「……さて」
カラン、と扉のベルが鳴り、葉加瀬と夜見が去っていった後の「アルカナ」は、再び静けさに包まれていた。
チャイカはカウンターの奥にある古びたノートパソコンを起動し、ポケットから取り出した銀色のUSBメモリーを挿し込む。
ディスクが回る微かな音がして、ディスプレイにフォルダが開いた。
中には、団地の地図、複数の霊障報告のスキャン、住人の失踪記録、日付もないまま残された目撃証言のメモ……そして、動画ファイルがいくつか。
「……なるほどね、ずいぶん丁寧な“お届けもの”じゃねぇか」
チャイカは画面を睨むように見つめながら、別のウィンドウを開いた。
《宛先:社》
《件名:例の団地》
《添付:USB内容一式.zip》
《本文:》
――そっちのルートで照らしてみてくれ。特に霊障と記録の齟齬が気になる。
住人の通報履歴も洗えると助かる。
あとは、例の“あいつ”が関わってないかも念のため確認しといてくれ。
- C
送信を終えた頃、窓の外でポツポツと音がし始めた。
雨だ。夕方の曇天がそのまま崩れたように、灰色のカーテンが街を覆っていく。
チャイカがカップにコーヒーを注ぎ直し、湯気を眺めていたそのとき――
カラン……
再び扉のベルが鳴いた。
音のあとに現れたのは、制服姿の少女だった。
肩にかかった黒髪は濡れていて、ポタリ、ポタリと滴がフローリングに落ちる。袖口も、スカートの裾も、雨を吸い込んで重たくなっていた。
「……」
椎名唯華だった。
だが、その顔はいつもの気怠げな調子とは違っていた。
目線はどこにも合っておらず、唇も固く閉じられたまま、チャイカには何も言わず、ゆっくりと奥の席に向かって歩いていく。
椅子に座ると、肩の力を抜くように前屈みになり、そのまま机に顔を突っ伏した。
「……」
チャイカは、しばらく何も言わずに彼女の背中を見つめた。
「唯華ちゃ~ん。風邪ひくわよ~」
声をかけても、返事はなかった。
ぐったりと沈み込んだ肩のラインが、まるでそのまま溶けて消えてしまいそうに見えた。
チャイカはゆっくりと立ち上がり、タオルを持って彼女の傍まで歩く。
「……やれやれ。今度はおまえまで“重たいもの”持ってきたのかよ」
誰に言うでもなく、ただ雨音とカップの湯気だけが静かに答えた。
「……なにか、頼むか」
チャイカの声が、雨音の中でゆっくりと響いた。
椎名唯華は机に顔を伏せたまま、かすれた声でぽつりと返した。
「……抹茶ラテ」
それだけ言って、また動かなくなった。
カウンターの奥でゆっくりとラテを淹れる準備を始める。茶筅で泡を立て、フォームミルクを注ぎ、ふわりと緑の香りが立ち上がる。
湯気の立つ抹茶ラテをカウンターに置くと、もう一つ、ラップで包んだ手作りのおにぎりを添えた。
「サービスだ。栄養、取っとけ」
「……あてぃし、舞元農園の米しか食べへんで」
椎名は顔を上げず、淡々と言った。
「贅沢言うな。食わないよりマシだ」
チャイカがそう返すと、椎名はしばらく動かなかったが、やがて無言で手を伸ばし、おにぎりを口に運んだ。味に文句は言わず、ゆっくりと咀嚼する。
「……ん」
ひとくち、ふたくち。温かいものが喉を通るだけで、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
チャイカはスツールに腰を下ろし、少しだけ間を置いてから話し始めた。
「……さっきな。昼過ぎに妙なガキがふたり来た。あの、前にも来たやつと、その友達らしい」
椎名は、反応は薄かったが、耳はちゃんと向いていた。
「その友達のほうが、どうも今度の依頼人と知り合いらしくてな。団地の霊障についての資料を置いていった。こっちは単に依頼されたもんを受け取っただけなんだが……どうもそいつら、なんというかこう…きな臭くてな」
「あんたじゃなくて、“フリーの霊能力者”に調査を頼んでるって言ってた。腕は立つらしい。……ま、私としては同業他社に仕事奪われて、仕事が回ってこなかったのが気に食わんだけなんだが」
ふと、椎名の動きが止まった。
チャイカが視線を向けると、椎名は抹茶ラテのカップを両手で包みながら、少しだけうつむいたまま、ぽつりと呟いた。
