ルビの基準は大体以下の通りです。
・固有名詞(その話での一回目のみ)
・一部の漢字(あった方が読みやすいかな、という個人的なラインのもの)
・その他一部の表現
雀が鳴いている。
窓辺を挟んで跳ねる可愛らしい姿に、思わず頬が緩んだ。
何となくだけど、今日は良い日になる気がした。
「――
「へっ?」
ぼやっとしていた意識に冷や水をかけられる。
慌てて視線を戻すと、見慣れた顔が私を睨んでいた。
「ご、ごめん。ぼーっとしてたかも」
「かもじゃなくて確実にしてたでしょ」
少し声色が冷たい。
やれやれ、という副音声が聞こえてくるようだ。
「まあまあ
「む、
「……ごめんね優佳ちゃん」
「別に。気にしてないし」
絶対に気にしている顔でそう言うと、優佳ちゃんは目を逸らしてサンドイッチを頬張った。
その視線の先には、彼女を
流れで目線を向けていたからか、ふと彼と目が合う。
何だか申し訳なくなって、両手を合わせてこっそり謝った。
「で、実際のとこどーなんよ。ひびのん」
「え?」
「やっぱ彼氏とかもういんの?」
「ええ!?」
隣に座っていた金髪の男の子が、ぐいっと顔を近づけてくる。
思わず腰が引けた。
……近いよ、
というか、彼氏が何だって?
全然聞いてなかったけどそんな話をしていたのか。
全く付いていけてない私に、呆れ声で優佳ちゃんが言った。
「あんたが最近付き合い悪いから、彼氏でも居るんじゃないって話になったのよ」
「それは……家のお手伝いがあって」
「の割に
「茜ちゃんとは前々から約束してたから……」
「ふーん」
何だろう。
すっごく尋問されてる気分だ。
本当のことを言ってるつもりなんだけど、あんまり信じてもらえていないみたいである。
やっぱり、大学生にもなって家業の手伝いなんておかしいのだろうか。
「日比埜のご実家はお菓子屋さんだったよね?」
「うん」
「そのお手伝いなんて凄いと思うけどな。僕は料理苦手だから尊敬するよ」
「ありがとう。そんなにちゃんとしたこともしてないけどね……」
「またまたご謙遜を」
「……」
大翔くんが優しく微笑む。
褒めてくれるのは嬉しいけど、それに合わせてどんどん優佳ちゃんの視線がじっとりしてくるのが苦しい。
「じゃあ結局、ひびのんって今彼氏居ないん?」
「ええっと、うん。居ないよ?」
「マジか~。つーことは俺にもチャンスあるってことか」
「うーんと……」
「良哉。あんまり日比埜を困らせるな」
「やべ、がっつき過ぎたわ!」
わりいわりい、と笑う良哉くん。
こっちもこっちで、空笑いを返すことしかできない。
あんまり態度に出したくはないけど、そろそろこの話題終わってくれないかな……。
その祈りが通じたのかは分からないが、良哉くんが私の隣の空席を見て言った。
「そういや、あかねっち何処行ったん?」
「んっと、英語のレポート提出しに行ったよ」
「はっや!あれ締め切り来週っしょ?……もしかしてひびのんも終わってるん?」
「私はまだだよー。今回ちょっと難しくて……」
「分かる~、俺なんてぜんっぜん手つけてねえ。あかねっち戻ってきたら教えて貰おっと」
「あ。あたしも教えて貰うー」
「二人とも、少しは自分で考えような」
あんまりにもあんまりな二人に、大翔くんが苦言を呈す。
……そもそもあのレポート、教えて貰ったからってどうにかなるようなものでもないと思うんだけど。
そう思いつつも、私の頬は気付けば緩んでいた。
個性豊かな友達、他愛のない雑談、昼休みの喧騒……たまに困ることもあるけど、それも含めて全部が私の大切な日常だ。
そして、その全てが一瞬で壊れるなんて、私は想像すらしていなかった。
始まりは一つの悲鳴だった。
