第3章 第1話:祓室
朝の光がまだ柔らかく、空気に少し冷たさが残る時間。咲は、街の外れにぽつんと建つ巨大な鳥居の前に立っていた。
目の前にそびえるのは、唯華の家――いや、正確には、彼女が住んでいる「椎名神社」と呼ばれる広大な敷地だった。朝日を浴びて朱色の鳥居が輝き、奥へと続く石畳の道がずっと先まで真っ直ぐに伸びている。
咲は溜め息をついた。
「……あてぃしじゃなくて、笹木が行きたいから来たことにしておいて、って……」
ぼそぼそと文句を口にしながら、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。
「ったく、なんであいつに呼ばれてるのに、うちのせいにされなあかんねん……あーもう、めんどくさっ……」
鳥居をくぐり、階段をいくつか上ると、視界が一気に開けた。
「……は?」
思わず声が漏れる。
そこには、まるで異世界のような絶景が広がっていた。
いくつもの社殿が木々の合間に点在し、白砂の庭園が光を反射してきらめいている。川の流れる音が遠くから聞こえ、大小さまざまな橋がその上に架かっていた。橋の先には石畳の道が続き、手入れの行き届いた植栽が道を縁取っている。
「……どんだけ金持ちなん……」
呆れたように呟きながらも、その景色に思わず足を止めた。
「うちの学校、雨漏りしてんねんで……これ、もう観光地超えてテーマパークやん……」
とはいえ、観光地という言葉も決して誇張ではない。
入口からある程度までは一般客でも立ち入ることができるようで、ちらほらと見物に訪れた観光客の姿があった。案内板を手に写真を撮る人たち、絵馬を見ている老夫婦、庭の鯉を覗き込む子どもたち。
けれど、咲はその喧騒を抜け、さらに奥へと進んでいく。
進むにつれて、人の数は減っていく。整然とした境界石の先には、立ち入り禁止の札が掲げられ、敷地の奥が「一般非公開」であることが明示されていた。
だが咲は、ためらうことなくそこを通り過ぎる。
「……うちは関係者やし。……たぶん」
ぼやきながら橋を渡り、奥へ奥へと進んでいく。
やがて、空気の匂いが変わった。
まるで異なる結界に踏み入ったように、風の音が静かになり、鳥のさえずりすらどこか遠くへ押しやられたような感覚。肌に感じる気配が少し、重たくなる。
「……やっぱ変なとこやわ、ここ……」
それでも咲は進む。
天下の椎名唯華が「ここまで来い」と言ったなら、それがどれだけヘンな場所でも、行かないという選択肢は最初からなかった。
静まり返った敷地内の空気を切り裂くように、石畳の先から男の声が飛んできた。
「そこの方、ここから先は立ち入りをご遠慮いただいております」
咲は足を止めて振り返る。
声の主は、黒っぽい作務衣に身を包んだ、五十代ほどの男性だった。背筋が伸び、目元に皺を刻んでいるものの、その姿勢と声の張りからただ者ではない雰囲気が漂っている。
咲は立ち止まったまま、少し眉をひそめた。
「……はぁ? 関係者やけど?」
「申し訳ありませんが、こちらは椎名家の私有地となります。観光の方はここまでとなっております」
男性は決して語気を荒らげることはなかったが、立ち入りを明確に拒む態度だった。
咲は唇を噛み、イラついたように声を上げた。
「椎名に呼ばれたんや! 椎名唯華! ……うち、友達やし!」
普段よりやや声が大きくなったことに、自分でも少し驚いた。だが、唯華から「来てええ」と言われた以上、止められる筋合いはない――その思いが咲の背中を押していた。
男性はその名を聞いて、ふと目線を落とした。
「唯華様の……ねぇ……」
その言葉には、やや困惑と、少しだけの呆れが混ざっていた。
だが彼は反論することもなく、ふうっと静かにため息をつくと、手で軽く咲を促すようにジェスチャーした。
「……とりあえず、事務室までご案内いたします。確認が取れるまで、お待ちいただけますか」
「……はあ……」
渋々といった様子で頷く咲。
そのまま男性の後ろについて、白砂の敷地を抜け、石畳を折れた先にある社務所へと向かう。
立派な瓦屋根と白壁の建物。そこは明らかに観光客の目には触れない、敷地の内側の施設だった。
「なんでうちが……」
ぼそぼそと不満を漏らしながらも、咲の歩みは止まらなかった。
唯華に会うためにここまで来た。突き返されて帰るわけにはいかなかった。
「少々お待ちを。今、本殿の者へ連絡を取りますので」
そう言い残して、作務衣の男性は奥の襖をすっと滑らせて消えていった。
事務所と呼ばれた部屋には、木目の床に畳の敷かれた簡素な和室と、来客用と思しき応接セット――座布団と背もたれ付きの低い椅子が並んでいた。
咲は素直に腰を下ろし、差し出されたお茶と小皿に盛られた最中を前に、少し気を抜いたように背中を預けた。
「……ふーん、ちゃんと接待はするんやな」
ぽつりと呟いて、辺りを見回す。
正面には木の格子窓から柔らかい日が差し込んでいて、その光を浴びるように、小さな食器棚が置かれていた。湯呑みや急須が無造作に並んでいて、生活の香りが微かに漂う。
右手の壁際には、小さな祭壇らしきものがあり、榊の枝と白い器に盛られた塩と米、そして香炉が簡素に据えられている。
そして、何より目を引いたのは――机の脇に、やたらと無造作に積まれた「お菓子の山」だった。