「……あいつは、やめとき……」
静かな声だった。
チャイカは眉をひそめる。
「知ってんのか、その“あいつ”ってやつ」
「……知らんほうが、ええこともある」
椎名は、それ以上何も言わなかった。
雨の音だけが、静かに「アルカナ」のガラスを叩いていた。
椎名唯華が、静かに立ち上がった。
半分ほど飲まれた抹茶ラテのカップ。空になった紙ナプキン。濡れた制服はまだ乾いていなかった。
チャイカは、カウンター越しに椎名を見やった。
「……唯華ちゃ~ん、外まだ雨よ~」
「……」
椎名は答えず、そのまま無言で入り口へと歩いていく。ガラスの向こうでは、雨がまだ絶え間なく降り続いていた。小さな水たまりが歪んだ光を映し、街の音をすべて沈めているようだった。
チャイカはため息をつき、店の奥からタオルとビニール傘を持って戻ってくる。
「おい、待てって!冗談抜きで少しは雨宿りしてけよ。どこまで行く気だ」
「……」
それでも椎名は振り返らなかった。扉に手をかけ、迷いのない足取りで開こうとする。
「おい、無理すんな!」
それでも、椎名は扉を――開けた。
カラン、と乾いたベルの音が鳴る。
だが、その先には誰かが立っていた。
「……ん?」
チャイカが思わず声を漏らす。
店の扉のすぐ向こう、雨の帳の中に立っていたのは――夜見れなだった。
今日も灰色の軍服のような衣装に、真紅の瞳。雨に濡れることもなく、まるで最初からそこにいたかのように、傘も持たず立っていた。
「こんにちは~、また来ちゃった」
「おまえ……またか」
チャイカが半眼で呟くと、夜見は手をひらひらと振って、鞄の中から何かを取り出した。
「冬雪の忘れ物、取りに来ただけ。うっかりしてるんだよね、あの子。ポンコツでさ~」
「あんな研究者みたいな見た目してポンコツなのかよ……」
「うん。見た目と中身の乖離は激しいから」
チャイカはカウンターの引き出しから、小さな鍵束を取り出し、手渡す。
「……ったく、忘れ物くらい自分で取りに来させろ」
夜見はそれを受け取ると、小さく頭を下げ――それから、ふと視線を横に向けた。
「……」
そこには、ちょうど扉のところで足を止めたままの唯華。
夜見の視線が、静かに彼女に向けられる。
その目は、普段のいたずらっぽさとは違っていた。
「……どうかしたの?」
声は静かで、真っ直ぐだった。椎名は一瞬だけ肩を揺らした。
夜見の問いは、まるで彼女の内側を見透かしたような響きを持っていた。
「行こっか」
そう言って、夜見は静かに傘を差し出した。
チャイカの店の前、小雨の降りしきる路地。傘の下、ほんのりと光が滲んで、二人の足元にはぼやけた影が二つ伸びていた。
椎名はしばらく無言のまま夜見の隣に立っていたが、やがて言葉もなく歩き出した。
雨を避けるように傘の下へ――ではなく、そのわずか外側へ。
足音がポツポツと濡れた地面を叩く。
椎名の歩幅はどこか急いていた。夜見の隣ではなく、半歩、いや一歩前。まるでその傘から逃げるように、顔を伏せて早歩きになる。
「……歩くの速いね、椎名先輩」
「……」
椎名は答えなかった。
それでも夜見は、無理に追いつこうとはせず、一定の距離を保ちながら傘を持ち続けていた。
雨が肩に当たるたび、夜見の手首がそっと角度を変える。濡れないように、椎名を包もうとするように。
それに気づいた椎名は、ぴたりと足を止めて振り返った。
「……」
その瞳は、冷えたような怒りを含んでいた。警戒というより、拒絶に近い。
じっと、睨みつける。
夜見は目を見開いた。次の瞬間――
ふらり。
わずかに、その身体が揺れた。
足元が少しふらつき、空気の中にかすかな“ゆらぎ”が広がる。
だが、夜見は倒れもしなければ、顔を歪めることもなかった。ただ、手で額に触れ、くすっと小さく笑った。
「……へぇ。そんなこともできるんだ」
その声は痛みよりも、むしろ感心の色を含んでいた。
椎名は僅かに目を細め、言葉を飲み込んだ。
夜見は、あくまで何事もなかったかのように、再び傘を差し出す。
「それでも、濡れるのは嫌でしょ~!……先輩、意外と風邪ひきやすそうだし!」
夜見はその背を見つめながら、ほんの少しだけ顔を上げた。
