幕間 第1話:笹木と椎名
夜の帳が降り、椎名家の敷地を包む深い森が風にざわめく。月は雲の切れ間から淡く顔を覗かせ、古びた木造の本殿をぼんやりと照らしていた。
広大な椎名家の屋敷、その中心に鎮座する祭壇の間。そこには、幾千の年月を超えて悪しき霊を封じてきた霊具や護符が整然と並び、静寂の中に緊張感を孕んでいる。
祭壇の前、その冷たい石畳の上に、ひとりの少女が横たわっていた。白い巫女装束に身を包み、肩まで伸びた銀色の髪が周囲に広がるように散らばっている。
椎名唯華――椎名家の次代を継ぐ、若き霊能者である。
「……ん、ぅ……んぅ……」
微かに唇が動き、眉がかすかに寄る。まるで悪夢にうなされているかのような表情。額には汗がにじみ、指先は痙攣するように小さく震えていた。祭壇の奥に鎮座する黒漆塗りの箱からは、ぼんやりと紫がかった霊気が漂い、少女の周囲を揺らめいていた。
直前まで、唯華はこの祭壇に封じられた霊を鎮める儀式を執り行っていた。
椎名家の当主である母が不在の夜。突如暴れ出した霊の波動に、使用人たちでは手に負えず、唯華が自ら鎮魂の儀に臨んだのだ。
霊能力を最大限に開放し、術式を唱え、怨念と意志のぶつかり合いの中で――少女は、限界を超えた。
「はぁ……はぁ……あつ……なにこれ……しんど……」
意識が朦朧としながらも、唯華は最後の術式を完成させ、霊を再封印することに成功した。だが、代償はあまりにも大きかった。
立っていることすらままならず、視界は暗転し、膝から崩れ落ちるようにしてその場に倒れ込んだのだった。
静寂が戻った祭壇の間には、唯華の呼吸だけがわずかに響いていた。
彼女の身体には、霊力を使い果たした反動が容赦なく襲っていた。体内を逆流するような激しい吐き気、全身を焼かれるような熱、そして頭蓋を貫く鈍痛。常人なら即座に昏倒するような痛みを、唯華は歯を食いしばって耐えていた。
……だけど、ここで倒れたって、誰も責めへんし。
朦朧とする意識の中、彼女の脳裏にそんな声がかすめる。
「んー……もう……なんなん、まじで……あてぃし、こんなん聞いてへんし……」
ぼやくような口調。気だるげで、どこか他人事のような声音。だが、その言葉の裏には、逃れられない宿命への苦味が滲んでいた。
生まれた時から霊を視る力を持ち、幼少期には周囲の子供たちから「変な子」とささやかれた。夜ごと聞こえる声、見えてしまう影、そして身体に刻まれる霊障の数々。笑ってごまかしてきたが、痛みは常にそこにあった。
「おかん……」
ぽつりと、小さく名前を呼ぶ。
椎名家の当主であり、現代でも指折りの霊能者とされる女性。母の背中を見て育ち、その力を受け継いだことを、唯華は誇りにも思っている。けれど――その力が、自分をこんなにも傷つけるものだとは、思っていなかった。
「……もうちょっと、こう……なんか、優しくならんのかな、霊力って」
ぽそ、と力なく笑う。
瞼は重く、まるで何かに引きずり込まれるような眠気に包まれていく。意識の奥底に、再びさっきの悪霊の残滓がよどんでいるのを感じた。けれど、それすらもうどうでもよかった。
「ちょっとだけ……寝るわ……無理、もう……」
そう言って、唯華は完全に力を抜いた。
その顔は、不思議と穏やかだった。
炎が灯る祭壇の蝋燭が、ふ、とひとつ消える。
深い夜が、少女を優しく包み込むように広がっていった。
――椎名唯華は、眠っていた。
巫女の宿命を背負いながら。
痛みと戦い、誰に知られることもなく、ただ静かにその身を横たえていた。
外では、風が木々を揺らしていた。まるで、少女の眠りを見守るように。
蝋燭の炎が揺れる。静まり返った祭壇の間に、足音がひとつ響いた。
椎名菜塚は、神妙な面持ちでゆっくりとその場に足を踏み入れた。漆黒の羽織を纏い、長く艶やかな黒髪を背に垂らし、威厳ある姿をしている。その眼差しは鋭くも静かで、長年の経験と霊力の深みを感じさせた。
しかし、彼女の目が娘の姿を捉えた瞬間、わずかにその表情が揺らぐ。
「……唯華」
祭壇の前、冷たい石畳の上に崩れるように眠る少女。その小さな背中が、規則正しく上下している。まだ生きている――そう思いながらも、菜塚の胸には鋭い痛みが走った。
彼女は静かに膝をつき、娘の頬に手を添える。ひんやりとした肌。汗に濡れた髪。霊力を使い果たした反動は、彼女自身、かつて何度も味わった苦痛だ。だが、唯華のそれは――限界を超えていた。