講義室のちょうど真ん中――談笑しながら昼食を楽しんでいた女子グループの一人が、血相を変えて叫んだ。
「ちょっとあんた、何やってんのよ!」
室内がざわつく。
急に立ち上がった彼女の正面には二人。
一人は腕を押さえて
「黙ってないで何とか……っ!?」
「あ゛……ぅあ」
顔が上がる。
真っ青な肌、真っ赤な瞳、涙みたいに流れる赤い液体、そして、何かを咀嚼する口元。
身を包んでいる今時のファッションとは裏腹に、それは明らかに普通じゃない光景だった。
「ひっ」
「あぁあ……うぅ゛ああ゛っ!!」
「やめっ、なさいよ!」
奇声を上げる女子が
女子は思い切り抵抗していたが、まるで万力に挟まれたかのように拘束は解けない。
大口が広がる。
女子だったものは一切の躊躇いなく、捕まえた獲物の白い首筋に噛みついた。
「きゃああああああ!!!」
「ヤバすぎだろ、あれ」
「救急車呼べ!……あと警察も!」
破裂したように騒ぎが爆発する。
あまりに唐突に起こった惨事に、皆どうしたらいいのか混乱しているようだった。
無理もない話だ。
かく言う私も、一体何が起こってるのか分からない。
「んだよ、あれ。どうなってんだ!?」
「……逃げるぞ、皆」
「大翔?」
「いいから早く!三人とも急げっ!」
金縛りに遭ったかのように動けない私たち三人を、初めて見るレベルの真剣な表情で大翔くんは一喝した。
全員の足が動く。
広げていた食事はそのままに、最低限の荷物だけを持って私たちは講義室を抜け出した。
逃げ出した先の廊下は、思った以上に人が多かった。
見れば、私たちが居た3-B以外に、他の講義室から飛び出してきた人も居るようだった。
彼らの顔は一様に緊張している。
――まさか。
「大翔くん、もしかしてこれ――」
「……ああ」
「何?どういうことよ」
「多分、他の講義室でも同じ騒ぎが起きてる」
「はあ?そんなこと……っ!」
優佳ちゃんの
同時に、廊下で足踏みしていた人たちが一斉にどよめいた。
3-Aの講義室。
その前側の扉から、ふらつきながら一人の男の子が出てきたのだ。
彼の様子はさっき見た女子のものと同じで、とても普通の状態とは思えない。
あれはまるで――。
「ゾンビだ……」
誰かが言った。
およそ人に向けるものとは思えないその呼び名を、私は的外れなものとは思えなかった。
「あ……あ゛あ゛ぁ!!!」
「うああ!?」
「逃げろっ!」
弾かれたように人の波が散らばっていく。
それに置いていかれないよう、私たちも走り出していた。
「大翔、何処に逃げるのよこれっ!」
「外だ!まず外に出て、安全を確保しよう」
「さっすがひろっち。頼りになるわ~!」
良哉くんがいつもの調子で言うが、その口元は引き攣っている。
こんな状況では無理もないことだった。
走ること十数秒。
やっと見えてきた階段を降りようとする三人を見ながら、私は立ち止まった。
息を切らしつつ、大翔くんが振り返る。
「っ日比埜、どうしたんだ?」
「ごめん。私上に行かないと」
「はあ?何言ってんのあんた」
「……茜ちゃんがまだ逃げてないかもしれないの」
「いやあ、あかねっち頭良いし、もう逃げてんじゃね?」
「そうかもしれないけど、もしそうじゃなかったら……」
不安で心が一杯になる。
自分の身を優先したい気持ちは確かにある。
けれどそれと同じくらいに、茜ちゃんの現状を確認したい気持ちがあった。
確認して、もしも彼女がこの事態を知らないのならすぐにでも連れ出さなきゃいけない。
大翔くんが近付いてくる。
彼は真剣な表情で、私の目を真っ直ぐに見て言った。
「日比埜、茜なら大丈夫だ」
「えっ、分かるの?」
「確信はない。でも一応連絡は入れたし、今は自分たちの安全を優先すべきだと思う」
「それは……」