箱入りの煎餅、個包装の饅頭、果ては海外のチョコバーまで……訪問者への供物なのか、それとも誰かの私物なのか、区別がつかないほど雑多に山積みされている。
「……なんか、ここだけで暮らせそうやな……」
思わずぽつりと口をついた言葉に、自分でも少し笑ってしまう。
椎名家の神秘的で厳粛なイメージからは程遠い、生活感とゆるさが同居するこの空間。格式ばった空気に緊張していた肩の力が、少しずつ抜けていく。
「……人ん家の一角やって、忘れそうになるわ、これ」
お菓子の中から、控えめな包装のクッキーを一つ取り上げて眺めながら、咲は呟いた。
それでも、ここが唯華の「家の中」であるという事実は、彼女の胸の奥でじんわりとした違和感として残り続けていた。
咲は茶菓子を食べ終えたあと、そわそわと席を立った。
最中の皮が口の中に少し残る感じが嫌いで、飲みかけのお茶をすすってから、改めて辺りを見渡す。
「……トイレ、って言ってええんかな……てか、待たされすぎやろ……」
ぼやきながら、襖をそっと開けて廊下に出る。
事務所の廊下は、どこか観光旅館のような造りだった。
光沢のある板張りの床に、低い天井、ふすまごしの柔らかな朝の日差しが入り込んでいて、思った以上に居心地が良い。
「……うわ……気持ちええな……」
スリッパの音を控えめに立てながら、廊下を歩いていく。窓からは手入れの行き届いた庭園が見え、池にかかる小さな橋や、揺れる柳の葉がまるで絵画のようだった。
だが、その心地よさに包まれながらも、咲の耳はふと、あることに気づく。
――音がしない。
遠くに人の気配はあっても、足音や話し声、扉の開閉音などが一切しないのだ。
まるで建物全体が、咲の動きを息を潜めて見守っているような――そんな、説明のつかない気味の悪さ。
「……朝やんな? この敷地の広さで、こんな静かなもんなん……?」
立ち止まり、あたりを見回す。
ふすまの向こうからは何の物音もせず、廊下の先にある曲がり角は、まるでその先に別の世界が続いているかのような錯覚を覚えるほど、深く影を落としていた。
それでも、咲は一歩、また一歩と進む。
「トイレ、トイレ……そろそろ限界やし……」
誰に言うでもなく呟きながら、ふすまに書かれた墨文字の札を見ながら進んでいく。
その途中、あるふすまの前で、ふと足が止まった。
――「祓室(はらえしつ)」
白い札に墨で書かれたその文字は、他の部屋とは明らかに違う気配を放っていた。
妙に湿った空気、扉の向こうから微かに感じる“圧”。咲は眉をひそめ、手を触れかけて――やめた。
「……あかんやつやな、あれ」
身体が本能的に警戒していることに気づき、肩をすくめて別の方へ進む。
椎名唯華の家。その神社の奥にある“私有地”。
そこは観光地とはまるで違う、閉じられた空間だった。
ふすまの前で立ち止まったものの、「祓室」という札の文字に背中を押されるように、その場を離れた咲は、再び廊下を進み始めた。
しばらくして、角を曲がった先で――
「おや、お探しでしたか?」
作務衣の男性がちょうど向こうから歩いてきた。
「あっ、えっと……ごめん、トイレ……どこやったっけ?」
咲は照れくさそうに頬をかきながら言う。男性は軽く微笑み、手で向こうを指し示した。
「突き当たりを右に曲がったところです。すぐですので、お急ぎください」
「助かる……ありがと」
足早に教えられた方へ駆けていき、咲は無事に目的を果たす。
そして、用を終えて戻ってくる頃には、緊張も幾分ほぐれていた。
「……あのさ」
再び廊下を歩いていた男性に声をかける。
「さっき……“祓室”って部屋、見たんやけど。あれ、なんなん?」
その問いに、男性は少しだけ驚いたように目を瞬き、やがてふうと懐かしむような微笑みを浮かべた。
「……ああ、“祓室”ですか。あそこは、昔“坊ちゃま”が使われていたお部屋でしてな」
「……坊ちゃま?」
咲は思わず首を傾げる。
「唯華、兄弟おらんはずやろ? 姉ちゃんはおるけど、男子の話なんか聞いたことも……」
「ええ。坊ちゃまは唯華様の……従兄にあたる方です」
そう言って、男性は少し目を細めた。どこか、遠い過去を思い出すような、懐かしさの混じった視線だった。
「神事の才に恵まれたお方でしてな。まだ幼い頃から、本殿とは別に“祓”の役目を担っておられた。あの部屋は、専らその方のために設けられた場所でした」
「……じゃあ、もういまは使ってないん?」
「ええ。しばらく前に“外”に出られてから、戻っては来られておりません。椎名家にとっては、大切なお方だったのですが……今はただ、静かに祀られておりますよ」
「……ふぅん」
咲はあまり納得がいかないまま、廊下の奥にある「祓室」へ一瞬視線を送った。
(……なんなんやろ。もうおらん言うても、まだ近くに“居座ってる”感じ、するな……)
言葉にできない感覚が、背中を撫でていく。
「……坊ちゃまって、どんな人やったん?」
咲がぽつりと聞くと、男性は静かに答えた。
「――とても、お優しい方でしたよ。けれど、同時に……とても、孤独なお方でもありました」
それ以上は語られなかった。
朝の光が差し込む廊下の静けさの中で、咲は無意識に手のひらをぎゅっと握りしめていた。