「……おっそ……」
笹木咲は畳の上に足を投げ出し、スマホを横にしながらゲームの画面をじっと見つめていた。
「せっかく来たのに、どんだけ放置すんねん……」
指でスライドするたびに敵を倒しつつ、思わずぼやきが口をつく。
襖がゆっくりと音を立てて開いたのは、そんなタイミングだった。
「椎名ぁぁぁぁぁぁ!!遅いわぁぁぁ!!」
ゲームの手を止めずに振り返ると、そこにはいつもの制服姿ではなく、淡い色合いの私服の唯華がいた。髪は軽くまとめられ、顔にはどこか眠たげな無表情。
唯華は咲の姿を見た途端、ボソリと呟いた。
「……こいつ、ウチのお菓子食ったんか」
「は?」
ゲームの画面を一時停止した咲は、眉をひそめて言い返す。
「何言うてんの。誰が“ウチのお菓子”やねん。そんなもん知らんし」
唯華は無言のまま部屋の隅――咲がつまみ食いしたあの“お菓子の山”を指さした。
そこには相変わらず、煎餅に饅頭にチョコバー、国内外問わずあらゆる種類のお菓子が積み上がっていた。
咲は一瞬ぽかんとし、それから目を細める。
「……マジかよ、あれ全部お前の?」
「うん」
「客に出すやつとか、お供えとかちゃうん?」
「ちゃう。ウチの」
さらっと言い切った唯華は、無言でその山の中から個包装の抹茶せんべいを取り出すと、器用に包装を破りながら畳にぺたりと座り込む。
「……いや、こんなん使用人に用意させんなや……どこのお嬢様やねん……」
「ここのお嬢様やで」
咲はあきれたように頭をかきながら言うが、唯華は返事をせず、ただパリパリとせんべいをかじっている。
「……ったく、なんやねんこの家……」
ぶつぶつ言いながらも、咲は再びスマホを持ち直す。
いつものテンポ、いつもの距離感。
けれど、いつもとは少しだけ違う“場所”にいるのを、どちらもちゃんと感じていた。
社務所を出る。また森の緑が帰ってくる。
ザッ、ザッ……と、木の葉を踏みしめる音が足元から心地よく響く。
咲は、唯華の少し後ろを歩きながら、目の前に広がる景色に何度も息を呑んでいた。
道らしい道はあるようでないような、自然のままを整えたような参道。両脇には樹齢百年を超えるであろう杉や檜が立ち並び、その根元には苔むした岩や、白砂が整然と敷かれている。
木漏れ日が揺れて、風が枝を鳴らし、鳥の声が遠くからこだましていた。
「……マジで、森やん……」
思わず口からこぼれた言葉に、前を歩く唯華は何も返さなかった。
ただ、慣れた足取りで木立の間を縫い、ゆるやかな坂を登っていく。
やがて、木々の合間から空が抜け、視界がふいに開けた。
咲は、思わず足を止めた。
「……っ、は?」
目の前に現れたのは、まるで時代が交差したかのような建築群だった。
中央には、朱塗りの太い柱と黒い屋根瓦が目を引く本殿。伝統的な神社建築の様式をそのまま残しながら、細部には椎名家独自の意匠が散りばめられている。
本殿の左右と背後には、まるでそれを守るかのように和風の邸宅が広がっていた。
木と漆喰の壁、格子窓、深く張り出した縁側――どこまでも品のある伝統的な意匠。それでいて、庭に面した側には大きなガラス窓が設けられ、機能的なモダンさを取り入れているのが分かる。
まるで、“古き良き日本”と“現代建築”の融合。
その邸宅群が、まるで本殿を中心に円を描くように配置され、完全に一つの「世界」として完結していた。
「……ここに住んどるん……?」
驚きと呆れと混じった声が自然と漏れる。
唯華はそんな咲の様子には気づいていながらも、特に反応を返すことはなく、ただ淡々と本殿へと足を進めていく。
「……説明とか、ないんか……?」
追いかけながら、咲がそう尋ねても、唯華はちらりと横目を向けただけだった。
「……なんや、見せもんちゃうで。アホか」
それだけ言うと、再び前を向いて歩き出す。