講義室を出る前、スマホを触っていたのはそういうことだったのか。
彼らしい要領の良さだ。
そして彼の提案も、至極正論に聞こえる。
まずは自分の身で、人を心配するのはそこから。
ご尤もである。
――でも。
「……ごめんなさい。やっぱり私は上に行くね」
「日比埜……」
「皆は先に行ってて!すぐ合流するからっ」
「あっ、ちょっと!」
引き留める声を振り切って、上階へ繋がる階段を走る。
今、私の足を動かしているのは理屈ではなかった。
このまま外へ逃げたら、後悔する気がするのだ。
不安なのか、杞憂なのか、勘なのか。
よく分からない感情のままに、私は四階の突き当たりに向かって急いだ。
「はっ……はっ……」
息が切れる。
思い切り動かしていた足も限界を迎えつつあり、走りのペースはどんどん落ちていた。
こんなことなら、普段からもっと運動しておけば良かった。
仕方のないことだけれど、思ったより体力がない自分が憎らしい。
「着いた……」
へとへとになりながらも、私は目的地に到着した。
ガラス張りの扉の上に小さな室名札が一つ。
そこには、『英語学研究室』とだけ書かれている。
昼休みが始まってから暫くして、茜ちゃんは英語のレポートを提出しに行くと言っていた。
それから騒動が起こるまで、彼女は私たちが居た講義室へ戻ってきていない。
だったら、茜ちゃんはまだ此処に居るはずだ。
居なかったとしたらもう外へ逃げているということだろうけど、それならそれで構わなかった。
「……失礼します」
扉を開ける。
研究室の中は、濃い紙の匂いで包まれていた。
そのまま正面方向へ歩みを進めるが、どうにも人の気配がない。
普段教授が居る部屋を覗いてみても、そこには誰も居なかった。
……おかしい。
此処の教授は出不精で、講義の時以外はいつでも研究室に籠ってるって有名なのに。
やっぱり、皆とっくに避難しているんだろうか。
「茜ちゃ~ん」
少し大きな声を出してみる。
それでも反応する声は聞こえない。
自分の足音と呼吸の音だけが響く空間は、何だか居心地が悪かった。
――ごとん。
「わっ……!」
そんな静寂の中、急に鈍い音が鳴った。
音の方を見ると、テーブルの傍の床に一冊の本が落ちている。
『The Catcher in the Rye』――見覚えのあるそのくすんだ表紙は、茜ちゃんが最近持ち歩いていたものだ。
……忘れ物なのかな、それとも――。
手に取った本を見つめて考えていると、今度は部屋の奥から物音が聞こえた。
本を置いて、音の方へ近付いていく。
正面突き当たりに差し掛かり、丁度入り口から死角となっていた棚の影を覗いてみるが、やっぱり誰の姿もない。
残る可能性は――。
奥の部屋へ繋がる扉を見る。
この向こうに入ったことは一度もないけれど、一度見たことがある茜ちゃんが言うには、物置きのようになっているらしい。
……なんだか、誘われているみたいだ。
ふと過ぎった悪寒を振り払うように、私はゆっくりと扉を開けた。
「……あっ」
つい声が弾む。
一つに結った綺麗な黒髪と、この間のショッピングで買っていたシフォンのワンピース。
後ろ姿だけでも、それが茜ちゃんのものだと確信出来た。
見つかって良かった。
後は一緒に外へ逃げるだけだ。
「茜ちゃん、逃げようっ!」
安心しきった私は、一歩踏み出して呼びかける。
もたもたしてる暇はない。
今はまだ静かだけど、はやく逃げないとあのゾンビのような何かが此処にも来るかもしれないのだ。
私の呼びかけに反応したのか、彼女が振り返る。
そうして、全てが
「――え?」
「……ぁあ゛」
何が起こっているのか、一瞬分からなかった。
音も景色も全部が
雫が落ちる。
茜ちゃんは泣いている。
その涙の色は、悲しいくらいに真っ赤に染まっていた。