと一つにならなければ生きていけない。あなたは最愛の人を喪ったんだもの。辛い気持ちを吐き出していいのよ……」
自らを思いやるフィナの言葉を噛み締めながら、リンユウはヴェルノートの墓標を愛おしそうに見つめる。
「怒りも悲しみも憎しみも全部……大切な感情です。私はこれからもずっと、この気持ちと一緒に生きていくんだと思います。けれど、私が怒りや悲しみに囚われて前に進めなくなってしまうことをあの人は望んでいないはずです」
リンユウは瞳を閉じる。かつて彼と語り合っていた時の柔らかく心地よい声がはっきりと蘇った。
「研究を続けていたあの人は私に言ってくれました。『君に美しい世界を見せたい』って。だから私は、いつかあの人と再会できた時に胸を張って言えるようになりたいです。あなたが私に見せてくれた世界はこんなに美しかった、と」
瞳を開けたリンユウには力強い光が宿っている。
「人が何かと一つにならなければ生きていけないというのなら――私はこの世界と一つになりたい」
「それって……どういう意味?」
思いがけない返答に困惑するフィナに対して、リンユウは気恥ずかしそうに苦笑した。
「私もうまく言えないです。なんとなくですが……自分にできることを見つけて毎日精一杯続けていくこと……それがきっかけになる気がしています」
そして彼女は表情を引き締めてフィナに向き直った。
「私、フィナさんにお誘いいただいていた話をお受けすることにしました。聖火教会に入信しようと思います。神官見習いとして頑張りますので、これからもよろしくお願いします」
リンユウはもう一度ヴェルノートの墓標を見つめた後、来た道を引き返し始めた。軽快で頼もしい足取りで歩き出した彼女の後ろ姿を見て、フィナの胸は微かに高鳴る。それは彼女が初めて味わう感覚だった。
「いつかあなたのような存在が……人間が到達できる最上の場所にたどり着くのかしら」
その感情のうねりの正体が希望だということに彼女はまだ気づいていなかった。(完)
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
完結できました。ただひたすら自分の頭の中で妄想し続けていたことを文章にする作業を久しぶりにすることができてとっても楽しかったです。そして書きながら過去のストーリーを振り返り、しみじみ原作の魅力を噛みしめることもできました。たくさんの素敵な出会いを与えてくれたオクトパストラベラー大陸の覇者という作品には感謝しかありません。
そして、二次創作は何より自分が楽しむことが一番だと思いつつも「同じ原作を愛している方々と分かち合いたい」という気持ちは絶対に無視できないもので……。投稿を続けるべきか悩んだ時もあったのですが、拙作を読んでくださった方、いいね・RPしてくださった方、応援・感想コメントをくださった方がいてくれたので、最後まで書き続けることができました。改めて今作が完結できたのは皆様のおかげです。本当にありがとうございました!
今から4年前にアーギュスト様の捏造過去話『喝采』を書いたときは、覇者初代3ボスの物語を(勝手に)書き上げることができるとは思ってもいませんでした。とても素敵な経験ができました。自分の中でのオクトラ創作熱に一区切りつけることができたので、オクトラの二次小説を書くのは今作で最後にするつもりです。これからはまったり一プレイヤーとしてオクトラ作品を遊んでいこうと思います。
3ボスの物語(勝手に)完結記念で、人生で一度くらい同人誌なるものを制作したいなと思っている今日この頃です。3ボスの物語を一冊にまとめてみたい…。全くの素人なのでおすすめの印刷所さんなど教えていただけたら嬉しいです。また、扉絵を描いてくださる方もひっそり募集しておりますのでこちらも御連絡お待ちしております。実現できるかは未知数ですが人生一度きりなのでいろいろチャレンジしてみたいです。
ではでは、皆様がこれからも素敵なオクトライフを過ごせることを心から願っています。