咲はしばらく呆気にとられたまま立ち尽くしていたが、やがてため息混じりに歩を進めた。
「……こんな世界、慣れるもんなん……?」
自然の中に息づく、巨大な静寂の邸宅群。そこに佇む唯華の後ろ姿が、ほんの少し、遠いものに見えてくるような気がした。
本殿の奥へと進み、重々しい木の扉を開けると、そこには一変して静かな空間が広がっていた。
外の木々が窓越しに見える見晴らしのいい一室。畳敷きに低い漆塗りの机、座布団が整然と並べられており、まるで茶会でも開かれそうな落ち着いた空気が満ちている。
咲は案内されるまま、机の一辺に腰を下ろした。横には唯華もいるが、当の本人は座った途端に机に肘をつき、そのまま突っ伏してだらしなく頬をつけている。
「……おい、せめて母親の前やぞ」
小声でつついても、唯華は「んー……」と気の抜けた返事をするばかりで、まるで起きる気配がない。
そんな二人の前に、静かに姿を現したのが
――椎名菜塚だった。
白い着物に灰色の羽織を重ねた端正な姿。表情には柔らかな笑みが浮かんでおり、どこか唯華に似た雰囲気を漂わせている。
けれど、笹木は一目で分かった。
この人は――芯が違う、と。
やわらかく、物腰も静かで、声も穏やか。けれどその目の奥には、一切の油断を許さない鋭さと、何を見ても揺るがないような“強さ”が潜んでいた。
「ようこそ、遠いところを。唯華と仲良くしてくださって、ありがとうね」
菜塚はにこやかにそう言いながら、咲に向かって深く一礼した。
「い、いえ……あの……こちらこそ、なんか……すいません……」
思わず立ち上がりかけて、慌てて座り直す。
「あの、ていうか、お宅のお子さん……どういう教育してんねん……」
椎名の方をチラリと見やると、まだ机に突っ伏したまま、じりじりと煎餅を手探りで探しているようだった。
「学校でも勝手にお菓子食べたり、うちのぶん取ってきたり……最近は授業サボってカラスに餌やっとるし……」
「うちのこと言わんでええねん、あとカラスに餌やっとるんはお前やろ」
唯華が布越しに、かすれた声でつぶやく。
菜塚はその姿を見て、口元にうっすらと微笑を浮かべた。
「……本当に、もう少し椎名家の人間として、自覚を持ってくれればね」
その声は、どこか切なげでありながらも、母親らしい深い愛情に包まれていた。
しばしの間を置いて、菜塚は静かに語り出す。
「椎名家といってもね……そんな立派なもんじゃないのよ。仁明天皇や文徳天皇の頃、御霊信仰が広まったでしょう? うちはその頃にちょっと“贔屓”された程度の、端くれなの」
笹木は目を瞬いた。唐突に飛び出した、まるで教科書に出てくるような時代の名。
「鎌倉時代には……もう時流を読み損ねて、祀りも畳み損ねて……情けないったらないわよ」
そう言って苦笑を浮かべる菜塚の姿に、咲は何とも言えない感情を抱いた。
歴史に翻弄され、今もなお“何か”を守り続けている家。
その中心にいるこの母親と、そして――机に突っ伏しているこの娘。
「……なあ、椎名」
咲がぽつりと声をかけると、唯華は「んー……」とだけ唸って、ようやく片目を開けた。
「お前んとこ、めっちゃめんどくさそうやな」
「うん。めんどいで」
まるで他人事のように答える唯華に、咲は思わず笑ってしまった。
「……最近はね、血が薄まったのかしら」
菜塚はそう言って、茶を一口すすると、手元の湯呑みを静かに卓に戻した。
「今の代では、血縁に霊力の濃い人間があまりいないの。唯華みたいな子は……ほんとうに、稀なのよ」
隣で煎餅をもごもごと噛んでいた唯華が、「んん〜」と面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「でも、だからって頼りきりにもできない。まだ子どもだもの」
菜塚の視線が唯華に向けられる。
その眼差しは、優しさと、憂いと、そしてほんのわずかな諦めが混ざったような色をしていた。
