夜の街を見下ろすタワーマンションのエントランスに、小柄な姿がひとり、無音のように佇んでいた。
指先でインターホンを押す。電子音が鳴る。
《ピンポーン……》
無機質な応答音の後、短く「どうぞ~」とだけ返事があって、オートロックの扉がカチリと音を立てて解錠された。
「……ん、ありがと~」
夜見は小さく呟き、ひとりエレベーターへと乗り込んだ。
高層階。静かな廊下。無駄のない内装。機械的に閉ざされたドアの前で、夜見は迷いもなくチャイムを鳴らさず、ノックもせず、カードキーでロックを開けるようにするりとドアを開けて中へ入った。
「あ~、あったかい」
黒い軍服風の上着の裾を払いつつ、夜見はそのままリビングへと進む。
その奥、ダウンライトに照らされたデスクの前で、葉加瀬冬雪がパソコンのキーボードを叩いていた。
足を組み、メガネ越しに画面を見つめながら、資料を二つ並べ、グラフや数式をサッと流し打つ。書かれている内容は完全に専門職の領域で、素粒子と高エネルギー反応についての研究報告だった。
夜見はそんな様子を見ても驚かず、まるで自分の部屋であるかのようにふらふらと近づく。
そして、無言で葉加瀬のデスクの端に、小さな鍵をカチャ、と音を立てて置いた。
「これ、原付の鍵ね~、あの喫茶店に忘れてたやつ」
葉加瀬は手を止めず、視線も画面から外さぬまま口を開いた。
「……ありがと。原付で帰ろうとしたらなくて焦ったわ」
「も~。次からはちゃんと確認してから帰るんだよ?」
「……うっせえなぁ。」
葉加瀬が不満げに膨れると、夜見はリビングのソファへ向かい、ふわりと身を預けた。
白いソファが一瞬だけ沈み、細い身体がそこに馴染んでいく。
「でも冬雪の部屋!静かで落ち着くなぁ~。高いとこって音が薄いから、なんか、空気が軽いよね」
「うん。気圧の差で感覚も変わるし、ノイズも少ない。分析向きだし、れなが来ても困らない構造にしてる」
「わざわざありがと~」
「ううん。騒がしいほうが、たまには捗るしね」
葉加瀬はパソコンに集中したまま、夜見の方を見ようとはしない。
けれど、そのやり取りのすべてが、まるで何度も繰り返された日常の一コマのように、自然にそこにあった。
夜のマンションに、キーボードを打つ音だけが響いている。
ソファに身を沈めたまま、夜見れなは天井をぼんやりと見上げていた。
高層マンションのリビングは静かで、葉加瀬の打つキーボードの音だけが一定のリズムで鳴っている。
やがて、夜見は何気ない声のトーンで口を開いた。
「ねぇ、今日……泊まってっていい~?」
葉加瀬は一拍置き、手を止めることも、顔をこちらに向けることもせずに答える。
「……いいよ。いつもみたいに適当に使って」
その返事に、夜見はふふっと笑って立ち上がる。
「ありがと~。じゃ、お風呂入ってくるね」
そう言いながら、夜見はそのまま浴室へ向かって消えていった。
――1時間後。
バスルームから戻ってきた夜見は、肩まで届く黒髪をタオルでくしゃくしゃに拭きながら、ゆったりとしたパジャマに着替えていた。上下ともに淡いグレーの生地で、袖と裾にちいさな星の刺繍が入っている。
リビングのソファに座り直すと、すぐに文句を漏らし始めた。
「入浴剤、なかったよー。リンスも」
葉加瀬はまだパソコンに向かっていた。相変わらず手元の資料を捌きながら、気のない声で返す。
「わかった~!」
「わかってない!」
夜見はドライヤーを取り出し、電源を入れる前に眉をひそめた。
「葉加瀬、そういう時いつもそう。『わかった』って言うだけで、絶対次も用意しないでしょ」
「……え、そうだっけ?」
「そうだよー。この前もなかったし、その前もなかったし……3回連続でなかったの、覚えてる?」
ドライヤーが低い風音を立てて回り出す。
夜見はその風を頭に当てながら、ぶつぶつと続けた。
「そもそもさー、お風呂で髪ちゃんと洗う派の人のこと、もっと考えるべきだと思う。リンスがないと、うちの髪すぐバサバサになるのに……」
「……わかった、次から用意しとく」
「ほんとに~?」
「たぶん」
「“たぶん”じゃだめ!」
葉加瀬はようやくモニターから目を離し、振り返りながら笑う。
「れなって、ほんとそういうとこ細かいよな」
「そういうとこだからね、誰も気づいてくれないでしょ!?」
夜見はそう言いながら、ようやくドライヤーを止めた。少しだけ髪の毛がしっとりとまとまって、表情もほんのり満足げになる。
「……ま、いいけど。冬雪だから許す」
「それも毎回言ってる」
「うん。でも、今回ちょっと拗ねてるからね!」
そう言ってソファに座り込み、夜見はふわふわのクッションを抱えながら、葉加瀬の背中を眺める。
ドライヤーの音が止み、静けさが戻った部屋の中。
夜見れなはソファに背中を預けてスマートフォンをいじりながら、軽く足をゆらゆらと揺らしていた。濡れた髪はふわりと広がっており、まだほんのり湯気が残っている。
「……ねぇ、つまんない。なんか音楽かけて」
呟くようにそう言った。
葉加瀬冬雪はパソコンの画面を見つめたまま、応答だけを返す。
「……相羽ういはでいい?」
「えー……星川サラがいい」
即答だった。
葉加瀬はわずかに口角を上げた。
「はいはい。ワガママだなぁ~」
タイピングの手を一度止め、すばやくYouTubeのタブを開いて検索をかける。流れ出すのは、華やかでテンポの良いポップソング。星川サラの、明るくて甘いボーカルが部屋の空気を一気に塗り替える。
「お、これこれ~」
夜見は満足そうに目を細め、スマホを顔に乗せたまま、ソファでごろりと横になった。
「サラちゃんの曲って、空気が軽くなるから好き」
「それ言うとファンに怒られるぞ。真剣に作ってるはず」
「軽いって言っても、良い意味の軽さだよ? うちの気分が少し浮く感じの……ふわふわしたままでいられる空気。……冬雪の部屋にちょうどいいじゃん」
葉加瀬はふっと鼻で笑い、再び画面に向き直った。
「じゃあ、しばらくサラちゃん固定で。集中できるならね」
「うん。……今夜はこれで寝落ちしてもいいや~」
夜見の声は、だんだんと薄くなっていく。
その目は半分閉じられていて、まぶたの奥に夜の深さを映していた。
リビングには明るいサウンドと、キーボードを叩く葉加瀬の指の音だけが響いていた。
静かで、ささやかな夜の共鳴だった。