そのまま、何も言わずに――再び、傘を差し続けた。
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電車の中は静かだった。
平日の昼過ぎ、遠くの駅へ向かう車両にはほとんど人が乗っていない。窓の外に雨が叩く音だけが、規則的に響いていた。
椎名唯華は、窓の外をじっと見つめていた。向かいの席に座る夜見れなは、特に話しかけるでもなく、手元のスマートフォンを無言で弄っていた。
会話はない。けれど、沈黙が気まずいものにもならないのは、夜見の距離の取り方が妙に絶妙だからかもしれなかった。
車窓の向こう、灰色だった雲が次第にほぐれ、雨がいつの間にか止んでいた。
電車が目的の駅に滑り込む。
「着いたよ、先輩」
夜見は淡々とそう言い、椎名は無言で頷いた。
ホームを抜け、商店街へ。まだ濡れたアスファルトの上を歩く二人。椎名の制服は乾ききってはいないままだった。
「……濡れたままじゃ冷えるよね」
そう言った夜見は、何の前触れもなく、とある小さなセレクトショップの扉を押し開いた。
「ちょっと待ってて」
椎名が呼び止める間もなく、夜見は店内に消えていった。
数分後。
「はい、着て」
差し出されたのは、淡いクリーム色のタートルネックと、落ち着いた色味のチェック柄のスカートだった。
「サイズ、合うと思うよ。首元もあったかいし、スカートは動きやすいやつ!」
夜見は無表情で言ったが、どこか満足げな色が目に宿っていた。椎名は仕方なさそうに服を受け取ったが、その頬は微かに赤らんでいた。
その後、ふらりと立ち寄ったペットショップ。夜見は馴染みの様子で、店員に軽く会釈をしながら奥へ進む。
「ここの店、知り合いなんだ。たまに鳥の羽のメンテとかしてもらってるんだよ?いろいろ話せる鳥さんとか、いるしね~」
言っていることはよくわからなかったが、店内にはフクロウやインコ、小動物たちが静かに並んでいた。夜見は慣れた手つきでケージの前にしゃがみ込み、まるで旧知の友人に会ったかのように微笑む。
椎名はその横で、無言のまま動物たちを眺めていた。どこか疲れた目をしていたが、時折動物たちが近寄るたびに、その目が少しだけ、潤んだように見えた。
小さな身体で漏らしたその両の眼に、夜見は何も言わず、ただ椎名の隣でじっとしていた。
しばらくすると、空はすっかり茜色に染まっていた。
商店街を抜けた先、静かな最寄り駅のホームへと続く道、二人は無言のまま歩いていた。駅の周囲には人影もまばらで、風が一つ、葉を運んでいく音だけが響いていた。
駅の改札が見えてきたところで、夜見がふと足を止める。
「……ここで、いいよね」
そう言って振り返った夜見の顔には、いつもと変わらない、穏やかで無垢な笑みが浮かんでいた。
椎名はその笑顔を見て、ふと、なにかが堰を切ったように立ち止まった。
「……」
風が吹いた。白い髪がふわりと揺れる。
その場に立ち尽くす椎名の肩が、小さく震えていた。
「……なんで……」
声は、初めは掠れていた。
「……なんでそんなに……優しくするん……」
その声は、だんだんと涙に震え、やがて絞り出すように叫ぶような音になった。
「なんで、そうやって……あてぃしに優しくするんや……!!」
駅前の小さな広場に、椎名の嗚咽が響いた。
拳をぎゅっと握りしめて、うつむいたまま、目の奥から溢れそうな涙を懸命に堪えている。
「あてぃしが……あてぃしが情けなくなったみたいやろ……っ……」
夜見は、そんな椎名を黙って見つめていた。
何も言わず、否定もせず、ただ静かに。
それから、ふわりと小さく微笑んだ。
その笑顔は、どこまでも穏やかで――けれど、なにか遠くを見ているような、現実の外側に立つ者のような、そんな微かな寂しさを湛えていた。
「……ばいばい、椎名先輩」
夜見はそれだけを言い残し、椎名が顔を上げるよりも早く、改札の向こうへと歩き去っていった。
夕暮れの光が、遠ざかるその背中を淡く照らしていた。
椎名は、ひとり駅前に立ち尽くしたまま、拳を開いた。
風が頬を撫でるように吹き抜ける。すでに辺りは夜の気配を帯び始めていた。