「霊力の濃い遠縁もいるにはいるのよ。西洋に血を分けた分家筋に……でも、流石に遠方でしょう?滅多にこっちにも来ないし、あまり迷惑もかけたくない」
淡々と話すその声は、どこか地図をなぞるような冷静さを帯びている。
「他にも、もう何人かいるにはいるわ。けれど、連絡もつかないし……法事にも姿を見せなくてね」
菜塚は、ふうっと長く息を吐いた。
その表情には、どこか虚しさのようなものすら浮かんでいた。
笹木咲は、無意識に正座を崩しながら、頭の片隅でぼんやりと考えていた。
“椎名家”というのは、確かに由緒ある家なのだろう。霊の力を持ち、歴史に名を残し、それを今もなお維持している。
だが、それを“維持する”という行為が、どれだけ面倒で、しんどくて、途方もないものか――その現実が、菜塚の一言一言ににじんでいた。
そして、それと同時に。
(……この人、別に“母親”として唯華に文句言ってるんやない)
ふと、そんな感覚が咲の中で形になった。
どこかで感じていた違和感。菜塚が唯華を見るその目には、家族としての温かさが確かにある。けれどそれ以上に――まるで“役割”を果たさねばならぬ存在としての眼差し。
「椎名家の人間として、自覚を持ってほしい」
さきほどのその言葉が、今になって胸に引っかかる。
(……椎名家の“当主”として、言うてるんや……)
ふと、視線の端で隣の唯華を見る。
煎餅をボロボロとこぼしながら、ぼんやりと天井を見上げている。どこかいつも以上に、無防備だった。
彼女がこの家の“希望”なのだとしたら――その肩に乗っているものは、きっと想像以上に重い。
そして、それを娘に明確に背負わせることなく、ただ時を待っている母親の姿も、また苦しそうだった。
「……唯華を当主にするってことか」
言いづらそうに、けれども正面から、笹木咲はそう切り出した。
菜塚は一瞬だけ目を細め、それから首を横に振った。
「……いいえ、この子だけには、絶対に継がせるわけにはいかない」
その言葉は静かだったが、否応なく重かった。
笹木は思わず横目で唯華を見た。
唯華は煎餅の欠片を指先でいじっていたが、突然その手を止め、おもむろに咲にもたれかかってくる。
「ひどいわぁ……おかんにまで否定されて……笹木ぃ……慰めてぇ……」
わざとらしい泣き真似をしながら、頬をすりすりと咲の肩に押しつけてくる。
「ウチは将来、ゴッサムシティの二丁目でのんびり暮らすんや……」
「そんな場所ないわ!! つか、なんでゴッサムやねん……」
咲が全力で突っ込むと、唯華はケラケラと笑いながらまた机に倒れ込んだ。
呆れた表情を浮かべながらも、咲は菜塚の方を見やった。
「……じゃあ、ほんまはなんの用なん? ウチを呼んだ理由って」
その問いに、菜塚はしばらく黙ったまま天井を見上げ、ほんのわずかに声を落として言った。
「……一人、いるにはいるんです」
「……え?」
「“祓室”は見ましたか?あそこを……使っていた子です」
その一言で、室内の空気が静かに変わった。
唯華も、それまでのふざけた態度をぴたりと止め、急に顔を上げた。
「……あかん」
そう言った声は、いつになく真剣で、低かった。
いつもの気怠げな唯華とは違う、“椎名家の血”を背負った人間の声だった。
「あいつにもう除霊させたらあかん!!おかんかて、わかっとるやろ!!」
「ええ、分かっているつもりです」
菜塚はうなずいた。しかし、ほんの少し――迷いを含んだ微笑を浮かべながら、咲に向き直る。
「……とまあ、こんな感じです」
その言葉はどこか、咲に“何か”を委ねるような響きを持っていた。
笹木は、何もかもが飲み込みきれないまま、ただ呆然と二人の椎名の表情を交互に見つめている。
唯華は視線を逸らすように外を見つめ、菜塚はすべてを悟っているような目で、咲を見据えていた。