「……あなたは、まだ……こんなに幼いのに」
菜塚の声は、かすかに震えていた。
霊能力者の家に生まれた者は、例外なく力を受け継ぐ。だが、その中でも、唯華の力は桁違いだった。まるで古代の神に選ばれたかのような圧倒的な霊力。見えすぎる、感じすぎる、呼び寄せすぎる――そんな危うさを孕んでいた。
「どうして、ここまで……ひとりで……」
母としての心と、当主としての責務。その狭間で、菜塚は長年揺れてきた。
娘がいずれ自分の後を継ぐこと。それは椎名家にとって当然の運命だった。幼い頃から祓いの儀式を教え、霊との交信を訓練させてきた。唯華は、それを拒まなかった。むしろ、あの子は――笑って、受け入れていた。
「『まぁ、あてぃししかできへんしな』……ふふっ……そんなふうに言って……」
思い出すのは、ふとした時に漏らした、娘の飄々とした声。けれど、それは諦めの裏返しだと、菜塚はどこかで気づいていた。力を持つ者に、逃げ道はない。そう信じ込んでいた。だが今、倒れた娘を前にして、その信念は音を立てて崩れていく。
「こんなに……苦しめてまで……」
菜塚は、そっと唯華の手を握った。
細く、柔らかいその手には、無数の傷跡と霊障の痕が残っている。見えない苦しみを、どれだけ抱えてきたのだろう。術を使うたびに走る激痛。使えば使うほど身体を蝕む呪いのような霊力。
それを、笑って――黙って――耐えてきた娘。
菜塚の喉が、きゅっと締めつけられるように痛んだ。
「もう、やめさせなければ……」
それは、当主としての決意ではなかった。母としての叫びだった。
「唯華には……この家の呪いを、背負わせたくない……」
小さくつぶやきながら、菜塚はそっと娘を抱き上げた。羽織の中に包み、ぬくもりを与えるように胸に引き寄せる。その瞳には、揺れる火のような決意が宿っていた。
椎名家は、代々霊を祓い、人々を護ってきた。だが、それによって犠牲になる者がいるなら――それが自分の娘なら――守るべきものは何なのか、菜塚の中で、初めて問いが生まれていた。
「……すまなかったわ、唯華」
それは、娘の痛みに気づかなかった母の、痛切な後悔だった。
炎がまた一つ、ゆらりと揺れて、そして静かに灯り続ける。
朝の光が窓から差し込み、カーテン越しに部屋の中を優しく照らしていた。
鳴り続ける目覚まし時計を手探りで止める音とともに、ベッドの中からふにゃっとした声が漏れる。
「んぅ……あと五分……」
布団にくるまり、半分寝ぼけたまま転がるその姿は、どこからどう見ても"夜更かしした人"そのものだった。けれど、数秒後にはスマホの時間を見て、飛び起きる。
「やばっ!? 遅刻するやんけーーーっ!!」
そう叫ぶと、笹木咲はほぼ習慣のように制服に着替え、歯磨きと洗顔を高速でこなしながら階段を駆け降りる。ポニーテールをざっくり結い直し、ほっぺにパンをくわえた姿で玄関を勢いよく開けた。
その手には、めんだこのキーホルダーが付いたスクールバッグ。そして内ポケットには、小さな封筒に入った数枚の呪符が忍ばせてある。可愛い見た目に似合わず、いざとなれば術式のひとつやふたつ組めてしまうあたり、彼女は少しばかり"フツウ"ではなかった。
「よっしゃ、今日は平和に登校するぞ~~。幽霊とか、マジいらんからな……!」
そう口にしながら、朝の町を軽やかに駆けていく。
住宅街の角を曲がり、商店街を抜け、横断歩道の信号にタイミングよく滑り込む。小さなカバンが背中で跳ね、ポニーテールがふわふわ揺れる。人々が通勤する中、彼女の足取りだけが異様に軽い。けれど、それは笹木咲にとって日常の一部だった。
「んー……なんか今日は、変な空気ないな? よしよし、勝ちや。呪符の出番なし!」
彼女はそう言って、得意げに笑う。
霊能力者の娘・椎名唯華と長年つるんでいるうちに、咲も多少の「異常」には慣れてしまった。呪符の扱いも、軽い術式の構築も、それなりにできる。だが本人にその自覚は薄く、「まぁ、あてぃしが使えるようにしたんやし」と椎名に無理やり渡されたことを今も恨みがましく覚えている。
呪符は、今では財布やお守りと一緒に持ち歩く日用品のような存在になっていた。
「ほんまアイツ、うちのプリン勝手に食うくせに、呪符だけは妙に丁寧やし……なんなん……」
ため息まじりに独りごちて、横断歩道を渡る。
街角の自販機の前で、小さな子供がジュースを選んでいる姿をちらりと見て、なんとなく笑みが浮かぶ。そういう、日常の、普通の朝。笹木咲は、椎名唯華と違って「ただの子供」だった。
けれど、彼女は知っている。唯華が、自分とはまるで違う世界に生きていることを。
異界と現世の境界に立つような存在であることを。だからといって、特別扱いするつもりもない。
「まぁでも、また今日も遊ぶ約束しても、どーせバックれるやろなー……」
ぽつりとこぼすように言ってから、くすっと笑う。
親友――というには、ちょっと雑な関係。でも、どこか気になる存在。
そんな椎名唯華のことを、笹木咲は今日も「適度に」思い出しながら、学校の坂道を駆け上がっていく。
制服のスカートがふわりと揺れ、彼女の影が朝の光に伸びていた。
静まり返った校舎の中、チャイムの音が遠くに響いていた。三限目が始まってしばらく――教室の窓辺には、欠席者の名前が黒板にひとつ書き加えられていた。
「椎名唯華 欠席」
だが、同じく席にいないはずのもうひとりは、今日もいつも通り“校庭の裏”にいた。
「ほらほら、こっちやでー。今日はコンビニのからあげくんやぞ〜。贅沢やろ〜」
笹木咲は、制服の裾を膝までたくし上げ、地面にしゃがみ込んでいた。その手には、先ほどこっそり購買で仕入れた唐揚げのパック。校庭裏のフェンス沿いにある木陰には、大小さまざまな鳥たちが集まっていた。
鷲、カラス、時々スズメ。何故か懐いている。
「うぉ、あんた来たんか今日も……ちょっと爪引っ込めや。痛いっちゅーねん」
鋭い目をした鷲が、ひょいと咲の肩にとまる。普通なら騒ぎになる光景だが、ここの教師たちは既に笹木のこの“趣味”に目をつぶっていた。特に問題を起こすわけでもなく、鳥が校舎に入ることもない。つまり「まぁええか」の精神である。
「カラスくんは今日おらんのやな……あいつ、こないだチョコ盗んでったからな……しゃーないけどな」
咲は独り言のように言いながら、残りの唐揚げを器用にちぎって配った。
「……っはー、授業とかマジで意味わからんし……ここで鳥と戯れてる方が百倍有意義やろ……」
肩に止まった鷲に頬ずりされながら、咲はどこか誇らしげだった。
そして、気がつけば時間は昼休みに入っていた。
チャイムの音と共に、校庭の裏にも人の気配が戻り始める。友人たちの集団が、昼食を片手にあちこちへと散っていく中、咲のもとにも数人の女子がやって来た。
「え、またこんなとこで餌やってんの? 笹木さんマジ野生児〜!」
「てかさ、椎名さん今日も来てないけど、何かあったん?」
その言葉に、笹木は「へ?」と唐揚げのかけらをくわえたまま顔を上げた。
「……あ、せやった。椎名、今日来てへんのやっけ」
咲にとって、唯華の欠席は別に珍しいことでもなかった。遊ぶ約束をしていても当日連絡なしでバックれるのは日常茶飯事。体調不良も、不可解な「用事」も、全て込みで「椎名唯華」である。
「どうせまた祈祷とかなんとかちゃうん? あいつ、いっつもそんなんでフラッと休むやん」
さらりと流すように答えると、周囲の女子たちがざわつく。
「えー、でもさ、椎名さんってなんか……ほんとにヤバい家の子って噂あるよね」
「前に見たんだけどさ、笹木さん、でっかいオカマの人と一緒に歩いてたでしょ? あれもしかして、椎名家の……?」
咲はその言葉に思わず咳き込んだ。
「あっはは! おるなぁ、あの人! でもうちの兄ちゃんの知り合いやし! うちが付き合ってるわけちゃうって、マジで!」
手をぶんぶん振って否定する咲に、女子たちは「へ〜〜〜」とどこか納得していない顔で笑った。
「笹木さんも、椎名さんも、なんかこう……フツーじゃないよね〜」
「そうそう、でも笹木さんの方がなんか親しみやすいっていうか、ポケモンとかも好きだし」
「好きやけど!? 今関係ある!?」
そんなやり取りが飛び交う中、咲は手のひらの呪符の感触をふと確かめた。
唯華が「なんかあった時用に」って無理やり押しつけてきた、霊力入りの呪符。唐突にその存在を意識した瞬間、どこか胸の奥に不安がよぎる。
唯華が今日も休みなのは、いつものことかもしれない。
でも、なんとなく、今回だけは――違うような、気がした。
「……ま、昼メシ食ってから考えたらええか」
咲はそう呟きながら、スクールバッグの中から弁当を取り出した。今日のメニューは母の作った卵焼きとウインナー。カラスに奪われる前に食べなければと、早めに箸を動かし始める。
空は雲ひとつない青空だった。
けれど、咲の中にだけ、小さな影が生まれ始めていた。